隠した心の奥から溢れる想い
ちょっと長めですが、駆け抜けさせて下さい-!
防波堤が見えてきた頃には、息がすっかり上がっていた。きららは走る速度を緩め、胸元を押さえながら大きく息を吸う。
十一月の終わり。くじら島にも、ようやく季節がひとつ先へ進もうとする気配が訪れている。空は薄い雲に覆われていた。
夏にはあれほど鮮やかだった海も、今日は光を細かく跳ね返すことなく、淡い灰青色をしている。沖を進む船の航跡だけが、その静かな水面へ長い白線を引いていた。
「……いるかな」
呟いてから、きららは歩き出した。いつもの場所。何度も藍と並んで座った防波堤。初めて会った場所。歌詞を見せてもらった場所。勝手に歌うと言って拒まれた場所。待つと約束した場所。そして——。
『もう、私のことは放っておいて』
最後にそう言われた場所。
足が少しだけ重くなる。それでも進んだ。角を曲がると防波堤の先が見える。
誰もいない。
「……」
きららは立ち止まった。胸の奥にあった勢いが、行き場をなくす。
「そっか……」
いるとは限らない。そもそも一週間以上、藍がここへ来ているのかどうかも知らない。きららは防波堤の端へ腰を下ろした。
待とう。今日来なければ、また明日。明日来なければ、その次の日。もう、待つことは覚えた。だから——。
「……きらら?」
背後から声がした。きららは振り返った。
白いワンピース。パープルブルーの髪。金色の瞳。
「……藍ちゃん」
藍が立っていた。どちらも動かなかった。
一週間と少し。日数にすれば、それだけだった。なのに、ずいぶん長い間、会っていなかったような気がした。
「どうして……」
藍が先に口を開く。
「どうして、ここにいるの」
きららは立ち上がった。
「藍ちゃんに会いに来た」
藍の表情が固くなる。
「私……放っておいてって言ったよね」
「うん」
「じゃあ、なんで」
「放っておいたよ」
「……え?」
「一週間以上」
きららは指を折りかけて、途中でやめた。
「ちゃんと待った」
「……」
「いっぱい考えた」
藍は何も言わない。
「だから来たの」
きららは藍を見た。
「話したい」
「……私は」
「聞いてほしい」
言葉を重ねてから、きららは少しだけ慌てた。
「あ。でも藍ちゃんが話したくないなら、ちゃんと待つ。今日じゃなくても——」
「……何それ」
「え?」
「ここまで来ておいて」
藍が俯いた。
「今さら待つの?」
「だって……」
きららは困ったように眉を下げる。
「勝手に進んだら、また怒られるし」
「……ばか」
「ええ!?」
「もういい」
藍はきららの横を通り過ぎ、防波堤へ腰を下ろした。きららはその背中を見つめる。
「……隣、いい?」
「……好きにすれば」
少しだけ、きららの口元が緩んだ。
「うん」
隣へ座る。ただし、以前より少しだけ間を空けた。
しばらく、どちらも喋らなかった。防波堤の下で水が動いている。規則正しくはない。大きく寄せるもの、途中で崩れるもの、岩へぶつかって小さく砕けるもの。きららは膝の上で両手を組んだ。
「藍ちゃん」
「……何?」
「私ね」
一度、息を吸う。
「歌うの、やめようと思った」
藍が勢いよく顔を上げた。
「……え」
「正確には、わかんなくなった」
「……」
「私、何のために歌ってたんだろうって」
藍の指先が動いた。
「歌姫になりたいからなのかな、とか。歌うのが好きだからなのかな、とか。誰かに聴いてほしいからなのかな、とか」
きららは海を見る。
「藍ちゃんの歌を届けたいって思ったのも、私が勝手に思ってただけだったのかなって」
「……違う」
「え?」
小さな声だった。きららが藍を見る。藍の表情は見えない。
「……何でもない」
「藍ちゃん」
「きららの話でしょ。続けて」
「……うん」
きららは前へ向き直った。
「それで、いっぱい考えたんだけど」
少し笑う。
「理由、いっぱいあった」
「……いっぱい?」
「うん」
指を一本立てる。
「歌うのが好き」
二本目。
「歌姫になりたい」
三本目。
「海夜璃に負けたくない」
「それも入るんだ」
「大事だよ!」
思わず声が弾む。藍の口元が、ほんの少しだけ動いた。
「あとね。みんなと歌うのも好き。聴いてくれた人が笑ってくれたら嬉しい。歌で誰かの気持ちを届けられたら、もっと嬉しい」
指では足りなくなった。きららは両手を膝へ戻す。
「だから、一個じゃなかった」
「……」
「私、歌が好きなんだ」
それは、あまりにも単純な答えだった。けれど、遠回りをして初めて本当の意味がわかったような気がした。
「藍ちゃんに嫌だって言われても、それは変わらなかった」
藍の肩がわずかに揺れる。
「……ごめん」
「ううん」
きららは首を振った。
「それでね」
今度は、藍の方へ身体を向けた。
「私、藍ちゃんに聞きたいことがある」
「……何?」
「本当に、全部嫌だった?」
藍が息を止めた。
「一緒に歌詞を考えたことも」
「……」
「先生と曲を作ったことも」
「……」
「私が歌ったことも」
「……やめて」
「藍ちゃん」
「やめてよ」
藍は膝の上で手を握り締めた。
「私、ちゃんと言ったでしょ」
「うん」
「嫌だったって」
「うん」
「惨めだったって」
「……うん」
「だったら——」
「でも、」
きららが遮った。
「あの時、『もう一回、歌って』って言ってくれた」
藍は息を呑んだ。きららは静かに続ける。
「あの時の藍ちゃん、嫌そうに見えなかったんだ」
「……」
「私、人の気持ちとか、そんなに上手にわかんないけど」
自分で言って、少しだけ苦笑する。
「むしろよく間違えるけど」
「……知ってる」
「ひどい」
かすかに、本当にかすかに。二人の間に、以前の空気が戻った気がした。けれど、それもすぐに消えた。
「だから、わかんないの」
きららは言った。
「藍ちゃんがあの日言ったことも、嘘だったなんて決めつけられない」
「……」
「でも、私が見た藍ちゃんまで、なかったことにしたくない」
藍は膝に顔を埋めたまま動かない。
「楽しくなかった?」
答えはない。
「私と曲作るの、本当に嫌だった?」
「……」
「藍ちゃん」
「…………楽しかった」
聞き逃してしまいそうな声だった。きららは何も言わなかった。
「楽しかったよ」
もう一度、今度はきららに、自分自身に伝えるように。
「きららと歌詞の話するのも。先生と曲を作るのも」
藍の金色の瞳が揺れる。
「きららが……歌うのも」
きららの目が見開かれた。
「嫌じゃなかった。嬉しかったよ…!」
藍は唇を噛んだ。そこで声が詰まる。
「……藍ちゃん」
「私の言葉が、歌になったから」
藍の目が潤んだ。
「ずっとノートに書くだけだった。誰にも見せないで、一人で書いて……それでいいって思ってた」
でも、違った。声になった瞬間、自分の中だけにあった景色が、自分ではない誰かのところへ渡った。
「きららが歌った時、本当に歌になったって思った」
藍は俯いた。
「だから、もう一回って言った」
きららの胸の奥で、固まっていたものが少しずつほどけていく。
「じゃあ……」
それなら、どうして。そう聞こうとして、藍が先に言った。
「怖かったの」
「え?」
「あの日、きららの声を聞いた時」
きららは黙った。
「すぐにわかった」
藍の手が、自分の喉元へ上がる。
「声が掠れてた」
「……うん」
「高い音、出しにくかったでしょ」
「うん」
「歌ったあとも変だった」
「……うん」
藍は目を閉じた。
「知ってたから」
その言葉で、きららはようやく気づいた。藍が十二歳の頃、歌い続けて声を傷めたこと。
「私も、そうだった」
藍の声が震える。
「最初はちょっと変なだけだった」
まだ歌えた。だから大丈夫だと思った。
「少しくらいなら平気って。今日だけならって」
藍は喉元から手を下ろした。
「ずっとそう思ってた」
そして、
「歌えなくなった」
きららは何も言えなかった。
「あの日のきらら、昔の私と同じだった」
大丈夫。まだ歌える。少し休めばいい。そう笑っていた。
「怖かった」
藍はもう一度言った。
「きららまで歌えなくなるんじゃないかって…」
「藍ちゃん……」
「しかも」
声が細くなる。
「私の歌で」
藍の手が震えた。きららの呼吸が止まる。
「私が書かなかったら」
「……」
「きららが私に会わなかったら」
「藍ちゃん」
「私が歌っていいなんて言わなかったら、きららはあんなに」
「藍ちゃん!」
きららの声が重なった。藍が口を閉じる。
「それは違うよ」
「違わない」
「違う」
きららははっきりと言った。
「歌ったのは私だよ」
「でも——」
「楽しくて、いっぱい歌ったのは私」
「……」
「喉がおかしいのに大丈夫って思ってたのも私」
「……」
「先生とか優斗とか、みんなに言われても、最初はそんなに気にしてなかったのも私」
言いながら、少しだけ情けなくなる。
「……こうやって並べると私、結構ダメだね」
「今それ言う?」
「だって本当だし」
藍が一瞬、困ったような顔をした。その表情を見て。きららは少しだけ笑った。
「だから」
今度は静かに言う。
「藍ちゃんの歌のせいにしないで」
藍の瞳が揺れた。
「私、藍ちゃんの歌が好きだよ」
「……」
「好きだから歌ったの」
「でも、それで声が——」
「だから、今度はちゃんと休む」
「……今度は?」
「あ」
「今度はって何」
「いや、えっと」
藍の目が細くなる。
「きらら」
「はい」
「先生の言うこと、ちゃんと聞いて」
「はい」
「声がおかしかったら歌わない」
「はい」
「無茶しない」
「……はい」
「今、間があった」
「なかったよ!」
「あった」
「気のせい!」
藍が呆れたように息を吐く。それを見て。きららは笑った。
「……よかった」
「何が?」
「いつもの藍ちゃんだ」
「……何それ」
「だって」
きららは笑ったまま言った。
「やっと、藍ちゃんと喋ってるって感じする」
藍が黙った。少しして。
「……ごめん」
その声は、さっきまでとは違っていた。
「きらら」
「うん」
「ごめんなさい」
藍は俯いた。
「私、ひどいこと言った」
きららは答えない。
「惨めだったなんて、嘘」
「……うん」
「きららの歌になっていくのが嫌だったのも、嘘」
「うん」
「曲なんて作らなきゃよかったっていうのも……」
声が詰まった。
「全部、嘘」
藍の目から、一粒だけ涙が落ちた。
「ごめん」
きららは、その涙を見た。藍が泣くところなんて、見たことがない。だから、何か言わなければと思った。でも、言葉より先に身体が動いた。
きららは藍の手を握った。藍が驚いて顔を上げる。
「……きらら?」
「私もごめん」
「なんで、きららが」
「無茶したから」
「……」
「藍ちゃんがあんなこと言わなきゃいけないくらい、心配させたから」
きららは握った手へ少しだけ力を込めた。
「でもね」
琥珀色の瞳が、まっすぐ藍を見る。
「次からは、嘘つかないで」
「……」
「心配だったら、心配って言って?」
「それで止まる?」
「……」
「きらら」
「…………頑張る」
「そこは約束しなさい」
「…はい」
藍の口元が、ほんの少し上がった。きららも笑った。けれど、藍の瞳にはまだ涙が残っていた。
「私ね」
藍が言った。
「きららが歌えなくなるのが、本当に嫌だった」
「うん」
「私と同じになってほしくなかった」
「うん」
「でも……」
そこで言葉が止まる。きららは急かさなかった。待つ。藍が自分で続きを言うまで。やがて、藍が顔を上げた。
「私、もう一度きららの歌が聞きたい」
きららの目が大きく開いた。
「……私の?」
「うん」
藍は頷く。
「私の歌詞だから、とかじゃなくて」
少しだけ迷って、それでも、もう目を逸らさなかった。
「きららが歌ってるのを、もう一度聞きたい」
きららは何も言わなかった。言えなかった。胸の奥がいっぱいになった。一週間以上歌わなかった。歌う理由がわからなくなった。自分の歌は、誰かに必要なのだろうかと思った。けれど、目の前にいた。聞きたいと言ってくれる人が。今は、それだけで十分だった。
「……うん」
きららは笑った。目の奥が少し熱くなった。
「じゃあ、ちゃんと治す」
「絶対?」
「絶対」
「無茶しない?」
「しない!」
「先生の言うこと聞く?」
「聞く!」
「本当に?」
「藍ちゃん、疑いすぎ!」
「だって、きららだし」
「またそれ!」
きららの声が弾む。藍が笑った。小さな笑いだった。でも、久しぶりに見たきららの好きな、藍の笑い方だった。
「……それと」
藍が言った。
「ん?」
「あの歌」
きららの表情が変わる。
「まだ、完成してないから」
「……うん」
「最後まで、ちゃんと作りたい」
藍は一度だけ、二人の間にある手へ目を落とした。きららはまだ、その手を握っていた。
「きららと、一緒に」
きららの唇が震えた。今度は、すぐに答えなかった。嬉しい時ほどちゃんと聞いて、ちゃんと受け取って。それから、
「うん」
大きく頷いた。
「一緒に作ろう」
藍も頷いた。
夏の頃とは違う空、夏の頃とは違う海が二人を見守っていた。
「ねえ、藍ちゃん」
「何?」
「私、待つの上手くなったと思わない?」
「……どこが?」
「ええ!?」
「今日だって走ってきたんでしょ」
「なんでわかったの!?」
「髪、ぐちゃぐちゃ」
「うそ!?」
きららは慌ててポニーテールへ手をやった。藍が笑う。
「もう! 先に言ってよ!」
「今言った」
「そういう意味じゃなくて!」
きららの抗議が続く。その横で、藍はしばらく笑っていた。
「でも」
藍が呟く。
「何?」
「待ってくれて、ありがとう」
きららの動きが止まった。少しだけ考えてから、
「うん」
今度はそれだけ答えた。空の端から、ゆっくりと雲がほどけていく。その隙間に見えた青は、夏のような強い青ではない。淡く、高く、どこまでも続いていた。
二人の歌は、まだ完成していない。最後の言葉も、最後の音も、まだ見つかっていない。それでも今度は二人で探していける。
きららは、隣にいる藍を見た。藍もこちらを見る。どちらからともなく笑った。まだ、歌わない。今はそれでいい。もう一度歌う日のために二人の時間は流れていた。




