蒼の季 向夏-13.願う
「文官はどのくらい必要だろう?」
リシアの準備専用にした執務室には、いつもの顔ぶれが集まっている。
隣にはレイラン、その向かいにはイアム。
窓際に立ち、外に視線を向けていたエイダが静かに口を開く。
「当面は、イアムの他に2名いれば充分でしょう」
腰のさらに下まで伸びた灰銀の髪を揺らし、ゆっくりと振り向いた彼は、涼やかな視線をこちらに向ける。
エイダがこの部屋に来るようになってからしばらく経つが、彼が座っているところを見たことがない。
身体の前に立てた杖に両手を添え、その完璧で隙のない立ち姿が崩れることはなかった。
オルフェスが師と呼ぶその理由は、仕事という意味だけではないのだと、話をするようになって分かってきた。
「2人……ですか? さすがに足りないのではないでしょうか」
イアムは机の書類を捲りながら、エイダを見上げる。
「あなたがいるのですから、日々の業務は問題ないでしょう。2人と言ったのは、王都との連絡担当として、定期的に行き来してもらう文官の数です」
「は? 私ひとりで業務をこなすのですか? それは無理だと思いますが……」
「もちろん、私も手伝います。まぁ、イアムであれば、手が足りなくなることはありませんね」
不満と不安を瞳に浮かべてこちらを流し見るイアムは、何とか言ってくれと顔に書いてある。
「あー……のさ、エイダには業務よりも他にやって欲しいこともあるし、イアムには研究にも参加してもらいたいと思ってるんだ。さすがに、ひとりだけでは難しいんじゃないか……?」
ユアンの隣まで歩み出て、そこに座る3人を眺める。
威圧感はまるで感じない。
温かくも冷たくもないその目は、考えをまったく読ませてくれない。
どんな人でも、僅かな感情は表情や目に表れるものだと思っていた。
しかし、それはエイダには通用しない。
「ユアン様のイアムに対する評価は、私とは違うようですね」
平温の言葉は、痛い所を突いてくる。
実際イアムなら問題ないだろうと思っている。
だが、今話しているのは短期間のことではなく、リシアでの日常の話だ。
余裕のない状態で日々を過ごすのは避けたいと思うのも本当だ。
「やることが決まっている王都とは違って、予期せぬことも多々起こると思いますし、ひとりだけというのは不安が残ります」
レイランはエイダと話をするのに向いている。
ちゃんと言葉にしないことを、エイダは簡単に受け取ってくれない。
汲み取れないわけではなく、汲み取り合うことを良しとしていないように思える。
「私は、余裕を持ってもイアムひとりで充分だと思っております。今まであまり本気を出してこなかったようですが、リシアでは存分にやってもらいましょう」
イアムは黙ったまま目を伏せ、全力で不満の色を出していたが、エイダはそれに触れることはしなかった。
この話はこれ以上必要ないと判断されたようだ。
レイランと目を合わせ、小さく苦笑した。
この人に太刀打ちできる人が浮かばない。
聞く耳を持たない人ではない。
彼を納得させるだけの意見が、自分たちの中に存在しないのだ。
「屋敷の護衛は、今はまだ兼務のリドだけだね。バルドも行きたいと言ってくれたよ」
「リドは、ユアン様がリシアに着任する際に直属に変更するとして……しばらくは都度リシアから出してもらう形でよいでしょうか」
リシアの屋敷にいるのは、リド、アンテ、ミラだけだ。
王都からはセラとバルドが行くことが決まっている。
メイドと足りない屋敷の人員は、アベリスで教育が始まった。
あとは兵士だ。
近衛はさすがに要らないだろう。
「屋敷には、リシアとは独立した分隊を置く方が良いでしょう。リシアの兵士は現状の任務がありますから。自由に運用できる部隊がある方が好ましいと思います。ある程度、自ら判断して動ける精鋭であれば、なお良い」
「リシアの兵士をそのように再編するのではなく、王都から新たに連れて行くという意味でしょうか?」
レイランの問いに、エイダは無言で頷く。
「人というのは、役割が変わっても意識は簡単に変わりません。仲間意識、所属意識、そういう無意識は指揮系統に影響します。無駄な諍いを生む可能性もある」
「意識……」
エイダの視点は、自分にはないものだ。
リシアの組織の在り方が変わったとしても、自分たちでさえ“出してもらう”という言葉になっている。
屋敷の部隊は、機密事項を扱うことも多くなる。
本人にそのつもりがなくても、無意識ではどうしようもない。
「これは持論ですが……組織というのは、一から作る方が容易い。意識というのは目に見えない上に、本人に自覚がない場合も多いものです。無意識に責任を取らせることになるのは、どちらにとっても苦しい」
窓際に戻ったエイダは、遠い何かを見つめている。
彼の記憶にある景色なのか、それとも経験から思い描いたものなのか。
初めてエイダが言葉にした感情の話は、深い説得力がある。
「最小の人員で、多少大雑把にでも骨組みと流れを作るのが最優先です。予期せぬことが起こるからこそ、判断が出来る者だけに絞る必要がある。広げていくのはその後です」
イアムの空気が、いつの間にか落ち着いた。
納得する以外にないのは、皆同じだろう。
「……リドとバルド以外に、4、5人いれば良さそうだね」
「そうですね。バルドに選んでもらうか、アベリスから連れて行くか……」
「半々にしよう。バルドに2人頼んで、アベリスから2、3人。レイランに任せるよ」
レイランが誰を選ぶのかも興味がある。
しばらく黙っていたイアムが、書類にメモをしながら声を上げた。
「では、連絡担当の文官2名は、私が声を掛けてエイダ殿に確認してもらうことにします」
「イアムに任せます」
「いえ、これだけは確認をお願いいたします」
エイダはイアムに目をやって、ほんのわずかに笑んだだろうか。
「分かりました」
視線を窓の外に戻した彼の目には、何が見えているのか。
エイダがリシアへ来てくれるのは、この上なく有り難い。
共に過ごす時間が増えるほど、エイダという人の有能さを実感する。
それにも関わらず、彼が公の場に姿を見せたことはなかったように思う。
変わり者、とオルフェスが言っていたのが、なんとなく理解できる気がした。
オルフェスなりの、最高の賛辞なのだろう。
従者を付けていないのも頷けるほど、彼の身のこなしには隙がない。
戦っているところを見たことはないが、相当の使い手であるのが分かる。
エイダは不思議な人だ。
自分の足りなさを、ここまで清々しく感じさせてくれる彼を、いつの間にか慕っているのだ。
彼から見れば、自分はほんの子供なのかもしれない。
そう思うと、逆に吹っ切れた。
いつか、常に立っているエイダが、腰を下ろす姿が見られることを願おう。
会議を終えると、窓の外に残る橙の余韻が、今にも消えようとしていた。
椅子に背中を当てて思いっきり身体を伸ばすと、両肩の後ろで関節が鳴る。
座りっぱなしの一日は外を走り回るよりも疲れる。
だが、本当に気が重いのは、このあとだ。
これからの予定を思い浮かべると、自然とため息が漏れそうになる。
「ユアン様、そろそろ準備を……」
「……ああ」
雰囲気を察しながらも、レイランは黙って扉を開ける。
「レイランはどうするんだ?」
「お送りしてから……リシェの店に行きます。頼みたいものがあるので。終わる頃に、またお迎えに伺います」
「……はぁ」
堪えていたため息がついに漏れて、レイランは呆れるように笑う。
「そんなに気が進まないなら、理由を付けて断れば良かったのでは?」
「オルゼイン殿からの誘いなら断ったんだけど……今回はオルヴィアからでさ。何度も断っている手前、さすがにな……」
単なる付き合いの会食なら断ることも気にならないが、友人からの誘いとなるとそうもいかない。
断り続ける自分にしびれを切らして、オルゼインが彼女に直接誘うように言ったんだろう。
話の内容も、だいたい想像がつく。
「オルヴィアとは割と仲が良いと思っていましたが……」
「昔から知ってるし、気を遣う相手ではないけど……」
「……今はそんな気はないと」
「レイランだってそうだろう? 今はそんなことを考えている余裕はないよ」
「わたしはそれを理由に、断り続ける予定です」
「そんなに上手くいくか?」
「その点に関しては、ユアン様よりも割り切っていますね」
こういうところで、レイランは相手の意を汲まない。
接し方は変わらず丁寧だし、物腰も柔らかい。
でも、絶対に踏み込ませない線を引いているのが、周りから見ていても伝わる。
何度経験しても、どうしても苦手だ。
目の前にいる相手の感情を、ある程度感じ取ってしまうからだ。
その思いが純粋であればあるほど、なおさら扱いに困る。
純粋な感情は、それだけで美しいものなのだ。
けれど、それは夕焼けや星空、咲き誇る花に目を奪われるのと変わらない。
心を動かされはしても、それは留まることなく通り過ぎていく。
遠ざけたいとは思わないが、応えられるものでもないのだ。
「さぁ、今更どうしようもありません。早く着替えて下さい」
急かされるように部屋へ入ると、衣装を準備したメイドが待ち構えている。
浮かない気持ちとは裏腹に、用意された衣装だけが、殊更煌びやかに映った。
エンネルの屋敷に着くと、出迎えの執事が待っていた。
屋敷には入らず、裏手にある庭園に案内される。
オルヴィアが手入れを欠かさないエンネル家の庭園は、花が絶えることがない。
温かな光を放つ魔導灯が点々と灯り、見事に咲いた花々を照らす。
花に囲まれた道を抜けた先、オルヴィアお気に入りのテラスに、彼女の姿はあった。
華やかに着飾ったオルヴィアが、淡い笑みで迎え入れてくれる。
少し……緊張しているだろうか。
「来てくれてありがとうございます。お待ちしておりました」
美しい所作でお辞儀をする彼女の後ろには、すでに料理が用意されていた。
それが、心を更に苦しくする。
「こちらこそ。なかなか時間が取れず申し訳なかった」
「いいえ、お忙しいのは分かっております。何度もお誘いしてしまって……ご迷惑ではなかったでしょうか」
「友人からの誘いを迷惑だなんて思わないよ。……ここは相変わらず、花が溢れているね。見事だ」
オルヴィアは微笑みながら、庭の灯りをひとつずつ追うように目を滑らせた。
用意された食事は、給仕の必要がないように作られていた。
食事というよりも、酒を交わしながら会話を楽しむためのものだろう。
テラスを選んだのも、オルゼインが立ち入らないようにする彼女の配慮だ。
花を眺めながら、取り留めのない話をした。
彼女からじんわりと伝わって来る緊張が、自分の心まで静かに揺らす。
オルヴィアの緊張を解くための言葉を探しても、どうしても見つからなかった。
何を言っても、その言葉は宙に浮いてしまう気がした。
そのどれもが、自分の本心からだとは思えないからかもしれない。
オルヴィアの控えめな印象は、子供の頃から変わらない。
一歩引いたところから皆を眺めて、いつも穏やかに微笑んでいた。
頭も良く、落ち着いていて、静かに周りを見ていた。
気を遣い過ぎて、自分が疲れてしまうような子だった。
誰からも好かれ、彼女を悪く言う人はいないのではないだろうか。
本当に、出来た人なのだ。
彼女が自分に淡い好意を寄せていることも、子供ながらに気付いていた。
オルゼインがオルヴィアとの縁談をほのめかし始めたときも、望んでいたわけではなかったが、断る理由も特に見当たらなかった。
リシアに行くまでは――。
「ユアン様は、蒼の季の終わりには拠点を移すと……兄から聞きました」
オルヴィアの纏う空気が、張り詰めていくのを感じる。
彼女はうつむいたままだ。
喉の奥で何度も飲み込まれた言葉は、その時間分の重みを含んでいた。
「ああ、今はその準備で、執務室に閉じこもってばかりだよ」
「ユアン様にはお辛いでしょうね。机に向かうのは、昔からあまりお得意ではありませんでしたから」
顔を上げたオルヴィアは、瞳を小刻みに揺らしながら笑顔を見せる。
その顔を見てしまったら、もう軽い冗談すら言えそうになかった。
「相変わらず、俺は座っているのには向かないよ。でも、リシアはとても良い街だし、楽しみなんだ」
ひと呼吸置いた後、オルヴィアは口を開いた。
「ユアン様……、私を、リシアに連れて行って下さいませんか……?」
震えるのを必死に抑えた彼女の声は、いつもよりも硬い音だった。
伝わって来る。
大きな不安と、それに圧し潰されそうな小さな期待だ。
いつも感じていた淡い柔らかな感情は、今はもう感じられない。
リシアに行く前だったら、答えは変わっていたかもしれない。
自分が生きる道も見えなかった。
自分の心がどこにあるのかも、自分自身にもさして興味がなかった。
だが、生きる道を選べるようになった。
自分の心の在り処を――自分自身の想いも知ってしまった。
もう、迷いはない。
「ありがとう。君の想いは、いつも美しかった。……でも、願いに応えることはできない」
心臓が軋んだ。
オルヴィアの心が、形を成して自分の中にあるようだった。
胸の中心で、何かが弾けて崩れていく。
溢れ出す感情は、ただ心を埋め尽くし、内側から膨れ上がっていく。
「……ユアン様には、想う方がいらっしゃいますか?」
意外なほどに強く、真っ直ぐに向けられた視線だった。
「ああ」
「それは、ルティナ様ですか?」
間髪入れない問いに、言葉が詰まった。
それを口にする覚悟があるのかと、自分に問われた気がした。
「……ああ」
初めて音にした言葉は、振動となって全身に響く。
返ってきた自分の声は、再び胸の中心へと収まった。
オルヴィアは目を伏せ、小さく頷いた。
「……私がもう少し早くお伝えしていたら……答えは変わっていたでしょうか」
「……」
絞り出したような声には、深い後悔があった。
張り詰めた空気が辺りを覆い、彼女の心から溢れ出る感情が迫ってくるのを感じた。
伝えたい言葉が見つからなかった。
彼女の心を掬い上げる言葉は、自分の中にない。
出てしまった言葉を振り払うように、オルヴィアは大きく息を吐いた。
「ユアン様の幸せを願えるようになったら……リシアに遊びに行ってもよろしいでしょうか?」
もう震える声を抑えていない。
その声は柔らかく響く、オルヴィアの音だ。
「もちろん」
彼女の眼差しを受け止められるのは、彼女の問いのお陰だ。
潤んだ瞳からこぼれるひと粒の涙は、溢れる想いを乗せた光となって、彼女の頬を伝った。
それはただ純粋に、美しかった。




