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まだ名もなき願い

 きららの声は、ゆっくりと元へ戻っていた。翠簾野の前で歌える時間も、少しずつ長くなった。

「今日はここまで」

「はい」

「……素直ですね」

「先生、私を何だと思ってるんですか」

「青波さん」

「そうじゃなくて!」

 歌いたい。もっと歌いたい。その気持ちは変わらない。でも今は、明日も歌いたいから、今日はやめる。そう思えるようになった。歌わないことも、歌うために必要なのだと知ったから。藍の歌詞も、あと少しだった。最後に残っている空白。そこだけが、なかなか埋まらない。


「……ここなんだよね」

 藍がノートを見ながら言う。きららは隣から覗き込む。

「最後?」

「うん」

「何書くの?」

「わからないから苦労してるの」

「じゃあ一緒に考える?」

 藍がきららを見る。きららはすぐに付け足した。

「……あ、でも藍ちゃんが一人で考えたいなら待つよ」

「……」

「何?」

「いや」

 藍は少し笑った。

「本当に待てるようになったなって」

「でしょ!」

 きららが胸を張る。

「私、成長した!」

「そこで威張らなければもっといいのに」

「なんで!?」

「でも」

 藍はノートへ目を戻した。

「ここは、自分で書きたい」

「うん」

「多分……自分で書かないと意味がないから」

 きららは少しだけ不思議そうな顔をした。

「わかった」

 それ以上は聞かなかった。



 その夜、藍は一人で机に向かっていた。窓の外は暗い。夏には遅くまで残っていた明るさも、今はもうない。机の上にあるのは、一冊のノート。何度も開いて、何度も閉じた。十二歳の頃から、たくさんの言葉を書いてきた。歌えなくなっても歌詞だけは書けた。だから、自分にはこれしかないと思ったこともある。でも、今は少し違う。

 藍はページをめくった。最初の頃の歌詞、誰にも見せるつもりがなかった言葉、きららに初めて見せた言葉。書き直した跡、消した跡、新しく加わった言葉。そこには、自分一人では生まれなかった言葉がいくつもある。


 きららと話したから。きららが聞いたから。

 きららが笑ったから。きららが歌ったから。

 そして、きららを遠ざけたから。

 もう一度、手を取ったから。

 全部が、このノートの中に残っている。


「……願い」

 藍は呟いた。きららと出会ったからといって、過去が変わるわけではない。失った声が戻るわけでもない。それでも、

(全部なくなるわけじゃない)

藍は鉛筆を握った。


『風に乗せて 空を渡る調べ』


 一行書いて、止まる。そして、


『今はまだ名もなき願いだとしても』


 その下へ、さらに言葉を重ねていく。長い時間が過ぎた。最後の一文字を書き終えた時、藍は鉛筆を置いた。


「……できた」


 誰もいない部屋で小さく呟いた。ノートの最後に並ぶ言葉を読む。そして、藍はページの上部へまだ空いていた場所を見つめた。

 歌には、まだ名前がなかった。少し考えて、窓の外を見る。夜空には、いくつもの星があった。

 遠い。手を伸ばしても届かない。けれど光は、ここまで届いている。藍は再び鉛筆を取った。ゆっくりと、題名を書いた。



「できた!?」

 翌日。藍がノートを差し出した瞬間、きららの声が裏返った。

「声」

「あっ」

 きららは慌てて喉を押さえる。

「……できた?」

 今度は小声。

「そこまで小さくしなくていい」

「だって!」

「普通に喋って」

「はい」

 藍は呆れながらも、ノートを渡した。

「最後まで書けた」

 きららの顔から、ふざけた色が消える。両手で受け取ってページを開く。以前まで空いていた場所に、言葉がある。最後まで、きららは黙って読んだ。藍も黙って待った。途中、きららの指が止まった。


 あの日になくした想いは

 永遠に煌めく星となる


「……藍ちゃん」

「何?」

「ここ」

「うん」

「前は違ったよね」

「……うん」

 以前は、誰かの想いとなって輝く。そう書いていた。でも最後だけ、言葉が変わっている。

「なんで?」

 藍は少しだけ考えた。

「……書けるようになったから」

「それだけ?」

「それだけ」

「絶対何かある」

「ない」

「ある顔してる」

「どんな顔」

「藍ちゃんの顔」

「意味わかんない」

 きららは笑った。ページを最初へ戻す。


「あ」

 気づいた。

「タイトル」

「うん」

「決めたんだ」

 藍が頷く。きららはそこに書かれた文字を声にした途端。胸の中で何かが鳴ったような気がした。

「いいね」

「本当?」

「うん!」

 きららはノートを胸元へ寄せかけて。

「あ、ごめん、藍ちゃんのだった」

「別にいいけど」

「いいんだ」

「落とさなければ」

「落とさないよ!」

 きららはもう一度、完成した歌詞を見る。


 歌が、できた。

 最後の空白に言葉が入り、翠簾野と一緒に作った旋律の上を、最初から最後まで一つの歌として辿れるようになった。

 ずっと書けなかった場所も。一度は止まってしまった音も。全部が繋がった。

「……できたね」

 きららはもう一度言った。何度でも言いたかった。

「うん」


 藍も、今度は呆れなかった。

 防波堤に並んで座った二人の間に、開いたノートがある。何度も書き直された文字、消し跡、ページの端に小さく残された言葉。翠簾野と音を探した時に書き込んだ印。

 綺麗とは言えない。けれど、それがきららには嬉しかった。ここまで一緒に作ってきたものが、全部ここにある。

「本当にできたんだ……」

 きららは頬を緩ませたまま、完成した歌詞を最初から追っていく。

「藍ちゃん」

「何?」

「すごいね!」

「……何が?」

「歌ができた!」

「それ、さっきから何回言うの?」

「だって、できたんだよ!?」

 きららはとうとう立ち上がった。

「最初に藍ちゃんのノート見た時、まだ歌じゃなかったじゃん!」

「詩だったからね」

「そう! それが歌詞になって、先生と曲作って、途中で色々あって……」

 そこまで言って、一瞬だけ声が止まる。

 藍も何も言わなかった。

 けれど、その沈黙はもう痛くなかった。

「……それでも、完成したんだよ」

「うん」

「すごい!」

 きららは両手を握りしめた。

「早く歌いたい!」

「きらら」

「分かってる!」

 即座に返して、きららは自分の口を両手で塞いだ。

 藍が目を瞬く。

「まだ何も言ってないけど」

「歌いすぎない! 無理しない! ちゃんと休む!」

「……よくできました」

「子ども扱いしてる!」

「だって先回りして全部言ったの、きららでしょ」

「そうだけど!」

 藍が笑う。つられて、きららも笑った。

 少し前までなら、完成した瞬間から何度も歌っていたかもしれない。 嬉しいから、楽しいから、もっと良くしたいから。その気持ちは今も変わらない。でも、

「今日は歌わないよ」

 きららは言った。

「先生にも、まだ無理しないようにって言われてるし」

「……うん」

「その代わり」

 きららはもう一度ノートを覗き込む。

「もう一回読んでいい?」

「どうぞ」

「やった!」

「それくらいでそんなに喜ぶ?」

「喜ぶよ!」

 きららは当然のように答えた。

「だって藍ちゃんの歌、完成したんだもん」

 藍は少しだけ目を伏せた。


「……私だけのじゃないけど」

「え?」

「何でもない」

「またそれ!」

 きららは笑いながら、もう一度最初の行へ視線を戻した。ページの端が、かすかに揺れた。藍が片手で押さえる。きららも反対側を押さえた。

 二人の指の間に、一つの歌がある。きららは、それがなんだか不思議で、嬉しくて。しばらく笑ったまま、文字を眺めていた。



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