蒼の季 向夏-14.交わる
庭園から出て、門まで戻って来た。
レイランの姿はまだ見えない。
門に立つ若い兵士が、こちらに向き直り姿勢を正す。
「すまない、言伝を頼んでもいいだろうか?」
レイランが迎えに来るのを待つ気にもなれなかった。
足が向くのに任せて、人の気配のない城下へと歩き始める。
そろそろ、閉門の鐘が鳴る頃だ。
この時間になると、もう静かなものだ。
晴れた夜空には、儚げな三日月が昇り始めていた。
さらさらと降る霊素は、音もなくこの世界に降り積もる。
ルティナの白銀とそう変わらない色の霊素は、僅かに輝きが強い。
彼女の霊素は、もっとふんわりとやわらかく光っていた。
この白銀を見るたびに、彼女を思い浮かべてしまうのはどうしようもない。
霊素を、以前よりもはっきりと感じられる。
夜になるとその感覚は澄んで、遥か遠く、森や山の音までも聞こえてくる。
見えるようになってからというもの、世界は美しい。
ルティナが世界をあれほど愛するのは、これを見続けてきたからかもしれない。
月夜には白銀が舞い、太陽は黄金を注ぐ。
陰の霊素は、熱を放つ身体を鎮めるように寄り添う。
ひんやりとした感触は、そこに在るだけで心地よいのだ。
アベリスの屋敷に戻っても、部屋に戻る気にはなれない。
罪悪感など意味のないもので、オルヴィアに対しても失礼だと分かっている。
胸に残るこの重苦しさは、自分の感情だ。
好意を受け取り、返さない選択をした。
気付かずに済むのなら……なんなら向けられない方がどれほど楽だろうか。
レイランの接し方が、一番何も起こさずに過ごせる方法なのだろう。
そこに至るまでに、レイランも同じように苦心したのだ。
屋敷に入らず、壁に寄りかかって空を見上げていた。
ふと、離れの方から歩いてくるのを感じる。
一定のリズムで、狭い歩幅で、何かを探るように近付いてくる。
「ユアン様……?」
「うん、どうしたの?」
「……なんとなく、気になったのですが……何か、ありましたか?」
ルティナは心配そうに見上げる。
離れた位置で、フウがこちらの様子を確認している。
「月が出ていると気持ちいいから、涼んでいたんだ」
「……そうですか……何もなければ、良いのです」
この重さを感じ取ったのだろう。
そのまま目を逸らし、空の月を見上げた。
「随分と細くなりましたね。もうすぐ生まれ変わりでしょうか」
何も聞かず、静かに月を見る横顔は、ただ静かだ。
「……三日月って、ルティナのイメージに一番近いんだ」
「だから……印章の紋様が三日月を模しているのですね?」
耳飾りに触れながらこちらに顔を向けると、控えめな白銀が舞った。
「ああ、ルティナの紋だからね。レスティアがデザインする時に助言を求められたから、そう伝えたよ」
ルティナに贈られた耳飾りには、彼女専用の紋が彫られたチャームが付いている。
三日月と双葉を組み合わせたデザインは、彼女によく似合う。
「そうだったのですね……わたしはあんなに頼りなく、寂しげに見えていたのですね……」
ルティナが三日月に持つ印象は、自分とは違っている。
それなのに、眩しそうに月を見つめ、なぜか嬉しそうに微笑んだ。
「俺の中で三日月は……繊細で儚げなのに、凛として美しい。月が見せる表情で、一番美しい瞬間だと思っているよ」
「……確かに美しいです。とても」
彼女の周りに漂う霊素が、感情に呼応する。
光を強くする白銀に囲まれるルティナは、人とは思えないほど美しい。
思わず手が伸びそうになるのを、頭の端に残っている自分が抑えた。
そばでいられるだけで満足だったはずだ。
「そういう表現をするなら、ユアン様は……朝陽、です」
「朝陽……?」
「はい。闇を照らす、澄んだ目覚めの陽。世界に射す最初の光です」
奥から沸き上がる感情に驚いて、思わず目を逸らす。
それを横目に、ルティナは声に出さずに笑っている。
「ユアン様は、最近よく照れていますね」
「ルティナはむしろ、照れなくなったよね」
「……はい、素直に受け取って良いのだと分かったら、恥ずかしいより嬉しいが多くなりました」
「照れてる君をからかうのも楽しかったんだけど……」
「今まで散々からかわれてきましたから、そろそろお返しをしたいところです」
「……それは、勘弁してくれ……」
「素直に受け取ると、恥ずかしくなくなりますよ?」
それを受け取ることを、まだどこかで躊躇している。
この心地良さがいいのだ。
「じゃあ、そろそろ俺を呼び捨てにできるんじゃないか?」
大人げないと分かっていながら、自分だけが動揺しているのが耐えられなくなった。
「え……と、それは……また別の問題で……」
急にしどろもどろになりながら、視線を不安定に彷徨わせる。
「どうして? 照れて言えないんじゃないの?」
「照れて……いるのでしょうか」
手をこめかみに当てて、真面目に考え出す姿はあまりにも素直で可愛い。
「じゃあ何で呼べないんだろうね?」
「ユアン様は、皆さまからそう呼ばれていますし……王族というのもありますし……」
「でも、最初に会った時はそれを知らなかったはずだろ? その時から様呼びだったよ?」
「最初はお客様というか……レイラン様のことを身分の高い方だと思ったので、その方が仕えていると思うと、自然に様呼びになったというか……」
「じゃあ、その頃から随分一緒に過ごしてきたつもりだけれど、俺との距離は一歩も近付いてないって事だね?」
「いえ、そんなことは……むしろ、ユアン様という呼び方には、わたしの好意と敬意を含んでいるというか。もう、単なる敬称とは違うような……」
頭をぐるぐるさせながら、必死に説明をしようとする姿は、彼女らしい誠実さだ。
言いたいことは分かるのだ。
その呼び方で他人行儀だとはもう思っていない。
ただ、自分がそう呼んで欲しいという、ただのわがままだ。
「そっか。その呼び方に意味が出来てしまったのなら……まぁ、仕方がないか……素直に嬉しいよ」
ルティナはこちらに目を向けて、再びうつむいた。
何度も深呼吸を繰り返しているのは、言葉を飲み込んでは出そうとしているように見える。
「……ルティナ? 大丈夫?」
顔を上げて、意を決したように口を開く。
「ユアン」
いつもの呼び名を途中で止めるように、ルティナは名前だけを呼んだ。
次の瞬間、首まで真っ赤になっているのが分かってしまった。
言葉にできない恥ずかしさが、彼女の空気を揺らす。
そんなことは関係なかった。
胸の奥で弾ける嬉しさの方がずっと大きかった。
溢れ出た感情は、彼女の恥ずかしささえ吹き飛ばしてしまった。
「ふふっ」
「……え?」
「そんなに喜ばなくても……」
「だって嬉しいんだから仕方ないだろ」
「……がんばりました」
「俺の嬉しさを素直に受け取れば、恥ずかしくないんじゃない?」
きょとんとした目で何度も瞬きをし、その目はじっとユアンを見つめる。
「ユアン」
「おっ」
「まだ慣れませんが……呼べそうな気がします」
「おお」
「でも……しばらくは、2人のときだけにします……。周りの目が気になって、普通に会話が出来なくなりそうです……」
「ははっ。結局恥ずかしいんじゃないか」
「ユアンと他の人は、まだ距離が違うんです……」
鼓動が跳ねた。
ここ最近で一番嬉しかったことが、もう塗り替えられた。
名前を呼んでくれたことよりも、自分だけが他の人とは違う距離にいるのだと知れたことの方が、よほど嬉しかった。
「充分嬉しいよ、ありがとう」
いつの間にか、胸に残っていた重苦しさは感じなくなっていた。
忘れたつもりはない。
こうやって自分に溶けて、変化していくのだと思った。
ルティナの白銀が舞い散るのを見つめた。
自分の心の在り処は紛れもなくここだ。
胸に灯った光は、もう揺らぐことはなかった。
ルティナを離れに送ってから屋敷の入口に向かうと、辺りを見回すレイランの影が見えた。
こちらに気付き、ほっとした様子で駆け寄って来る。
「申し訳ありません。お迎えが間に合いませんでした」
「別にいいよ。少し歩きたかったから」
「……そうですか。その割には、思ったよりも……普通ですね」
レイランには、何度もこういう場面を見られてきた。
オルヴィアほど親しい女性ではないにしろ、その度に気持ちの整理をするのに時間がかかっていた。
「そうかもな。ルティナが出て来てくれて、少し話をしたからかな」
「なるほど」
あっさりと納得したレイランは、視線を地面に落とす。
その場から動かずに、どこか浮かない顔だ。
自分よりもレイランの方が様子がおかしい。
「リシェの店に行ってきたんだろ? 会えたのか?」
「あ、はい。石の浄化用に、香を頼んできました」
どこがというと説明できないが、何かすっきりしない表情をしている。
こういうレイランを見るのは珍しい。
レイランは自分の感情が揺れるのを好まない。
自分の感情を処理できないことなど、ほとんどないのではないかと思う。
心は常に整えて、何かあってもすぐに自分で元に戻す。
「どうかした?」
当てはまる言葉を探すように、目を閉じてひとしきり考える。
「リシェに、リシアに行くことを伝えた方が良いのではないかと……」
「まだ言ってないの?」
「わたしがですか? 言ってません。ルティナ様もまだ伝えていないようでしたので……」
「まぁ、そういう話になってないだけだと思うけど」
「少し先の話になって、そのときには王都にいないだろうと思ったら、話を続けるのが難しくなってしまって」
「言えばいいだろう?」
「いや……ええ、そうですね。言えば良かったかもしれません」
そのらしくない様子は、年相応のレイランだ。
まだ21だというのに、普段は出来過ぎているほど完璧に立ち回る。
考えてみれば、6歳の頃から自分の後ろでずっと従者のように動いていたのだ。
微妙な立場で、大人から見ても扱いにくいユアンが普通に過ごせていたのは、レイランが側にいてくれたからだ。
「リシェはルティナだけの友達じゃないだろう? 別に隠していることでもないし、そういう話になれば、俺だって普通に言うと思うよ」
「そう、ですね……ただ、リシェにとって、ルティナ様はとても大切な存在のようで。いなくなると分かったら、寂しがるだろうと……」
言おうと言うまいと、現実は変わらない。
寂しがると思ったところで、ルティナがずっと王都にいることはないのだ。
そんなことで引っかかっていること自体、レイランにしたらおかしなことだ。
理屈と感情が一致していないのが、この歯切れの悪さの原因だと思うと、急に幼く感じてしまう。
自分のことでなければ、こうやって切り分けて考えられるのだから、人というのは都合がいいものだ。
「それはお互い様じゃないかな。ルティナにとっても、リシェは初めての友達だろうし。だからルティナは……伝えられていないのかもしれない」
「今は、見守っているのが良さそうですね」
「ん? ああ、あれ? レイランが寂しいんじゃないの?」
屋敷に入ろうと足を踏み出したところで、レイランは立ち止まる。
「わたしがですか? 寂しい……リシェが寂しがるだろうと思っただけで……」
「でも、まだ話してないんだから、リシェが寂しがったわけじゃないだろ? 先の話をできないことに、レイランが寂しかったんだと思ったんだけど……」
ユアンと目を合わせながら、一点を見つめて動かない。
会話をしているようで、自分に問いかけている。
考えを巡らせるときの、いつものレイランだ。
「……確かに、彼女の感情を想像してしまっただけかもしれません」
「ああ、そうか? そういう捉え方も、なくはないかもな……」
「でも、やはりわたしが先に伝えるのは良くない気がしますね。ルティナ様にも思うところがあるでしょうし、もう少し様子を見ます」
自分の中での理由付けを済ませて、レイランは屋敷へと足を向ける。
いつも通りを装うレイランだが、ユアンには分かってしまう。
なんとか置き所を決められただけで、心はまだ揺れている。
レイランに大切なものが増えることは、ユアンにとって嬉しいことだった。
ひたすらユアンのためだけに生きてきたレイランだ。
他の誰よりも、彼が幸せであって欲しいと願っている。
「あ、そうでした。先ほどアルヴィン様から連絡があり、ユアン様の任命式と、お披露目の夜会の知らせが届いたそうです」
「うわあああ……本当にやるの? 夜会なんていらないだろ……」
「今回のことは、広く伝えておきたいのでしょう。これにはわたしも賛成です」
大勢が集まる夜会ほど、面倒な場所はない。
普段なら夜会へはほとんど顔を出さないが、今回は逃げられないことが決まっている。
「さすがに、ルティナ様は呼ばないことにしたそうです。まだ風当たりが強いだろうと」
「呼ぼうとしていたのが信じられないよ」
「ナーシャ様が、ルティナ様を着飾って、見せびらかしたかったようですよ」
レイランが、さも楽しそうに軽口を叩く。
ナーシャならあり得る。
そういうところが、アルヴィンとそっくりなのだ。
「ルティナがそういうのを好まないのは分かるだろう?」
「そうでしょうか……案外堂々と振舞っていそうな気もしますが……」
「堂々と振舞ったあとに、寝込んでしまいそうだ」
「……正直なところ、わたしも見てみたかったですね。さぞお美しいことでしょう」
それは、否定できない。
でも、見せびらかしたいとは……
「そうじゃなくても目立つのに、これ以上誰に見せたいのか……」
「この前のフォートの件が耳に入ったのでは? 手を出すなと言いたいのかもしれません」
それならば、納得できなくもないが……
出来れば、ルティナをそういう場に立たせたくないというのが本音だ。
苦手だと言っても、ルティナは卒なくこなしてしまいそうに思える。
きっと、すべての人に同じに、丁寧に接する。
だからこそ心配なのだ。
「彼女のお披露目ならまだしも、俺のなら巻き込む必要はないよ」
「実際、いつかそういう機会が設けられそうですしね。楽しみはその時まで取っておきましょう」
さっきの仕返しのように、レイランは饒舌にユアンの胸の内を突いてくる。
二重の意味で、大きなため息が漏れた。
自分のための夜会。
いつかあるかもしれない、ルティナのお披露目。
そのどちらも、考えるだけで気が滅入ってしまう。
どうしようもない独占欲だとは分かっているが――
美しく着飾った姿を、自分だけに見せて欲しいと切に願ってしまったことは、胸の奥に秘めておくことにした。




