願いを探して
アンドロメダオーディションが始まってから、三日が経った。
くじら島は、まだあの夜の余韻の中にあった。学園の廊下を歩けば、誰かが流星群の話をしている。
「ねえ、あの夜、何個流れ星見た?」
「数えられないくらい見たよ!」
「空が全部白くなった島もあったって!」
「星の女神の声、聞いた?」
流星群が空を覆った夜。世界中の浮島に、星が降り注いだ。そして、姿を見せない星の女神の声が、空から響いた。
——これより半年間、新たな煌星の天使の選考を開始します。
それは、誰かに申し込むものでもなかった。
十二歳から十八歳まで。その年齢に該当する者は誰もが候補者になることができ、半年後に星の女神が世界中から八人を選ぶ。男女それぞれ四人。選ばれた者は煌星の天使の称号を得て、四人の歌姫として世界中に歌を届ける。オーディションが始まったその日から、十二歳から十八歳までの誰もが星の女神に見られているのだ。
誰かの願いを叶えたか、その願いがその人の人生にどれほど深く関わるものだったのか。
それを、星の女神だけが知っている。
「つまり!」
教室の中央で、青波きららは両手を握りしめていた。
「半年以内に、誰かの人生に関わる願いを叶えればいいんだよね!」
「そういうことだな」
鮎喰優斗が、机に頬杖をつきながら答えた。
「じゃあ、探しに行こう!」
「何を?」
「願い!」
きららは勢いよく立ち上がった。腰まで届く青い髪を、今日も高い位置でポニーテールにしている。窓から差し込む夏の光が、その髪を青い水面のように照らしていた。
「待て。願いって、落とし物みたいに道端に落ちてるものじゃないだろ」
「でも、誰かが困ってたら聞けばいいんじゃない?」
「それで『私の人生を変える願いがあります』って言う奴が、そこら辺を歩いてると思うか?」
「いるかもしれないよ!」
「いないと思う」
「探してみないと分からないじゃん!」
きららは鞄を掴んだ。
「行こう、優斗!」
「俺も行くのかよ」
「相棒でしょ?」
「……誰が?」
「優斗!」
あまりにも当然のように言われて、優斗は一瞬だけ黙った。それから、ため息をつく。
「お前一人で行かせると、変な方向に突っ走るからな」
「失礼だなぁ」
「事実だろ」
「じゃあ、変な方向に突っ走らないように見張ってて!」
「結局、突っ走るのは認めるんだな」
二人が教室を出ようとしたとき、窓際から声が飛んできた。
「きららさん」
神崎海夜璃だった。金色の髪が、午後の光を受けて淡く輝いている。
「あなた、まさか本当に、そこら中の人に願いを聞いて回るつもりですの?」
「うん!」
「……」
海夜璃は、少しだけ目を閉じた。
「きららさん」
「なに?」
「あなたは、もう少し考えてから行動するということを覚えた方がよろしいのではなくて?」
「考えたよ!」
「何を?」
「願いを叶える!」
「それは考えた結果ではなく、最初から決めていたことではなくて?」
「……そうかも!」
「まったく……」
海夜璃は呆れたように息を吐いた。しかし、その目には笑いがあった。
「まあ、あなたらしいですわ」
「海夜璃も一緒に行く?」
「遠慮しますわ」
「えー!」
「私は私の方法で、星の女神に選ばれますの」
海夜璃は、真っ直ぐにきららを見た。
「きららさん。私は、あなたに負けるつもりはありませんわ」
その言葉に、きららは一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに笑った。
「私だって負けないよ!」
「その意気ですわ」
「絶対、歌姫になろうね!」
拳を突き出すきららに、海夜璃は一瞬だけ驚いた顔をした。それから、小さく笑って、その拳に自分の拳を合わせた。
「……ええ。あなたには負けませんわ」
その日から、きららは本当に忙しくなった授業が終われば合唱部の練習。練習が終われば、誰かに願いがないか聞いて回る。
「何か困ってることない?」
「えっ、急に何?」
「人生を変えるような願いとか!」
「そんなもの、簡単に見つからないよ」
「そっかぁ……」
きららは肩を落とした。しかし、次の瞬間にはもう別の誰かに声をかけている。
「ねえねえ! 何か願いない?」
その様子を見ていた優斗は、とうとう額を押さえた。
「お前はもう少し、相手の気持ちを考えてから聞け」
「考えてるよ!」
「聞き方が直球すぎる」
「だって、願いを叶えたいんだもん」
きららは、本気だった。歌姫になりたい。その夢は、ずっと胸の中にある。幼い頃から、歌うことが好きだった。歌えば、遠くまで声が届く。自分の知らない場所にいる誰かにも、歌は届く。それが、きららには不思議で、嬉しかった。
いつか、世界中に歌を届けたい。星の女神に選ばれて、煌星の天使になる。その夢を、絶対に叶えたい。だから、誰かの願いを叶えなければならない。それは、きららにとって当たり前のことだった。
ただ、願いはそう簡単には見つからなかった。
そんなある日の放課後。合唱部の練習を終えたきららは、校舎を出たところで足を止めた。夏の夕方だった。昼間の熱気が、まだ地面に残っている。石畳の上から立ち上る熱気が、足元からゆっくりと体を包んでいた。
「今日も彷徨う羊の願いを聞いて信ぜよー」
暑さで頭をやられたような台詞を言いながら、きららは今日も帰路とは反対側の道を行く。
近くでまだ、蝉が鳴いている。ひとつ鳴き始めると、それに応えるように別の場所から声が重なった。
じりじりとした暑さの中で、蝉の声だけが途切れずに続いている。きららは、その額の汗を手の甲で拭った。
「暑い……」
人もまばらになり、少し休憩しようかと思ったとき、防波堤の近くに一人の少女が立っていることに気づいた。
白いワンピース。肩より少し長い髪。手には、一冊の古びたノート。その少女は遠くの空を見ていた。
夕暮れの空は、まだ薄い橙色を残しているその上に、少しずつ青が広がっていた。昼の青から、夕暮れへ。やがては夜へ向かう、深い藍色へ変わる。
少女は、空を見上げたまま、動かなかった。その横顔は、ひどく静かだった。きららは一瞬、声をかけるのをためらった。けれど、少女の指先がノートの端を強く握りしめているのが見えて、胸の奥が少しだけざわついた。
「……あの」
きららは声をかけた。少女が振り返る。
「何?」
声は、少し掠れていた。
けれど、普通に聞き取ることはできる。きららは、その声に、どこか無理を押し込めたような硬さを感じた。
「大丈夫?」
少女の眉がわずかに寄った。
「何が?」
「なんとなく」
「なんとなくで声をかけるの?」
「ご、ごめん」
「別に」
少女は視線を逸らした。その手にあるノートの表紙に、きららは気づく。いくつもの星が描かれている。そして、その中央に小さく文字が書かれていた。
——詩。
「歌、好きなの?」
少女の手が止まった。ほんの一瞬だけ、少女の表情が揺れた。
「……どうして?」
「ノートに詩って書いてあるから」
「見たの?」
「ごめん! 見ようとしたわけじゃなくて!」
「別にいい」
少女はノートを胸元に抱えた。その仕草が、まるで誰にも触れられたくないものを守るように見えた。
「好きだった」
「だった?」
きららが尋ねると、少女は少しだけ笑った。
「今も好きよ」
その笑顔には、寂しさがあった。好きだと言う声なのに、どこか遠くを見ているような目だった。
「ただ、歌えないだけ」
きららは瞬きをした。
「歌えない?」
「ええ」
「声が出ないの?」
「話すことはできるわ」
少女はそう言った直後、少し咳き込んだ。
「……っ」
小さな咳だった。けれど、その咳は、少女自身が思っている以上に彼女を傷つけているように見えた。少女は口元を手で押さえ、数秒黙った。その沈黙のあいだ、きららは何も言えなかった。ただ、少女の喉元に触れた指先が、ほんの少し震えているのを見ていた。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「でも……」
「大丈夫よ」
今度の声は、先ほどより少し弱かった。
「ただ、長く話したり、大きな声を出したりすると、喉が駄目になるの」
「駄目になる?」
「咳が出る。声も続かない」
少女は、自分の喉にそっと触れた。その指先は、まるでそこにある痛みを確かめるみたいだった。
「歌うには、声が足りない」
少女の言葉は淡々としていた。けれど、その淡々とした声の奥に、きららは、言い切ってしまうことでしか保てないものを感じた。
諦めたふりをしていないと、立っていられないような。
「歌えないって、そういうこと」
少女は、空を見上げた。
「話すことはできる。でも、歌うことはできない」
きららの胸が、きゅっと締まった。
その言葉は、何度も何度も、自分に言い聞かせてきた言葉のように聞こえた。
「……あなたは、歌姫を目指してたの?」
少女は答えなかった。その代わり、しばらく空を見ていた。




