蒼の季 向夏-17.望む
夜になっても市場は明るい。
魔導灯が照らす街は、夜ならではの屋台が立ち並び、昼間とは違う賑わいを見せる。
肉の焼ける香ばしい匂いが漂う。
任務を終えて、そのまま立ち寄ったのだろうか。
上半身だけ鎧を脱いだ兵士の姿も多い。
串焼きの肉や魚を片手に、一日の終わりの一杯を楽しむ姿は、皆楽しそうだ。
小ぶりのワインやエールの瓶は、こういう人たちのために用意されたのかもしれない。
立ったまま豪快にらっぱ飲みする姿は、リシアではあまり見かけない光景だ。
これだけ人が多いと、座る場所を確保するのも大変なのだろう。
その賑やかさを、今は遠ざけたい気分だ。
手には、さっきのリシェの感触がまだはっきりと残っている。
この話をしようと思い始めたのは、少し前のことだ。
流れ込んできた感情に、戸惑った。
耳の話を聞いても、リシェは取り乱すこともなく、冷静に受け止めてくれた。
揺れてはいたが、それはすぐに落ち着いて、信じてくれたのが伝わった。
その後だ。
リシアに帰ると伝えたときのリシェは、耳の話よりもずっと強く揺れていた。
とても純粋な寂しさ。
自分がなるべく抑えようとしていた感情を、彼女は全力で伝えてくれた。
それが嬉しくて、リシェに引っ張られるように、寂しさが込み上げた。
あの時リシェが飲み込んだ言葉は、どこに行くのだろう。
感情を大きく動かさないリシェの、心からの言葉だ。
心に沈めてしまう前に、ちゃんと届いて欲しい。
足元を歩くフウは、いつもよりも身体を寄せて歩く。
彼なりに、何かを感じている。
自分でも驚くほど、心が沈んでいる。
それがリシェの感情なのか、自分の感情なのか、はっきりと区別も付けられない。
アベリスの門に入ると、後ろを歩いていたセラが厩へと向かう。
彼女は何も言わず、ただ静かに見守るだけだ。
突然、目の前に大きな影が降った。
反射で身体に力が入る。
身体を寄せたままのフウに、変化はない。
「何かあった?」
聞き慣れたいつもの声だ。
それが誰だか分かっても、強張った身体は思うように動かない。
「どうした?」
「……お、驚きました」
「え? 何度も上から呼んだんだけど」
「ちょっと考え事をしていて……聞こえていませんでした。すみません……」
まだ心臓が忙しく動いている。
ユアンが2階の窓から飛び降りるのを見るのは、これで3度目だ。
さすがに暗い中で突然だと、頭が追い付かない。
「……ごめん、なんか、すごく空気が重かったから……何かあったかと思って。……次は気を付ける」
「わたしは大丈夫ですが……レイラン様に叱られますよ」
「大丈夫、レイランには見られてない。で、どうしたの?」
フェンを連れて来たセラから手綱を受け取ると、ユアンはセラを屋敷へ返した。
「リシェの所に行ってきました……」
「うん……少し歩こうか」
聞いて欲しい。
感情の整理が付く前に、人に話をしようと思う自分に驚いた。
小さく頷くと、彼は隣をゆっくりと歩き始めた。
フェンを離れの厩に戻すと、フウも一緒に休むようだ。
ユアンがいると、フウは気分次第で来たり来なかったりする。
どうやら、フウはユアンを認めているらしい。
庭を歩きながら、リシェのことを思い出す。
まだ整理が付いていない。
心の中に散らかった言葉は、自分の気持ちを表してくれない。
ユアンは、時折相槌を打ちながら、話を遮ることなく静かに聞いてくれた。
ぽつりぽつりと話しているうちに、アベリスの庭にある東屋に着いてしまった。
2人で話すときは、だいたいここだ。
目の前には、王都を照らす灯りが点々と浮かんでいる。
「そうか……ルティナも寂しいんだね」
しみじみと、噛みしめるようにユアンは言った。
「リシェが寂しがってくれたのが嬉しくて、わたしも寂しくなりました」
あんなに寂しがってくれるなんて、思いもよらなかったのだ。
手を震わせているリシェを前に、不謹慎なのは分かっていても……
嬉しいと思ってしまった。
「お互い、相当大好きだね」
「……好き……というか……会いたいときに会えないと思うと……すごく遠くなるんだと実感してしまって……」
「うん、それが寂しいってこと。大好きで、会えなくなるのが寂しい」
「……寂しい……です。でも、仕方のないことなので、なるべくそれは抑えようと思ってたんですが……リシェが、泣きそうなくらい苦しそうで……」
「ルティナも泣きそうな顔してるよ?」
言われて気付いた。
膝の上に置いた手には、自然と力が入っていた。
「リシェは言葉にしませんでしたが、レイラン様が一緒に行くことも、なんとなく気付いたんだと思います」
「言わなかったの?」
「聞かれたら答えるつもりでした。でも、ユアン様のことは聞かれましたが、レイラン様のことは聞かれませんでした……」
「そうか……」
きっと、それを聞きたくなかったのだと思う。
リシェはレイランをとても慕っている。
まだ恋心とは違う、兄のように……というわけでもない。
2人にしか分からない、しっくりくる名前が見つからない距離感だ。
「レイランも気にしてたからな……」
「そうなのですか?」
「うん、リシアに行くことをどう伝えようかって。自分が言うより、ルティナが言った方がいいだろうって」
「なぜでしょう?」
「ん? んー……。リシェは、ルティナに会えなくなるのが寂しいと思ってるんじゃないかな」
レイランにとっても、リシェが特別な子なのは見ていれば分かる。
でも、それがどう特別なのかは、本人にしか分からないことだ。
どちらにしろ、お互いをとても大切にしている。
「実際、わたしもとても寂しいですが……」
「リシェはどうしたいんだろうね? 一緒にリシアに来るっていう選択肢もあるよ? 彼女が望めばだけど」
言っている意味が、よく分からなかった。
頭の中で反復する。
一緒にリシアに来る。
さらっと、すごいことを言っている。
リシェにとっては、リシアで暮らす必要など欠片もないはずだ。
家族とも離れて、特に理由なく王都から離れるなど、到底考えられない。
「わたしは帰る家がありますし、ユアン様もレイラン様もリシアに行く意味がありますが……リシェにはリシアに来る理由が……」
「理由がなきゃ来ちゃだめ? 理由なんて、本人が望んだからで充分だよ。リシェにとっては、ルティナがいる場所っていうだけで、すごく大きな理由になると思う」
「でも……住む場所も……仕事もありますし……」
「そんなのどうとでもなるよ。ルティナの家に余ってる部屋はない? 一緒に暮らすのが都合悪いなら、離れを作ったって良い。リシェの仕事だって、技術があるならどこだって出来る。ルティナの家に専用の作業場を作ってもいい。2人がそこで作業してる姿、すごく想像しやすいよ」
ユアンが言う光景を想像するのは簡単だった。
フェンとフウとラウラが庭で寝ていて、薬草を調合している自分と、作業場で石飾りを作るリシェ。
想像した自分たちは、笑っている。
沈んでいた胸に、ふわりと小さな光が見えた。
でも、それは自分が住み慣れた場所だからではないだろうか。
リシェにとっては、エンの森はなんの縁もない場所だ。
森に暮らすことに抵抗があるかもしれない。
王都でしか手に入らない石や鉱石もあるだろう。
「ルティナは全部を整えようとするから、不安になるんだと思う。実際、そのお陰でルティナの隣は心地良いのかもしれない。でも、一緒に整えていくっていうこともできるよ? 一緒に考えたら、なんでもできそうな気がしない?」
ユアンにとっては、こういう発想が当たり前だ。
自分にはない。
願うことは何か。何を望むのか。
ユアンの視点はいつも、その人の意思が最優先だ。
温かい。
彼はいつも、心を晴らす光をくれる。
「リシェが……何を望むか……」
「うん。望んだすべてが叶うとは思わない。でも、それが叶えられるもので、誰かに負担をかけたり、迷惑にならないことなら、あとは自分の意思だけだと思う」
「わたしが……望んでも良いでしょうか」
「もちろん。ルティナは何を望むの?」
何を《《望む》》のか……
考えてみると、何かを望んだことがあっただろうか。
願うことはたくさんあった。
この世界に。
誰かに。
自分のために。
自分の意思を先に置く。
皆で一緒にいたい。
リシェも、レイランも、ユアンも。
フェンも、フウも、大好きな存在と一緒にいたい。
「皆と、一緒にいたい」
言葉と同時に、自分の中に白銀の光が溢れる。
止めどなく、ただ溢れてくるのは、まだ名前の知らない感情だった。
自分でもわかるほど、ほのかな光が全身を包んでいく。
ユアンは眩しそうに目を細めて、その瞳には呼応するように黄金色が舞い散る。
霊素がざわめく。
黄金色に導かれるように、ユアンの背へ形にならない光が広がる。
はっとして、頭に手を当てた。
「大丈夫。うっすら光が集まっただけで、顕現してないよ」
再びユアンを見ると、もう光は収まっている。
「霊核は素直だね。ルティナの感情にちゃんと反応する」
眩しそうな目は変わらない。
ユアンがルティナを見つめる瞳は、自分でも見えてない内側を見ているようだ。
「……初めて、望んだからかもしれません」
「うん、分かるよ。王都に来てから、ルティナは願えるようになった。これからは、望むこともできるようになるよ」
「まだ、とても難しいです」
ユアンは幼い子を撫でるように、ルティナの頭をそっと撫でた。
「言葉にすることは少ないけど、人は望みながら生きていると思うよ。俺はルティナがいるからリシアに行きたいと望んだし、レイランは俺と共に歩みたいと言ってくれた。フウだって、セラだって、ルティナといたいからここにいるんだ」
「わたしがいるから……ですか?」
「そうだよ? 俺が望まなければ、兄上は無理に行かせたりしない」
「それは……そう、ですね」
「ルティナは俺といたいって、思ってなかった?」
「そうなってくれたら嬉しいと……願ってはいましたが……」
望むことと願うことは、だいぶ意味が違う。
意思と、祈り。
選ぶか、委ねるか。
自分か、世界か。
陽か、陰か。
そう考えると、望むことも、願うことも、巡っているのではないか。
「どちらも、見ている景色は同じなのだと……思います」
「そうだね。どちらもしていいし、どちらも心に在るのが、理想かもしれない。俺はルティナから、世界に願うことを教わった。手が届かないことでも、願うからこそ見える景色がある」
「わたしは……自分の思いを……望んでもいいと。ユアン様は、いつも新しい種をくれますね」
「ユアン様?」
からかう時のユアンの顔は、口の端がきゅっと上がる。
「まだ意識しないと呼べないみたいです……」
声を上げて笑ってはいるが、不満が漏れ出している。
「今日ずっとユアン様って呼んでるよ?」
「気付いていませんでした……」
「じゃあ、俺もルティナ様って呼ぶか」
「それは嫌です」
「じゃあ、ルティナも頑張って」
「がんばっています」
笑い声が、アベリスの庭に響く。
ユアンと話をすると、いつも最後は穏やかに笑っている。
いつも種を貰って、忘れた頃に、理解として芽吹く。
それは必然なのだ。
ユアンは望んで、そうなるように行動する。
手を伸ばして取りに行く。
だからいつか、現実になる。
それを、同じように自分ができるとは思わない。
願い、祈り、委ねることで、受け取れるものがあることも知っている。
ユアンはそれを分かった上で、別の景色を見せてくれる。
この人は、世界を広げる人だ。
その広がった世界を、もっと深くまで知りたいと思う。
理解して、心に落とす。
それを繰り返していくごとに、世界に一歩ずつ近づいていける。
感じたものを心に落とし、自分自身になったとき。
世界をひとつ、識ったことになるのだと、そう思いたい。
アマヒトがずっと追い続けるもの――
途方もなく遠い世界の理に、この人と一緒なら、いつか辿り着ける気がする。
―想いが交わる時― 巡了




