<第三十四足>藤と呼ばれた少女(前編)
「今日は、如月夢玖さんがお休みです。期末テストが終わったからといって、だらけないように」
「…………夢玖ちゃん」
期末テストと商業科目の検定が終わって、数日。
夢玖ちゃんが、欠席した。
それを知ったのは、朝のホームルームが始まる前だった。
『二人とも……おはよ。昨日から高熱出とって、熱下がらへん……しばらく学校休むわ』
朝、夜海ちゃんと私と夢玖ちゃんの三人で作っているLINEグループに、そんなメッセージが届いた。
あれだけ勉強に励んでいたんだもの。
身体に負担がかかっていても、おかしくない。
そういえば、毎日のように玄関先で眠ってしまうほど疲れていたんだっけ。
もっと早く、気づいてあげられたらよかったのに。
「ということで……松寺さん、四時間目が終わったら職員室に来るように」
「はい」
愛ちゃんが、私にそう告げた。
夢玖ちゃんがいない。
それでも、学校ではいつもと変わらない一日が始まろうとしていた。
「…………」
けれど。
このときの私は、思い出したくなかった過去を、鮮明に思い出してしまった。
****
時は、三年前。
当時、中学一年生だった私は、家族の借金返済に少しでも協力するため、駅前を彷徨っていた。
「…………」
中学生の自分が、お金を稼ごうだなんて。
今思えば、無謀なことを考えていたと思う。
それでも、何もしないわけにはいかなかった。
自分に何ができるのか。
幼い私が頼れるものは、限られていた。
「……そこの嬢ちゃん」
「私、ですか?」
不意に、スーツを着た男性から声をかけられた。
「……君、高校生?」
「いや……中学生……」
正直に答えると、男性は顎に手を添え、私の顔をじっと見つめた。
「その容姿で?ふーん……」
「…………?」
「その美しい容姿なら、売上も凄いだろうね」
「えっ?」
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。
「おじさんについてきなさい」
「ちょっ……嫌っ!」
突然、手を引かれた。
振りほどこうとしても、相手は大人の男性だ。
必死に抵抗したけれど、私の力ではどうすることもできなかった。
そのまま、私は連れていかれてしまった。
****
「おぉー!さすがオーナー!これはめちゃくちゃ売れるじゃん!」
「だろ? いやぁ……でも未成年だから、お酒を飲めないのは引っかかるけど……これだけ可愛けりゃ問題ない」
「(……えっ?ここ……キャバクラ?)」
気がつけば、私は派手なドレスを着せられていた。
髪を整えられ、顔には見慣れない化粧を施される。
鏡の中にいるのは、いつもの自分とはまるで違う女の子だった。
「……身長もスタイルも顔も……申し分ない」
「あ、あの……!」
「大丈夫、大丈夫!君から離れる客は絶対にいないよ」
私の言葉なんて、聞いてもらえなかった。
「源氏名は……そうだな」
男性は少し考えたあと、あっさりと告げた。
「藤。君は今日から藤だ。お客さんの前では十八歳。いいね?」
「…………」
小さなポーチを渡され、源氏名を与えられる。
そして、何が起きているのかも十分に理解できないまま、ホールへと連れていかれた。
「早速だけど、フリー卓についてみよう」
まるで、私の意思など最初から存在しないかのように。
「初めまして。私、藤といいます」
震えそうになる声を抑えながら、私は笑顔を作った。
すると。
「な、何と綺麗な子なんだ……!君、いくつ?」
「じゅ……十八歳です」
「若い、そして綺麗だ……!おい、この子に好きなソフトドリンクを持ってきてくれ!」
初めての接客だった。
それなのに、私が卓につくと、ほかのキャバ嬢よりも私に注目する客が多かった。
「可愛いねぇ! 大学生?」
「はい!学費を稼がないと……」
「偉いねぇ、いい子ちゃん。今度、同伴とかどう?」
「LINE交換しようよ!」
私が話せば話すほど、客は喜んだ。
何を言えば相手が笑うのか。
どんな表情をすれば、もっと喜んでもらえるのか。
そんなことを考えながら、私は必死に笑顔を作った。
そして、その日から。
私は夜の世界で、「藤」として生きることになった。
****
「藤ちゃ〜ん、見るたびに綺麗だねぇ」
「ふふっ♡ お客さんを癒やすのが、藤のお仕事だもん♡」
いつしか、私の売上は毎月ナンバーワンになっていた。
褒められることにも、笑顔を作ることにも慣れていった。
けれど。
ある日を境に、客たちの視線が変わり始めた。
****
「藤ちゃん……あれ、ドレス変えた?」
「むー♡少し太ったんだもん♡」
「太った……?胸だけが太ったんじゃない?何カップ?」
太客の一人が、私の胸元をじろじろと眺めていた。
何カップ、か。
気持ち悪い。
そう思っても、顔には出せなかった。
「……多分、Eかなぁ?成長期なのかなぁ♡」
「へぇ、藤ちゃんは可愛いなぁ。今度、お金出すからさ……ホテル行こうよ」
吐き気がした。
私自身ではなく、身体ばかりを見られている。
それでも、嫌だとはっきり言うことができなかった。
ほかの客も、同じだった。
胸や太腿に触れられることもあった。
嫌だと思っても、笑顔を作る。
断りたいと思っても、言葉を飲み込む。
そうするしかないのだと、いつの間にか思い込んでいた。
ある日、私は意を決してオーナーに相談した。
「オーナー……その、太客に身体を触られたんですけど……何とかなりませんか?」
「あのねぇ……キャバクラで触りっこは当たり前なんだよ。君はひたすら我慢すればいい」
「そんな……!」
初めて会ったときとは、まるで別人だった。
私を褒めて、売れると喜んでいた人。
その人が今、私の訴えを聞こうともしない。
「お金出すからさ……付き合ってよ」
「嫌……!」
それでも、私の拒絶は聞き入れられなかった。
自分の意思も、嫌だという気持ちも、尊重してもらえなかった。
私は、逃げることもできずにいた。
****
「こんばんは〜♡」
どれだけ酷い扱いを受けても、私は店を辞められなかった。
家族の借金は、まだ残っていたから。
父は日勤と深夜のアルバイトを掛け持ちしている。
姉も、いくつもの仕事を掛け持ちしていた。
それなのに、母は浮気をして家を出ていってしまった。
家族の生活も、借金の返済も、簡単には終わらない。
私が解放される日は、まだまだ先なのだと思っていた。
「ほぉ……おい。あの娘を呼んでくれ」
「かしこまりました。藤ちゃん、場内指名です」
そんな日々の中で。
私は、ある男性と出会った。
「失礼します♡私、藤といいまーす」
「初めまして。私は煌星癒。こちらは私の部下の福吉君だ。今夜はよろしく頼む」
そう名乗ったのは、白衣を着た中年の男性だった。
その隣には、銀髪の男性が座っていた。
「私は総合病院の理事長をしていてな。福吉君は、うつ病になってしまって……少しでも気持ちが楽になればと思って連れてきたんだ」
「そうだったんですね……。福吉さん、藤にできることがあれば、何でも言ってくださいねぇ?」
私は、いつものように笑顔を向けた。
これが、福吉さんとの出会いだった。
「……あぁ。君は幾つなんだ?」
「十八歳です」
「若いじゃないか。福吉君は二十四歳で研修医なんだ。ちなみに私は四十歳で、娘が二人いるんだ」
「えぇ? その……奥さん、怒らないの?」
「妻は病気で亡くしてなぁ。娘は高校生なんだ。長女が愛、次女は舞姫といってな……」
「愛ちゃんと、舞姫ちゃん……」
その名前を聞いて、私は少しだけ親近感を覚えた。
もっとも、このときはまだ、二人がどんな人なのか知る由もなかったけれど。
隣の福吉さんは、あまり話さなかった。
私が話しかけても、短い返事が返ってくるだけ。
それでも、無理に会話を盛り上げようとは思わなかった。
初対面なのだから、そんなものだろう。
そのときの私は、まさかこの出会いが、後の自分にとって大きな意味を持つことになるなんて、思いもしなかった。
****
「福吉さん、また来てくれたんだぁ」
「あぁ。君と話すようになってから、嘘みたいに回復してさ……今日は掃除ができたんだ」
「うわぁ♡ 福吉さん、偉ーい♡」
「まだ休職中だけどな。明日は少し料理でもしようと思ってる」
「ええっ! 凄いじゃん!楽しみだねぇ♡」
福吉さんは、少しずつ自分の日常を取り戻していった。
掃除をする。
料理をする。
そんな何気ないことができるようになったと、嬉しそうに話してくれる。
私も、それを聞くのが楽しみになっていた。
福吉さんは、ほかの客とは違った。
身体に触れようとすることも、無理な要求をしてくることもない。
私が笑顔を作っていなくても、怒ることはなかった。
私が「藤」として完璧に振る舞わなくても、そこにいていい。
そんな気がした。
「なぁ……君がよければ、同伴で飯でも行かないか?」
「えっ? いいの?」
「あぁ。嫌なら断ってくれて構わない」
その言葉が、妙に心に残った。
断ってもいい。
そんな当たり前のことを、わざわざ口にしてくれる人がいる。
私は、少しだけ驚いていた。
そして、福吉さんと一緒に食事へ行くようになった。
いろいろな店で、ご飯を食べた。
他愛のない話をした。
ときには、くだらないことで笑った。
その時間は、私にとって特別だった。
「藤」としてではなく。
誰かの期待に応えるためでもなく。
ただ、その場にいる自分でいられる気がしたから。
ある日の同伴で、私はふと尋ねた。
「……ふふっ。ねぇ、福吉さん」
「なんだ?」
「福吉さんはさ……恋、したことある?」
自分でも、どうしてそんなことを聞いたのか分からなかった。
ただ、知りたくなったのだ。
福吉さんが、どんな恋をしてきたのか。
「そりゃあある」
「へぇ……?」
「俺は……君が好きだ」
「え?」
思いがけない言葉に、私は目を丸くした。
「藤だからじゃない。君を、女の子として好きなんだよ」
「…………」
何も言えなかった。
誰かに好意を向けられること自体は、初めてではなかった。
でも、その言葉をどう受け止めればいいのか分からなかった。
私は本当は十三歳なのに。
十八歳だと嘘をついているのに。
福吉さんとは、十一歳も年が離れているのに。
それなのに、彼は私を好きだと言った。
「……ありがとう。福吉さん、藤も大好き♡」
気づけば、私はいつものように笑っていた。
その言葉に、嘘はなかった。
福吉さんのことは、大切だった。
一緒に過ごす時間も、彼が少しずつ元気になっていくことも、嬉しかった。
けれど。
それが恋なのかどうか、私には分からなかった。
「……君のおかげで、俺はここまで回復した。ちゃんと掃除するようにもなったし、飯も作るようになった。君には感謝しかない。俺の恩人だ」
「…………ありがとう」
私は、小さく答えた。
ありがとう。
その言葉は、誰に向けたものだったのだろう。
福吉さんに?
それとも。
初めて、ここにいてもいいのだと思わせてくれた人に?
──私にも、分からなかった。
……To be continued




