<第三十五足>藤と呼ばれた少女(後編)
「松寺さんって、めちゃくちゃ美人だよねぇ」
「すっごい可愛い!」
「彼氏いるのかなぁ……?」
高校に入学してからも、私はキャバクラで働き続けていた。
あの日から、学校での自分と、夜の世界での自分。
二つの顔を使い分けることが、いつの間にか当たり前になっていた。
夜の世界では「藤」。
そして、学校では「松寺仁愛」。
学校の生徒たちは、私を見るたびに容姿を褒めてくれる。
可愛い。美人。付き合いたい。
そんな言葉は、何度も聞いてきた。
でも、みんな私の顔を見て、それで終わり。
私がどんな人間なのか。
何を考えて、どんな毎日を過ごしているのか。
そんなことまで知ろうとする人は、ほとんどいなかった。
福吉さんは違ったのに。
あの人は、私の見た目だけではなく、私自身を見てくれている。
そう思えた。
「ねぇ……!あんたのせいで彼氏に振られたんだけど!」
「うちも告白したら、あんたが好きだって言われた! 本当にムカつく!ブスのくせに!」
「に、仁愛……?私、何も……」
「はぁっ? ちょっと可愛くて学級委員してるからって、調子に乗らないでよ! この男好き!」
突然、女子生徒たちに囲まれた。
私が何かをしたわけではない。
それでも、彼女たちは私を責めた。
私が誰かの彼氏を奪ったわけでも、彼女たちの告白を邪魔したわけでもない。
ただ、私のことを好きになった男子がいた。
それだけだった。
****
商業高校の会計科。
当時、私は一年六組に在籍していた。
クラスの男女比は、女子が七割、男子が三割ほど。
クラスメイトの全員が荒れていたわけではない。
むしろ、普通に学校生活を送りたいと思っている生徒もたくさんいた。
「松寺さん、しっかりしてるね!さすが、うちらの学級委員!」
「ありがとう……!」
「松寺さん、まじ癒やし……!」
そんなふうに声をかけてくれる友達もいた。
「松寺さんが描いてくれた学習旅行のしおりの絵、学年でも評判だよ!」
「えっ、本当? よかったぁ……!」
「本当に絵が上手だよね!」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいな」
絵を褒めてもらえることは、純粋に嬉しかった。
容姿ではなく、自分が描いたものを認めてもらえる。
そのことが、少しだけ誇らしかった。
担任の先生からも、よく褒められていた。
「松寺さんは真面目で天真爛漫だし、しっかりしている。学級委員を引き受けてくれてありがとうね」
「いえいえ!先生のお役に立てるなら!」
私は笑顔で答えた。
学級委員を務めるのは、一年生のときだけではなかった。
二年生になってからも、引き続き学級委員を任されていた。
けれど。
そんな私を快く思わない生徒たちも沢山いた。
「携帯は校内で使用禁止だよっ!」
「はぁ? うざ……」
「今日提出のアンケート、集めるよ?」
「やってねぇわ。松寺、その可愛い顔で先生に謝っといて?」
「…………」
注意しても、聞いてもらえない。
何かを頼んでも、まともに取り合ってもらえない。
クラスの半分近くが授業を妨害したり、陰湿な嫌がらせをしたりしていた。
担任の先生も対応に苦慮していて、クラスの雰囲気は決して良いとは言えなかった。
それでも、私は学級委員として、できることを続けた。
夜の世界では、可愛げのある小悪魔。
学校では、しっかり者で天真爛漫な学級委員。
私は、二つの自分を演じていた。
どちらも自分なのに。
どちらも、本当の自分ではないような気がしていた。
****
「ぐすっ……ぐすっ……」
「お父さん……?」
ある日、私の人生は再び大きく変わった。
父が、亡くなった。
借金に追われ、昼も夜も働き続けていた父。
その父が、自ら命を絶ってしまった。
「…………」
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
ただ、目の前の現実を受け止められず、涙だけがこぼれた。
「仁愛……ごめんね……ごめんねっ……!」
姉が私を抱き締めた。
「お姉……ちゃん……?」
姉は、彫り師として働いていた。
そんな姉が、私の左前腕と鎖骨に、鎖をモチーフにした刺青を入れた。
どうして、そんなことをしたのか。
そのときの私には分からなかった。
目を開けたとき、そこには鎖の刺青があった。
「…………」
藤でもない。
松寺仁愛でもない。
鏡に映った自分を見つめても、何も感じられなかった。
ただ、心の中にぽっかりと穴が開いてしまったようだった。
その後のことは、あまり覚えていない。
姉もまた、父を失った悲しみの中で亡くなってしまった。
私は、大切な家族を二人とも失った。
父も、姉も。
もう、帰ってこない。
「……なんで?」
誰もいない部屋で、私は呟いた。
「なんで、二人とも……」
答えてくれる人はいなかった。
私がもっと頑張っていれば。
もっと早く、何かできていたら。
二人は、いなくならずに済んだのだろうか。
そんなことを考えても、答えは出なかった。
それでも私は、自分を責めずにはいられなかった。
高校二年生になった頃。
私は、キャバクラから風俗へと働く場所を移していた。
今になって思えば、家族を失った悲しみから逃げたかったのかもしれない。
もう、どうなってもいい。
自分のことなんて、どうでもいい。
そんな気持ちが、日に日に強くなっていた。
****
「おらぁっ! 返済日、過ぎてるぞっ!」
ある日、ヤクザが家に押しかけてきた。
母が残した借金。
父が亡くなっても、それが消えるわけではなかった。
「ぐすっ……ぐすっ……」
「お父さんも、お姉ちゃんもいなくなって……もう、どうしたらいいのぉ……!」
もう、何もかも嫌だった。
誰もいない。
頼れる人もいない。
いっそ、どうなってもいい。
そんな投げやりな気持ちのまま、私はヤクザに泣きついた。
「…………あ?」
ヤクザは驚いたように私を見つめた。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、低い声で尋ねてきた。
「行くとこ、ねぇのか?」
「……うん」
「なら、ついてこい。殺しやしねぇから。飯、食わせてやる」
その言葉を聞いて、私は顔を上げた。
そして、私はヤクザたちのもとで暮らすことになった。
****
「あんた……高校生なんだろ?風俗で働いてるらしいな」
「うん……」
「まあ、高校卒業までは面倒見てやる」
「…………」
「ただし、借金の話は別だ」
男は、私の顔をじっと見た。
「高校卒業までに、お前を嫁にもらう男が現れたら、借金の件は考えてやる」
「…………え?」
「そうじゃなきゃ、こっちも商売だ。好き勝手に逃がすわけにはいかねぇ」
その言葉に、私は何も答えられなかった。
「風俗は辞めさせねぇとな……」
「うん……」
「可哀想に。心臓なくなるかもしれねぇんだぞ?」
「うん。もういいの。脳でも腎臓でも、お好きにどうぞ」
自分の命にさえ、執着がなかった。
どうせ何も残っていない。
そう思っていたから。
「こんなに綺麗なのに、生意気だなぁ」
「まあまあ。とりあえず、高校卒業まではここで面倒見てやる」
「……もし、お嫁にもらってくれる人がいたら、借金はどうなるの?」
「チャラだ」
男は、あっさりと言った。
「それに、てめぇは容姿に恵まれてる。嫁に欲しいって男は、周りにもいる。悪い話じゃねぇだろ?」
男一人で、借金がなくなる。
それなら、悪い話ではない。
当時の私は、本気でそう考えていた。
自分の人生を、誰かに差し出すことに、何の抵抗も感じられなくなっていた。
****
「煌星愛と申します。二十二歳の新米教師ですが、休職に入られた担任の先生に代わり、このクラスの担任を務めることになりました」
高校三年生になった春。
新しい担任の先生がやってきた。
前の担任が休職することになり、その代理として赴任してきた先生だった。
「…………煌星、愛……?」
どこかで聞いたことのある名前だった。
思い出したのは、あの日のこと。
福吉さんと一緒に店へ来ていた、煌星癒という男性。
確か、娘が二人いると言っていた。
長女が愛。
次女が舞姫。
ということは、この先生は─。
「あなたが学級委員なのね。よろしく頼むわ」
「……はい」
愛先生は、私をまっすぐに見つめた。
このときの私は、まだ知らなかった。
愛先生が、このクラスの副担任になる予定だったことを。
そして、このクラスが荒れていることで知られ、教師たちも対応に苦慮していたことを。
前の担任は、心身の不調から休職することになった。
そのため、愛先生が急きょ、代理の担任を務めることになったのだった。
****
愛先生が赴任して、一週間。
私についての悪い噂が、校内に広まり始めた。
「ねぇ、知ってる?松寺さんって、夜の仕事してたらしいよ?」
「まじ……?男好きなの、納得だわぁ」
「身体売ってたんだ……引くわ」
どこから話が漏れたのかは分からなかった。
でも、否定することもできなかった。
事実だったから。
「キャバクラで働いてたらしいよ?」
「うわぁ……絶対、露出の多いドレス着てたじゃん」
「しかも、風俗でも働いてたって聞いたぞ」
廊下を歩けば、ひそひそと声が聞こえる。
教室に入れば、視線を向けられる。
誰も、私に直接尋ねようとはしない。
ただ、噂だけが独り歩きしていた。
そして、その噂は愛先生の耳にも入った。
****
「仁愛ちゃん、座りなさい」
ある日の放課後。
私は、生徒指導室へ呼び出された。
部屋にいたのは、私と愛先生だけだった。
「……私、何かやらかしました?」
いつもの調子で尋ねてみた。
けれど、愛先生は笑わなかった。
「……違うわ」
その目は、鋭かった。
まるで、こちらの心の奥まで見透かそうとするような目だった。
「単刀直入に聞くわ。最近、あなたが夜のアルバイトをしているという噂が聞こえているの。心当たりは?」
「……ないです」
咄嗟に否定した。
「ふうん……?」
愛先生は、私の顔をじっと見つめた。
「それに、本来なら学級委員であるあなたがピアスを開けている。校則違反というだけでは済まない事情がありそうね」
「…………」
「あなたを見る限り、何か深い事情があるんじゃないかしら?」
見抜かれてしまった。
この人には、嘘をつき続けられない。
そう思った。
「いい?私はあなたの味方よ」
愛先生は、静かに続けた。
「話したくないかもしれない。でも、あなたを守るために必要なことなの」
「…………」
「少し、制服を緩めてくれる? 鎖骨のあたりを確認したいの」
私は、息を呑んだ。
「お洒落でやっているのなら、すぐに説明できるでしょう。でも、あなたの場合は違う。誰にも言えない事情があるんじゃない?」
鎖骨に刻まれた、鎖の刺青。
それを見られた瞬間、私はもう隠しきれないと思った。
不思議だった。
愛先生には、話せる気がした。
私は、これまでのことを話した。
母が残した借金。
父が亡くなったこと。
姉を失ったこと。
夜の世界で働いてきたこと。
そして、今も借金から逃れられずにいること。
すべてを話した。
「だから、仁愛が……頑張らないと……」
涙がこぼれた。
「仁愛が頑張らなかったから、お姉ちゃんも、お父さんも……失って……」
その瞬間。
パンッ。
乾いた音が、生徒指導室に響いた。
頬に触れながら、私は呆然と愛先生を見つめた。
「愛……先生……?」
愛先生は、ひどく悲しそうな顔をしていた。
「馬鹿っ……!」
声が震えていた。
「どうして、そんなに長い間、自分を大事にしなかったのよ……!」
そして、愛先生は私を抱き締めた。
「辛かったわね……。本当に、辛かったわね……」
私は、何も言えなかった。
ただ、涙が止まらなかった。
「実はね……この前の職員会議で、あなたを退学処分にするかどうか、話し合われていたの」
「……退学……?」
「だから、私は担任として、あなたの事情を知る必要があったのよ」
「……でも、まだお母さんの借金……全部返せてないから……。風俗……やらないと……」
愛先生は、私を抱き締めたまま、泣いていた。
「いいこと、仁愛ちゃん」
その声は、いつもよりずっと優しかった。
「もう、あなたは辛い思いをしなくていいのよ」
「先生……っ、ぐすっ……ひっく……!」
「You were born to be happy. So… don’t think you have to carry everything alone.」
あなたは、幸せになるために生まれてきたの。
だから、全部を一人で背負わなくていい。
愛先生は、そう伝えてくれた。
その日、私は初めて、自分のために泣いたのかもしれない。
そして、この日を境に。
「藤」としての私の存在は、少しずつ影を潜めていった。
……To be continued




