想いを届けるということ
準備は少しずつ進み、広場を使う日が決まった。
商店街の人たちにも話が伝わり、簡単な案内を置いてもらえることになった。大きな催しではない。舞台もない。
華やかな照明もない。ただ、広場の一角にあるピアノを使い、一曲を歌う。それだけ。
「その方がいい」
藍は言った。
「うん。私もそう思う」
きららも頷いた。何百人に聴いてほしいわけではない。もちろん、たくさんの人に届いたら嬉しい。でも、たった一人でもいい。通りかかった誰かが、少しだけ足を止める。その人の中に、何か一つ残れば。藍が最初に話してくれた想いは、そういうものだった。
咲音にも話した。
「絶対行きます!」
返事は一秒もかからなかった。
「ありがとう!」
「きらら先輩の歌、久しぶりです!」
「そっか。咲音ちゃんの前では最近歌ってなかったね」
「楽しみにしてます!」
そう言ってから、咲音は少しだけ懐かしそうに笑った。
「……また、誰かに届ける歌なんですね」
きららは一瞬、言葉を止めた。
夏の港の小さな約束。懐かしい旋律を聴きながら目を潤ませていた老人。
「……うん」
きららは頷いた。
「今度は、まだ会ったことのない誰かに」
「はい!」
咲音が笑う。その笑顔を見ながら、きららも笑った。
そして、本番の三日前。
「もう一度歌いたい」
きららが言うと、翠簾野は首を横に振った。
「今日はやめておきましょう」
「でも、まだ一回しか——」
そこまで言って、きららは口を閉じた。
「……わかりました」
「はい」
翠簾野はそれ以上何も言わなかった。きららは楽譜を閉じる。以前なら不安になるほど歌った。歌えないところがあれば、歌えるまで繰り返した。上手くいけば、もっと上手くできる気がしてまた歌った。でも今は歌わない時間を怖がらない。声は、使い続ければ強くなるものではない。休ませることも必要だ。そして、歌は練習した回数だけで届くものでもない。
「先生」
「はい?」
「私、ちゃんと届けられるかな」
翠簾野は少し考えた。
「それは僕には分かりません」
「えっ」
予想していなかった答えに、きららが目を丸くする。
「届いたかどうかを決めるのは、歌った人ではありませんから」
「……聴いた人?」
「はい」
翠簾野は微笑んだ。
「ですから青波さんは、届くと信じて歌えばいいんです」
「……はい」
きららは楽譜を胸元に抱えた。
「歌は誰かへ届いて、初めて意味を持つ」
以前、翠簾野が教えてくれた言葉。あの頃は、分かったようで分かっていなかった。今なら。ほんの少しだけ分かる気がした。
そして十二月も半ばを過ぎた。くじら島の十二月は、まだ秋の中にある。夏の名残をようやく振り切った木々は赤や黄色に染まり、歩道の端には乾いた落ち葉が重なっていた。日中は過ごしやすいが、陽が傾くと空気がすっと涼しくなる。空は夏のような濃い青ではない。高く、淡く、どこか柔らかい。夕方が近づくにつれて、街には長い影が伸び始めていた。
夏なら水辺へ集まる子どもたちで賑わうその周囲も、今は落ち葉を踏みながら買い物帰りの人々が行き交っていた。
その日は朝から、よく晴れていた。広場の屋根の下、古いアップライトピアノが置かれていた。黒い塗装には細かな傷があり、角も少し丸くなっている。何度も町の催しで使われてきたのだろう。翠簾野は椅子の高さを調整し、鍵盤を一つずつ確かめていた。
ぽん。
ぽん。
短い音が、暮れかけた広場へ溶けていく。
「緊張してる?」
優斗が聞いた。
「してない!」
「してんだな」
「してないって!」
「声でかい」
「あ」
きららは慌てて口を押さえた。
「……ちょっとだけ」
「だろうな」
「でも、楽しみ」
きららは広場を見渡した。咲音が来ている。合唱部の仲間も何人かいる。学校の生徒や商店街の人。案内を見て来てくれたらしい人もいる。それでも、広場が埋まるほどではない。少し離れたところでは、このあと歌が始まることすら知らない人たちが行き交っている。
それでいい。あの人たちの誰かが、少しだけ足を止めてくれたら。
「きららさん」
海夜璃が近づいてきた。
「海夜璃」
「喉はもう大丈夫なんですの?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
「違和感は?」
「ないよ」
「無理に高音を出そうとしては?」
「しません!」
「歌い終わったあとにもう一曲」
「歌いません!」
「よろしい」
「何、その確認!」
「あなたには必要ですわ」
「信用ないなあ」
「当然でしょう?」
海夜璃は言い切った。けれどその表情は、少しだけ柔らかかった。
「いいこと、きららさん」
「ん?」
「今日のあなたが酷い歌を披露したら、承知しませんわよ」
「プレッシャーかけないでよ!」
「当然でしょう?」
海夜璃は胸を張る。
「こんな状態で女神様に選ばれると思いまして?」
「……!」
「わたくしの方が、よっぽど相応しくてよ」
いつもの、自信に満ちた笑顔。きららは海夜璃を見つめた。
七月から何度も競った。歌を聴いた。歌を聴かれた。悔しいと思ったこともある。すごいと思ったこともある。声がおかしいと最初に指摘してくれたのも、海夜璃だった。
そして今も、同じ夢を追いかける少女が、目の前にいる。
「……うん」
きららも笑った。
「じゃあ、海夜璃が悔しがるくらい歌う!」
「それでこそですわ」
海夜璃は満足そうに笑う。
「せいぜい、わたくしが悔しがるくらいの歌を歌ってきなさいな」
「任せて!」
「だから声!」
「あっ」
「本当に大丈夫かよ」
優斗が呆れた声を出した。
「大丈夫!」
「まあ」
優斗は小さく息を吐く。
「お前なら大丈夫だろ」
「……優斗」
「ただし、無茶すんな」
「うん」
「歌い終わったらちゃんと休め」
「うん」
「あと——」
「やっぱりお母さんみたい」
「帰るぞ」
「ごめん!」
きららが慌てて袖を掴む。
「冗談! 冗談だから!」
「離せ!」
海夜璃が呆れ、咲音が笑う。少し離れたところで、藍も笑っていた。きららはそれに気づき、優斗の袖から手を離して藍のところへ歩いていった。
「藍ちゃん」
「ん?」
「……どう?」
「何が?」
「私」
藍はきららを上から下まで見る。
「いつも通り」
「それ褒めてる?」
「多分」
「多分なんだ」
きららは笑った。
「歌ってくるね」
「……うん」
「藍ちゃんの歌」
藍の瞳が揺れた。
「違う」
「え?」
藍は首を横に振った。
「私たちの歌」
きららは目を見開いた。ほんの一瞬、何も言えなかった。それから、
「……うん!」
大きく頷いた。
「私たちの歌、届けてくる」
「うん」
藍も笑った。空が、少しずつ色を変えていく。淡い青の端から、薄い金色が混ざり始めていた。
広場を行き交う人々の声、靴音、店先から聞こえる呼び声。自転車のベル。
まだ誰も、この場所だけを見てはいない。それでいい。今から、振り向いてもらえばいい。
「青波さん」
翠簾野の声。きららが振り返る。ピアノの前に座った翠簾野が、こちらを見ていた。
「準備はいいですか?」
きららは一度、自分の喉へ触れた。
大丈夫。息を吸う。少し冷たい空気が胸へ入る。そして、藍を見る。藍は何も言わない。ただ、頷いた。きららも頷く。
「はい」
広場の中央へ、一歩進む。もう一歩。翠簾野が鍵盤へ手を置いた。
きららは目を閉じる。浮かんだのは夏の青い海、港で出会った老人、優斗や海夜璃たち。そして、夕暮れの防波堤で出会った、一人の少女。
言葉は、歌になった。願いは、まだここにある。だから、今度は届ける。
翠簾野の指が、静かに鍵盤を沈めた。




