蒼の季 向夏-01.茶葉
ミオルの執務室に入るのは、初めてだった。
この建物に来ることは多いが、書庫か調理場、最近は裏庭にいる。
長椅子から、書類仕事をするミオルを見るのも新鮮だ。
眼鏡をかけて次々と紙の上に視線を滑らせる姿は、いつもより幾分鋭く見える。
綺麗に整頓された執務室には、微かに香の残り香を感じる。
ここで香を焚くということは……ミオルはここで眠ったのだ。
相変わらず忙しく過ごしているのだとしたら、更に仕事を増やしてしまうのではないだろうか。
ミオルの隣に立っている文官が、サインされた書類を手際よく仕分けていく。
最後の一枚にサインをし、ミオルは眼鏡を外して眉間を抑えた。
「確かに受け取りました、お疲れ様でした」
丁寧にお辞儀をして、文官は執務室から出て行った。
ミオルは立ち上がって、ルティナが待っている長椅子の方へ歩いてくる。
顔色が少し白い気がする。
ルティナの対面に座る頃には、表情はいつもの柔らかさを取り戻していた。
「お待たせしてしまいましたね。今日の分は終わりましたので、ゆっくりお話を伺えますよ」
「ミオル様……こちらでお休みになるのは……」
ミオルの後ろに立つロイが、顔を抑えて吹き出した。
どうやら当たっているようだ。
「なぜ分かったのでしょう。でも……昨日だけですよ」
「香の余韻を感じます……顔色もあまり良くないようですね」
「それは……気付きませんでした。確かに首が辛いですね……」
ルティナの周りに視線を漂わせ、卓の上に用意されたオルネに目を留めた。
「ちょうど何か食べたかったのです。これはルティナ殿が?」
「はい、先日ロイ様に連れて行っていただいたお店で、梅干しを買って来まして。早速作ってみました。とても美味しいのですよ」
「なるほど、ロイが言っていたお店ですね。あなたが自分から美味しいと言うのは珍しい。頂きます」
綺麗に切り分けて、口に運ぶ所作は流れるようだ。
疲れているときのミオルは、印象が儚くなってより中性的に見える。
これは、相当疲れている。
「確かに、これは美味しい。甘酸っぱさが後を引きますね」
ぱくぱくと口に運び、あっという間に一切れを食べきった。
よほどお腹が空いていたのか。
「これは、蜂蜜を加えて漬けた梅干しだそうで、これ以外にも種類がありました。料理に使ったら夏場もさっぱりと召し上がれますので、ミオル様も食べやすくなると思います。今度お届けしますね」
「それは楽しみです。それで、このお茶がそのお店で売っているお茶ですね?」
一緒に用意したのは、香立の冷茶だ。
「はい。香りも風味も良く、とても飲みやすいです。珍しいのが、茶葉は陰陽どちらかに寄っている物が多いのですが、これは完全に中庸に調整されています。薬草茶というほどではありませんが、巡りを調える作用もあります」
「ふむ、それは……誰にでも効果があって、日常に取り入れやすい……という意味で合っていますか?」
さすがミオルだ。
言いたいことを分かってくれている。
「そうです。陰陽がある茶葉だと、正しく選べればより高い効果を得られますが、それはシルヴァン様や治療院の方に覚えてもらう方が良い……どちらかと言えば療養の考え方です。食として考えるなら、これはとても扱いやすいお茶だと思います」
「なるほど、この茶葉はどこから仕入れているのでしょうか」
「仕入れなどはまだ聞いておりませんが、作っていると仰っていました。おそらくですが、茶葉は弱い陰性です。それを、蒸して茶葉にする工程で中庸に調整している。陰陽を感じているわけではなく、職人としての経験がなせる業です」
積み重ねた時間の中で、中庸に辿り着いたのだろう。
知識ではなく、職人としての勘だ。
「いつになく、熱が入っていますね」
ミオルは、ルティナの瞳の奥をじっと見つめる。
「わたしは、陰陽はわかりますが茶葉を中庸にしようと思ったことがありませんでした。それはわたしが視えて、選べるからです。だからと言って、わたしが中庸に調整出来るかと言われると、茶葉の製法の中でそれをする技術がありません。視えていてもできないことを、勘だけでやれている。これが重要だと思うのです。視える人は多くありません。でも、職人の勘は……磨けば受け継ぐことができるものではないかと」
中庸に調整しようとするなら、自分なら調合する。
陰と陽の茶葉を選び、割合を考えることになる。
でも、それは視える前提だ。
植物の陰陽は一定にはならない。
感じられなければ調合は不可能なのだ。
でも、茶葉を作る行程でそれを調整できるなら……。
「なるほど、よく分かりました。ロイからも昨日少し話を聞きました。ルティナ殿の製法を明かすかどうか……その件も一緒に考えましょうか」
ミオルは冷茶を一気に飲み干し、立ち上がった。
「まずは、そのお店に行ってみましょう。ぼくもお会いしてみたいです」
厚い雲が空を覆い、落ちて来る雨が地面を濡らす。
蒼の季も31日になり、本格的に雨の季節がやって来たようだ。
森で聞く、地を包むような雨音とは違っている。
何にも遮られずに落ちる水の粒は、まっすぐに地面に落ち、硬い音で跳ね返る。
王都全体から聞こえるその音は、街の喧騒を遠ざけるように鳴り続ける。
雨の日の王都は、人の気配を潜めた建物の森だ。
香立のある脇道は、道に留まる水が大通りよりも多い。
水が流れるような傾斜がないのか、所々に水たまりがある。
店のある場所もそれは同じで、店先に置いてあったはずの看板は出されていない。
4軒の店先から看板が消えると、異国の市場のようだった雰囲気が薄れて見える。
あの雰囲気がとても好きだったせいか、少しだけ寂しく思えた。
店先に掛かっていた暖簾が出ていない。
ロイが扉を開けると、内側に間仕切り用の長い暖簾が掛けられていた。
「こんにちは……」
中に入りながら声を掛けると、店の奥に座るショウが立ち上がるのが見えた。
「おや、いらっしゃい。あいにくの雨なのに、わざわざありがとうね」
机の上に積んであった布を数枚取って、手渡してくれる。
この店ならではの、雨の日の心遣いが嬉しい。
「雨が降ると急に蒸しますね……。あの、一緒に犬がいるのですが、お店の中には入れないでしょうか」
この雨の中、外で待たせるのはかわいそうだ。
無理なら離れに帰らせてあげたい。
「お嬢さんの子かい? 雨だしね、入口の辺りなら構わないよ。これで拭いてあげてよ」
「フウ、ここで待っていてくれる?」
フウは扉の前で緩く尾を振った。
身体の下から風が吹き上がった。
毛についていた水分はあっという間に飛び、ふわふわの毛並みに戻っている。
得意げな顔で店に入って来るフウは、入口の脇に伏せた。
あまりにも器用な魔法の使い方だ。
上位魔獣というのは、一つの印だけを使っているわけではないと感じている。
もっと自由に、思うように風を扱える。
「……すごい子だね。自分で乾かせるのは便利でいいね」
フウは気遣って乾かしたのだと思うが、あまり人には見せない方が良いかもしれない。
「ちょっと器用な子で……」
「ははは、うん、そうだね。世の中には色んな生き物がいるものだしねぇ。何も見ていないから気にしないでいいよ」
奥へ戻るショウの背中に、最後に入って来たロイが声を掛けた。
ミオルは店の中へ進み、棚に並べられた茶器の前で足を止めている。
「今日は兄上も一緒に来てもらったんだ。ショウさんにちょっと相談があって」
「坊ちゃんのお兄さんかい。どおりで似ているわけだ」
「……似て、いますか?」
ミオルは手に取っていた茶器を棚へ戻し、ショウを振り返った。
「ああ、目と雰囲気がそっくりだよ。お兄さんの方が少し静かだけど、それは年齢の問題かなぁ。坊ちゃんももう少ししたら、このくらい落ち着くんじゃないかねぇ」
ロイは心なしか嬉しそうだ。
きっと、彼にとっては一番の褒め言葉だろう。
「よいしょっと。それで、相談っていうのはなんだい?」
奥に声を掛けたあと、ショウは元の位置に腰を下ろした。
ロイは並べてあった香立の包みを手に持って、ショウの隣に座る。
「このお茶、定期的に仕入れたいって言ったら、それは可能かな?」
「香立をかい? それはどのくらい必要なんだい?」
ミオルが、ゆっくりとショウの前に進んだ。
「このお茶は、1袋で何杯分くらいになりますか?」
「だいたい30から40杯分くらいかねぇ」
「ふむ……ルティナ殿、お茶は1日1杯飲むだけでも良いでしょうか」
「最初はそれで充分だと思います」
考えるように、ミオルは眼鏡を指先で抑える。
「まずは試してみたいですね。一巡分で、ざっと……30袋。二巡試すとして60袋ほどでしょうか」
「60袋かい……そりゃ……随分な量だねぇ……」
「難しいでしょうか?」
「うーん……」
ショウは足元を見つめたまま黙ってしまった。
この規模のお店だと、それほど作り置いていないのかもしれない。
奥の暖簾が揺れ、シノがお茶を乗せた運び木を持って来た。
以前話したように、ガラスの茶器に冷やしたお茶を用意してくれている。
「いらっしゃいませね。お嬢さんも、また来てくれて嬉しいわ」
「シノさんも、顔色がよくて安心しました。これ、梅干しを練り込んで作ったお菓子なのです。良かったら召し上がって下さい」
用意してきたオルネの包みを渡すと、シノは礼を言って中を覗いた。
目を丸くしたあと、きゅっと目を細くして笑う。
「すごいわね、いい香りだわ。わざわざありがとう、後でゆっくり頂くわ」
ショウの視線に気付いたシノは、包みを持ったままショウの隣に立つ。
「どうかしたの?」
「いや……なんかね、香立を60袋欲しいんだってさ」
「……随分たくさんね。今ある分だと……ぎりぎりかしら」
「そうだよなぁ。店に置く分が無くなるのは良くないだろう?」
「そうねぇ、少ないとはいえ、買ってくれる人もいるしね」
ショウとシノは、顔を見合わせてなんとも言えない表情をしている。
ほんの僅か、2人から不安が漏れた気がした。
「あの、作ることは難しいのでしょうか? 気温や湿度などで、作れない理由があるのですか?」
茶葉は、環境で仕上がりが変わってしまうこともある。
雨が多いと作れないなら、時期をずらして試すということもできる。
ショウは眉間に皺を寄せたまま、顔を上げた。
「季節の問題じゃないんだ……。60袋は確かに多いんだが、前もって分かっていれば普段なら何とかなる量なんだ。でも今年はねぇ、茶葉の出来がいつもと違ってしまっていてね……お嬢さんが欲しいのは、“この香立”だろう? おそらく今年の分は、香立の名前では売れないと思っているんだよ」
ショウは肩を落とし、膝の上で組んだ手に力が入った。
そっと背中に手を添えるシノは、ショウの横顔を心配そうに見つめている。
「この茶葉は……他の所から仕入れられるものではないのですか?」
ミオルも何か感じることがあったようだ。
ショウの前に屈み、優しい声色で話しかける。
「茶の木はね、同じ品種でも土地によって、香りや風味が変わってしまうんだよ。故郷で息子夫婦が同じ茶を育てていて、それも届けてもらっているんだけどね。それは違う茶葉として売っているんだ。この香立は、王都西の丘陵にある小さな畑で育てた茶葉を使っているんだ」
「その畑の茶の木が、いつもと違うと……」
「ああ、病気でもない。生育も悪くないんだ。でも……違うんだよ。上手く説明できないんだけど……とても薄いんだ」
薄い……という言葉が、やけに気にかかった。
植物は、環境に大きな影響を受ける。
大きく育たなかったり、色が薄くなったり、弱くなったりもする。
薄いという言葉を使うなら、それは別のことが原因になっている気がする。
ショウの言い方からすると、水、土、陽当たりなどは変わっていないのではないか。
だとするなら、ぱっと見では分からない別の何かだ。
「……見た目はいつもと変わらないのですか?」
「今年は陽射しが強かったから、水の量や陽が当たる量も調整した。木はいつもと同じに見えるんだけどねぇ」
「その茶葉を……見せていただくことはできませんか? 植物であれば、わたしが分かることがあるかもしれません」
「ちょうど、今日採って来た分が残っているよ」
シノが裏から、生葉と茶葉を持って来る。
視ると、生葉にはほとんど霊素が感じられない。
中庸のはずの茶葉は、明らかに陽に寄ってしまっている。
「確かに、これはこれでとても良い茶葉だと思いますが、香立ではありませんね……」
「お嬢さんもそう思うかい? そうなんだよ。飲んだ後にすっきりと消えるはずが、強めの余韻が残る。美味しいんだけど、これでは香立じゃないんだよ」
元の生葉を視られないのが悔やまれる。
比べることができなければ、はっきりと理由を伝えることができない。
「何か、例年と違うと感じることはありませんか? 茶の木だけではなく、周辺の環境や他の畑のことでも構いません」
「そうだねぇ……」
ショウは、眉間の皺をさらに濃くして頭を捻る。
「そう言えば……水場は変えたよね。ほら、水がちょっとおかしかったことがあったじゃない」
思い出したように、シノがショウへと顔を向けた。
「……ああ、でもすぐに水場を変えたから、茶の木には関係ないんじゃないかな」
「水が……どうかしたのですか?」
「あの辺りには、農業用に使える湧き水が引いてあるんだけど、一時期水が濁っていたんだよ。飲み水じゃないから、それほど気にする人はいないんだけどね。なんとなく気になったから、少し遠くの水場に変えたんだ。その時はすぐに戻ったんだけど、その後にも何度かあったね」
湧き水が濁るということは、地下で何かが起きたのかもしれない。
貯水湖のときのように、魔法陣を置いて汲み上げているのか、自然の井戸なのかでも理由は変わってきそうだ。
「ミオル様、通常の湧き水は魔法陣で汲み上げる方法が多いのでしょうか?」
「場所に寄りますね。自然の湧き水がある場所はそのまま利用しますし、王都の湧き水は地下にある水脈から陣で汲み上げているはずです」
水脈の影響も充分考えられる。
茶の木だけではなく、土地そのものを見てみたい。
「ショウさん、畑を見せていただくことはできませんか? 地下の水脈に何か影響があったのなら……土地に変化が起こってもおかしくないと思うんです」
「土地……」
「必ず理由が分かるとは言えません……でも、少し気にかかります」
「……構わないよ。お嬢さんは植物の専門家なんだろう? こんなにありがたいことはないよ」
薬草師は、植物の専門家……ではない。
森の植物には詳しいかもしれないが、農作物に関してはまったくの素人だ。
「残念ですが、わたしは森の植物を多少知っているくらいです……」
「それでも、茶の木しか知らない私たちよりは、ずっと詳しいわよねぇ」
2人は、無理なお願いに嬉しそうに頷いてくれた。
「ルティナ殿と一緒にいると、なぜだか色々なことに出くわしますね……話を聞く限り、一度調べた方が良いのは確かですが……」
ミオルは珍しく言葉を濁した。
執務室で眠るくらい忙しいのだ。
本格的に治療院で薬草を使った調薬を始めようとしているし、シズランを使った薬も作られ始めている。
リュサールは今、猫の手も借りたいほど忙しいはずだ。
「あと、これ。30袋ならすぐにお渡しできるけれど……これだけじゃ足りないかしら?」
シノが木箱に綺麗に並んだ香立を持って来た。
そうだ、これも食文化を広めるリュサールの仕事だ。
ミオルは目を閉じ、見なかったことにしたらしい。
「ロイ、こちらの件は任せます」
「はい! もちろんです。シノさん、あとで取りに来るでもいいかな」
「わかったわ。持ちやすいように詰めておくわね」
もともと、食に関することに意欲的なのはロイだ。
ミオルは判断をするだけで、実際に動くのはロイになるのだろう。
嬉しそうにシノと笑い合うロイを見ていると、こちらまでつられて笑ってしまう。
「お嬢さん、いつがいいかね? 雨が降らない日の方が良いと思うよ。あの辺は足場があまり良くないから」
「大丈夫です、森育ちですから土には慣れています」
「そうかい、頼もしいねぇ。うちはいつでもいいけど」
「では、明日でも構いませんか?」
「ああ、朝早くになってしまうけれど……」
「それも大丈夫です。朝陽と共に目が覚めますから」
「ははは、それも同じだね。朝陽は気持ちいいよねぇ」
皆で笑い合う店の中で、ミオルだけが難しい顔で後ろを向いた。
彼はいつも忙しい人だ。
けれど、単なる仕事の多さに追われている時の彼とは、明らかに空気が違う。
ミオルの様子に微かな不安を抱きながら、茶器を手に取る彼の背中を見つめた。




