風が運ぶもの
夏休みまで、あと二週間。くじら島には今日も澄み渡る青空が広がっていた。港へ吹き抜ける潮風は心地よく、波はゆっくりと防波堤へ寄せては返す。その穏やかな音は、まるで島全体が静かな子守歌を歌っているようだった。
朝早くのくじら学園の屋上では、まだ生徒の姿もまばらな校舎に一人の少女の歌声が響いていた。青波きららだった。両手を軽く胸の前で重ね、深く息を吸い込む。空へ向かって放たれた歌声は、朝日に照らされた雲の向こうまで届きそうなくらい澄んでいる。最後の音を伸ばし終えると、小さく息を吐いた。
「今日はここまでにしましょう」
後ろから穏やかな声がした。振り返ると、翠簾野先生が優しく微笑んでいた。
「先生、おはようございます!」
「おはようございます、きららさん」
先生は屋上の手すりまで歩き、海を眺める。
「少し高音に力みがありますね」
「あー……やっぱりですか」
「焦っていますか?」
きららは少し照れくさそうに笑った。
「……少しだけ」
先生は小さく頷いた。
「歌は競争だけではありません」
きららは先生を見る。
「歌は誰かへ届いて初めて意味を持ちます。技術だけを追い求めると、その歌は次第に心を失ってしまいます」
「心……」
「きららさんの歌の一番の魅力は、聴いている人が笑顔になることです」
その言葉に、きららは目を丸くした。
「自分では気付いていないかもしれません。でも、それは簡単に身につく才能ではありませんよ」
朝風が二人の間を通り抜ける。きららは海を見つめながら、ゆっくり頷いた。
「はい。私、自分の歌を信じてみます」
翠簾野先生は満足そうに微笑んだ。
昼休み、教室を出ようとしたきららのもとへ、一人の生徒が駆け寄ってきた。
「青波さん。翠簾野先生が今日の授業が終わったら、音楽室に来てほしいって」
「え?今日?」
「うん。少し話があるって」
きららは時計を見上げ、小さく息をのむ。
「えぇ……」
港へ行く約束の時間に間に合わない。
「咲音ちゃん!」
きららは慌てて駆け寄った。
「ごめん! 今日の放課後先生に呼ばれちゃって……すぐ終わると思うんだけど……」
申し訳なさそうに肩を落とすきららに、咲音は優しく微笑む。
「大丈夫ですよ」
「でも、今日も一緒に行くって約束したのに……」
咲音は小さく首を横に振った。
「きらら先輩は先生のお話を聞いてきてください」
「……本当に?」
「はい。今日は私、一人でおじいさんに話しかけてみます」
その言葉に、きららは少し驚いた。
「一人で?」
「今までも、何度か一人でもお話しはした事はあるので…」
少し照れくさそうに笑う。
「きらら先輩みたいに、面白いお話しはできませんが、私も頑張ってみます」
きららはその笑顔を見つめると、安心したように大きく頷いた。
「分かった! 終わったらすぐ港に行くね!」
「はい。気をつけて」
放課後、港ではいつものように老人が海を眺めていた。
「こんにちは」
咲音が声を掛ける。老人は振り向き、少し考えてから笑った。
「おお……咲音ちゃん」
「覚えていてくれたんですね」
「今日は忘れんように朝から何回も唱えとったんじゃ」
「ふふっ」
思わず笑みがこぼれる。昨日は忘れられた。でも今日は違う。思い出そうとしてくれていた。その気持ちだけで十分だった。
「今日はどこへ行きましょうか」
「咲音ちゃんに任せるよ」
「じゃあ……丘へ行きませんか?」
「丘?」
「港が一番きれいに見える場所なんです」
「それは楽しみじゃ」
二人はゆっくり歩き始めた。石畳の道を抜け、小さな花壇の前を通る。黄色い花が風に揺れ、蜜を集める蝶が舞っていた。少し歩くと、焼きたての香りが流れてくる古いパン屋の前で、ふと老人が立ち止まった。
「どうしました?」
「……この匂い」
目を閉じる。
「美味しそうな、匂いじゃな…」
咲音は静かに待った。
「昔……」
老人の眉がわずかに動く。
「食べたことがある気がする」
「誰かと一緒にですか?」
「……分からん」
申し訳なさそうに笑う。
「また思い出せんかった」
咲音は首を横に振った。
「でも、今日は『昔食べたこと』まで思い出せました」
「そうかの」
「昨日より一歩前です」
老人は驚いたように咲音を見る。
「咲音ちゃんは不思議じゃ」
「え?」
「わしは何も思い出せんと思っとった」
「違います」
咲音は優しく笑った。
「少しずつ増えています」
「少しずつ……」
老人はその言葉を何度か口の中で繰り返した。
二人は丘へ続く坂を登る。少し息が上がる頃、視界が一気に開けた。
「わあ……」
眼下にはくじら島の港。青い海、白い帆船、遠くを飛ぶカモメ。すべてが夕日に照らされ、黄金色へ染まり始めていた。老人は景色を見たまま動かない。風だけが白髪を揺らしていた。
「……ここ」
ぽつりと呟く。
「ええ景色じゃの。懐かしい感じがするわい」
咲音は息を呑む。
「本当ですか?」
「ああ……」
老人の目が少し潤んでいる。
「誰かと……」
また、その言葉だった。ゆっくり目を閉じる。
「誰かと一緒に見た気がするんじゃが…」
胸の奥が熱くなる。
「ご家族とかですか?」
「……」
返事はない。老人は必死に記憶を探っている。
「優しい声だった気がする」
その一言だけが風に溶けた。咲音は何も聞かなかった。無理に思い出させてはいけない。今は、この一歩を大切にしたかった。
帰り道、老人は鼻歌を歌っていた。音程は少し外れている。けれど、とても楽しそうだった。
「何の歌ですか?」
「分からん」
「え?」
「気付いたら口ずさんどった」
二人は顔を見合わせ、思わず笑う。
「きっと昔好きだった歌ですね」
「そうかもしれんな」
その笑顔は、今日一番穏やかだった。
先生との話を終えたきららは、急いで学校を飛び出した。
「遅くなっちゃった……」
港へ続く坂道を駆け下りる。潮風が頬を撫で、夕暮れの空が海を淡い橙色に染めていた。
「咲音ちゃんたち、まだいるかな」
港へ着いた時には、老人の姿も咲音の姿もなかった。
「帰っちゃったかぁ……」
少し肩を落とした、その時だった。向こうの防波堤の近くに、藍が立っているのが見えた。
「藍ちゃん!」
きららは嬉しそうに駆け寄る。藍は一瞬驚き、振り返った。
「きらら……」
「昨日、ごめんね! ちゃんと来たんだけど、会えなかった。」
藍は小さく首を横に振った。
「知ってる。」
「え?」
「灯台のおじさんが教えてくれた」
その一言で、きららの表情がぱっと明るくなる。
「よかったぁ……約束、守れなかったって思われたかと思った」
「そんなこと、思ってない」
藍は穏やかに答え、手にしていたノートを開いた。きららは隣へ腰を下ろす。
「今日も書いてるんだ」
「……うん」
「昨日の続き?」
藍はページを見つめたまま、小さく頷く。
「なかなか続きを書けなくて」
きららは海へ目を向ける。
「海を見ながら考えると、何か思いつくの?」
「そういう日もある」
「じゃあ今日はどう?」
藍は少し考え、ふっと笑う。
「今日は……全然」
「そっかぁ」
きららもつられて笑った。
「じゃあ、一緒に考えようか!」
その言葉に、藍は思わず吹き出す。
「ふふっ。歌詞って、そんな簡単にできるものじゃないよ。」
「えぇー? そうなの?」
首をかしげるきららを見て、藍はもう一度小さく笑う。その笑顔を見たきららも、なんだか嬉しくなって笑い返した。夕暮れの海を渡る風が、二人の間を静かに吹き抜ける。波の音に耳を澄ませながら、藍はゆっくりとペンを動かし始めた。




