デュエットしましょう、そうしましょう
八月に入った。くじら島ではまだ夏の気配が濃く、朝から容赦のない陽射しが学園の白い校舎を照らしている。窓の外では蝉が声を張り上げ、開け放たれた窓から入り込む風も、どこか生温かい。
昼休みに二年C組の教室へ戻ってきた優斗は、自分の席に着こうとして足を止めた。
「……なんだ、これ」
教室の隅で、古びた楽譜集が山のように積み上げられている。一冊や二冊ではない。教室の1/4ほどを占領するかという本の山から、一冊を引き抜こうとしている青い頭だけが見えていた。
「んー……これも違う!」
きららだった。抜き取った楽譜集を開き、ぱらぱらとページをめくっては、別の本へ手を伸ばしている。
「おい」
「ん?」
ひょこっと顔を出したきららを見て、優斗は積み上げられた本へ視線を戻す。
「空き巣の方が、まだましだな」
「どういう意味!?」
「散らかし方の話だ」
「ちゃんと片付けるよ!」
「最後にな」
「もちろん!」
「それは片付けない奴が言うんだよ」
きららはむっと頬を膨らませた。
「ちゃんと目的があって探してるの!」
「何を?」
「昨日のおじいさんの歌!」
「ああ、白石が気に掛けてる爺さんか」
「そう!」
きららは再び楽譜へ顔を近づける。
「藍ちゃんがね、昔の曲で、喫茶店でもよく流れてたって教えてくれたんだ。それに——」
指で楽譜を追っていた手が、ぴたりと止まった。
「……あ」
「どうした?」
「あった」
次の瞬間。
「見つけたーっ!」
きららが勢いよく立ち上がった。
「近い近い。聞こえてる」
「優斗、これ!」
開いた楽譜を目の前に突き出され、優斗が少し仰け反る。
「昨日の歌! これだよ!」
「俺は聞いてないから知らん」
「あ、そっか」
「そこからかよ」
きららは気にした様子もなく、譜面を食い入るように見つめる。
「藍ちゃんの言ってた通りだ……」
「何が?」
「デュエット曲!」
その声に、近くの席で本を読んでいた海夜璃が顔を上げた。
「先ほどから何を騒いでいますの!?隣の教室まで聞こえてましてよ!?」
「海夜璃、見て!」
「だから近いですわ!」
海夜璃は押しつけられそうになった楽譜を受け取り、桃色の瞳を譜面へ落とした。
「……確かに、男女でパートが分かれていますわね」
「でしょ!」
「それで昨日のおじいさん、二人分を一人で鼻歌にしてたんだと思う!」
優斗も横から覗き込む。
「だから途中で音程が変わって聞こえたってことか」
「多分!」
「なるほどな」
楽譜には、男女が交互に言葉を交わし、やがて二つの声が重なっていく構成が記されている。歌われているのは、若い男女がこれからの人生について語り合う、素朴な恋の物語だった。そして、その中に何度か現れる言葉がある。
「……約束」
きららが小さく読み上げ。優斗が楽譜を見る。
「爺さん、何か言ってなかったか?」
「え?」
「港に来る理由は分からない。でも喫茶店とか、誰かと景色を見たとか、少しずつ思い出してるんだろ?」
「うん」
「だったら、その歌も何か関係あるかもしれないな」
きららの琥珀色の瞳が輝いた。
「私もそう思う!」
「なら、一回ちゃんと歌って聞かせてみれば?」
「それだ!」
「うおっ」
きららが勢いよく優斗の両肩を掴む。
「優斗、天才!」
「分かったから揺らすな!」
「よーし!」
きららは楽譜を抱えると、もう教室の扉へ向かっている。
「咲音ちゃん探してくる!」
「おい、もうすぐ昼休み終——」
ばたん!
扉が閉まった。
「……聞いてねえ」
優斗の呟きに、海夜璃は呆れたように長い息を吐いた。
「相変わらず、思いついたら一直線ですのね」
「止めても無駄だからな」
「あなたはストッパー役ではありませんの?」
「ブレーキが壊れてる奴をどう止めろってんだ」
海夜璃が思わず苦笑した。
「私が、ですか?」
放課後、合唱部の練習が始まる前の音楽室で、咲音は困ったように目を瞬かせた。
「うん!」
きららが譜面台へ楽譜を広げる。
「一緒に歌おう!」
「む、無理です」
「即答!?」
「だって、きらら先輩と二人でデュエットなんて……!」
咲音は肩までの薄桃色の髪を揺らしながら、ぶんぶんと首を横に振る。
「私、きらら先輩みたいに歌えません」
「私みたいに歌わなくていいよ?」
「そういう問題じゃなくて……」
咲音はすっかり困り果てている。
「二人で歌うんですよね? だったら私が失敗したら、きらら先輩にも迷惑が……」
「うーん」
きららが腕を組んだ。そして、音楽室の後ろで壁にもたれていた優斗を見る。
「じゃあ、優斗歌う?」
「俺が歌うように見えるか?」
「見えない!」
「なら聞くな」
「えー。ちょっとくらいいいじゃん」
「嫌だ」
「一緒に歌おうよー」
「絶対嫌だ」
「鮎喰先輩、歌わないんですか?」
咲音が尋ねると、優斗は真顔で答えた。
「歌わない」
「そこまで……」
「ほらぁ。優斗が歌ってくれないから、咲音ちゃんしかいない!」
「結局そこに戻るんですか!?」
「お前、あんまり白石を追い詰めるなよ」
「追い詰めたのは優斗だよ!」
「俺かよ」
優斗が呆れたように言う。
それから、少しだけ表情を緩めた。
「別に完璧じゃなくていいんじゃないか?」
咲音が優斗を見る。
「爺さんに聞かせたいんだろ?」
「……はい」
「だったら、それでいいだろ」
きららも大きく頷いた。
「そうそう!」
そして咲音の両手を握る。
「上手に歌うためじゃないよ。おじいさんに聴いてもらうんだから!」
「きらら先輩……」
「咲音ちゃんの声で歌えばいいんだよ」
咲音は手元の楽譜へ目を落とした。少し怖い。自信なんて、やっぱりない。けれど、この歌を口ずさんだ時の老人の表情を思い出す。
喫茶店、コーヒー、誰かを思い出そうとして、ほんの少しずつ現れてきた、遠い記憶の欠片。
「……分かりました」
咲音は顔を上げた。
「私、歌います」
「やった!」
「ただし、ちゃんと練習させてください!」
「もちろん!」
しばらく、音楽室に二人の歌声が響く。合唱部なだけあって、楽譜を読むだけで、二人の音程は完璧に聞こえた。間違いがあったとしても、素人にはわからないレベルだろう。優斗は音楽に関心がある方ではないが、それでも二人の歌を聞いて、素直に上手いと思っていた。
何度か歌い終わり、きららが拳を上げる。
「よーし! じゃあ明日、おじいさんに聴いてもらおう!」
「明日ですか!?」
「明日から夏休みだし!」
「今日練習を始めたばかりですよ!?」
「大丈夫、大丈夫!」
「きらら先輩の『大丈夫!』は禁止です」
「えっ!?」
後ろから優斗が吹き出した。
「白石、分かってきたな」
「優斗まで!」
咲音の困り顔をよそに、きららはもう最初の音を取っている。開け放たれた窓の向こうで、夏の青空が少しずつ夕方の色へ傾いていた。また、二人の歌声が重なる。何十年も昔、この島のどこかで流れていた歌。今では知る者も少なくなった旋律が、久しぶりに若い二人の声を得て、音楽室を満たしていった。
翌日の午前十時。すでに陽射しは強く、石畳には白い光が照り返している。街路樹からは蝉の大合唱が降り注ぎ、港へ近づくにつれて、潮の匂いが濃くなっていった。
「暑っ……」
優斗が額の汗を手の甲で拭う。
「まだ十時だぞ」
「夏だもん!」
「答えになってねえ」
隣を歩くきららは楽しそうだった。白い半袖のブラウスに、水色のスカート。足元には歩きやすいサンダルを履いている。そして、いつも高い位置で結んでいる髪も今日は下ろしていた。つむじ付近の鮮やかな青から、腰へ向かうにつれて透き通った水色へと変わる長い髪が、歩くたび背中でさらさらと揺れる。
「きらら先輩、今日は髪、結ばないんですね」
「うん。休みだし!」
「暑くないのか?」
「暑い!」
「じゃあ結べよ」
「今日は下ろしたい気分なの!」
「はいはい」
三人の声が、夏の港へ響く。やがて、いつもの防波堤が見えてきた。
老人は今日もそこにいた。いつものように海を眺めながら、ぼんやりと座っている。
「おじいさーん!」
きららが手を振った。老人が振り返る。
「おお……咲音ちゃん」
「こんにちは」
咲音が嬉しそうに笑う。
「今日はお友達も連れてきました」
「鮎喰優斗です。こんにちは」
「これはこれは」
老人は穏やかに頭を下げる。
「賑やかじゃのう」
「今日はね、おじいさんに聴いてほしいものがあるんだ!」
「わしに?」
「うん!」
きららと咲音が顔を見合わせる。優斗は少し離れた場所に腰を下ろした。
「俺は観客な」
「ちゃんと拍手してよ!」
「上手かったらな」
「そこは無条件でしょ!」
「なんでだよ」
咲音がくすりと笑った。老人もつられるように笑う。
「仲がええのう」
「腐れ縁です!」
「それは俺のセリフだ」
「ほら、始めますよ、きらら先輩」
「はーい!」
きららは老人の前に立った。その隣に咲音が並ぶ。海から、ひときわ強い風が吹いた。きららの長い髪がふわりと舞い上がる。濃い青から淡い水色へと移ろう髪が、夏の陽射しを受けてきらきらと輝いた。背後には、どこまでも続く青空。その下には、光を砕きながら揺れる海。
老人が、わずかに目を細めた。
——誰か。一瞬だけ。
遠い昔にも、こんなふうに風の中で笑っていた誰かがいたような気がした。
咲音が息を吸う。きららも目を閉じた。そして二人の歌声が、夏の港に流れ始めた。
懐かしい旋律だった。老人の指先が、微かに動く。知っている。この歌を知っている。いつ、どこで、誰と——。
まだ分からない。けれど、胸の奥がざわめいている。
若い二人の歌声が交互に重なる、遠い未来を語り合う男女の姿。何も持っていない青年と、それでも隣にいると笑う娘。そして歌の中に、その言葉が現れた。
——約束。
老人の目が見開かれた。
『じゃあ、約束ですよ』
声がした。潮騒が遠ざかり、目の前の景色が揺らぐ。青い髪をなびかせながら歌うきららの向こうに、一人の女性の姿が重なった。




