ライバルと親友の狭間で
くじら島に、ようやく冷たい季節がやってきた。海沿いの木々にも黄色や赤が混じり、空を渡る雲も夏より高く、薄くなっている。
どれくらい経っただろう。藍が言った。
「……で、これどうするの?」
「え?」
「完成したんでしょ?」
「うん!」
「きらら、言ってたよね。誰かに届けたいって」
「うん!」
「……どうやって?」
「…………」
きららは笑顔のまま固まった。藍がじっと見る。
「…………街で歌う!」
「それは昨日聞いた」
「じゃあ港!」
「また港?」
「商店街!」
「邪魔になるでしょ」
「学校!」
「この時期に何かイベントあったっけ?」
「うっ……」
完成した喜びに浮かれていた頭が、ようやく次の問題に追いついた。
「そもそも、街ってどこ?」
「街は街だよ!」
「だから具体的に」
「人がいっぱいいるところ!」
「そこでいきなり歌うの?」
「……だめかな」
「だめとは言ってないけど」
藍は少し考える。
「伴奏は?」
「あ」
「考えてなかったんだ」
「今考えようとしてた!」
「絶対嘘」
「嘘じゃないよ!」
きららは勢いよく立ち上がった。青から水色へほどけるポニーテールが、肩の後ろで弧を描く。けれど、数歩進んだところで止まった。
「……先生に聞いてみよう」
「先生?」
「翠簾野先生。曲を作る時も手伝ってくれたし、こういうこと詳しそう」
「まあ……きららよりは」
「比較対象が私なの!?」
藍が笑う。きららは頬を膨らませたものの、すぐに自分も笑った。
完成した。それだけで、昨日までは十分だった。けれど歌は、完成しただけでは届かない。誰かに聴いてもらうには、そのための場所がいる。人がいて、音があって、そこで自分が歌う。
「じゃあ、明日先生に相談してみる」
「うん」
「藍ちゃんも来る?」
「私が?」
「だって、藍ちゃんも一緒に作った歌だよ」
藍は一瞬だけ黙った。けれど今度は、その言葉から目を逸らさなかった。
「……行く」
「うん!」
きららは嬉しそうに頷いた。
「それでしたら、中央広場はいかがでしょう」
翌日の放課後。翠簾野は二人の話を最後まで聞いてから、そう提案した。
「中央広場?」
「はい。商店街を抜けた先にある広場です。青波さんも知っていますよね?」
「知ってます! 噴水があるところ!」
「今の時期は止まっていますけどね」
「あ、そっか」
音楽室には、傾き始めた陽が長く差し込んでいた。夏よりもずっと低い位置から届く光が、譜面台の脚を細長く床へ伸ばしている。窓の外では、校庭の木が少しずつ葉を落とし始めていた。
「町の催しなどでも使われている場所です。屋根のある一角に、古いアップライトピアノもありますよ」
「ピアノ!」
きららの目が輝く。
「先生、弾いてくれませんか!?」
「もちろんです。そのために一緒に曲を作ったようなものですから」
「やった!」
「ただし」
翠簾野が人差し指を立てる。
「勝手に使っていいわけではありません。管理している方に許可をいただかないといけませんね」
「お願いします!」
「早いですね」
「だって先生なら大丈夫そう!」
「そういうところですよ、青波さん」
翠簾野は苦笑しながら、机の上の予定表へ目を落とした。
「年末に入る前なら、空いている日があるかもしれません。確認してみますね」
「ありがとうございます!」
きららが勢いよく頭を下げる。隣で藍も頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「いえ。お二人で完成させた歌ですからね」
翠簾野は二人を見る。
「最後まで形になって、本当に良かったですね」
「はい!」
きららの返事が、音楽室いっぱいに弾んだ。藍は少し照れたように目を伏せたが、
「……はい」
と答えたその声も、どこか嬉しそうだった。
数日後。
「使えるって!」
教室へ飛び込んできたきららの声に、優斗が顔を上げた。
「何が」
「広場!」
「主語を言え」
「中央広場! 歌えるって!」
「ああ、その話か」
「先生が許可取ってくれたの!」
「よかったな」
「うん!」
きららは自分の席に鞄を置くと、そのまま優斗の机の前へ立った。そしてじっと見る。
「……何だよ」
「優斗」
「嫌な予感しかしない」
「お願いがあります」
「断る」
「まだ何も言ってない!」
「その顔で近づいてきた時、大体ろくなことねえから」
「ひどい!」
きららは机に両手をついた。
「手伝って!」
「何を」
「色々!」
「帰る」
「待って!」
立ち上がろうとした優斗の袖を掴む。
「だから具体的に言えって!」
「私もまだ分かんないの!」
「じゃあ決まってから頼め!」
「でも絶対人手いるもん!」
教室に二人の声が響く。周囲の生徒たちが、また始まった、とでも言いたげに笑っている。
「……何を騒いでいますの?」
そこへ聞き慣れた声が加わった。扉の前に海夜璃が立っている。
「いいところに海夜璃ちゃん!」
「嫌な予感がしますわ」
「なんで二人とも同じこと言うの!?」
「日頃の行いだろ」
「日頃の行いですわね」
「なんでそんな時だけ息ぴったりなの!?」
海夜璃は金色の髪を肩から払いながら、教室へ入ってきた。
「それで?」
「街で歌うことになったの!」
「あら」
海夜璃の表情が少し変わった。
「例の歌ですの?」
「うん」
海夜璃はそれ以上聞かなかった。ただ、ほんの少しだけ目を細める。
「でしたら、わたくしにも聴かせてくださる?」
「もちろん!」
「本番ではなく、その前にですわ」
「え?」
「あなた、自分が何をしたかもうお忘れになって?」
「忘れてないよ!」
「でしたら話は早いですわ」
海夜璃はきららの喉元を指した。
「一度、聴かせなさいな」
「海夜璃に?」
「不満でも?」
「ないけど……」
きららが首を傾げる。
「何で?」
「ライバルの不調を放置したまま舞台へ出すほど、わたくしは無責任ではありませんの」
「舞台ってほど大きくないよ?」
「そこではありませんわ!」
海夜璃の声が響いた。優斗が小さく吹き出す。
「笑わないでよ!」
「お前ら、結構相性いいな」
「どこが!?」
「どこですの!?」
今度は声まで重なった。
また数日後。音楽室には、ピアノの音が流れていた。翠簾野の指が鍵盤を滑る。その旋律に合わせて、きららが歌う。長くは歌わない。一度通したら休む。喉に違和感がないか確かめる。以前のきららなら、その時間をもどかしく感じただろう。けれど今は、急がない。一曲を十回歌うことより。一回の歌を、最後まで大切に届けること。それを考える。
最後の音が消えた。
「……どう?」
きららが振り返る。壁際には藍と優斗。そして、腕を組んだ海夜璃がいた。
「……まだ少し高音が硬いですわね」
「えっ、そう?」
「そうですわ。病み上がりなのですから、力任せに出そうとなさらないこと」
「力任せにしてるつもりないんだけど」
「無意識だから問題なんですの」
「海夜璃、先生みたいだね」
「失礼ですわね! わたくしはライバルとして当然の指摘をしているだけですわ!」
「先生みたいって褒めたんだけど!」
「そういう問題ではありません!」
「まあまあ」
翠簾野が二人を宥める。
「神崎さんの言っていることは合っていますよ。青波さん、もう少し息を流すようにしてみましょうか」
「はい」
「ほら!」
「なんで海夜璃が得意そうなの!?」
「当然でしょう?」
海夜璃が胸を張る。藍が小さく笑った。きららは不満そうな顔をしながら、もう一度楽譜を見る。
「でも」
海夜璃が言った。きららが顔を上げる。
「何?」
「……少し、変わりましたわね」
「え?」
「歌い方」
きららは瞬きをした。
「下手になった?」
「どうしてそうなりますの!?」
「だって変わったって!」
「あなたは褒め言葉という可能性を考えられませんの!?」
「海夜璃が言うとどっちか分からないよ!」
「失礼ですわね!」
優斗が顔を背けた。肩が揺れている。
「優斗、笑ってるでしょ!」
「笑ってねえ」
「絶対笑ってる!」
「……以前のきららさんは」
海夜璃の声が少しだけ落ち着いた。きららも口を閉じる。
「もっと高く。もっと綺麗に。もっと上手く——と、そうやって歌っていましたでしょう?」
「……そうかな」
「そうですわ」
海夜璃は迷いなく答えた。
「もちろん、それが悪いとは言いません。歌唱力を磨くのは当然ですもの。わたくしたちは、歌姫を目指しているのですから」
ピンク色の瞳が、まっすぐきららを見る。
「でも今は……誰かに話しかけているように歌いますのね」
きららは何も言わなかった。隣で、藍も黙っている。
「……誰かに」
きららは小さく繰り返す。歌う時、この言葉は、どこへ行くのだろう、誰が聴くのだろう。その人には、どんなふうに聞こえるのだろう。以前はそんなことを、一つ一つ考えたりしなかった。歌うのが好きだった。ただ上手くなりたかった。
もっと高く、もっと遠くまで声を出したかった。それは今も変わらない。でも今は、その先を知っている。
「……そっか」
きららは笑った。
「じゃあ、いい変わり方かな」
「さあ?」
「ええっ!?」
「それを決めるのは、聴く人でしょう?」
海夜璃はさらりと言った。
「わたくしが決めることではありませんわ」
「……うん」
その言葉に、翠簾野が静かに微笑んだ。
「では今日は、ここまでにしましょう」
「はい」
きららは素直に答えた。海夜璃の眉が上がる。
「……本当にきららさんですの?」
「何それ!」
「以前なら『もう一回!』と騒いでいたでしょう?」
「私だって学習するよ!」
「それは失礼しましたわ」
「絶対思ってない!」
笑い声が、音楽室に広がった。




