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オル・トア ―精霊の往く先―  作者: 流留架
第三章後編 蒼の季 向夏 ―地の音を聴く―
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蒼の季 向夏-04.地輪

 ドトムについて、洞窟の奥へ向かう。

 洞窟の内部は、一体どれだけの広さがあるのか。


 街の付近は整備されているが、細く伸びた脇道には魔導灯が掛けてあるだけのようだ。


「随分広いんだな」


 レイランの声に反応して、ドトムがくるりと振り向く。


「街がある場所から、こういう脇道がたくさん続いているよ。鉱石が枯れないように、休ませながら採掘するんだ。結構入り組んでるから、はぐれないでね。はぐれたら歩き回らず、壁を叩いていてくれれば音を辿って探せるから」

「ドワーフは耳がいいんだな」

「耳……っていうより、石や鉱石から伝わる振動が分かるんだ」


 リシェは、振動が音に聞こえるのだと思う。

 同じ振動を、ドワーフはそのまま感じている。


 自然と共に生きる種族は、生き方に合った感覚が育つということだ。


 ドリアードは木や森の声を聴き、ドワーフは石や鉱石の振動を感じる。

 精霊族は霊素と巡りを感じる。


 大地の在り方、森の成り立ち、それを理解し寄り添う。

 そういう人たちとの対話で、理解されないことが少ないのは、根底に似たようなものを持っているからだと思う。


 人間は自然から距離を置いたせいで、その感覚が閉じてしまったのだろうか。


「レイランは感じそうだけどな……」

「え……?」

「レイランって、火の人でしょ?」

「ああ、火の魔法を使うよ」

「なのに、最初分かんなかったんだ。身体にある魔素からは、あんまり火を感じない。さっき一瞬すごく怒ったときに、ぶわって赤くなってたから分かったけど。そこまで完璧に制御できる人……っていうか、制御する人ってなかなかいないと思う」


 ドトムの言葉を聞いて、レイランの魔素を視てみる。

 確かにその通りだ。


 ドトムの魔素は深い黄色をしている。

 イアムは透けるような藍色だ。

 思い浮かべると、ウィランもアルヴィンもミオルもロイも、皆それぞれ自分の色を持っている。

 セラの魔素は灰色で不思議だったが、彼女は魔法を使わないと言っていた。


 でも、レイランの魔素からはほぼ色を感じない。


「制御……の問題なのか……?」

「違うの?」

「どうだろう……あまり意識したことがないな……」

「……じゃあ、そういう体質なのかなぁ? でも、すごく純粋で綺麗な魔素だよ! 自然そのものみたい」


 ニオもそんなことを言っていた気がする。

 レイランが異種族から信頼される理由は、これもあるのかもしれない。



「着いたよ……」


 そこは、水に落ちる水滴の音だけが反響する場所だった。

 壁から染み出す水が壁を流れ、地面のくぼみに溜まっている。


 陰が強い。

 深い森の奥のようだ。


 フウがじっと一点を見つめる。

 視線の先に、黄色い2つの目が光る。


 薄暗い水場で、一瞬見分けがつかなかった。

 黒に近い毛色のせいだけではなさそうだ。

 周りの岩……いや、この洞窟に溶け込んでいる。

 バドゥよりももっと、この洞窟が生き物になったような存在に思えた。


 水から離れた一番奥で、身体を丸めたまま目だけを動かしている。

 見た目は、少し大きな猫のようだ。


「あそこにいるのがチノワだよ。やっぱり、レイランたちは大丈夫みたいだ」


 ドトムは足音を小さくしてチノワの方に行く。


「水場を調べるんだよね? 僕が側にいるから、大丈夫だよ」

「ありがとう。なるべく早く済ませるから」


 レイランはイアムと共に水場を調べ始めた。


 フウは遠回りをしながら、少しずつチノワへ近付いていく。

 チノワを脅えさせないように、自分に敵意がないことを示している。

 丸い目を大きく開いて、チノワはフウの姿を追う。


「お前も気にしてくれるのか? 大丈夫だからおいで」


 ドトムが呼びかけると、フウはゆっくりと匂いを嗅ぎながら寄っていく。

 手前で止まり、優しく尾を振り風を送った。

 チノワを回るような静かな風が届くと、丸い目を僅かに細めた。

 身体に巻き付けていた尾をふるふると揺らすと、丸みを帯びた尾の先端が青白い光を放つ。

 それが彼らの合図のようだった。


 フウはチノワに鼻先を寄せ、彼なりの挨拶をしたようだ。

 遠慮がちに匂いを嗅ぐフウは、片方の前足だけが浮いてしまっている。

 落ち着いているチノワに、おどおどしたフウの様子が微笑ましい。


 フウはチノワの身体を確かめるように見つめたあと、こちらを振り返った。


「わたしも近付いて大丈夫でしょうか……?」

「きっと大丈夫。すごく落ち着いているから」


 足音を立てないように、静かにチノワに近付く。

 尾をふるふると揺らすと、確かに霊素が動く。

 反応しているのは、陰の霊素だ。


 この場所の濃い陰は、水場ではなくこの子のものだ。


 チノワの身体を視ると、身体の中に陰が満ちている。

 霊核のようなものは持っていない。

 もう少し深く探ってみると、チノワが休んでいる真下あたりだろうか。

 霊素がゆっくりと動くのを感じる。


 地下にある霊素の流れだ。


 チノワが自分と重なった。

 自分が傷を負うと、身体の巡りが極端に静かになる。

 身体を休めて癒そうとするのだと思う。

 冬眠のようなものだ。

 チノワもきっと、同じことをしている。

 動かず、食べず、水だけを飲んで癒えるのを待っている。


「少しだけ、触れさせてくださいね」


 ルティナは目を閉じて、チノワの身体の巡りを確かめる。

 チノワ自身の気素の流れは、とてもゆっくりだ。

 

 身体を満たしている霊素は自身で集めたものだろうか。


 こんなことができる魔獣を見たことがない。


 霊獣という言葉を聞いて、アッシュガゼルとアンバーガゼルが思い浮かんだ。

 彼らは魔素に適性を持たず、能力は霊素に由来していた。

 それでも、自分で霊素を集めるようなことはない。


 これはルティナやユアンに近い能力だと思う。


 お腹の辺りに、霊素が濃く集まっている所がある。

 ここが痛めた部分だろうか。

 視る限り、身体はもうほぼ治っている。


 だが……

 身体の中にある、濃い霊素が気になる。

 これは自然に散るものだろうか。



「ドトム、この子がけがをしてから、どのくらい経っていますか?」

「そろそろ10日くらいかな」

「この子は何か食べているでしょうか」

「あまり……食べていないと思う」


 10日何も食べていないとなると、そろそろ体力が心配だ。

 チノワの霊素は陰だ。

 陰の調律は負担が大きい。

 このくらいなら大丈夫だと思うが……



 考えていると、ずっと横たわっていたチノワが立ち上がった。

 隣で伏せていたフウの前足に身体を寄せ、間に座り直した。

 フウもそれを受け入れて、じっと座っている。


「ははっ、仲良くなったのかな」


 ドトムが嬉しそうに笑う。


「この……石飾りだと思います……」

「石……? あ、これリシェ姉が買って行った不思議な石だね!」

「はい、これは……陰陽は分かりますか?」

「うん、僕たちには分からない、チノワが見つける巡りの石でしょう?」

「そうです。チノワは陰が強い子で、この石は陽が宿った石なんです」

「反対ってこと?」

「チノワが少し寒いのを、この石が温めてくれるんです」

「気持ちいいってことなんだね」


 ドトムの眼差しは、とても優しい。

 彼にとって、とても大切な存在なのが伝わる。


 チノワは目を閉じ、しばらく眠りにつくようだ。


「フウ、しばらくそのままで休ませてあげてくれる?」


 そのつもりだと言うように、尾を揺らしながらチノワの身体に頭を寄せた。

 

「僕、何かチノワが食べられるものを取って来るよ。すぐに戻るから!」


 チノワが眠ったのを見て、ドトムは水場から走って行った。

 その後ろ姿が弾んでいるのが、何よりも嬉しかった。




 ドトムは、器を両手で大事そうに持って戻って来た。

 人肌に温めた山羊のミルクに、ちぎったパンを浸してあった。

 しばらく食べていなかったとしても、これなら負担も少ない。


「まだ起きそうもないね。これだけ置いて、チノワが守っていたところに案内するよ」

「フウは……ここにいる?」


 ルティナの方に耳を向けているが、動く気配はない。

 フウがここにいてくれるなら安心だ。


「これはチノワのご飯だから、食べちゃだめよ?」

「フウの分も持ってくれば良かった! ……半分なら食べてもいいよ。チノワはそんなに食べないと思うから」


 言われたことが分かったのか、ドトムに優しい風を送った。


「じゃあ、行きましょうか」



 来た道を戻り、街の中を抜け、街に降りて来た階段を上ってすぐ。

 細い分かれ道を進むと、足に微かな違和感を感じた。

 歩くごとに、足だけに伝わっていた振動が、身体の芯に届き始める。


 石から感じる振動に似ている。

 でも、それよりも遥かに強く身体に響く。

 この奥が、特別な場所であることを身体が直に感じている。



「……ここだよ」


 ドトムが足を止めたのは、細い道の途中だった。

 そのすぐ奥から、強い振動は漏れだしている。


「この奥は……?」

「僕が掘っていた鉱脈がある……」


 チノワは、この先へ進ませたくなかったのだろう。

 鉱脈と母層と……ドトムがいたからだ。


「奥に行ってみてもいいかい?」


 レイランもきっと感じている。

 ドトムは小さく頷いた。



 奥は、酷い有様だった。


 今まで通った道でも、ドワーフが掘っている鉱脈をいくつか見かけた。

 壁から突き出している半透明の結晶が、この洞窟で採掘される魔導鉱石だ。

 一般的な魔導石は、この鉱石を加工して作られる。


 皆手作業で、丁寧に、慎重に作業しているのが伝わってきた。

 どの採掘跡も同じように、鉱脈の根が残されていた。


 だが、そこにあったのは、ただ目に見えた鉱石を破壊しただけの光景だった。

 壁にはいくつも大きな穴が開き、地面には鉱石と岩の破片が散らばっている。

 壁の壊れ方を見ると、魔法が使われたのが分かる。

 鉱脈の根など、どこにもない。


 壁からは濃い魔素を感じる。

 意識を集中して感覚を広げると、壁の奥に魔素の層があるのが分かる。

 魔素に動きは感じない。

 壁の中に、魔素が定着した層が帯のように伸びている。


「これが……母層……」


 ドトムが隣に来て、そっと壁に手を置いた。


 目を背けたいはずだ。

 ドワーフにとって、この洞窟すべてが、大切に守り共に生きてきた場所。

 ルティナにとってのエンの森だ。


 感情が蘇る。

 エンの森が傷付けられたときの、何かが音を立てて崩れていく感覚。

 心が空洞になって、そこにあるのは怒りではなく虚無感だった。


「母層が残っていれば……この鉱脈は戻りますか……?」

「……いつかは……でも、同じものにはならない。新しく生まれる。僕は……見られないと思うけど」


 胸の奥が打ち付けられる。

 人と自然の時の流れは、同じではない。



「魔法の痕跡があります。とても淡いものなので写し取れるか微妙なところですが、やっておきましょう」


 イアムは変わらぬペースでやるべきことを進める。

 ルティナはもちろん、レイランもすぐには動けないでいた。


 身体の中心に力を込めて、ルティナは深く呼吸をする。

 そうだ。

 時間は戻らない。


「ここはとても魔素が濃いような気がするのですが……これはいつも通りでしょうか?」

「ヒトがここに来たあと、とても濃くなったよ。魔素は、母層に少しずつ溜まっていくんだ。でも多分、どこかの魔脈から漏れているんだと思う」

「それは……大丈夫なのですか?」

「分からない。自然に戻ることもあるし、魔脈が消えることもある。岩の中の魔脈は一定じゃないんだ。ただ……」

「このままだと、魔素溜まりができてしまうかもしれません」


 レイランが言葉を繋いだ。

 それは、ルティナも感じたことだ。

 このまま漏れ続ければ、きっといずれ限界を超える。

 そうなれば、母層にも影響が出てしまうかもしれない。



 心を鎮めて、感覚を研いでいく。

 感情が昂った後の方が、不思議と感覚が研ぎ澄まされる気がする。 


 感知できる範囲は、森とは比べようもないほど狭い。

 この場所への理解が、全然足りていない。


 岩肌に触れても、感じられる範囲はそれほど変わらない。



「ドトムには、それがどこなのかは分かりませんか?」

「ごめん、分からない。母層の魔素も魔脈の魔素も、僕には同じに感じるんだ」

「そうですか……」

「爺さまは……自然に任せろって言ってた。不用意に触って、巡り全体に影響が出たら取り返しがつかないからって。僕もそれはその通りだと思う」


 ドトムは、諦めたような寂しげな目で、崩れた壁にある根を見つめた。

 まだ小さな子供が、こんな表情をしているのを見ていることしかできない。


「でも……ここは、僕が初めて任された鉱脈なんだ。爺さまから引き継いで、こんなことになっちゃって」

「ドトムのせいじゃないだろ」


 レイランは、ドトムの側で視線を低くする。


「分かってるけど……! 守りたかった」


 ドトムの声が、洞窟の壁に染み込んで伝わる。

 魔素が震え、地面も震えたような気がした。



 不意に背中から風を感じて振り返る。

 フウと、足元にはチノワがいた。


 丸い目をぱっちりと開いて、黒い毛並みには先ほどまでは無かった模様が浮かび上がっている。

 黄色く光る模様は、木の根のように背中から全身に伸びる。


「チノワ! 動けるようになったんだね」


 ドトムの足に身体を添わせてひと回りし、気持ちよさそうに伸びをした。

 身体を視ると、濃く集まっていた霊素はかなり薄くなったようだ。


 ひとしきり撫でてもらった後、チノワはルティナの足元に来た。

 身体を寄せて、ルティナの足に尾を巻きつける。



 ――景色が流れ込む。


 洞窟の中、岩壁の奥まで、そこに在るものが透けて見えるようだ。


 帯状に続く層が母層。

 そこから細かく枝分かれしている魔脈。

 添うように流れているのが水脈。

 それらと交差しながら、大きくうねる地中の川は霊脈だ。



 これが、チノワが感じるこの洞窟の姿だ。



「ここ……この奥に、魔脈から魔素が漏れている場所があります」


 ちょうど鉱脈の根があった場所の奥だ。

 水脈と魔脈が近い。

 もしかしたら、今も水には魔素が入り込んでいるのかもしれない。


「ルティナ様には分かるのですか?」

「チノワが……見せてくれました……」

「チノワが!?」

「ええ、チノワには……この洞窟全部が分かっているのですね」

「やっぱり! チノワはすごいんだよ! ずっとこの洞窟を守ってるんだから!」


 ドトムは頬を真っ赤にして、興奮しながら声を高くする。


「水脈もその奥にあります。おそらく、この水脈に魔素が流れ込んでいるんだと思います」


 イアムが確認するように感覚を研ぎ、小さく頷いた。


「ありますね。そこまで深くはないようです。壁から15歩程度でしょうか」

「15歩……壁の中だと……どうしようもありませんね」


 レイランが、壁に触れて目を閉じた。

 身体の魔素が巡る。

 色付いていないままの魔素が巡ると、レイランが世界の魔素と同化しているように見えた。


「ドトム、地魔法で亀裂を塞いだりは出来ないかな」


 ドトムは壁に触れて、首を横に振る。


「……僕だと無理だと思う……なんとなくしか場所が分からないし、多分魔法も届かない」

「そうか……遠いよな」

「でも、爺さまなら……! きっとできるよ! 僕呼んで来る!」


 ドトムの思いはまっすぐに伝わる。

 駆け出した彼の背中を、全員が目で追っていた。

 


 ドトムに後ろから押されて、バドゥがゆっくりと歩いてきた。

 バドゥのどっしりした重そうな身体を、必死に押している様子がいじらしい。


「爺さま、ここ! ここの壁の奥だって!」


 眉間に皺を寄せ、ちらりとチノワに目をやったバドゥは、言われるままに壁に手を置く。

 寄せていた眉がぴくりと動いた。

 目を開けて、じっと何かを考えている。


「……感じることはできる。だが、確実に亀裂だけを塞ぐのは至難の業だ。水脈や魔脈を塞いでしまったら、ここ一帯が閉じてしまう」

「爺さまならできるよ! 絶対できるでしょ!?」

「……できるかもしれん。だが、失敗するかもしれん」


 ドトムは、強くなったバドゥの声に、次の言葉を飲み込んだ。

 唇を真一文字に結んで、バドゥの服をぎゅっと掴む。


「バドゥ様、チノワが見せてくれた限りでは……この位置からまっすぐであれば、他のものに触れることは無いはずです。それでも、難しいでしょうか……?」

「位置は分かる。儂の魔法の問題だ。緻密に加工するのと違って、奥に伸ばすのはそれなりの出力がいる。その出力のまま制御するのは難しい」


 ドワーフは採掘に魔法を使っていなかった。

 細かい作業はやり慣れているが、強い力で魔法を使うことが少ないのだろう。

 バドゥの体内の魔素は、その密度が高いままゆっくりと巡っている。

 これを一気に使うと、壁にも負担がかかりそうだ。



「バドゥ殿、このままにしておくと、近いうちにここは魔素溜まりになります。そうなれば、我々は浄化する以外なくなります。……どちらにせよ、魔素溜まりになって魔素が濁れば、母層に影響するのではないでしょうか」


 レイランの言葉には、たくさんの思いが滲んでいた。

 元はと言えば、これは人の行いによるものだ。

 ドワーフは何も悪くない。

 例えそうであったとしても、国として放置することは難しい。

 

「爺さま、このままにしておいても、ここはだめになっちゃうよ。だったら……チノワだって、何とかして欲しいから教えてくれたんだよ!」


 バドゥにしがみついたまま、叫ぶように願う。

 その声が洞窟に反響し返ってくる。


「……魔素が流れ続けているなら、再び起こる可能性を考えると……元を絶つという判断がなされる可能性もありますね。……場の浄化は大仕事なのです。お力を貸していただけると助かるのですが……」


 イアムは相変わらず淡々と事実を話す。

 だが、その言葉には、確かに彼の思いがあった。

 冷静であるだけで、何も感じない人ではない。



「助けられるなら、助けろと言ったのは……儂だな。うまいことを言うな」


 バドゥの瞳が、光を湛えた。

 一度ぐっと手を握って、ふっと力を抜く。


 バドゥの魔素が巡りを速めていく。

 粒が分からないほど密に詰まった魔素が身体の中を巡ると、それは1本の線のように見える。


 大きな手のひらに、深い茶色の魔素が集まる。


 壁に手を押し当てて、目を閉じた。

 

 陣などなかった。

 そこら中にある魔素が、一斉にバドゥに寄り添う。

 壁の中へ放たれた魔法は、細い線となってまっすぐに伸びていく。


 足元から振動が伝う。

 この震えは、バドゥの心の震えだと思った。

 理性で抑えていただけで、感情が消えることはない。

 理解されないことを受け入れたとしても、彼だって苦しかったはずだ。

 

 チノワが、バドゥの足に身体を寄せた。

 何かをじっと待ってから、ひと声、鈴のような声で鳴いた。


 バドゥは壁から手を放す。



 チノワはバドゥを見上げて、もう一度、さっきよりも大きな声で鳴いた。

 その声は洞窟の中へ、涼しげに響き渡った。



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