<第三十九足>お母さん
「…………」
カリカリと、ペンを走らせる。
分厚い参考書とノートに視線を落とし、黙々と問題を解いていく。
参考書には大量の付箋が貼られ、何度も開いたページの端は、折り目がつきすぎてボロボロになっていた。
「……はぁ」
国試前の看護実習が終わり、夏休みに入ってからというもの、勉強漬けの日々が続いている。
先日の家族会議では、こんな話があった。
『支える側として、できることがあれば遠慮なく言ってほしい』
そう。
父が、そう結論を出したのだ。
今年の煌星家には、受験生が二人いる。
大学受験を控えた夢玖と、看護師国家試験を控えた私。
どちらか一方だけではなく、家族みんなで支えていこう。
それが、父の考えだった。
「…………できること、ね……」
小さく呟き、私は棚の上に置かれた写真立てを手に取った。
「……お母さん。私、看護師になれるかな」
写真の中のお母さんは、優しく微笑んでいた。
****
「見て、お母さん!」
「まぁ……!愛、また全教科満点!すごいわねぇ……!」
今から十年ほど前。
「お母さん、見て……!また賞取れたの!」
「舞姫もよく頑張ったわねぇ……!あなた、みんなでお祝いしましょう」
私が中学生になったばかりの頃。
母は、私と姉を平等に愛してくれた。
姉の愛が勉強で成果を出せば、心から褒めてくれる。
私が何かを成し遂げれば、同じように喜んでくれる。
「そうだな。何が食べたいんだ?」
父が尋ねる。
「茄子の天ぷらー!」
「舞姫は本当に茄子が好きねぇ……ふふっ」
母は、私の好きな食べ物を覚えていてくれた。
「私、フルーツたっぷりのパフェが食べたいわ!」
「そうか。いやぁ……本当にこの娘たちは可愛いなぁ」
父は、嬉しそうに笑っていた。
この頃の煌星家は、私の人生で一番平和だった。
父がいて、母がいて、姉がいて。
みんながそばにいて、何でもないことで笑い合う。
明日も、明後日も。
こんな日々がずっと続いていくのだと、疑いもしなかった。
「舞姫、今日はエルボーパス、できるようになるわよ!」
「うんっ!お姉ちゃん!」
「二人とも。今度、応援に行くからね」
母は、いつだって私たちを応援してくれた。
だから、私も頑張ろうと思えた。
もっと褒めてもらいたい。
もっと喜んでもらいたい。
そんな気持ちが、私の背中を押してくれていた。
けれど、この頃の私はまだ知らなかった。
母の身体が、病に蝕まれていたことを。
****
「お母さんっ!」
それから二ヶ月後。
私と姉は学校を早退し、病院へ向かった。
病室のベッドには、母が横たわっていた。
「ごめんね……二人とも」
「お母さん……」
母は、いつもよりずっと弱々しく見えた。
そして、静かに告げた。
「……お母さん、もう長くないみたい」
「…………え?」
その言葉の意味が、私たちには分からなかった。
まだ子どもだったから。
母がいなくなるなんて、考えたこともなかったから。
「……お父さん。お母さん、良くなる?」
姉が父を見上げた。
「……すまんな。分からない」
父は、苦しそうに答えた。
「……お姉ちゃん」
姉の顔を見る。
その瞳には、涙が浮かんでいた。
「私、生徒会長になったのに……!お母さんに喜んでほしかったのに……!」
そうだった。
先日、姉は生徒会総会で、生徒会長の座を勝ち取ったばかりだった。
ずっと頑張ってきた姉。
きっと、誰よりも母に報告したかったのだろう。
褒めてほしかったのだろう。
頑張ったね、と。
よくやったね、と。
いつものように笑ってほしかったのだろう。
姉の頬を、一筋の涙が伝った。
「………ごめん……ごめんな……!」
父は必死に涙を堪えながら、私たちを抱き締めてくれた。
その腕の中で、私は少しずつ理解し始めていた。
母は、もう帰ってこないのかもしれない。
****
「ぐすっ……ヒック……っ!」
「…………」
「ぐすっ……!お母さん……っ!」
そして、母は帰らぬ人となった。
悔しかった。
悲しかった。
何もできなかった自分が、情けなかった。
―私が、母を救えなかった。
子どもだった私に、できることなんてほとんどなかった。
それでも。
大好きなお母さんを、助けたかった。
「愛ちゃん……泣くのを堪えるのに必死ね……」
「長女だものね……」
「次女の舞姫ちゃんは、正反対……」
葬儀では、親戚たちからも、姉妹の違いについて言われることが多かった。
姉は、必死に涙を堪えていた。
私は、悲しみを抑えられずに泣いていた。
「…………お母さん……!」
その後のことは、あまり覚えていない。
ただ、母がいなくなったという事実だけが、胸に残っていた。
そして数年後。
ある一通の手紙が、私の人生を変えることになる。
****
母の葬儀が落ち着いてから、一ヶ月。
その日は、夏の日差しが強かった。
そういえば、母の命日も蒸し暑かったはずだ。
「愛、舞姫……ちょっといいか」
父に呼ばれ、私と姉はリビングへ向かった。
「……どうしたの?」
「お父さん……顔色、大丈夫?」
父の様子がおかしかった。
どこか思い詰めたような顔をしている。
「実はな……お母さんが、天国へ行く前に手紙を遺していたんだ」
「……手紙?」
「みんなで読もうと思う」
父は、手元にあった一枚の紙を見つめた。
そして、恐る恐る封を開いた。
そこには、母の字で、こう書かれていた。
《大好きな愛と舞姫へ》
《このお手紙を読んでいるということは、お母さんはもういないのよね》
《愛も舞姫も、お母さんの大切な娘です。二人とも、本当に大好きよ》
父が、ゆっくりと読み進める。
《まずは愛》
《あなたは生まれたときから、本当に強い子でしたね。いつも人の前に立とうとして、みんなを引っ張ってくれる子でした》
《でも、そのぶん泣き虫で、妹想いの優しい子でもありました》
《小さい頃から英語の本ばかり読んでいて、愛はいつも楽しそうでしたね》
《お母さんは、愛が大きくなったら英語の先生になるのも似合うんじゃないかしら、なんて思っています》
《英語は、世界中の人とつながるための言葉です》
《愛には、もっと広い世界を見てほしい》
《いつも頑張りすぎて、泣いてしまうこともあるけれど……無理だけはしないでね》
《お母さんは、いつだって愛の味方です》
「……お母さん」
姉の目から、涙が溢れた。
母は、生きているうちに、私たちへの手紙を書いてくれていたのだ。
姉が泣いているのを見て、私も胸が苦しくなった。
母は、もういない。
それでも、こうして私たちのことを考えてくれていた。
父は、次のページへ目を向けた。
《次は舞姫》
《あなたはかなり内気で、いつもお姉ちゃんの後ろにいましたね》
《でも、泣く顔は愛そっくりで可愛かったわ》
思わず、目を伏せた。
《小さい頃から、何を考えているのか分からないことも多かったけれど……》
《舞姫は、周りの人をよく見ている子だと、お母さんは思っています》
《愛が疲れているとき、あなたは何も言わずに隣に座っていましたね》
《お父さんが仕事で落ち込んでいたときも、大好きな茄子の天ぷらを半分こしてあげていました》
「…………」
そんなことまで、覚えていたんだ。
自分では、何気なくしていたことだった。
《自分から気持ちを伝えるのは苦手でも、あなたはあなたなりの方法で、いつも家族を大切にしてくれていました》
《舞姫は、優しい子です》
《でもね、優しい子だからこそ、誰かのために自分の気持ちを我慢してしまうことがあるんじゃないかしら》
《お母さんは、それが少し心配です》
父の声が、ほんの少し震えた。
《誰かを大切にすることは、とても素敵なことです》
《でも、あなた自身の気持ちも、同じくらい大切にしてください》
《やりたいことが見つかったら、遠慮せずに挑戦してね》
《失敗したっていいの。迷ったっていいの》
《自分で考えて、自分で選んだ道なら、お母さんはずっと応援しています》
「……お母さん」
声が震えた。
母は、私のことを見てくれていた。
私がどんな子なのか。
どうやって人を大切にしているのか。
自分ではうまく言葉にできなかった気持ちまで、分かってくれていた。
父は、最後の部分を読み上げた。
《最後に、愛と舞姫へ》
《二人とも、お母さんの大切な娘です》
《どうか、お互いを大切にしてください》
《そして、自分の人生を大切に生きてください》
《お母さんは、二人がどんな大人になるのか、とても楽しみです》
《大好きよ》
《お母さんより》
「…………っ」
気づけば、涙が頬を伝っていた。
姉も泣いていた。
父も、顔を伏せていた。
誰も、すぐには何も言えなかった。
だって。
こんなにも、愛されていたのだから。
****
それから数年後。
私は、進路について考えるようになった。
何になりたいのか。
何をして生きていきたいのか。
すぐには答えが出なかった。
けれど、ある日。
ふと、病院のベッドで横たわっていた母の姿を思い出した。
何もできなかった自分。
助けたいのに、助けられなかった自分。
あの日の悔しさは、今でも忘れられない。
―もし、あのとき。
私に、もっと知識があったら。
誰かの力になれることがあったのなら。
そんな思いが、胸の奥に残っていた。
もちろん、看護師になれば誰でも救えるわけではない。
それは、今なら分かる。
それでも。
苦しんでいる人のそばにいたい。
その人を支えられる人になりたい。
そう思った。
棚の上に置いていた母の手紙を、そっと開く。
《やりたいことが見つかったら、遠慮せずに挑戦してね》
「……お母さん」
私は、看護師を目指すことにした。
母を救えなかった過去を、なかったことにはできない。
けれど、あのときの気持ちを、これから誰かを支えるために生かすことはできるかもしれない。
そう思ったから。
****
そして、現在。
私は再び、机に向かっていた。
参考書には、たくさんの付箋が貼られている。
ノートには、何度も書き直した跡が残っている。
「…………」
簡単な道ではなかった。
実習で落ち込むこともあった。
自分の知識不足を痛感することもあった。
それでも、ここまで来た。
「……お母さん」
写真立ての中の母は、あの日と同じように笑っている。
「私、看護師になりたい」
今度は、迷いながらも、ちゃんと言葉にできた。
「……なれるかな」
問いかけても、返事はない。
それでも私は、もう一度参考書を開いた。
「……うん。頑張ろう」
母からもらった言葉を胸に。
私は、またペンを握った。
……To be continued




