今度は離さない
十二月に入ったくじら島は、ようやく長かった夏の気配を手放し始めていた。
日が傾けば肌に触れる空気は涼しいが、凍えるほどではない。校庭を囲む木々はところどころ葉の色を変え、夏の間は開け放たれていた教室の窓も、今では半分ほど閉じられている。
昼休み。きららは窓際の席で、両手を頬に当てていた。
「寒い……」
「明日から十二月だからな」
向かいの席でパンの袋を開けながら、優斗が言った。
「でも昨日までそんなに寒くなかったじゃん」
「季節に文句言うなよ」
「急すぎるよ。もうちょっとこう、今から寒くなりますよーって教えてくれてもいいと思う」
「何にだよ」
「空とか」
「毎日見てんだろ」
「見てるけど!」
きららは頬を膨らませた。窓の向こうには、薄い水色の空が広がっている。夏の空とは違う。どこまでも青く、眩しいほどだった季節は過ぎ、今は白を混ぜたような淡い色をしていた。
「そういや、喉、どうなんだ?」
「昨日、先生に診てもらったよ」
「翠簾野先生に診察はできねえだろ」
「声聞いてもらったの!」
「最初からそう言え」
「もう普通に喋る分には大丈夫だって。歌うのは、少しずつ」
「少しずつな」
「わかってるよ」
「本当に?」
「なんでみんな同じこと聞くの!?」
優斗は答えず、パンを一口かじった。その顔が完全に「日頃の行い」と言っている。
「もう無茶しないもん」
「へえ」
「その顔やめて!」
「何も言ってねえだろ」
「顔が言ってる!」
きららが身を乗り出した、その時、教室の前方から声が飛んできた。
「きららさん」
聞き覚えのある、よく通る声。きららは振り返った。
「あ、海夜璃」
開いた扉のところに、海夜璃が立っていた金色の髪を肩から払い、こちらを見る。
「少々よろしくて?」
「いいよ。どうしたの?」
「あなたの声を確認しに来ましたの」
「確認?」
「治ったと聞きましたから」
海夜璃は当然のように言う。
「まだ治ったっていうか、歌うのはこれから少しずつ——」
「でしたら、なおさらですわ」
きららの前まで来ると、海夜璃は腕を組んだ。
「復帰早々また同じことをされたら、呆れるどころではありませんもの」
「しないってば!」
「信用というものは、一度失うと取り戻すのに時間がかかりますのよ」
「そこまで!?」
「当然ですわ」
ぴしゃりと言われ、きららは机に突っ伏した。
「最近みんな厳しい……」
「自業自得だろ」
「優斗はどっちの味方なの!」
「喉の味方」
「私の一部だよ!」
海夜璃が小さく笑った。以前なら、その笑い声に気づかず文句を続けていただろう。けれど、きららは顔を上げた。
「何ですの?」
「最近、ちょっと忙しかった?」
海夜璃がわずかに目を見開いた。
「どうして?」
「なんとなく。前より見かけなかったから」
ほんの短い沈黙。
「……まあ、わたくしにも色々ありますの」
「色々?」
「色々ですわ」
「何それ、気になる!」
「きららさんに逐一お話しする必要はありませんでしょう?」
「えー!」
「それに」
海夜璃は窓の外へ一度視線を向けた。その横顔から、いつもの余裕がほんの少しだけ消える。
「わたくしも、遊んでいたわけではありませんもの」
それだけだった。何をしていたのか、誰と会っていたのか、きららにはわからない。けれど、すぐにこちらへ戻ったピンク色の瞳には、いつもと変わらない強い光があった。
「さて」
海夜璃が髪を払う。
「わたくしの方は一区切りつきましたし、今度はきららさんですわね」
「え?」
「早く万全になってくださらない?」
口元に自信たっぷりの笑みを浮かべる。
「いつまでも不調の相手では、張り合いがありませんもの」
きららは一瞬、きょとんとして、しかしすぐに笑った。
「うん!」
「返事だけは立派ですわね」
「返事だけって何!?」
「では、ごきげんよう」
「あ、逃げた!」
海夜璃は軽やかに教室を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、きららは呟く。
「……海夜璃も、頑張ってるんだね」
「そりゃそうだろ」
優斗が言った。
「お前が知らねえだけで、みんな色々やってんじゃね?」
「……そっか」
きららはもう一度、海夜璃が消えた扉を見る。
七月から始まったアンドロメダオーディション。もう、五か月が過ぎようとしていた。自分が老人や藍と出会っていた間にも、きっとそれぞれの時間が流れていたのだ。
「私も頑張ろ」
「だから頑張りすぎんなって」
「あ」
「言ったそばからこれだよ」
「まだ何もしてないよ!」
「考え方の話だ!」
優斗の声が教室に響いた。
「——ここまで」
「ええっ!?」
放課後の音楽室。きららの抗議に、翠簾野は苦笑した。
「まだ全然歌ってないよ!」
「だから、今日はここまで」
「もう一回だけ!」
「だめ」
「先生!」
「だめです」
「先生まで!」
「先生だからです」
穏やかな声なのに、こういう時の翠簾野は意外と頑固だ。ピアノの蓋を閉じられ、きららは肩を落とした。
「……歌えたのに」
「歌えることと、歌っていいことは同じじゃありません」
「う……」
反論できない。
数日前から、少しずつ発声を再開していた。短い音、無理のない高さ。そこから少しずつ音域を確かめ、今日は初めて旋律をつけた。以前なら物足りなくて仕方がなかっただろう。今も、もっと歌いたい気持ちはある。でも、
「……わかりました」
きららは素直に頷いた。翠簾野が少し驚いた顔をする。
「なんですか、その顔」
「いや。成長したなあと思って」
「私だって成長します!」
「そうですか」
「絶対今まで成長しないと思ってた!」
「そこまでは言ってませんよ」
翠簾野は笑った。
「でも、声はかなり戻っています。焦らなければ大丈夫ですよ」
「……はい」
きららは自分の喉へ触れた。歌える。それが以前より少しだけ特別なことに思えた。
「先生」
「うん?」
「歌えるって、すごいことなんですね」
翠簾野は答えなかった。ただ、柔らかく目を細めた。
「……水瀬さんとは?」
「会ってます」
きららの顔が明るくなる。
「また歌詞書いてるんですよ。まだ全部じゃないみたいだけど」
「そうですか」
「私が歌えるようになるのと、藍ちゃんの歌詞が完成するの、どっちが先かな」
「競争じゃないんだから」
「あ、そっか」
翠簾野はまた笑った。
「今度は、待てそうですか?」
きららは少し考えた。
「……前よりは!」
「それなら十分」
「でも早く読みたいです」
「そこは変わらないんですね」
「はい!」
元気よく答えたきららに、翠簾野は困ったように笑った。
藍がまたノートを開くようになった。それは、和解した翌日から——ではなかった。
三日ほど経った頃から、きららがいつもの場所へ行くと、藍は何も書かずに座っていた。だから、きららも聞かなかった。その次の日も、さらにその次の日も。歌詞の話をしない日があった。
学校であったこと。海夜璃がわざわざ声を確認しに来たこと。優斗がパンを分けてくれなかったこと。
「それはきららが悪い」
「なんで!?」
「自分の昼ごはんあったんでしょ?」
「でも優斗のパン、おいしそうだった」
「知らないよ」
そんな話をした。藍は呆れたり、時々笑ったりした。きららも笑った。それだけで帰る日もあった。そしてある日の午後、藍は久しぶりに鉛筆を持った。きららは気づいても、何も言わなかった。少し離れた場所で、膝を抱えて空を見ていた。
十二月の陽は低い。防波堤へ伸びる二人の影も、夏よりずっと長くなっている。
「……きらら」
「ん?」
「静かだね」
「えっ」
きららが振り返る。
「邪魔しないようにしてたんだけど」
「そう」
「えらくない?」
「自分で言わなければね」
「褒めてよ!」
「はいはい。えらいえらい」
「雑!」
藍は笑いながらノートへ目を戻した。鉛筆を動かして、止まる。また動く。
きららはその横顔を見た。何を書いているのか気になる。ものすごく気になる。覗きたい。聞きたい。読みたい。けれど、きららは口を閉じた。
その代わり、空を見る。薄い雲の切れ間に、青が見える。
「……ねえ、きらら」
「何?」
「やっぱり見ていいよ」
「えっ!?」
きららの身体が跳ねた。
「いいの!?」
「そんなに気にされると、逆に書きにくい」
「私、何も言ってないよ!」
「顔がうるさい」
「顔!?」
きららは慌てて隣へ寄った。
「どこ!? どこ書いたの!?」
「近い」
「あ、ごめん」
少し離れる。藍がノートを傾けた。以前まで空白だった場所。そこに、新しい文字があった。きららはゆっくり読む。声には出さない。
ただ、目で追った。
俯いてたのは
空に背けていたのは自分で
本当はいつだって
青空はすぐそばにあった
「……」
きららが黙った。
「何?」
「ううん」
「変?」
「違う」
首を振る。
「好き」
藍の視線がノートへ落ちる。
「……そう」
「この青空、好き」
「青空が?」
「うん」
きららは顔を上げる。ちょうど雲が流れ、その向こうに青が広がっていた。
「見えなくても、なくなったわけじゃないんだね」
藍がきららを見る。
「雲で隠れてても、夜でも、空そのものがなくなるわけじゃないし」
「……」
「なんか、いいね」
きららはそれだけ言った。藍はしばらく黙っていた。
「……そうだね」
小さく答える。きららは知らない。その青空を思い浮かべた時、藍の中に、誰の色があったのか。藍も言わなかった。ただ、もう一度鉛筆を持った。
その日から、言葉は少しずつ戻ってきた。毎日ではない。一行も書けない日もあった。書いては消す日もあった。きららと話している途中で突然ノートを開くこともあった。
「待って」
「え?」
「今、何か出てきそう」
「何が!?」
「いいから黙って」
「はい!」
慌てて口を塞ぐきららの横で、藍が文字を書く。
しばらくして。
「……できた」
「見ていい!?」
「さっきまで黙れてたのに」
「もういいでしょ!?」
そして、また別の日、きららは藍からノートを渡された。
差し出された手を握る
地上にだってこんなにも
煌めきは溢れているから
読み終えたきららは、しばらくノートを見つめていた。
「……藍ちゃん」
「何?」
「これも好き!」
「それしか言わないね」
「だって好きなんだもん。藍ちゃんの歌詞って、やっぱり凄いね!」
きららは笑った。
「星って空にあるけど、キラキラしてるものって、別に空だけじゃないもんね」
「……うん」
「海も光るし。窓も光るし。朝露とかも」
きららは指を折っていく。
「あと、魚の鱗とか!」
「また魚」
「あっ!」
自分で気づき、きららは口を押さえた。藍が吹き出す。
「今のは仕方ないでしょ! 光るもの考えてたら出てきたの!」
「はいはい」
「本当だって!」
きららが抗議する。藍は笑ったまま、ノートを受け取った。そのページへ目を落とす。
その言葉を書いた時、思い浮かべたのはあの日のことだった。
防波堤で嘘を全部吐き出した自分へ、きららが差し出した手。
——藍ちゃんの歌のせいにしないで。
握ったのは、自分だった。だから、今度は離さない。藍はノートを閉じた。
「藍ちゃん?」
「何でもない」
「またそれ言う」
「本当に何でもない」
「怪しい」
「うるさい」
「絶対何かある!」
「ない」
追及してくるきららを横目に、藍は少しだけ笑った。




