同じ歌姫の夢を見ていた
夕焼けの赤が薄れ、青が深くなっていく。その変化を見つめる目は、どこか遠かった。まるで、今ここにいる自分より、ずっと前の自分を見ているみたいだった。
「水瀬藍」
「え?」
「私の名前」
少女はきららを見た。
「水瀬藍。十八歳」
「私は青波きらら! 十七歳!」
「知ってる」
「えっ?」
「あなた、さっきから目立っていたから」
「悪い意味?」
「……どうかしら」
「えーっ!」
きららが声を上げる。藍は、少しだけ笑った。けれど、その笑いはすぐに消えた。喉に手を当て、軽く咳をする。その咳は、さっきより少しだけ強かった。きららの表情が変わった。
「ごめん」
「あなたが謝ることじゃないわ」
「でも……」
「本当に大丈夫」
藍は、ノートを見下ろした。その視線は、紙の上に並ぶ文字を見ているようでいて、実際にはもっと遠い場所を見ていた。
「私はね、歌が好きだった」
「うん」
「歌姫になりたかった」
きららは黙って聞いた。藍の声は静かだった。静かすぎて、逆に、そこにどれだけのものを押し込めているのかが伝わってくる。
「五年に一度しかないでしょう」
「うん」
「今回が、私にとって最後なの」
その笑顔は、笑顔と呼ぶにはあまりにも儚く感じた。
「十八歳だから」
きららは、息を呑んだ。自分も十七歳。今回のオーディションが最後だ。でも、自分は歌える。歌うことができる。藍には、それができない。その違いが、きららには急に重く感じられた。同じ「最後」でも、こんなにも意味が違うのかと。
「……歌いたかったよね」
きららが言うと、藍の目が揺れた。
ほんの少しだけ。けれど、その揺れは、きららの言葉が思った以上に深く届いた証のように見えた。
「ええ」
藍は短く答えた。
その一言に、どれだけの時間が詰まっているのか、きららには分からなかった。ただ、分からないなりに、胸が痛んだ。
「じゃあ、私が歌うよ!」
きららは、考えるより先に言った。
「藍ちゃんの歌詞を、私が歌う!」
藍の顔から、表情が消えた。
「……」
「藍ちゃんが作った歌を、私が歌うの」
「あなたが?」
「うん!」
きららは笑った。
「私、歌えるから!」
その瞬間。藍の表情が、はっきりと変わった。驚きではなかった。喜びでもない。もっと鋭く、もっと痛いものだった。胸の奥を、いきなり素手で掴まれたような顔だった。
「……そうね」
「藍ちゃん?」
「あなたは歌えるものね」
声が冷たくなった。けれど、その冷たさの下に、怒りと、羨望と、どうしようもない悔しさが、ひとつに絡まっている。
「でも、私は——」
藍は言葉を止めた。咳が出そうになったのか、口元を押さえる。しばらくしてから、低い声で言った。
「簡単に、そんな事を言わないでほしいわ」
「……え?」
予想していなかった答えに、きららは驚いた。
「私がどれだけ歌いたかったか、あなたに分かる?」
「藍ちゃん……」
「どれだけ練習したか。どれだけ、この日を待っていたか」
藍の指が、ノートの表紙に食い込んだ。
「十八歳になったら、最後のチャンスだって分かってた。だから、ずっと歌ってきた」
声が掠れる。藍は一度、唇を噛んだ。それでも言葉を止めなかった。
「朝も、夜も。喉が痛くても、少しでも声が出るならって、何度も何度も」
その声は、怒っているというより、壊れそうだった。
「なのに、歌えなくなった」
藍は笑った。今にも崩れそうな笑顔だった。笑っていないと、泣いてしまうから。泣いてしまったら、もう立っていられないから。
「あなたは歌える」
「……」
「あなたは、まだ歌えるじゃない」
きららは何も言えなかった。藍の言葉は、責めているだけではなかった。羨ましさと、悔しさ、そしてその奥に、ほんの少しだけ、どうしようもない孤独があった。
「私が歌えないからって、あなたが歌えばいいって、そんな簡単な話じゃないでしょう」
「私は……」
「私の代わりになれると思った?」
きららの胸に、言葉が刺さった。
そんなつもりはなかった。けれど、藍の言う通りだった。自分は、藍の気持ちを何も知らない。それなのに、簡単に、自分が歌うと言った。
その言葉が、藍にとってどれほど残酷だったのか、今になってようやく分かり始めていた。
「……ごめん」
きららは俯いた。
藍はしばらく黙っていた。怒鳴り返すことも、泣き出すこともできないまま、ただ静かに立っていた。その沈黙が、かえって藍の傷の深さを伝えていた。
「別にいいわ」
「でも」
「悪気がなかったのは分かってる」
藍は、少しだけ困ったように笑った。
その笑みには、怒りをぶつけきれなかった自分への苛立ちも混じっていた。
「ただ、分からないのに分かったようなことを言わないで」
きららは、顔を上げた。
「……うん」
藍は、きららの青い髪を見た。夕暮れの風が吹き、ポニーテールが大きく揺れている。
しばらくの間、波の音が続いていた。ふと、藍が呟く。
「…あなたの髪、綺麗ね」
「えっ?」
突然の言葉に、きららは目を丸くした。
「青い」
「うん! 青波だから!」
「関係あるの?」
「あるよ! たぶん」
藍は、初めて少しだけ自然に笑った。その笑いは、ほんの一瞬だけ、さっきまでの痛みを薄めた。
「……変な人」
「よく言われる!」
「褒めてないわ」
「でも、笑った!」
藍は、また咳き込む。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫よ」
「無理してない?」
「してない」
「本当に?」
「……あなた、しつこいわね」
「だって心配だから」
「そういうところよ」
「え?」
「そうやって、すぐ誰かのために動こうとするところ」
藍は、少し疲れたように目を伏せた。その横顔には、さっきまでの鋭さとは違う、静かな疲労が滲んでいた。怒ることにも、諦めることにも、もうずいぶん慣れてしまった人の顔だった。
「あなたは、私の願いを叶えたいの?」
きららは答えようとした。けれど、すぐには言葉が出なかった。歌姫になりたい。誰かの願いを叶えなければならない。だから、藍の願いを叶えたい。そこまでは分かっている。でも、
「……分からない」
きららは、正直に答えた。
「え?」
「私、藍ちゃんの願いが何なのか、まだ分からない」
「だから、今は答えられない」
きららは、藍を見た。
「でも、もし藍ちゃんが話してくれるなら、聞きたい」
「……」
「藍ちゃんが何を願ってるのか、ちゃんと知りたい」
藍は、すぐには答えなかった。
夕方の空は、もうほとんど夜の色になっていた。昼間の青とは違う。深く、静かな藍色。その向こうに、最初の星が一つ見えた。
藍は、その星を見つめた。星を見ているのか、自分の中の何かを見ているのか、きららには分からなかった。ただ、藍の指先がノートの端をそっと撫でているのが見えた。まるで、そこにしか自分を繋ぎ止めるものがないみたいに。
「……考えておく」
「…うん!」
その声は、さっきより少しだけ柔らかかった。けれど、まだどこか怖がっているようでもあった。でも、今のきららにはその返事で十分だった。藍の言葉に、大きく頷く。
「また来るつもり?」
「うん!」
「どうして?」
「藍ちゃんが考えておくって言ったから!」
「それは、来てもいいという意味ではないわ」
「でも、来ちゃダメとも言ってないよね?」
藍は黙った。きららは笑った。
「じゃあ、またね!」
「……あなたね、」
「また話そうね!」
きららは手を振りながら駆けていく。藍はその背中を見送った。
青い髪が、夕暮れの中で揺れている。その色は、空よりも鮮やかで。海よりも明るく。夜の藍色とは違う、真っ直ぐな青だった。
きららが去ったあと、藍は一人、空を見上げた。夜が近づいている。星が、少しずつ増えていく。手の中のノートを開く。そこには、まだ誰にも歌われていない歌詞が並んでいた。
藍はその文字を見つめ、見つめるほどに胸の奥が痛んだ。この歌詞を書いたときのことを、藍は覚えている。声が出なくなる前、まだ自分の未来を信じていた頃。何度も書き直して、何度も歌って、ようやく形になった言葉たち。それを、もう自分の声で届けられない。その事実は、何度受け止めても慣れなかった。
藍は、小さく息を吸った。そして、歌おうとした。最初の一音を出そうとした瞬間。喉が震えた。声は、掠れた音になった。
「……っ」
咳が出る。藍は口元を押さえ、目を閉じた。
歌えない。やっぱり、歌えない。分かっていたはずなのに。何度も何度も思い知らされてきたはずなのに。
胸の奥が、まだ痛む。痛みは、慣れるどころか、むしろ少しずつ形を変えて深くなっていた。
最初は悔しさだった。次は怒りだった。その次は、誰にも見せたくない惨めさだった。
そして今は、何もかも失ったような空虚さがある。
藍はノートを閉じた。その表紙に描かれた星を指でなぞる。星の輪郭は、少し擦れていた。
何度も触れた跡だ。何度も、ここに願いを閉じ込めてきた証だった。そして、きららの言葉を思い出した。
——藍ちゃんが何を願ってるのか、ちゃんと知りたい。
「……私の願い」
声は、夜の空気に溶けていく。
「私の願いは……」
答えは、まだ分からなかった。
歌いたい、歌えるようになりたい。歌えなくなった今も、この歌詞を捨てられない。誰かに届けたいと思ってしまう。自分の中にあるものを、自分が見てきたものを、自分が感じてきたものを。
誰かに、遠くの誰かに。それは、歌えない自分への未練なのかもしれない。あるいは、まだ終わっていないという小さな抵抗なのかもしれない。
藍は空を見上げた。夜空は、深い紺藍に染まっている。その向こうには、星の女神がいる。きっと、今も世界中を見ている。歌えない自分のことも。歌姫を夢見るきららのことも、すべて。
藍は、ノートを胸に抱いた。そのとき、遠くで、蝉が一匹だけ鳴いた。夏の終わりを告げるような、短い声だった。
やがて、その声も消える。夜が深くなる。星が増えていく。そして、まだ誰にも知られていない願いが、きららと藍の間で、静かに芽を出し始めていた。




