<第三十三足>気持ちが一番
「すう……すう……」
如月さんを寝かしつけて、気づけば俺まで眠っていた。
携帯を手に取り、時刻を確認する。
二十一時手前。
「……マジか」
思わず声が漏れた。
先ほどの、如月さんの無防備な一面を思い出してしまう。
途端に、耳まで熱くなった。
「……クソ」
誰に聞かせるでもなく、ぼそりと呟く。
ブー、ブー、ブー。
静かな部屋に、携帯の着信音が響いた。
画面に表示された名前は―煌星 愛。
「……もしもし」
『廉命君?私よ、愛よ』
「愛さん。お疲れ様です」
愛さんだった。
『鳳斗さんから事情は聞いたわ。夢玖ちゃんを見ていてくれてありがとう。今から迎えに行くわね』
「了解っす。今は寝てるんで、起きたら伝えます」
『ありがとう。また後でね』
職員会議がようやく終わったらしい。
これから如月さんを迎えに来るとのことだった。
「はい。お願いします」
通話を終え、俺は携帯を置いた。
そして、ソファで眠る如月さんに目を向ける。
「すう……すう……」
「…………」
―ただでさえ童顔なのに、寝ると余計に幼く見えるな。
俺という男の部屋だというのに、警戒心の欠片もない。
相変わらず間の抜けた寝顔だ。
なのに。
見ていると、どうしようもなく愛おしくなる。
「……睫毛、長えな」
そっと顔を覗き込む。
「肌も白いし……てか、唇ちゃんと保湿してんだな」
普段なら、こんなにまじまじと見ることなんてない。
なのに、今は目が離せなかった。
「……すう……すう……」
規則正しい寝息。
さっきまで熱に苦しんでいたことが嘘みたいに、穏やかな表情をしている。
―こんなになるまで、一人で頑張ってたんだな。
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
学校の勉強に、資格の勉強。
アルバイトだってある。
本人は平気だと言っていたが、実際には、家に帰ると玄関先で眠ってしまうほど疲れていたらしい。
それでも、如月さんは頑張り続けた。
自分が限界に近づいていることにも、気づかないまま。
「……バカだろ、お前」
小さく呟く。
責めているわけじゃない。
ただ、もう少し早く気づいてやれなかったのかと思った。
俺はそっと手を伸ばした。
如月さんの髪に触れる。
「……サラサラだな」
指先を通り抜ける、柔らかな黒髪。
一本一本が細く、驚くほど指通りがいい。
微かに、シャンプーの香りがした。
「……いい匂い」
自分で呟いておきながら、なんだか気恥ずかしくなった。
「……すう……すう……」
夢玖は起きない。
俺は手を止めた。
―こんだけ触れても気づかねえのか。
その無防備さに、困ったような気持ちになる。
普段は自由気ままで、何を考えているのか分からない。
こっちが気を揉んでいても、本人は「なんでやねん」と笑っている。
なのに、こうして眠っていると、ひどく小さく見えた。
俺は、そっと手を引こうとした。
──そのとき。
夢玖の頬が目に入った。
「…………」
ほんの少しだけ。
そう思って、指先で頬に触れた。
柔らかい。
思っていた以上に、もちもちしていた。
「……マジか」
思わず、そんな感想が漏れる。
白い頬に、指先が沈む。
もちろん、強く押したわけじゃない。
ただ、こんなに柔らかなものなのかと驚いた。
「…………」
そろそろ離れよう。
そう思ったはずなのに。
ふと、夢玖の顔を見てしまった。
閉じられた瞼。
長い睫毛。
小さな鼻。
そして、唇。
「…………」
心臓が、嫌なほど大きく鳴った。
―何考えてんだ、俺。
顔が熱い。
分かっている。
今、俺は夢玖のことを、ただの同僚として見られなくなっている。
だからこそ、これ以上は駄目だ。
眠っている相手に、自分の気持ちを押しつけるわけにはいかない。
俺は、伸ばしていた手を引っ込めた。
「……ったく」
小さく息を吐く。
「……早く元気になれよ」
聞こえるはずのない言葉を残し、俺はソファから少し離れた。
そのとき。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
「……愛さんか」
俺は慌てて玄関へ向かった。
****
「愛さん。お疲れっす」
ドアを開けると、愛さんが立っていた。
「ありがとうね。あとは私に任せてちょうだい」
「うっす。これ、病院でもらった処方薬と、売店で買ったものっす」
「ありがとう」
愛さんは受け取った袋の中身を確認し、顔を上げた。
そして。
「……それで、廉命君」
「はい?」
「夢玖ちゃんに、変なことしてない?」
「……えっ?」
思わず固まった。
「いや、なんのことっすか?」
「Don’t play dumb.」
「……はい?」
「年頃の男女が同じ部屋にいるのよ?何も起こらないとは限らないでしょう」
「ソファで寝かせて、飯食わせただけっすよ」
「なるほど……」
愛さんは、何やら考え込むように顎に手を当てた。
「お粥をあーんさせたりしたのね」
「俺のことなんだと思ってんすか……」
「……雷磨さんに、毎回ゲームで負けている人」
「そこ?」
思わず声が裏返った。
「いや、確かに否定できねえっすけど……」
「ふふっ」
愛さんが、ほんの少し笑った。
―この人、絶対楽しんでるだろ。
「……あの、愛さん。車で来てるんでしょ?俺が夢玖を運びます」
「逃げたわね」
「逃げてねえっす」
「教師としても、義姉としても、見過ごせないわ」
「……愛さん」
「なに?」
「俺のこと、嫌いっすか?」
「そういうわけじゃないけど……」
愛さんは、少しだけ困った顔をした。
「あなた、指導しがいがあるのよね」
「……あんた、新米教師なのに生徒指導もしてるんすか」
「そうよ」
「マジか……」
この人、どこまで本気なんだ。
そんなことを考えながら、俺は如月さんをそっと抱き上げた。
起こさないように、慎重に。
如月さんは小さく身じろぎしたものの、目を覚まさなかった。
「……すう……」
「…………」
腕の中で眠る如月さんを見て、思わず表情が緩みそうになる。
―いや、今はそれどころじゃねえ。
俺は気を引き締め、愛さんと一緒にエレベーターへ向かった。
****
駐車場に着くと、愛さんが車のドアを開けた。
如月さんを後部座席に寝かせ、体勢が苦しくないか確認する。
愛さんはその様子を見届けてから、俺に向き直った。
「ありがとう。学校もアルバイトもしばらくお休みさせるわ」
「うっす。そのほうがいいと思います」
「熱も高かったそうね。帰ったら、もう一度状態を確認するわ。必要なら病院にも相談するから」
「お願いします」
如月さんは、まだ眠っている。
俺はその顔を見つめてから、愛さんに視線を戻した。
─が。
「それで」
「……はい?」
「本当に、何もしていないのね?」
「まだ疑ってんすか!」
「だって、あなた……」
愛さんは、真剣な顔になった。
「夢玖ちゃんのこと、好きなんでしょう?」
「…………」
言葉が詰まった。
「……愛さん」
「なに?」
「……そんな簡単に言うんすね」
「今年で二十三歳になるのよ、私」
愛さんは、呆れたように息を吐いた。
「あなたが夢玖ちゃんを好きになること自体は、構わないわ」
「…………」
「でもね」
愛さんは、眠っている如月さんに目を向けた。
「この子の気持ちが一番だから」
その言葉は、静かだった。
けれど、はっきりとしていた。
「夢玖ちゃんは、これまでいろいろなことを経験してきたわ。今はようやく、安心できる場所を見つけて、自分の将来について考え始めたところなの」
俺は黙って聞いていた。
「誰かを好きになることも、誰かと付き合うことも、この子自身が決めることよ。周りが急かしたり、気持ちを押しつけたりしてはいけないわ」
「……分かってます」
そう答えた声は、自分でも思った以上に小さかった。
愛さんは俺を見つめた。
「本当に?」
「……はい」
今度は、はっきりと答えた。
如月さんのことが好きだ。
それは、もう否定できない。
けれど、俺が好きだからといって、彼女も同じ気持ちだとは限らない。
如月さんには、如月さんの人生がある。
これから知ることも、出会う人も、選ぶ未来も、たくさんある。
その中で、いつか俺を選んでくれたら。
─いや。
今は、そんな先のことを考えるよりも。
まずは、如月さんが元気になることだ。
「……愛さん」
「なに?」
「俺、如月さんが元気になるまで、ちゃんと待ちます」
愛さんは、少しだけ目を見開いた。
そして、ふっと表情を和らげた。
「……そう」
「はい」
「なら、いいわ」
愛さんは車のドアに手をかけた。
「今日は本当にありがとう、廉命君」
「……いえ」
「あなたも、ちゃんと休むのよ」
「うっす」
ドアが閉まる。
愛さんの車が、ゆっくりと駐車場を出ていった。
俺は、その後ろ姿をしばらく見送っていた。
「…………」
―この子の気持ちが一番だから。
愛さんの言葉が、頭の中で繰り返される。
分かっている。
夢玖は、俺のものじゃない。
誰かに守られなければ生きていけない、弱い人間でもない。
あいつは、自分で考えて、自分で選んで、自分の足で歩いていく。
俺ができるのは、その隣を歩けるような人間になることだ。
「……クソ」
照れくさくて、思わず顔を背けた。
けれど。
「……早く元気になれよ、如月さん」
その願いだけは、嘘じゃなかった。
……To be continued
第33話を呼んでいただき、ありがとうございます。
廉命の密かな独占欲が丸見えに…!
夢玖は良くなるのか…
それではまた。




