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懐かしい旋律

 潮風が、放課後の坂道をゆっくり吹き抜けていく。校門を出たきららは、大きく伸びをした。

「よーし! 今日こそ港へ行こう!」

「はい」

 隣で咲音が優しく微笑む。

「昨日は一緒に行けなくてごめんね」

 きららは申し訳なさそうに頭をかいた。

「気にしないでください」

 咲音は首を横に振る。

「昨日、おじいさんが私の名前を呼んで下さったんです」

 きららは目を輝かせた。

「すごいじゃん!」

「はい。初めて、覚えてもらえました」

 咲音は嬉しそうに頷く。きららは自分のことのように喜んだ。

「少しずつだけど、ちゃんと前に進んでるんだね」


 二人は港へ向かって歩き出した。夕方のくじら島は、どこか穏やかな時間が流れている。漁船が岸へ戻り、カモメが空を旋回していた。

港へ着くと、老人はいつものベンチに腰掛け、静かな海を眺めていた。


「こんにちはー!」


 きららが元気よく手を振る。老人はゆっくり振り返った。

「ああ……」

 目を細める。

「咲音ちゃん」

 その一言に、咲音はぱっと表情を明るくした。

「こんにちは」

「今日も来ました」

「うむ」

 老人は優しく笑う。

「また来てくれたんじゃな」

「はい」

 咲音は嬉しそうに頷いた。きららは思わず声を弾ませる。


「すごーい! 本当に覚えてる!」

 老人は少し困ったように笑う。

「名前は分かるんじゃが……」

「昨日だったか、一昨日だったか…それはようわからん」

 咲音は静かに首を振った。

「それで十分です。今日もお話ししましょう」

「そうじゃな」

 三人はベンチに腰を下ろした。潮風が心地よく吹き抜け、波の音だけが耳に届いている。


「今日もよく晴れていますね」

 咲音が海を見つめながら言う。

「夏だからね!」

 きららも空を見上げる。

「海も気持ちよさそう」

 老人もゆっくり頷いた。

「海はええ。毎日見ても飽きん」

「分かります」

 咲音が微笑む。

「見ているだけで落ち着きますよね」

「うむ」

 老人は海を眺めたまま、小さく鼻歌を歌い始めた。

 穏やかな旋律だった。

 どこか懐かしく、夕暮れの海によく似合う優しいメロディー。きららは耳を澄ませる。

「いい曲」

 咲音も頷いた。

「初めて聞きました」


 老人は歌うのを止め、不思議そうに首をかしげる。

「……なぜかの。つい口遊んでしまうんじゃ」

「覚えていないんですか?」

 咲音が尋ねる。

「うむ」

 老人は少し考え込む。

「どこで聞いた歌だったか……」

「コーヒーを飲みながら……」

 老人は目を細める。

「よう流れとった。そうじゃ……喫茶店でいつも流れとった気がする」

 そこまで話すと、また首をかしげた。

「でも、その先は思い出せんなぁ」

 きららは嬉しそうに笑う。

「でも、喫茶店って思い出せた!」

「前より一つ増えたね!」

 老人は照れくさそうに笑う。

「そうなんかのぅ」

「そうですよ。」

 咲音も優しく頷いた。

「少しずつでいいんです」

「思い出せたことが嬉しいです」

 老人は照れたように頭をかいた。

「ありがとう」


 三人はそのまま他愛もない話を続けた。今日の天気や港に停まる船、島で獲れた魚の話。笑い声が何度も波音に重なる。夕日が少しずつ傾き始めたころ、老人はゆっくり立ち上がった。


「もう帰る時間じゃな」

「はい」

 咲音も立ち上がる。

 老人は少しふらつき、きららが自然に腕を支えた。

「ありがとう」

「どういたしまして!」

 三人は港の入口までゆっくり歩く。

 別れ際、老人は二人の顔を見て、穏やかに笑った。

「今日は楽しかったのう」

 その言葉に、咲音も笑顔になる。

「私もです」

「また来ますね」

 老人はゆっくり頷いた。

「おぉ、また来てくれるか」

「もちろん!」

 きららが元気よく答える。

「約束!」

 老人はその言葉を口の中で繰り返した。

「約束……」

 少しだけ目を細める。

「ええ言葉じゃ」


 夕暮れの海に、穏やかな笑顔が溶けていく。

 老人の背中を見送りながら、きららはふと、さっきの鼻歌を口ずさんだ。

 曲名は分からない。

 けれど、どこか心が温かくなる歌だった。


「藍ちゃんなら、知ってるかな……」

 何気なくこぼれたその一言が、もう一つの物語へと繋がることになる。


 咲音と別れたきららは、防波堤沿いの道をゆっくり歩いていた。潮風が頬を撫でるたび、さっき老人が口ずさんでいた鼻歌が自然と浮かんできた。

「……音、少し違う」

 聞き慣れない旋律だからだろう。何度歌っても、どこか曖昧だった。


「きらら」

 聞き慣れた静かな声に顔を上げる。

「あ、藍ちゃん!」

 防波堤の先。藍はいつものようにノートを膝に置き、海を眺めていた。

「こんばんは?」

「こんばんは!」

 きららは駆け寄り、隣へ腰を下ろす。

 少し前までなら気まずい沈黙が流れていたかもしれない。

 でも今は違う。

 二人とも、それが当たり前のように隣へ座っていた。


「今日も書いてるの?」

「うん」

「進んだ?」

 藍は少しだけ考え、

「……少しだけ」

と答えた。

「おっ、昨日より前進!」

 きららが笑う。藍も小さく笑みを浮かべた。


「そういえばね」

 きららは思い出したように切り出した。

「今日、おじいさんが鼻歌を歌ってたんだ」

「鼻歌?」

「うん」

 きららは覚えている限りの旋律を口ずさむ。

 藍の手が止まった。視線だけが静かに海へ向く。

「……その曲」

「知ってる?」

「うん」

 藍はゆっくり頷いた。


「昔の歌。おばあちゃんが好きだったから、家で時々流れてたよ。歌詞までは、覚えてないけど」

「へぇ!」

 きららは目を輝かせる。

「やっぱり有名な曲なんだ! 昔は喫茶店でもよく流れてたって言ってたの」

 藍は少し懐かしそうに微笑む。

「結婚式で使う人も多かったって、おばあちゃんが言ってた」

「そうなんだ! だからおじいさんも聞いてたのかも」

きららはもう一度、覚えている旋律を口ずさんでみる。

 すると藍が、わずかに眉を寄せた。


「……きらら」

「ん?」

「さっきから思ってたんだけど、それ、たぶん二人分混ざってる。」

「二人分?」

「うん。この曲、確かデュエット曲だったと思う」

 きららは目を丸くした。

「デュエット!?」

「男女で交互に歌うところがあったはず。きららが覚えてきたの、途中で旋律が変わってるから……たぶん、おじいさんが二人分を一緒に口ずさんでたんじゃないかな」

「だから途中からよく分かんなくなったんだ!」

「たぶんね」

 きららは納得したように何度も頷いた。

「そっかぁ。二人で歌う曲なんだ……」

 二人はしばらく夕暮れの海を眺めた。


 風がノートのページを一枚めくる。

「ねぇ」

 きららが身を乗り出した。

「その曲みたいな歌詞、一緒に考えてみない?」

 藍はきょとんとする。

「きららが?」

「うん!」

「……歌詞、書いたことあるの?」

「あるよ!」

 自信満々の返事だった。

「本当に?」

「小学生の時!」

 藍は少し興味を持ったようだった。

「どんな歌詞?」

 きららは胸を張る。

「聞きたい?」

「……うん」


 きららは咳払いを一つすると、得意げに歌い始めた。

「お魚さんもこんにちは〜」

 藍は静かに聞いている。

「お空の鳥もこんにちは〜」

 まだ止まらない。

「みんな笑って、いい天気〜!」

 歌い終えたきららは満足そうに笑った。


「どう?」


 藍はしばらく黙っていた。

「…………」

「…………」

 やがて小さく息を吐く。

「……すごく、きらららしい」

「やった!」

 きららが喜ぶ。藍は続けた。

「でも」

「うん?」

「その才能は、歌だけに使って」

 一瞬の沈黙。


「えぇぇーーっ!?」


 きららは思わず立ち上がった。

「ひどい!本気で考えたのに!」

 藍は肩を震わせ、声を上げて笑っていた。

「藍ちゃん笑った!」

「……ごめん」

「でも」

 まだ笑いをこらえながら、

「歌詞じゃなくて、日記みたい」

「えー!」

「こんにちはしか言ってない」

「そこが可愛いんじゃん!」

「そうなの?」

「そうだよ!」


 二人は顔を見合わせる。次の瞬間、どちらからともなく笑い声が重なった。夕暮れの海へ、その笑い声が溶けていく。しばらく笑ったあと、藍はノートを開き直した。

 ペンを持ち、さらさら、と一行だけ文字を書き加える。


「進んだ?」

 きららが覗き込もうとすると、

ぱたん、と藍はノートを閉じた。

「まだ秘密」

「えぇー!」

「ちょっとだけ!」

「だめ」

「一文字だけ!」

「だめ」

「『あ』だけでも!」

「それじゃ何も分からない」

「じゃあ『あお』!」

「もっと分からない」

 また笑いがこぼれる。


「完成したら見せる」

 藍はそう言ってノートを抱えた。

「約束?」

「……うん」

 その一言だけだった。けれど、きららには十分だった。

「楽しみにしてる!」

 藍は照れくさそうに海を見る。夕日がすっかり水平線へ沈み、空には一番星が小さく輝いていた。きららも空を見上げる。


「今日はいい日だったなぁ」

「おじいさんが歌を思い出して。藍ちゃんは歌詞が進んで。私は……」

 少し考えてから笑う。

「歌詞の才能がないって分かった!」

 藍は吹き出した。

「それは前からじゃない?」

「えっ、そんな! ひどい!」

 抗議するきららに、藍はくすくすと笑う。その笑顔は、初めて会った頃よりずっと柔らかかった。きららはそんな藍を見て、自然と笑みを浮かべる。


(笑ってる顔の方が、ずっと素敵だ)


 そんなことを思いながら。潮風に乗って、どこからかあの懐かしい鼻歌が聞こえてきたような気がした。それはきっと、誰かの大切な思い出を乗せた、小さなメロディー。まだ名前も知らないその歌は、少しずつ、静かに三人の物語を結び始めていた。

 夕暮れから夜へ変わる海を背に、きららと藍は並んで歩き始める。その歩幅は、昨日よりほんの少しだけ近づいていた。




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