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オル・トア ―精霊の往く先―  作者: 流留架
第三章後編 蒼の季 向夏 ―地の音を聴く―
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蒼の季 向夏-07.目覚め

 ――落ちていく。


 何も見えない。

 何も聞こえない。

 何も感じない。


 ふと、気付いた。


 見えないわけじゃない、光がないだけだ。

 聞こえないわけじゃない、音がないだけだ。

 感じないわけじゃない、ただ、何も存在しないだけだ。


 何もない場所で、意識だけが漂っている。


 怖くはなかった。

 何もないのだ。

 怒りも、悲しみも、恐れも。

 喜びも、温もりも、安らぎも。


 どこかに消えてしまった。

 いや、本当に在ったのだろうか――。



 どれほど、落ち続けただろう。

 遠くで、何かが響いた。

 音ではない。

 響いたことが分かった。


 この感覚は知っている。

 

 光が射し込み、明るさで満ちるように。

 水面に雫が落ち、波紋が広がるように。


 何かがこの世界に溶ける瞬間、世界に伝わる響きだ。

 


 霊核が微かに震えた。



 ひとつの命の巡り。

 還り、そして、再び降りる。


 ひとつの巡りが、世界の巡りに還り、

 世界の巡りから、ひとつの巡りが始まる。



 どこかで、黄金色の光が震えた。



 温かい光に、意識を向ける。


 その波紋は無数にあった。

 その光は絶え間なく満ちる。


 森の奥で、山の向こうで、海の底で、空の彼方で。

 世界の至る所で、響きは伝わり、溶けては還る。

 繋がりながら、巡り続ける。


 この世界は、無数の巡りと共に、永遠に在り続ける。


 そのひと粒が、ここにあるのだ。





 目に入ったのは、見慣れた天井だった。

 

 雨の音が聞こえない。


 身体が重い。

 必死に力を入れて、ようやくわずかに上半身が動いた。

 頭にもやがかかったように、はっきりとしない。


 すぐ横に目をやると、椅子と小さな机が置かれていた。

 その上には水の入った瓶とコップが用意されている。


 身体の上に何かがのしかかった。

 視界に入ったのは、薄茶色の毛並みとぴんと立った耳だ。


 フウは何かを確認するようにルティナを見つめたあと、部屋から出て行ったようだ。


 部屋の中は薄暗い。

 射し込む光はうっすらで、時間の感覚が掴めない。


 床を踏む小刻みな足音が近付いてくる。


 目に入る琥珀色が、今は舞っていない。

 彼は横で膝を付いて、ルティナの手を取った。


「……っ」


 閉じたままの唇から言葉は出ず、瞼が震えている。

 胸の奥がぎゅっとなる。

 この苦しさは、きっとユアンと自分の両方だ。


 そうなのか。

 誰かの感情が流れ込んでくると、それと自分を切り離していた。

 自分にも同じように、感情があったのだ。



「……ユアンさ…ま、大丈夫ですか……?」


 声が上手く出ない。

 喉が渇いて、空気が抜けるような声だった。

 ユアンの手に力が入る。


「……大丈夫なわけないだろ」


 言葉とは正反対に、温かさが流れて来る。


「わたしは……大丈夫です」

「そんなわけあるか」

「……レパは、どうなっていますか……?」


 怒られる空気だと思ったが、ユアンはその言葉を飲み込んだようだった。

 小さなため息は、彼の安堵だった。


「……それは大丈夫だ」

「……」

「動けるようになったら、一緒に土に還そう」

「……はい」


 ユアンは瓶の水をコップに注いでから、ルティナの身体を起こした。

 身体のあちこちで、骨と筋肉が軋む音がする。


 巡りがやけに遅いのを感じる。

 渡された水を口に含むと、ひと口飲み込むのがやっとだった。


 随分……眠っていたようだ。


「わたしは……倒れたのですか……?」


 はっきりと覚えていない。

 雨の中で、黄金色が舞う景色を見たような気がする。


「倒れたというより……、眠りに落ちたんだと思う」


 そうだ。

 とても温かかった。


「どれほど……経っていますか?」

「……丸三日、かな」

「……イアム様とミオル様に、申し訳ないことを致しました」

「問題ないよ。セラがちゃんとやってる」


 ユアンの目も、疲れているように見える。

 ずっと……ここにいてくれたと思うのは大げさだろうか。


「ユアン様も、お疲れですね」

「寝られるわけないだろ」


 今日のユアンは、言葉がまっすぐだ。

 でも、その方が心地よい。


「何か食べられそう? それとももう少し眠る?」

「食べるのは、もう少し待った方が良さそうです」

「熱は下がったみたいだけど、まだ巡りが戻ってないもんな。夕方まで眠ったら?」

「ユアン様も、お休みになって下さい」

「ここで一緒に寝るよ」


 身体が先に驚いた。

 思わずユアンから目を逸らしてしまった。


「え……? ああ、俺はどこでも寝られるから椅子でいいよ」


 表情を変えないでいるが、焦っているのはしっかりと伝わっている。

 なぜだかほっとした。

 いつものユアンだ。


「じゃあ、もう少し眠ります」

「うん」


 手から伝わるユアンの鼓動は、巡りを導くような穏やかなリズムだった。

 安らいでいく心を感じながら、再びの眠りについた。




 瞼の向こうに橙を感じて、目を開けた。

 いつもの目覚めだ。


 ユアンは手を握ったまま、椅子に座って目を閉じていた。

 肩の掛けられた掛け布は今にも落ちそうだ。


 手を解こうとすると、閉じていた目がぱっと開いた。


「ごめんなさい、起こしてしまいました」

「……おはよう」


 じっとルティナを見つめたあと、ユアンが柔らかくなった。

 細めた瞳の隙間から、黄金色が舞った。

 久しぶりに見る笑顔だ。


 それを見ると、自分の目元も緩むのが分かる。


「だいぶ戻ったみたいだ」

「はい、すっきりと目覚めました」


 身体の巡りは戻っている。

 動かすのも大変だった身体も、もう動く。


 あとは……心に残っているものを、置きに行きたい。


「ルティナ?」

「……お願いを聞いて貰えますか?」

「まだ無理じゃないかな。起きたばかりだし」

「ひとりでは、無理だと思います。……連れて行ってもらえませんか?」


 ユアンが、一瞬止まった。

 驚く理由も分かる。


 誰かに、ただ自分の願いで、頼み事をするのは初めてだ。


「少しでもいいから、何か食べて。セラが色々用意してくれているから」

「はい」

「出かけるなら着替えた方がいいね。セラを呼ぼう」


 立ち上がって、手が放される。


 繋がっていた手には、真珠色の光があった。

 今までも何度か目にしたことがある。

 ユアンに触れたときだけに現れ、すぐに消えてしまう不思議な光だ。


 神秘的だ。

 色も、感触も、音も。


 今は何かの証のように、手に残っている。

 それがとても大切なもののような気がして、そっと両手で包んだ。




 セラが用意してくれた、緩い粥をゆっくり食べた。


 部屋に入って来たとき、わずかに見せたセラの顔を、きっと忘れない。

 今にも泣き出しそうに歪めた目元には、自責の思いが滲んでいた。

 どれだけの心配をかけたのか。

 それを知るには充分だった。


「セラ、帰ってきたら……美味しいお茶を飲みたいです」

「かしこまりました。整えて、お待ちしております」



 ユアンに支えられて、アウリスに乗る。

 ひとりでフェンに乗るのは、さすがに不安だった。


 雲間から星空が覗く。

 フウとフェンと、レパと共に、夜空の下を歩く。


 向かうのは、あの小さな森だ。

 あの森は、レパが生きた場所だ。

 


 平原をそよぐ夜風に、麦穂が波打つ。

 黄色の波が森へと向かう。

 半分の月に照らされて、森が緑を見せた。


 アウリスから降りて土を踏む。

 そこは、ただ静かな大地だ。

 森には、小さな動物たちの気配があった。


 フウが前を歩き始めた。

 その後をフェンがついて行く。


 しばらく進むと、大きな樹が立つ森の広場があった。

 フウはその樹の前で振り返った。


 そこが、レパが還る場所のようだ。


 土を掘っていく。

 ユアンは隣で一緒に、フウは隣で座り、フェンとアウリスは後ろから見つめる。


 レパが並んで眠れるだけの穴を掘り、そこに寝かせた。

 痛々しかった傷は、元通りの毛並みになっていた。

 その心遣いが嬉しい。


 柔らかな土を被せ、上から大きめの石を置いた。

 持って来た安らぎの香に火を灯すと、白く細い煙が風に揺れた。


 目を閉じて、祈る。

 フウの風が、香を運ぶ。


「還るこの日に、

 再び降りるその日に、

 響きを添えて、新たな巡りへと祝福を送る……」


 霊核が震えた。


 月から降る霊素が、レパを導くように、ほのかな光を湛えた。




 心に残っていた感情は、きれいに置いてきた。

 レパと一緒に還ってくれると思う。


 固く閉じていた心も、ほどけている。


 アウリスの背中は、フェンよりも空に近い。

 月の霊素はしゃらしゃらと音を鳴らしながら、身体に、心に、降り積もる。


「ルティナは月夜が似合うな。陰が寄り添って、淡く光ってる」


 真横からの声に、自分の身体を視る。

 白銀は夜空の色を映し、控えめな光でルティナを包んでいた。


 太陽を浴びるユアンの眩さとは比べようもないほど、静かで淡い光だ。


「ユアン様は太陽の下で、ずっと光を放ってますよ」

「ああ、最近少し視ることもできるようになってきた。まだうっすらだけどね」

「いつも眩しくて……黄金色が舞い散るのを視ると、安心します」


 耳に入る声が、自分のものとは思えないほど柔らかかった。


「暗い所に落ちそうになると、いつも黄金色が側にあって、導いてくれます」


 ユアンが髪を撫でた。

 舞い散る黄金色は、いつもと同じに美しい。


「君にとって、それが心地よいものなら、嬉しいよ」

「わたしはいつも、助けられてばかりです」

「またそういう――」

「わたしも、ユアン様に心地よいと思ってもらえるように……支えられるわたしで在りたいです」


 目の前に、ふわりと霊素が舞った。

 白銀に光る粒。

 瞬きながら、漂う光。


「……白銀の綿毛が……舞っているみたいだ」


 ユアンは、その光を目で追う。


「色が……変わったね。前もとても綺麗だったけど。……今は……とても優しい色だ」

「わたしの……色……?」

「うん。ルティナの霊核は青白く光ってた。今は美しい白銀だ」


 自分の霊素を、初めて美しいと思った。

 自分の色を、ようやく受け容れたような気がした。


 霊核も、一緒に変化していく自分の一部なのだ。


「……わたしを、初めて認めたのかもしれません……」

「いつも、霊核を大切にして、霊素に感謝していたけど、自分のことは外に置いていたよね」

「本当に、そう思っていました」

「これからは、ちゃんと感謝を受け取ってもらえそうだ」


 ユアンは声を弾ませて笑った。


 これがユアンという人だ。


 彼の隣は心地良い。

 それを知っても、もう怖くなかった。


「ユアン様……」

「ん?」

「ありがとう」


 ユアンの目から、大粒の黄金色が舞った。

 夜空を背景に、星よりも強い光を放つ。


 この美しさを、これから先もずっと視ていたい。

 そう願う胸の奥で、自分を包む白銀の光が溢れた。




 離れから零れる灯りは、待っている人を思わせた。


 戸口から入ると、離れの中はいつもと違った。

 肌に伝わる独特の揺らぎ。

 この懐かしい感覚を、身体が覚えている。

 森の家では毎日感じていた、鉄瓶で湯を沸かすときの空気だ。


「おかえりなさいませ」


 出迎えてくれたセラは、羽織っていたマントを肩から外してくれた。

 セラの表情は、嬉しいときの無表情だ。


「セラ……あれは……」

「香立様で相談したら、手に入れて下さいました」


 鉄瓶に近付くと、シャンシャンと軽い音が鳴っている。

 まだ沸き始めの音だ。


「いい音です」


 戸口から入って来たユアンも満足げだ。


「ルティナが寝ている間、セラが頑張ってたんだよ」


 セラはいつもの無表情になって、火床へ戻っていった。

 いつの間にか、彼女の少ない表情の変化も分かるほど、一緒にいる時間が積み重なっている。


「ご用意しますので、お待ちください」


 急須でお茶を淹れる姿も、見慣れた光景になった。


 王都に来たばかりの頃、セラは紅茶しか淹れたことがなかった。

 ルティナが火床でお茶を淹れるのを、いつもじっと見ていた。


 淹れ方を伝えたことはない。

 でも、準備するセラの動きは、ぎこちなさもなく流れるようだ。


 いつも彼女から感じる視線は、こうやって彼女に入っていく。



 鉄瓶の音が変わった。

 こぽこぽと大きな泡が立つ音が、湯の沸き加減を伝える。

 

 黒い鉄瓶の口から、白い湯気が吹き始める。

 よく練られた湯で淹れるのが、ルティナが好きな飲み方だ。


「お待たせいたしました」


 置かれた湯呑みからは、覚えのある香りがする。

 鮮やかに澄んだ黄緑色を口に運ぶと、 喉の奥にするっと入る。

 すっきりとした香りが鼻に残り、苦みと甘みの後味も軽い。


「香立……ですね」


 今、このお茶を選ぶセラの気持ちが、とてもよく分かる。


「とても美味しいです。ありがとう、セラ」


 ほっとしたように、セラは小さく頭を下げた。


「このお茶、王城の食堂や兵舎にも置かれるようになったよ。ロイが忙しそうに走り回っていた。うちにも使いが来て、皆が仕事の合間に飲み始めたみたい」

「そうですか……ちゃんと進んでいるんですね」

「ロイが、ルティナに聞きたいことができたって騒いでいたから、今度聞いてあげて」


 ロイはお茶の淹れ方を知っていたのだろうか。

 茶葉は一緒に選んだが、飲み方や淹れ方は何も説明していなかった。


「お茶の淹れ方は……」

「茶葉を買ったお店の人に頼んで、皆で教わったみたいだよ。うちからも一人習ってきていたから」


 ショウとシノならば、きっと丁寧に教えてくれただろう。

 畑のこともまだ中途半端なまま、イアムとも話せていないのだった。


「畑の土はどうなっているでしょうか……急げば茶摘みの時期が終わる前に、間に合うと思っていたのですが……」

「ああ、そうだ。イアムが色々と考えたみたいで、明日レイランと畑に行くって言っていたよ」

「そうなのですか?」


 イアムの中には、何か思いつくことがあるようだった。

 もしかしたら、それが良い結果になったのかもしれない。


「イアムはね、子供の頃から人とは違う考え方をするんだ。10人のうち9人が同じ方法を取るのに、1人だけまったく違うやり方でそれ以上の結果を出す。あまり説明をしたがらないから、周りは理解できないんだけどね」

「そういう人、好きです」

「うん、ルティナとは合いそうだね。レイランも食い下がる方だから、よくイアムのあとを追いかけて聞き続けてたよ」


 レイランとイアムは、考える速さと行動が噛み合うのが、見ていて心地よかった。

 世話好きなレイランとイアムの相性がいいのも頷ける。


「ユアン様、明日わたしも一緒に畑に行きたいのですが……」

「うーん……言うと思ったけど、本当に言ったね」

「ショウさんにお約束したのはわたしなのです」

「……じゃあ、俺も一緒に行くよ。明日は時間があるから」


 本当だろうか。

 付き添ってほとんど寝ていなかったのなら、やることが積み上がっていてもおかしくないと思う。


「ユアン様のやることを後回しにするなら、控えます……」

「あははっ、違うよ。今はリシアの準備をしているから、書類仕事や会議ばかりなんだ。むしろ、ここは静かだから普段よりずっと捗ったよ」


 笑っているユアンの後ろに立っているセラに、疑い半分の視線を送る。


「寝ていなかったのは感心しませんが、やることが終わっているのは本当です」

「レイランよりも厳しい監視がついていたからね。さすがに……あの人相手には……さぼれなかった」


 ユアンが書類仕事を真面目にこなす姿は、なかなかに想像しにくい。

 そういう仕事は、どう考えてもレイランの方が似合う。


「ユアン様が逆らえない人がいるのですね……」

「いや……うん、とても怖かったよ……。オルフェスの師匠って言えば、想像できる?」


 あのアルヴィンの側にいるというだけで、その有能さが分かる。

 自由なアルヴィンの頭の中を、整理して進めるのがオルフェスという印象だ。


「……とても、興味が沸きました。一度お目にかかってみたいです」

「うん……今度紹介するよ。いくらルティナでも、多少覚悟しておいた方がいいかもしれない……」


 ユアンの目が、宙をさまよう。


「わたしは特に……怒られることはしませんが……」

「今回ばかりは、一番怒られる可能性があるのは、ルティナだと思う」

「え……?」

「ひとりで抱え込もうとしたり、頑張り過ぎたり。あの人、多分そういうの一番許さない。自分を軽く見るのも、重く見過ぎるのも、自分の中だけの正論とか、容赦なくぶった切られたよ……」


 確かに怖い。

 でも、そういうのに飢えているかもしれない。


 父にはよく指摘されていた。

 実際、自分の価値観や正しさが偏っているのは自覚している。


 それを違う価値観で指摘されると、新しい何かが見えてくる。

 考え方や正しさは、自分だけのものだ。

 相手にも、それと同じだけの考えと正しさがある。

 知り、理解し、受け入れながら、自分の価値観を磨いていく。

 それを繰り返すうちに、自分の中にしっくり収まるようになる。

 

「むしろ、楽しみになってきました」


 ユアンとセラは、思いっきり訝しげな顔をルティナに向けた。

 それがあまりにもおかしくて、お腹の底から吹き出した。


 離れに重なった3人の笑い声は、今日の終わりのお茶の時間を、これ以上ない幸せで満たしてくれた。




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