忘れた理由と、青い海
じりじりと、夏の日差しが降り注いでいた。
くじら学園の白い校舎は、真昼の光をいっぱいに浴びて眩しく輝いている。窓の向こうには雲ひとつない空が広がり、その青はどこまでも澄みきっていた。
開け放たれた窓から吹き込んでくる風は、ほんの少しだけ潮の匂いを含んでいる。
けれど、その風も今日ばかりは生温い。
校庭を囲む木々では蝉たちが競い合うように鳴き、耳を澄ますまでもなく、ミンミン、ジイジイと絶え間ない大合唱が教室まで押し寄せてきていた。
「——あっつぅぅぃ……」
机の上にぺたりと頬をつけ、青波きららは情けない声を漏らした。
腰まである長い髪は、いつものように高い位置でポニーテールにまとめられている。つむじ付近の深い青から、毛先に近づくにつれて水色へと変わっていく髪が、机の横からさらりと垂れていた。
白と水色のセーラー服の胸元には、鮮やかなオレンジ色のスカーフ。その胸元を指でつまんでぱたぱたと動かしながら、きららはどうにか風を送ろうとする。
「暑い暑いって言うから余計暑くなるんだろ」
隣から呆れた声が飛んできた。
黒い短髪の少年、鮎喰優斗が頬杖をついたままこちらを見ている。
その深い青色の瞳には、明らかに「また始まった」と書いてあった。
「じゃあ優斗は暑くないの?」
「暑い」
「ほら!」
「だからって机に溶けても涼しくならねえよ」
「溶けてないもん」
「半分くらい溶けてるぞ」
「じゃあ拾って」
「断る」
「相棒でしょ!」
「相棒をなんだと思ってんだ」
そんな二人のやり取りを聞いていた周囲の生徒たちから、小さな笑い声が上がる。
きららは頬を膨らませながら身体を起こした。
その瞬間だった。
「——まったく。だらしがありませんわね、きららさん!」
凜とした声が教室に響く。
「この程度の暑さでへばっていて、半年間のオーディションを最後まで乗り切れますの?」
振り向かなくても誰なのか分かった。
神崎海夜璃だ。小柄な身体に、ふわふわと波打つ金色の髪。窓から差し込む陽光を受けるたび、柔らかな毛先がきらきらと光っている。
桃色の瞳は少し吊り上がっていて、可愛らしい容姿とは裏腹に、その表情には今日も強い自信が満ちていた。
「海夜璃だって暑そうじゃん」
「なっ……!」
海夜璃の眉がぴくりと動く。
「わ、わたくしは暑くありませんわ!」
「汗かいてるよ?」
「これは汗ではありませんわ!」
「じゃあ何?」
「…………」
海夜璃は一瞬だけ言葉に詰まった。
「み、水ですわ!」
「どこから出てきた水だよ」
優斗が即座に突っ込む。
「鮎喰さんは黙っていてくださいます!?」
「はいはい」
「返事が軽いですわ!」
教室に、また笑い声が広がった。
海夜璃は真っ赤になりながら、金色の髪を揺らしてぷいっと顔を背ける。
その姿を見て、きららは堪えきれずに笑った。
「海夜璃、顔まで暑くなってる!」
「誰のせいですの、誰の!」
いつもの光景だった。
歌姫を目指すライバル同士。アンドロメダオーディションが始まった今、その関係は以前よりずっと明確になっている。
それでも、教室で顔を合わせればくだらないことで笑い、からかい合う。
海夜璃は誰よりも負けず嫌いで、思ったことを遠慮なく口にする。けれど、卑怯なことは嫌う。きららは、そんな彼女の性格を嫌いではなかった。
「よーし! じゃあ今日も放課後、練習勝負しようよ!」
勢いよく立ち上がったきららに、海夜璃が振り返る。
「望むところですわ!」
「どっちが長く声出せるか!」
「……お前ら、暑さで頭やられてない?」
優斗がぼそりと呟いた。
「なにそれ!」
「長く声出せたほうが勝ちって、小学生かよ」
「じゃあ優斗もやる?」
「やらねえよ」
「負けるの怖いんだ」
「煽ってもやらねえからな」
「逃げましたわね、鮎喰さん」
「なんで神崎まで乗ってくるんだよ!」
そんな声が響く教室の向こう。窓いっぱいに、夏の空が広がっている。
果てしなく続く空色。そのさらに下には、くじら島を取り囲む青い海が陽光を反射し、細かな星を散らしたように輝いていた。
アンドロメダオーディションが始まってから、日々は目まぐるしく過ぎていく。
半年。
長いようでいて、きっと短い。きららにとっては、これが最後の挑戦だ。次のアンドロメダオーディションが開かれる頃には、もう対象年齢を過ぎている。
——絶対に、歌姫になる。
それは幼い頃から変わらない夢だった。だからこそ。この夏の一日一日が、きららにとっては大切だった。
放課後。昼間の強烈な日差しはほんの少しだけ傾き始めていたものの、地面にはまだ昼間の熱が残っていた。
校舎の外へ出ると、むわりとした空気が身体を包む。
「暑っ!」
「結局言うのかよ」
昇降口から出た瞬間、きららは叫んだ。優斗が呆れたように後ろから続く。
きららはポニーテールを留めていた髪紐に指をかけると、それをするりと外した。長い青髪が、一気に背中へ落ちる。
「ふぅ……」
首を軽く振る。解放された髪が風を含み、青から水色へ移り変わる毛先が、夏空の下でさらさらと揺れた。
「髪下ろしたほうが暑くね?」
「ずっと結んでると頭痛くなるの!」
「じゃあ切ればいいだろ」
「絶対やだ!」
「即答かよ」
きららは長い髪を両手で抱えるようにして胸元へ寄せた。
「だって、気に入ってるんだもん」
「はいはい」
「何その反応!」
そのとき。
「あの……青波先輩」
遠慮がちな声がした。
「ん?」
振り返ると、昇降口の陰に一人の少女が立っていた。合唱部の後輩、白石咲音だ。
「咲音ちゃん?」
「あ……はい」
名前を呼ばれた咲音は、小さく頭を下げる。けれど、いつも以上に表情が曇っている。きららはすぐに気づいた。
「どうしたの?」
「えっと……」
咲音は制服の裾を指先でつまんだ。何かを言いたい。けれど、どう切り出せばいいのか迷っている。そんな様子だった。
「何かあった?」
きららが顔を覗き込むと、咲音はしばらく迷った末、小さく頷いた。
「……ちょっと、相談したいことがあるんです」
三人が向かったのは、くじら島の南側にある港だった。学園から坂道を下っていくと、潮の匂いが少しずつ濃くなっていく。
道の両側には白壁の家々が並び、その間を縫うように細い路地が伸びていた。
古い石畳は強い日差しに焼かれ、ところどころ白っぽく乾いている。
軒先には青や白の布が干され、海から吹き上げてくる風に大きくはためいていた。
坂を下るにつれ、視界の先に海が広がっていく。
水色、そして遠くなるにつれて、少しずつ群青へ。
そのさらに向こうには、別の浮島の影が薄青く霞んでいる。港へ近づくと、今度は蝉の声に混じって、波が岸壁を叩く音が聞こえ始めた。
ちゃぷ、ちゃぷ、と規則正しく。停泊している船の帆柱が風を受け、からん、と乾いた音を立ててたいた。
「それで、そのおじいさんが毎日ここにいるの?」
歩きながら、きららが尋ねた。
「はい」
咲音が頷く。
「私、最近よく港を通るんです。それで……いつも同じ場所にいる人がいるなって気づいて」
「毎日?」
「たぶん……」
咲音は少し考えてから続ける。
「少なくとも、私がここを通った日は、ほとんど見かけています」
「釣りしてるとか?」
優斗が尋ねる。
「いえ」
咲音は首を横に振った。
「何もしていないんです」
「何も?」
「はい。ただ……海を見ています」
きららと優斗は顔を見合わせた。
「それだけなら、別に変じゃなくない?」
きららが言う。
「海見るの好きな人だっているし」
「俺もそう思うけど」
「……私も、最初はそう思ったんです」
咲音は俯いた。
「でも……」
ゆっくりと顔を上げ、港の奥を指差した。
「あそこです」
きららたちは、その指先を追った。港の外れ。観光客や船員たちが行き交う船着き場から少し離れた場所に、古い木製のベンチが置かれている。そこに、一人の老人が座っていた。
白髪。少し丸まった背中。薄手のシャツに、使い込まれた茶色いズボン。杖は持っていない。ただ両手を膝の上に置き、じっと海を眺めている。
船を見るでもない。誰かを探している様子でもない。ただ、青い海だけを見つめていた。
「……あの人?」
「はい」
咲音が小さく答える。三人はゆっくりと近づいていった。老人は気づかない。潮風が白髪を揺らしても。海鳥が頭上を横切っても。船が汽笛を鳴らして出航しても。
ただ、ぼんやりと水平線を眺めている。
「こんにちは」
咲音が声をかけた。老人がゆっくりと振り向いた。
「……おお」
しわの刻まれた顔が、ほんの少し緩む。
「また来たのかい」
「はい」
咲音は笑った。
どうやら、二人はすでに何度か話しているらしい。
「今日は先輩たちも一緒なんです」
「先輩……?」
「学校の先輩です」
「ああ……そうかい」
老人は何度か頷いた。けれど、すぐにまた海へ顔を戻した。きららは老人の隣に立つ。
そこから見える景色は、確かに綺麗だった。夕方へ向かい始めた太陽が、海の表面に細長い光の道を作っている。風が吹くたび、その道は無数の欠片に砕けて、また繋がった。
「綺麗ですね」
きららが言う。
「……そうじゃな」
老人は静かに答えた。
「昔から、ここが好きなんですか?」
「…………」
老人は答えなかった。きららは咲音を見る。咲音が、ほんの少しだけ困ったように笑った。そして老人のそばへしゃがみ込む。
「前にも聞いたんですけど……」
咲音は優しく問いかけた。
「どうして毎日港へ来るんですか?」
潮風が吹いた。きららの長い髪が、大きく揺れる。海夜へ向かう前の空は、昼間の鮮やかな青から、少しずつ深みを増していた。老人は海を見つめている。
しばらく。本当に長い間、考えていた。何かを探しているように。頭の奥深くに沈んでしまったものを、手探りで掴もうとしているように。
けれど、やがて老人は、ゆっくりと首を横に振った。
「……わからん」
きららは瞬きをした。
「分からない……?」
「ああ」
老人は困ったように笑う。
「なんでじゃろうな」
その声には、ごまかしている様子など少しもなかった。本当に本人にも分からないのだ。
「気づくとな、ここに来とる」
老人はそう言って、自分の手を見つめた。
「家を出て……歩いて……気づいたら、ここに座っとるんじゃ」
「誰かと待ち合わせしてるとか?」
きららが尋ねる。
「さあ……」
「昔、ここで何かあったとか?」
「……わからん」
老人はまた同じ答えを返した。優斗は少し離れた場所で腕を組み、黙ってその様子を見ている。咲音は俯いた。
「ずっと、こうなんです」
港の喧騒の中で、その声だけが妙に小さく聞こえた。
「聞いても……分からないって」
老人は再び海を見た。きららも同じ方向を見る。広い海、遠くに浮かぶ船、さらにその先には、淡い霞の向こうに浮島が見える。何の変哲もない港だ。けれど、
——本当に、そうなのかな。
きららは思った。理由もないのに。毎日同じ場所へ来るだろうか。
「私……」
咲音が呟いた。
「最初は、ただ海が好きなのかなって思ったんです」
風が吹く。咲音の髪が頬にかかり、彼女はそれを耳へかけた。
「でも……なんとなく、違うような気がして」
「違う?」
「はい」
咲音は老人を見る。
「本人も忘れてしまっているだけで、本当は何か大切な理由があるんじゃないかって」
その言葉に、きららはもう一度老人の横顔を見た。しわの刻まれた顔。穏やかな瞳。その目は、ずっと遠くを見ている。
海を見ているようで、海ではない何かを探しているようにも見えた。
「それで私……何かできないかなって思ったんですけど」
咲音の声が沈む。
「何をすればいいのか、全然分からなくて」
「家族は?」
優斗が尋ねた。
「いないみたいです」
「近所の人は?」
「時々、様子を見てくれる人はいるみたいです。でも……昔のことまでは、あまり知らないみたいで」
「そっか……」
きららは腕を組んだ。
そして。
「じゃあ、探そう!」
「……え?」
咲音が顔を上げた。優斗が眉間を押さえる。
「お前な……」
「だって、何か理由があるんでしょ?」
「あるかもしれない、だろ」
「だったら探してみないと分かんないじゃん!」
「だからって、お前は毎回決断が早すぎんだよ!」
「早いほうがいいでしょ!」
「限度がある!」
「でも優斗も手伝ってくれるでしょ?」
「なんで確定してんだよ」
「手伝わないの?」
「…………」
きららがジトっと優斗を見つめる。
「……分かったよ」
「やった!」
「ほら見ろ。最初から断る選択肢なかったじゃねえか」
咲音が、ぽかんと二人を見る。それから、
「ふふ……」
小さく笑った。
「咲音ちゃん?」
「あ……すみません」
咲音は慌てて口元を押さえる。
「なんだか……お二人らしいなって」
「でしょ?」
「褒められてねえ気がするけどな」
きららは笑った。けれど、すぐに老人へ向き直る。
「ねえ、おじいさん」
「ん?」
「明日もここに来ますか?」
老人は首を傾げた。
「さあ……どうじゃろう」
「え?」
「わからんなぁ」
老人はそう言って笑った。けれど、咲音は知っている。きっと明日もこの人はここにいる。理由も分からないまま、何かに呼ばれるように家を出て、同じ道を歩き、同じベンチに座り、同じ青い海を見つめるのだろう。
太陽が傾いていく。空の色が少しずつ薄まり、その反対側からは深い青が忍び寄り始めていた。
昼の空色から夕暮れの淡青へ。そして、やがて訪れる紺藍へ。
海もまた、その空を映しながら静かに色を変えていく。きららは風に揺れる髪を押さえながら、老人が見つめている先へ目を向けた。
そこに何があるのか、何かあったのか、今は誰にも分からない。もしかすると本人さえ忘れてしまった場所に、まだ消えていない何かが残っているのかもしれない。
思い出せない記憶、忘れてしまった理由、それでも毎日、ここへ来る。
——だったら。
探してみたいと思った。この人を、毎日ここへ連れてくるものが何なのか。それがもし忘れてしまうほど遠い昔に置いてきた、誰かの願いなのだとしたら。
夕方の港に、船の汽笛が長く響いた。
青い海の上を、一艘の船がゆっくりと遠ざかっていく。老人はその船をいつまでも見つめていた。そして誰にも聞こえないほど小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……何じゃったかのぉ」
きららたちは、その言葉の意味をまだ知らない。潮風だけがまるで何かを覚えているかのように、古い港を吹き抜けていった。




