煌星の天使
最初の音が鳴った。
古いアップライトピアノから零れた音は、夕暮れの広場へ静かに広がっていく。
きららは息を吸った。胸いっぱいに取り込んだ空気は、少しだけ冷たかった。
一度だけ目を閉じる。不思議だった。緊張しているはずなのに、逃げ出したいとは思わない。もっと上手く歌わなくちゃ。失敗しちゃいけない。そんな言葉も、今は浮かばなかった。ただ、聴いてほしい。それだけだった。
旋律が歩き始める。何度も直して、何度も立ち止まった。それでも、ようやくここまで来た歌。きららは唇を開いた。
『煌星をきかせて』
風に乗って声がきこえる
子どもの頃に描いた夢や希望
いつしか靴底のようにすり減って
いつのまにか、諦めて
叶わなかった願いは
夜空を彩る星となる
流星になって降り注ぎ
再び心に宿って叶おうとする
だから、願う 何度でも
だから、叶う いつの日か
あの日になくした想いは
誰かの想いとなって輝く
遠い御伽話のような
泡沫に終わらせないで
聞かせて
きっと届けてみせるから
自分の心が見えない日
星が見えない 暗闇に一人
世界に取り残される
届かないと 泣きたくなる
俯いてたのは
空に背けていたのは自分で
本当はいつだって
青空はすぐそばにあった
差し出された手を握る
地上にだってこんなにも
煌めきは溢れているから
だから、祈る 何度でも
いつか、叶う その日まで
あの日になくした想いは
誰かの想いとなって輝く
遠い御伽話のような
夢幻に終わらせないで
歌わせて
きっと叶えてみせるから
風に乗せて 空を渡る調べ
今はまだ名もなき願いだとしても
だから、願う 何度でも
いつか、叶う その日まで
あの日になくした想いは
永遠に煌めく星となる
遠い御伽話のような
泡沫に終わらせないから
歌わせて
きっと叶えてみせるから
最後の言葉を歌い終えた。
けれど、きららはすぐには息を吐かなかった。
翠簾野の指が最後の鍵盤を離れ、余韻が、広場に残った。やがてそれも薄くなり、消えていく。
静かだった。ほんの数秒。けれど、きららにはずいぶん長く感じられた。歌う前まで聞こえていた街のざわめきさえ、遠くなったような気がした。きららはゆっくり顔を上げる。
「……あ」
思わず、小さな声が漏れた。
人がいた。歌い始める前より、ずっと多く、足早に広場を横切ろうとしていた人が立ち止まっている。店から出てきた人も。自転車を押した学生も。小さな子どもも。きららの知らない人たちが、こちらを見ていた。
——聴いてくれてた。
胸の奥が、熱くなった。その時、
ぱち。
一つの音がした。
ぱち、ぱち。
もう一つ、それから別の場所でも。
ぱちぱちぱち、と音が重なっていく。やがてそれは広場いっぱいに広がった。
「……っ」
きららは目を見開いた。誰かが笑っている。子どもが小さな手を一生懸命叩いている。咲音も、優斗も、翠簾野も。そして海夜璃も、ほんの少し悔しそうな顔をしながら拍手していた。
きららの口元が、ゆっくりと緩む。気づけば、満面の笑顔になっていた。
「聴いてくれて、ありがとうございました!」
深く、頭を下げる。もう一度、大きな拍手が返ってきた。胸がいっぱいだった。嬉しい。歌えたからじゃない。聴いてくれた。知らない誰かが、自分たちの歌のために足を止めてくれた。それが、どうしようもなく嬉しかった。
きららはゆっくり顔を上げた。そして、一人の少女を探した。すぐに見つかった。
「……藍ちゃん」
藍は、その場に立ったままだった。金色の瞳から、一筋の涙が零れていた。藍自身も、それに気づいていないようだった。頬を伝った雫が顎から落ちて、ようやくはっとしたように目元へ手をやる。
「……あれ」
拭う。けれど、また溢れた。
「……何で」
自分でも分からないように呟いて、藍はもう一度涙を拭った。きららは何も言わず、藍のところまで歩いていった。少し前なら、走っていたかもしれない。けれど今は、急がなかった。一歩ずつ。藍の前まで来て、立ち止まる。拍手の余韻が残る広場を、二人で見た。
「……届いたね」
きららが言った。藍は、まだ広場に残っている人たちを見つめた。名前も、どこから来たのかも、どんな毎日を過ごしているのかも知らない。それでも、立ち止まってくれた。聴いてくれた。ずっとノートの中に閉じ込めていた言葉を。誰にも届かないと思っていた言葉を。きららの声に乗って、ここまで来た歌を。
「……うん」
声が震えた。藍はもう一度、きららを見る。
「……届いた」
きららが笑った。
「藍ちゃん、ありがとう!」
「……え?」
「藍ちゃんのおかげで、いっぱい新しいことが知れた!」
琥珀色の瞳が、まっすぐ藍を見ている。
「歌って、ただ歌うだけじゃないんだね。誰かの気持ちが残ったり、誰かの願いを運んだり……知らない誰かにも届いたりするんだって、私、藍ちゃんと歌を作って初めて分かった!」
——違う。
藍は唇を噛んだ。
(違うよ、きらら。教えてもらったのは、私の方だ)
(あの日、一人で海を見ていた私をきららが見つけてくれた)
何度拒んでも、追いつけなくても、立ち止まってしまっても。何度だって、こちらへ手を伸ばしてくれた。
歌えなくなって。何度も思い描いては、その度に夢を失って。それでも捨てられずにいた言葉を、もう一度、歌にしてくれた。今まで自分が諦めてきたたくさんの想いを、きららが全部拾ってくれた。
視界がまた滲んだ。
「……藍ちゃん?」
何も言わない藍に、きららが声をかける。
「……きらら」
「うん」
「ありがとう……」
今度は、逸らさなかった。
「歌ってくれて……ここまで、一緒に来てくれて」
涙が頬を伝った。きららは一瞬だけ目を丸くした。
「うん!」
いつもの、明るい笑顔だった。でも藍には、その笑顔が前とは少し違って見えた。初めて会った頃のきららなら、きっと自分だけでどこまでも走っていった。速くて、眩しくて、とても追いつけないと思っていた。けれど、きららは立ち止まってくれた。待ってくれた。同じ速さで歩いてくれた。そして最後は一緒にここまで来た。
「……泣きすぎじゃない?」
きららが少しだけ困ったように笑う。
「誰のせいだと思ってるの」
「えっ、私!?」
「他に誰がいるの」
「ご、ごめん!」
「何で謝るの」
「だって!」
「ほんと、きららって……」
藍は涙を拭いながら、小さく笑った。
その時だった。
「あっ!」
咲音の声がした。
「きらら先輩! 空!」
「え?」
きららが振り返る。
広場にいた人々が、一人、また一人と空を見上げていく。いつの間にか、夕暮れは深まっていた。西の端にはまだ淡い橙色が残っている。けれど頭上には、藍色の夜が広がり始めていた。その境目を、一筋の光が走った。
「流れ星!」
誰かが叫んだ。続いて、もう一つ。さらに一つ。
「わ……」
きららが息を呑む。
一つ。
二つ。
三つ。
数える間もなく、光が夜空を駆けていく。
流星群だった。細い光が幾筋も尾を引き、くじら島の空へ降り注いでいく。広場から歓声が上がった。
「すごい……!」
咲音が両手を胸の前で組む。優斗も空を見上げていた。
「こんなの、聞いてねえぞ……」
「わたくしだって知りませんわよ!」
そう答えた海夜璃の声も、いつもの余裕を少し失っている。
きららは言葉もなく空を見つめていた。その時、流星の光が、ふっと弱まった。いや、違う。空の中央に、別の光が生まれていた。
「……あれ」
誰かが呟いた。星々の光が集まっていく。淡い輝きは次第に輪郭を持ち、夜空いっぱいに大きな人影を描き始めた。
長い髪、星々を纏う衣。慈しむように地上を見つめる瞳。
「……女神様」
広場のどこかから、震える声が聞こえた。きららの心臓が、大きく鳴った。
星の女神。七月、夏の夜空に響いたその声の主が、冬の空に幻想的に、姿を現した。
広場から声が消えていく。誰もが空を見上げていた。やがて空から、澄んだ声が降りてきた。
『地上に生きる、願いを抱く者たちよ』
きららは息を止める。
『その声をもって、人の心に寄り添い
その歌をもって、願いを繋ぎ
星々の煌めきを地上へ届ける者——』
女神の周囲で、星が瞬いた。
『新たなる煌星の天使を、ここに選びましょう』
「……!」
きららの胸が跳ねた。周囲がざわめき始める。海夜璃の表情も変わった。優斗も空から目を離さない。そして、女神の両手の間に小さな光が生まれた。
星のように輝く、ひとつの燈。
——星の燈。
きららは目を見開いた。光はゆっくりと女神の手を離れる。夜空から地上へと。
流星の中を、ひとつの星が翔けた。
「誰のところへ……」
誰かの呟きが聞こえた。きららも、ただ見ていた。
「……え?」
ポンッと、きららの目の前に小さなランタンが現れる。
琥珀色の瞳に、星の光が映った。
「…………私?」
思わず、自分を指差した。
「お前以外に誰がいるんだよ」
優斗の声がした。
「えっ」
振り返る。優斗が笑っていた。
「よかったな、きらら」
「……優斗」
「きらら先輩!」
咲音が駆け寄ってくる。
「すごいです! きらら先輩、本当に……!」
「咲音ちゃん……」
咲音の目には、今にも涙が浮かびそうだった。きららはまだ信じられず、もう一度星の燈を見る。
「本当に、私……?」
「いつまで呆けていますの?」
海夜璃だった。
「海夜璃……」
海夜璃は腕を組んでいた。口元はいつものように自信に満ちている。けれど、
「……悔しいですわ」
ぽつりと言った。
「え?」
「悔しいに決まっているでしょう! わたくしだって煌星の天使を目指しているんですのよ!」
「あ……」
「けれど」
海夜璃はきららを見る。ピンク色の瞳が、まっすぐだった。
「やはり、わたくしがライバルとして認めているだけはありますわね」
「……海夜璃」
「勘違いなさらないで。これでわたくしがあなたより下だと認めたわけではありませんわ」
「うん」
「次に歌う時、腑抜けた歌を歌ったら承知しませんからね」
「うん!」
「……ですから」
海夜璃は、ほんの少しだけ目を細めた。
「おめでとうございます、きららさん」
きららの喉が詰まった。
「……ありがとう!」
星の燈が、きららの前で揺れている。触れていいのか分からない。困って翠簾野を見ると、翠簾野は何も言わず、ただ穏やかに頷いた。
きららは、おそるおそる手を伸ばした。指先が、光に触れる。温かかった。
「……あ」
星の燈が、ふわりと輝きを増す。手のひらの中へ光が集まり、きららの周囲へ小さな星の粒が舞い上がった。
流星群はまだ降り続いている。空には星の女神。目の前には、自分を選んだ星の燈。ずっと夢だった。煌星の天使になりたい。そのために、もっと歌が上手くなりたかった。誰よりも綺麗に、誰よりも遠くまで。
けれど今、きららの胸に浮かんだのは――さっきの拍手だった。足を止めてくれた、知らない人たち。笑ってくれた人。そして、
「藍ちゃん」
きららは振り返った。藍は泣いた跡を残したまま、笑っていた。
「……おめでとう、きらら」
「……うん!」
その瞬間、星の女神の姿が少しずつ星の光へほどけ始めた。長い髪も衣も、優しい瞳も。無数の煌めきへ 変わって、夜空へ戻っていく。やがて空には、流星だけが残った。
きららは星の燈を両手で包む。小さな光なのに、不思議なくらい温かい。顔を上げた。
幾筋もの星が、夜空を渡っていく。あの光の一つ一つにも、誰かの願いがあるのだろうか。
叶わなかった願い。まだ名前のない願い。誰にも言えないまま、胸の奥にしまわれている願い。それでも、いつか誰かが見つけるかもしれない。誰かが手を伸ばすかもしれない。そして、いつの日か、歌になるかもしれない。
「……きれい」
きららが呟く。
「うん」
隣で藍が答えた。
優斗も海夜璃も、咲音も翠簾野先生も。広場にいる人たちも。みんな同じ空を見上げている。
きららは星の燈を胸元へ寄せた。まだ知らないことが、たくさんある。まだ会ったことのない人もいる。まだ聞いたことのない願いも。まだ歌ったことのない歌も。きっと、たくさんある。
だったら。これからも歌いたい。上手く歌うためだけじゃない。誰かの心へ、誰かの願いへ。自分の声が届く、その日まで。
きららは笑って、星降る空を見上げた。その瞳の中で、無数の煌星がいつまでも輝いていた。
――完――
最後までお読み頂きましてありがとうございました!
以前に別サイトにて投稿した作品となりますが、今まで書き物なんてした事がなかったのにノリと勢いで書いた物語でした。処女作を修正、分割してこちらでも投稿させて頂きました。
キャラクター画像はXにて公開しております。ご覧頂けますととても喜びます(*´∀`*)
私は翠簾野先生推しです笑。格好良すぎてもしかしたら番外編書くかも知れない…。
それでは、最後になりましたが、本当に、ここまでご愛読頂いた皆様に感謝を申し上げます。ありがとうございました!




