蒼の季 向夏-06.理由
夕方になると、王都の景色は見事な橙に染まる。
建物の壁や道に白が多く、色を素直に受け入れる街並みは、時間帯や天気で様々な表情を見せる。
夏が近付くにつれて、夕暮れ時の紅みが増している。
リシェの店からの帰り道、市場にある看板の文字を追う。
“ラウデン”という名をルティナは知らなかった。
「ルティナ様、あそこにある大きな店が……」
セラが見ているのは、市場の中心にあるひと際大きく目立つ店だった。
赤い看板に、金字でLaudenの文字が刻まれている。
その隣に描かれている印には、ルティナも見覚えがあった。
丸の中に菱形が収まり、中央にLの文字。
荷箱や看板、至る所で目にする商印だ。
「あれが……」
「王都では大きな商家が2つあります。ラウデンはここ数十年で大きくなった新しい商家です」
「あの商印はリシアでもよく見かけました。大きなお店なのですね」
「……やり方は多少強引ですが、法に触れることまではしないと思っていました」
セラにとっても、今回の件は予想外だったのかもしれない。
「その2軒先にある店が、アルデニアでかなり古い商家です」
目をずらすと、趣のある佇まいの大きな店がある。
店先にはラウデンの半分にも満たない看板が、専用に作られた椅子の上に置かれている。
年季の入った一枚板に、Norvaの文字だけが彫られている。
深緑をさらに濃くしたような色に、文字部分には掠れた銀が残っていた。
その名は知っている。
フェンの鞍や、エンの森の家で父が用意した竈も、確かノルヴァのものだ。
あまり物を買わず、なんでも作ってしまう父だったが、自分では作れないものにはあの刻印が入っていた気がする。
偏見ではないと思いたいが、それだけでなんとなく信用してしまうのが人の心だ。
「数は少ないですが、茶や薬草なども扱っています。薬草を扱うのは、王都ではノルヴァくらいだと思います」
見比べると、受ける印象がかなり違う。
ノルヴァが今回の件を起こしたと言われても、あまり想像できない。
自分だったら、同じものならノルヴァで買おうと思ってしまう。
商家にもそれぞれのやり方があるのだ。
「レイラン様はもうお戻りになったでしょうか。リシェから聞いたことだけ伝えておきたいのですが」
市場から四家へ戻る途中に、レイランが向かった兵舎がある。
調べているなら、早めに伝えてしまった方が良いかもしれない。
ちょうど大通りから外れる手前だった。
――視線。
肌に何かが刺さるような感触だ。
よくある人の視線だと言えば、そうかもしれない。
「……このまま帰りましょう」
セラの声色が変わっている。
足元を歩くフウも、ルティナに身を寄せた。
洞窟前で見せた本気の警戒ほどではないが、何かを感じているようだ。
「道を変えます」
セラに言われるままに歩くと、その視線はしばらくして感じなくなった。
つけられていると言うほどでもないのかもしれない。
アベリスの敷地に戻って、ようやく肩の力が抜けた。
じわりとした緊張が続くと、心も体も疲れる。
レイランを呼びに行ったセラが戻って来ると、一緒にユアンも出てきた。
2人から感じる空気がいつもより硬いのは、セラに事情を聞いたからだろうか。
「疲れている?」
ユアンの瞳は、苛立っているように見える。
それが自分に向けられている感情じゃないと分かっていても、寂しいと感じる。
彼にはこういう表情でいて欲しくない。
「いえ……そうですね。今日は色々ありました」
「俺が一緒じゃないときに限って何か起こるんだから……」
「確かに……ユアン様はお守りのようですね……」
「相当効くだろうね」
空気が和らいだ。
ようやく、深く呼吸ができる気がした。
「ショウさんに土のことをお伝えして、リシェにも話を聞いてきました。言いにくかったのかもしれませんが、ザハルさんと一緒に色々と教えてくださいました」
「そうですか……リシェはなんと?」
レイランは手に1枚の書類を持っている。
聞いた話をそのまま伝えると、2人は驚かずに頷くだけだった。
「まぁ、予想通りだな」
「森の件も、確証は出ませんでしたが同じでしょう」
ユアンとレイランにとっては、以前から頭にあった名前だったようだ。
「セラ、相手はどうだ?」
「どうということもありません。雇われているだけでしょう。指示も受けていないのではないでしょうか。……たまたま目に入ってしまって、目で追った程度。それを隠してもいないと考えると、警戒する必要もない相手です」
無表情に話すセラに、相変わらず感情はない。
仕事に関して言えば、誰よりも徹底している人だ。
「それは、セラがそばにいる前提?」
「そうです」
「ルティナ、ひとりで出歩くのはしばらく控えてくれる?」
「はい……」
自分が見られているのだろうか。
そうではないような気もする。
「あの……わたし……でしょうか……?」
「どういうこと?」
「……視線の感じ方が……自分に向けられているときと違う気がするのです」
ユアンとレイランは顔を見合わせた。
「わたしではなく……フウと一緒にいるわたし……のような気がします……」
自分に向けられていれば、その感情まで読み取れる。
でも、そこまでは感じなかった。
こちらを見ている視線という方が合っている感覚だ。
洞窟の前では、フウが警戒をして初めて気付いた。
あの時も、もし自分に向けられていたらもっと早く感じたのではないか。
「フウは珍しいからな、それもあり得るかもしれない」
2人は頷きながらフウを見た。
昼間のフウを見たあとだと、フウがどうにかされる姿はまったく想像できない。
「どちらにしろ、一緒にいるのなら状況は変わりません。私が側にいれば問題ないでしょう」
「セラがそう判断するなら任せるよ」
浅いお辞儀だけして、セラはフェンを迎えに厩へ向かう。
彼女をかっこいいと思うのは、今日何度目だろう。
「ルティナもありがとう。この方向で調査を進めるよ。しばらくは鬱陶しいかもしれないけど……」
「大丈夫です。セラもフウもいますから」
ユアンは微妙な表情で笑った。
出歩かないで欲しいと言いたいのを我慢しているのだ。
話を終えて、セラと一緒に離れへ戻る。
背中に向けられたユアンの視線から、彼の心配をひしひしと感じた。
空を覆う分厚い雲から、今にも雨が降り出しそうだ。
朝になって、セラと共に平原の農地へ土を調べに向かう。
午後にイアムと土について話し合うことになっている。
その前にもう一度、土の違いを確認しておきたい。
フェンに乗って出掛けるのは久しぶりだ。
西門から出てしばらく進むと、広大な農地には光が溢れていた。
陽を蓄えながら、雨を受けて一気に育つ姿が目に浮かぶ。
ショウの畑に向かう脇道付近の畑は、麦が植えられている。
土を確認すると、ここの土は魔素が薄い。
作物が育つために、魔素は必要ないものだ。
土の温度も保たれて、とても良い状態だ。
例年より陽が強くても、作物に悪い影響が出るほどではないのだろう。
むしろ平原の作物は、どれも逞しく育っているように見える。
これからの雨がしっかり降れば、今年は豊作になりそうだ。
立ち上がって周囲を見渡すと、畑の奥にこんもりとした緑が見える。
洞窟の入口付近から、遠くに森が見えたのを思い出した。
おそらくあそこだ。
森には水の影響は出ていないだろうか。
「まだ時間も早いですし、あの森に行ってみても良いでしょうか?」
「お供いたします」
フェンで駆けると、森まではすぐだった。
サンカの森よりもかなり小さい。
森はとても静かだった。
動物の気配どころか、鳥の声すら聞こえない。
ここにも水の影響が出たのかもしれない。
「水場を調べます」
フェンを降りて森の奥へ入ろうとすると、フェンとフウが同時に止まった。
セラは何も感じていないようだ。
「何でしょうか……」
「人の気配はありません」
止まったまま、同じ方を見つめている。
警戒……というのとは違う。
フェンからは、今まで感じたことのない空気が漂っていた。
「……行ってみましょう」
ゆっくりと歩き出すと、特に嫌がる様子もなくついてくる。
こんなに静かな森などあるのだろうか。
森には特に不穏な気配はしない。
そこに在るはずのものがないだけだが、妙な違和感を覚える。
フェンたちが見つめる方には、確かに何かの気配がある。
――!
低い木が並ぶ先、ちょうど陰になったところに、その姿はあった。
身体から何かが抜け落ちた。
心が……真っ黒に塗り潰されていく気がした。
知っている感覚が、喉の奥を締めそうになるのを、なんとか抑える。
そこにあったのは、2つの亡骸だった。
小さな黒い兎だ。
身体を貫いているのは、見覚えのある傷跡だ。
頭の奥が急激に冷えていくのを、他人事のように感じる。
今、この胸にある感情を表せる言葉を知らない。
「セラ……ここは禁猟区ではないのでしょうか」
自分の声が、やけに落ち着いている。
誰か別の人が喋っているように、遠くから耳に入ってくる。
「……禁猟区です。王都があるこの平原はすべて」
「この子……王都で見かけたことがある気がするのですが」
「……レパです。野生だと思われますが」
ようやく足が動いた。
レパの身体を視ると、はっきりと魔素が残っている。
この森に動物の気配がなかったのは、まだ時間が経っていないからだろう。
雨が降る前で良かった。
フウが、離れた所に横たわるレパを、そっと咥えて隣に寝かせた。
フェンから漂っていた空気は、愁いだったのかもしれない。
「これは、罪になるのでしょうか」
「禁猟区ですから」
「この子たちを連れて帰るのは、問題がありますか?」
「いえ」
フェンの鞍に下げてある革袋から、採取に使う布を取り出し、小さなレパを包んだ。
採取籠に入れてあった土の入った瓶を革袋に移して、籠にレパを寝かせる。
ルティナは空き瓶を取り出し、血が染み込んだ土を丁寧に取り除いた。
血の匂いが消えれば、この森にいた動物たちも戻って来るはずだ。
雨はきっと、その手助けをしてくれる。
見上げると、空はどんどん暗くなっている。
そうかからずに降り始める。
「帰りましょう」
ルティナは、籠を大切に抱えたまま、フェンに跨った。
フェンは静かに歩く。
フェンもフウも優しい子だ。
気遣ってくれていた。
魔獣にとって、死とはどう映るのだろう。
少なくとも、この子たちはそれを理解しているように見えた。
悼んでいると感じたのは、都合よく考え過ぎだろうか。
セラも言葉にはしないが、とても心を砕いているのが伝わった。
「せめて、安らかに土に還してあげたい」
心で思ったことが、言葉として音になった。
音は響く。
響きが魂を宿し、この世界に届いて欲しいと願った。
王都の門へ入る頃に、雨が降り出した。
レパを濡らさないように、籠の上にマントを被せながら離れへ戻った。
本降りになる前に戻れて良かった。
魔素の残滓は、雨に濡れると流れてしまう。
「ウィラン様はお忙しいでしょうか……魔素の残滓を写すのは誰にでもできることなのですか?」
「あまり多くは無いはずです。ウィラン様に連絡すれば、ご本人が忙しくても誰かを寄越してくれると思います」
「わたしがお伺いする方が早いと思うので、連絡だけ入れてもらえますか?」
セラは、火床で湯を沸かす準備を始めている。
「……休まれてからの方がよろしいのではありませんか?」
「午後にはリュサールへ行くことになっていますので、先に済ませておきたいのです。時間が経つとどんどん薄れてしまいますから」
彼女の言いたいことは、目を見れば充分に伝わってくる。
正直、自分でも驚いている。
頭はずっと、冷静だ。
心には、まだ……何もない。
何もないうちに、この子たちを休ませてあげたい。
「……かしこまりました」
セラはアルゥダを呼び、小さなメモを入れて飛ばした。
連絡用の魔鳥は、雨も気にせずに飛び回る。
「セラ、お水を1杯いただけますか?」
「お茶をお淹れしますが……」
「いえ……お茶は……終わってからゆっくり頂きます」
冷えた水を飲み干し、窓の外を見る。
アルゥダが戻るのを待ちながら聞く雨音は、いつもより大きく感じる。
雨音は、頭を整理するのにちょうどいいリズムだ。
この音を聞いているうちは……きっと大丈夫だ。
ウィランからの返事を受け取り、セラと一緒に研究棟へ向かった。
入口でジュードが待っていてくれた。
ジュードに案内された部屋で、ウィランは準備を整えていた。
誰も、あまり言葉を発しない。
気遣ってくれているのが、やけに痛かった。
レパの小さな身体に陣が浮かび上がる。
傷口にある魔素の残滓はまだ新しく、きれいに透明な板に写された。
「かなり綺麗な状態で写せました。必ず……役立てます」
ウィランはレパに、真新しい布を掛けてくれた。
「急なお願いなのに、ありがとうございました」
レパを籠に戻そうと身体に触れると、さっきよりも冷えているのを感じた。
手が止まる。
身体の芯で、強く脈が打った。
深く呼吸することを意識しながら、籠を抱えた。
まだ大丈夫だ。
「では、わたしはこれで失礼いたします」
声もいつも通りだ。
見えない所で、ジュードが頭を下げるのを感じた。
研究棟を出ると、雨はいっそう強くなっていた。
もう、雨に濡れても構わない。
雨を避けるために、王城を抜けるのが嫌だった。
誰にも会いたくない。
見知らぬ人の気配すら嫌だ。
マントのフードを頭に被せて、そのまま外に出る。
空から無数に落ちる雨粒が肩で跳ねる。
後ろで、セラが慌てているのが分かったが、立ち止まれなかった。
手に、さっきの冷たいレパの感触だけが残っている。
抱えた籠に雨が落ちる。
真新しい白い布が雨を弾いて、玉になって滑り落ちる。
それだけを見ながら、歩いた。
足元で寄り添うフウの薄茶色が、視界の端に入った。
自分の世界に、何も入れないようにしていることに気付いた。
ウィランの顔も、ジュードの顔も、まったく覚えていない。
覚えているのはレパの姿と魔法陣だけだ。
白い布が水を含み始める頃、前を向くとアベリスの門が見えた。
もう、意識しなくてもここに戻って来られるようになっている。
雨に濡れた緑の芝を踏みながら、離れへと歩く。
靴が芝に埋まると、地面からじわっと水が染み出す。
午後からリュサールへ行くのに、こんなにずぶ濡れでどうするというのか。
冷静を装ったところで、結局頭は回っていないのだ。
それすら、どうでもよくなっている。
レパはどこに埋めてあげればいいだろう。
あの森は嫌だ。
フウと会ったヒユイの山なら、静かに眠れるのではないか。
今から行ってしまおうか……。
「ルティナ」
目に入ったのは、ブーツのつま先だった。
雨の音よりも近くで、その声が聞こえた。
それが誰だか分かっても、顔が上げられない。
「俺が一緒じゃないときに限って、何か起こるんだから……」
さっきも聞いた言葉だ。
何か言おうにも、言葉が何も浮かばない。
ユアンは、籠を抱いたままのルティナの手を、ゆっくりと籠から剥がしていく。
どれだけ力が入っていたのか。
籠を抱えていた手は、自分では離せないほど固まっていた。
ユアンの手が温かい。
両方の手を籠から剥がして、ユアンは籠を離れの戸口の中へ置いた。
固まったルティナの手を両手で包む。
ユアンの手は、黄金色に光を纏っている。
その光を見てしまったら、もうダメなのに。
空っぽの心に、溢れ出してしまう。
せっかく耐えていたのに。
もう止まらない。
呼吸が浅くなるのを感じる。
涙が流れないことが苦しい。
いくら考えても、理解できないのだ。
あんなことをする理由も、それをする人も。
あの場に残っていた感情が、もっと激しいものであったら良かったのに。
残っていたのは、ただひと欠片の不快感だけだった。
強張った身体が震え出す。
手を包んでいたユアンの手が、身体を引き寄せた。
自分の身体が、どれだけ強く震えていたかが分かる。
彼の全身から、ルティナを包む黄金色が舞い散った。
いつもなら美しいと感じるこの光景も、温かさも。
とても遠くに感じる。
ユアンの胸に顔をうずめたまま。
真っ暗な中に舞う黄金色だけを、雨音を聞きながら、ただ見つめていた――。




