老人とJKと苦かった珈琲
翌日の放課後。昨日と変わらず、くじら島には夏の太陽が容赦なく照りつけていた。
青々と茂った街路樹からは、降り注ぐ日差しに負けじと蝉の声が響いている。幾重にも重なる鳴き声は、坂道を歩いているだけで頭の奥まで熱くなりそうなほどだった。白い石造りの家々の間を抜けて坂を下っていけば、やがて潮の香りを含んだ風が頬を撫でていく。昨日と同じ道。昨日と同じ夏空。
「……いました」
坂の途中で、白石咲音が足を止めた。その視線の先に、港の外れに置かれた古びた木のベンチに、一人の老人が腰を下ろしていた。両手を膝の上に置き、少し丸くなった背中をこちらへ向けている。そして昨日とまったく同じように、ただ静かに青い海を眺めていた。
「ほんとだ」
きららが目を丸くする。
「昨日、今日も来るか分からないって言ってたのに」
「本人が覚えてなくても、毎日やってることなら身体が覚えてるのかもな」
隣を歩いていた優斗が、額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら答える。
「身体が?」
「ほら。毎朝同じ時間に起きるとか、考えなくてもいつもの道を歩くとかあるだろ」
「なるほど!」
「……今の説明で本当に分かったのか?」
「分かったよ!」
「じゃあ説明してみろ」
「身体がこう……勝手に、えいって!」
「絶対分かってねえだろ」
「分かってるってば!」
二人のやり取りを聞きながら、咲音が小さく笑った。昨日までなら老人の姿を見つけた瞬間、胸の奥には「今日もいる」という不安ばかりが広がっていた。けれど今日は少し違う。隣にはきららと優斗がいる。それだけで、昨日までどうすればいいのか分からなかったことにも、もう少しだけ向き合えるような気がした。
三人は港へ向かって歩き出した。岸壁では漁を終えた小さな船が何艘も揺れている。網を片づける船員たちの声、荷車が石畳を転がる音、頭上を飛び交う海鳥の鳴き声。それらに混ざって、波が岸壁へぶつかる音が一定の間隔で聞こえてくる。
夏の海は昨日よりも青かった。陽光を浴びた水面は空色に輝き、遠くへ行くほど青が深くなって、水平線の近くでは群青へと変わっている。
「こんにちは」
咲音が老人へ声をかけた。老人はゆっくりと振り返る。
「……おお」
それから咲音の顔をじっと見つめた。
数秒。
咲音は何も言わずに待った。
「あの……昨日もお話しした、白石です」
「白石……」
老人がその名前を口の中で転がす。やがて、申し訳なさそうに眉を下げた。
「すまんなぁ。どうも最近、人の顔や名前を覚えるのが苦手でな」
「あ……」
分かっていた。こういうこともあるかもしれないと。それでも実際に言われると、胸の奥がほんの少しだけ痛んだ。
「大丈夫です」
咲音は微笑んだ。
「また覚えてもらえばいいですから」
老人が目を細める。
「そうかい」
「はい」
「優しい子じゃな」
その言葉に、咲音は一瞬だけ目を見開いた。昨日も似たようなことを言われた気がする。覚えてはいない。それでも目の前にいる自分を見て、この人はまた同じように笑ってくれた。
「今日はですね」
咲音は老人の隣へ腰を下ろした。
「少しだけ、一緒に歩いてみませんか?」
「歩く?」
「はい」
老人が不思議そうに首を傾げる。
「どうしてじゃ?」
「それは……」
咲音は言葉に詰まった。
——あなたが、どうして毎日ここへ来るのか知りたいから。
そう言えばいいのだろうか。けれど、それでは自分たちが知りたいだけのような気もした。
老人自身が思い出したいと願っているのか、それすら、咲音には分からない。すると、
「散歩!」
後ろから、きららが顔を出した。
「散歩しませんか?」
「散歩か」
「はい! ずっと座ってるより気持ちいいですよ!」
「お前、急に敬語になるとなんか変だな」
「年上なんだから当たり前でしょ!」
小声で突っ込んできた優斗に、きららが頬を膨らませる。老人はそんな二人を見て、くすくすと笑った。
「賑やかじゃな」
「すみません……」
咲音が思わず頭を下げる。
「なんで謝るの!?」
「お前が謝れ」
「なんで私!?」
老人はまた笑った。先ほどまで海だけを映していたその瞳に、ほんの少しだけ楽しそうな色が宿る。それを見た咲音は、ほっと息を吐いた。
港を出た四人は、古い街並みの残る一角へ向かった。くじら島の中心部には新しい建物も増えているが、港の近くには昔から変わらない場所が多く残っている。
淡い灰色の石畳に白や薄青の壁。潮風に晒され、ところどころ色の剥げた木製の看板。細い路地には家々が肩を寄せ合うように並び、その間から時折、海の青が覗いていた。
「何か覚えてる場所、ありますか?」
歩きながら、きららが尋ねる。
「さあなぁ……」
老人はゆっくり辺りを見回す。
「昔からこの辺に住んでるんですか?」
「たぶん……そうじゃと思う」
「たぶん?」
「気づいたら住んどったからなぁ」
「気づいたら……」
きららが困った顔で優斗を見る。
「俺に聞くな」
「聞いてないよ」
「顔が聞いてた」
「顔で会話できるの?」
「お前は割とできる」
「何それ!」
その少し前を歩いていた咲音は、老人の歩調に合わせてゆっくり進んでいた。疲れていないか、時々横顔を確認しながら。
何かを思い出してほしいと、そう思う。けれど、無理に思い出させることが本当に正しいのかは分からなかった。だから咲音は、ただ一緒に歩いた。
「……」
老人が突然立ち止まった。
「どうしました?」
咲音も足を止める。老人の視線の先に、一軒の店があった。
深い紺色の屋根。年月を経て少しくすんだ白い壁。窓辺には小さな鉢植えが並び、その上には木製の看板が掛けられている。古びた小さな喫茶店だった。開け放たれた窓から、珈琲豆を煎る香ばしい匂いが漂ってくる。
「……どうしました?」
もう一度、咲音が尋ねる。
「いや……」
老人は店を見つめたまま動かない。
「なんじゃろうな」
その眉間に、深い皺が寄った。
「入ったことあるんですか?」
「…………」
老人は答えない。ただ、その目が何かを追いかけている気がした。現在ではない、もっと遠い場所、遠い時間。蝉の声が遠ざかったような気がした。ふと、
——からん。
扉についた、小さな鐘が聞こえた。
向かい側に座った誰かの細い指が白い珈琲カップを持ち上げる。
窓から差し込む柔らかな光の中で、楽しそう笑っていた。そんな情景が白昼夢のように、目の前を一瞬通り過ぎる。
『———』
何かを言った。けれど、聞こえない。顔も見えない。霧の向こうにいるように、輪郭だけが曖昧に揺れている。
「……じいさん?」
優斗の声に、老人が瞬きをした。目の前には夏の日差しに照らされた喫茶店がある。
「大丈夫ですか?」
咲音が心配そうに顔を覗き込む。
「ああ……」
老人は額へ手を当てた。
「今……」
「はい」
「誰かがおった」
三人の表情が変わった。
「誰か?」
きららが聞き返す。
「ああ……」
「誰ですか?」
「……わからん」
老人は首を振った。
「顔も……思い出せん」
咲音は老人の横顔を見つめた。
「でも、誰かとここに来たんですね?」
「……そうかもしれんなぁ」
老人はもう一度、喫茶店を見る。そして、
「珈琲を……飲んどった」
「その人と?」
「たぶん」
ほんの少しだけ、老人の口元が緩んだ。
「楽しそうじゃった」
「その人が?」
「いや……」
老人は目を細める。
「わしが」
咲音は何も言えなかった。ただ胸の奥が、じんわりと温かくなる。誰なのか分からない、何を話したのかも分からない。それでも、楽しかったという感情だけは、残っている。
「じゃあ……」
咲音は少しだけ勇気を出した。
「入ってみませんか?」
店内は、外より少し涼しかった。古い木の床は歩くたびに小さく軋み、壁には島の昔の風景を描いた絵が何枚も飾られている。窓際の席へ座ると、港へ続く坂道がよく見えた。老人は珈琲、きららたちは冷たい果実水を頼んだ。
「……苦っ!」
老人の珈琲を興味本位で一口もらったきららが、盛大に顔をしかめた。
「お前、何やってんだよ」
「だっていい匂いだったから!」
「珈琲なんだから苦いに決まってんだろ」
「匂いは甘そうなのに!」
「そんなわけあるか」
老人が楽しそうに笑った。咲音もつられて笑う。けれど、その後老人が店内を見回してもそれ以上の記憶が戻ることはなかった。
「ここに座ったんですか?」
「……わからんな」
「何を話したかは?」
「覚えとらん」
「よく頼んでいたものとか……」
「さあ……」
一つ尋ねるたび。答えはまた、元の場所へ戻っていく。
——わからない。
咲音は膝の上で、そっと指を握った。さっきは確かに何かを思い出した。なのに、もう掴めなくなっている。砂浜に書いた文字を、波が少しずつ消していくように。そこにあったはずなのに、確かめようと手を伸ばしたときには、もう形を失っている。
「咲音ちゃん?」
きららの声に、咲音は顔を上げた。
「あ……なんでもないです」
笑おうとした。けれど、上手く笑えた自信はなかった。
店を出た頃には、太陽はかなり西へ傾いていた。昼間には白く輝いていた石畳も、今は淡い橙色を帯びている。海から吹いてくる風も、ほんの少しだけ涼しくなっていた。
「今日はここまでにしようぜ」
優斗が言った。
「じいさんも疲れてるだろ」
「そうだね」
きららも頷く。老人を港まで送り届けると、彼はまたいつものベンチへ腰を下ろした。
「今日はありがとうございました」
咲音が頭を下げる。
「いやいや」
老人は穏やかに笑う。
「楽しかったよ」
その一言に、咲音の胸が少しだけ軽くなる。
「……また、一緒に歩いてもいいですか?」
「もちろんじゃ」
老人は答えた。それから、少しだけ不思議そうな顔をする。
「ところで……」
「はい?」
「お嬢ちゃん、名前はなんじゃったかな」
「…………」
咲音の笑顔が止まった。ほんの一瞬だけ。
「……白石咲音です」
「そうか。咲音ちゃんか」
「はい」
「いい名前じゃな」
「……ありがとうございます」
老人は笑った。悪意など、もちろんない。分かっている。この人は忘れたくて忘れているわけではない。それでも、帰り道には咲音はほとんど話さなかった。
空は夕暮れの橙から、少しずつ青へ戻ろうとしていた。昼間の明るい空色とは違う。夜へ向かう、静かな青。港から学園へ続く坂道を三人で歩く。少し前を行くきららと優斗の影が、長く石畳へ伸びていた。
「……私」
咲音がぽつりと言った。二人が振り返る。
「どうしたの?」
「……何をしてるんでしょう」
きららが目を瞬く。
「今日、少し思い出してくれました」
「うん!」
「喫茶店で、誰かと珈琲を飲んだこと」
「大進歩じゃん!」
「でも……」
咲音は俯いた。
「もう忘れちゃったかもしれません」
足元の石畳を見つめる。
「私の名前も、さっきまで覚えてくれていたのに……」
声が小さくなる。
「明日になったら、今日一緒に歩いたことも忘れてるかもしれない」
何度話しても、何度一緒に歩いても、きっと忘れられてしまう。
「それだったら……」
咲音は唇を噛んだ。
「私のやっていることに、意味はあるのかなって……」
きららはすぐには答えなかった。優斗も黙っている。坂の向こうから、潮を含んだ風が吹いてくる。その風が三人の制服を揺らした。
「……ごめんなさい、先輩たちにも協力してもらったのに……」
咲音は顔を上げる。
「でも……もう少しだけ、やってみたいです」
自信はないし、何が正解なのかも分からない。それでも。
「あの人が、あの喫茶店を見たとき……」
咲音は思い出していた。記憶の中にいる誰かを探す、あの目。そして、自分が楽しそうだったと話したときの、あの穏やかな笑顔を。
「すごく、大切なものを思い出しかけているように見えたから」
きららの琥珀色の瞳が、少しだけ柔らかくなる。
「うん」
それだけ言って、笑った。
「じゃあ、明日も行こう!」
「……はい!」
「お前、明日も当然のようについていく気なんだな」
「もちろん!」
「自分の練習も忘れんなよ」
「分かってるってば!」
「昨日も同じこと言ってただろ」
「今日はちゃんとする!」
「その台詞がもう怪しいんだよ」
「優斗うるさい!」
二人の声が夕暮れに傾いたの坂道に響く。咲音はその後ろで、ほんの少し笑った。答えはまだ見つからない。老人がどうして毎日港へ来るのかも、記憶の中で笑っていた誰かが何者なのかも、何一つ、分からないままだ。それでも今日、真っ白だったはずの過去にほんの小さな欠片が一つだけ落ちた。
珈琲の香り。窓から差し込む光。向かい側に座っていた、顔も分からない誰か。そして、確かにそこにあった、楽しいという気持ち。
記憶は消えてしまうのかもしれない。しかし、消えてしまったもののすべてが、本当に何も残さないのだろうか。その答えを今の咲音は、まだ知らない。
港を吹き抜ける風が夕暮れに変わる頃、二人と別れたきららは、ふと思い出したように足を止める。
「あっ!」
昨日、藍と約束した場所。防波堤へ向かうと、そこには誰もいなかった。
「遅かったかな……藍ちゃーん!!」
とりあえず呼んでみるも、返事はない。少しだけ海を眺めながら待ってみたが、寄せては返す波の音だけが静かに響いていた。
「今日は会えないのかな」
空を見上げ、小さく笑う。
「また明日、来てみよう」
きららはそう呟き、港を後にした。
入れ替わるように、一人の少女が防波堤へ歩いてくる。水瀬藍だった。
いつものように海を眺められる場所へ向かうと、近くで灯台の手入れをしていたおじさんが声を掛ける。
「おや、お嬢ちゃん」
藍は足を止めた。
「今日は青い髪の子が来とったよ」
「……え?」
「誰か呼びながらしばらくここで待っとったんだが。」
おじさんは海の方を見ながら続ける。
「友達かい?」
藍は少し驚いたように目を瞬かせ
「……多分」
複雑そうな、だけど少しだけ照れくさそうに頷く。
おじさんは「そうかそうか」と笑い、仕事へ戻っていく。藍は昨日きららと並んで立った場所へ静かに目を向けた。
「来てくれたんだ……」
誰にも聞こえないほど小さな声。潮風がその呟きをさらっていく。藍は鞄から一冊のノートを取り出した。何度も書き直した歌詞が並ぶ、大切なノート。波の音を聞きながら、一ページをゆっくりと開いた。




