蒼の季-45.決断
リシェとザハルの店で軽く雑談をし、店を出る頃には陽は傾き始めていた。
思ったよりもずっと長く話し込んでいたらしい。
ルティナとリシェはずっと手をつないだまま、石を前に語らっていた。
楽しそうに笑い合う2人は、今日あったばかりとは思えないほど自然だった。
ルティナを離れに送ると、セラが3人分の夕食を用意していた。
さすがのセラだ。
嬉しそうにリシェの話をするルティナを見て、初めて友達が出来たのだと思った。
丁寧な言葉は時折崩れ、あまり耳にしない砕けた口調がやたらと可愛かった。
そんなルティナを見られたことが一番の収穫かもしれない。
離れから帰りながら空を見上げると、満天の星空が在った。
瞬く星たちには、世界の隅々までが同じように見えている。
ルティナと出会ったリシアやエンの森も、同じ星空の下にある。
そう思うと、遠いはずの場所が近く思える。
同じ国、同じ大陸にある。
行き来できない距離じゃない。
「レイラン、久しぶりに走りに出ないか?」
レイランとゆっくり話をするには、丁度いい機会だ。
「……いいですね。市場で安いワインでも買っていきましょうか」
「ははっ それもいいな。行こう」
西側の裏門から出て、風の隙間を縫って平原を駆ける。
大きく膨らんだ月が空へと昇り、広がる大地に淡い月光を注ぐ。
昼間の太陽と比べると随分と儚い光だ。
静かに染みる陰で、身体と頭が静かになっていく。
ゆったりと話をするのは、やはり夜がいい。
「ここに来るのはあの日以来だ」
「そうですね、リシアに向かう前日でしたか」
「突然、明日リシアに発ちます、からのスタートだったもんな」
「事前に話して、断られたら困りますから」
平原の端にある崖は、目の前に空が広がる。
あの頃より伸びた草の上に座ると、青い香りが鼻に届く。
草の冷たさが気持ちいい。
渋みの強い赤ワインは、あの時よりもぬるい。
さして美味しくもないこの味が懐かしく感じるほど、目まぐるしく過ごした。
「たった、1季と半分だよ。信じられるか?」
自分の言葉に笑ってしまう。
あれから、まだそれだけしか経っていないのが冗談のように聞こえる。
「そうですね……1年は過ごしている気がします」
隣で足を伸ばしているレイランの横顔は、比べようもないほど大人びた。
ずっと後ろにいたレイランが、今こうして隣にいる。
立場は何も変わらない。
変わったのは心の置き場所だけだ。
「……兄上の話、どう思った?」
ワインを呷りながらこちらを見やり、手の甲で口を拭った。
「わたしは、願ってもない話だと思いました。今まで遠かった南東との距離が縮まります。王都のある北西をナヴァン様、リシアのある南東をユアン様にとお考えなんでしょう」
レイランの言うことは正しい。
アルヴィンの意図の半分はそうだろう。
だが、それだけなら話が大きすぎるというのが正直な感想だ。
「……俺は、お前はどこで生きるのか、と問われた気がした。おそらく、今すぐではないにしろ、兄上は俺を独立させようとしているんだと思う」
「独立……それもあるかもしれませんね。南東の土地――大森林の価値が変わりましたから。今後のことを考えてユアン様をそちらに置き、地盤を築きたいのでしょう」
レイランの声は淡々としている。
リシアに拠点を置くことは、大賛成だ。
南東はこれまでアルデニアの手が届きにくかった場所だ。
アルデニア全体で考えたときに、南東のエルゼド大森林の重要性は増している。
四家のどこかに任せるには、広さも、管理の負担も大き過ぎる土地だ。
そこに誰を置くかと考えたときに、自分が適任だというのも理解できる。
だが――
兄上が見ているのは、その先だ。
リシアに拠点を移すということは、アベリスから離れるということでもある。
王都で担っている役割を続けるのは難しい。
南東へ根を下ろすのなら、いずれはアベリスと別れることになるだろう。
今、レイランが自分の側にいられるのは、アベリス家の人間だからだ。
兄上のこの問いは、レイランに向けられたものでもある。
どこで生きるのか。
兄上は2人に向けて、この問いを投げている。
「俺が……リシアに拠点を移すとしたら、レイランはどうする?」
「は? 着いて行きますが」
「そう簡単なことでもないだろ? レイランはアベリスを継ぐ者だと、誰もが思っているよ」
「わたしは思っていませんが」
「俺が継ぐと思っていたのか?」
「そうなってもいいと思っていました。アルヴィン様のお話があってからは、ユアン様はリシアに行くだろうと。それなら、アベリスはリオンが継ぐことになるのではないでしょうか」
「……叔父上が許さないのではないか?」
「父は好きにしろと言っています。アルデニアでは珍しくもないでしょう。血が繋がれば、才があり、その意思があるものが継げば良いのです。少なくとも父はそう考えていますよ」
それは本心なのだろうか。
レイランが王都でアベリスを継ぎ、リオンとリエラが支える。
その形が一番いいと思っていた。
レイランはその資質が充分だし、リオンとリエラはレイランを慕っている。
レイランが従者をしている現状が、そもそもおかしいのだ。
リオンはそれについてどう思っているのか。
まだ16だ。
アベリスを継ぐことを考えるにはまだ若い。
自分の決断で、アベリスの人たちのこれからが変わる。
「……レイランは、それでいいのか?」
「……どういう意味ですか?」
レイランの声が、低く冷えた。
憤りも分かる。
でも、聞かないわけにはいかない。
「俺の決断に合わせる必要はない。レイランには選択肢があるんだ」
「わたしの意思ではないということですか」
「リシアに行くことを望んでいるわけではないだろ? 俺が行くから一緒に行くのなら、それはお前の意思ではないじゃないか」
「そうではありません」
即答だった。
「わたしはリシアに行くか行かないかの話をしていません」
レイランの目は、前を向いたまま動かない。
「わたしは自分の意思で、ユアン様の側にいるという話をしています。今も昔も、その思いは変わっていません」
その言葉に乗った決意は重かった。
躊躇いもなく、ユアンの肩に全部を乗せてきた。
「……すごい言い様じゃないか」
「ユアン様には、わたしの決意ごと、立ってもらうほかありません」
レイランは強くなった。
自分の思いを、迷いなくユアンに預けられるほどに。
「ようやく、隣に立ってくれるってことか」
「まだ、立てているとは思いませんが。それを望むことはできるようになりました」
肩に乗るものの大きさが分からないわけがない。
でも、この重さが――
これほどまでに誇らしいものか。
これほどまでに心強いものか。
胸の内から溢れるのは、感謝と喜びだ。
ユアンが望み、手に入ることはないと思っていたものだ。
孤独だったとは思わない。
ずっと側で支えてくれていた。
だが、後ろ隣ではまるで違う。
これも、ルティナから貰ったものだ。
「まったく……敵わないな。俺はルティナに、どれだけ感謝すれば足りるだろう」
自分の声が震えるのを聞くのは、初めてかもしれない。
人の前で涙を流すのは、子供の頃以来だ。
「わたしもです。あの人を見つけ、声を掛けた。あの日の自分を誇りたいです」
彼の清々しい自画自賛にさえ、突っ込むことができない。
本当にその通りだ。
レイランが隣にいるなら、きっと何があっても大丈夫だと思える。
「隣に立つなら、もう従者ではなく対等だ。兄上にもそう伝えるよ」
「……代わりに従者を付けろと言われないでしょうか」
「すぐに今の形を変える必要はないんじゃないか? リシアに戻ってから考えればいいだろ。これは、俺が意思表示として伝えたいだけだ」
「父にも話をしなければいけませんね」
残っていたワインを一気に飲み干す。
レイランはそれを眺めながら、ふっとため息を吐いた。
ここに来るまで、だいぶ身構えていたのは伝わってきた。
言葉は最初から決まっていたのだろう。
だが、それをこうして口にするのは、レイランにとっても覚悟が必要だったはずだ。
以前なら、ここに残れと言ったら従った。
ユアンの望みを叶えることが、レイランの願いだったからだ。
だが今は違う。
レイランは自分の意思でここにいる。
レイランが並ぶのなら、置いて行かれないようにするのはこちらの方だ。
この決断を後悔させない。
ユアンは秘かに、空の月に誓った。
朝一番で、アルヴィンの執務室へ向かう。
廊下を進む足取りは、いつもより幾分か速い。
視界が広がった気がするのは、自分を高く見積もり過ぎだろうか。
レイランの足音がいつもより近く、大きく感じる。
これが無性に嬉しいのは、レイランに気付かれたくないことだ。
昨夜屋敷に帰って、レイランと共に義父と話をした。
アルヴィンへの返答の前、結論を出す前に、意思を伝えておきたかったのだ。
義父は静かに話を聞き、すべてを受け入れてくれた。
最初から、こうなることは分かっていたのだ。
穏やかに笑い、やりたいようにやれ、とだけ言った。
おまけに、困ったら相談することを約束させられたのだ。
義父からしたら、自分たちはまだほんの子供だ。
自分たちにはまだ見えていない景色が見えているのだろう。
執務室の扉の前で声を掛けると、待っていたように扉が開いた。
見えた顔に足が止まる。
レイランと顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。
そこには、アルヴィンが集めたであろう面々が既に座っていたのだ。
ミオル、エデュード、ウィラン、ナヴァン。
会議だと言われても良いくらいだ。
こちらに向けられる視線は、どこか温かさがある。
これだから、アルヴィンには敵わないというのだ。
「お待たせしてしまいましたか」
「いや、ちょうど今だ」
アルヴィンの表情は変わらない。
空けられた正面に座り、レイランはいつものように後ろに控えた。
「レイラン、お前の話でもある。ユアンの隣に」
もう、返答をする必要などないのではないか。
さも当たり前に、皆がそれを受け入れているのもむず痒い。
レイランもそれは同じなようで、堪えるように口元が歪む。
「ここにいる皆には、すでに話してある。ユアンとレイランの答えから聞こうか」
あまりにも唐突に話が始まる。
これがいつものアルヴィンの進め方だ。
「リシアに向かおうと思います」
「わたしもご一緒します」
アルヴィンは小さく頷き、確かめるように2人の間で瞳を動かした。
「……羨ましい」
ため息のような声が、ウィランから漏れた。
「ユアンがリシアを拠点にするなら、むしろ行きやすくなるでしょう。ぼくも足を運ぶつもりですから、整備は急いだほうが良いですね」
ミオルは嬉しそうに笑んだ。
「南東が任せられるようになるなら、連絡手段は何か考えたいところですね。グライフェルの数を増やす方がいいかもしれません」
ナヴァンは本心からほっとしているように見える。
彼からしたら、今まで見ていた土地の三分の一が手から離れるのだ。
もともと忙しすぎるのだから、それでもあまり変わらないかもしれないが。
「リシアの新しい屋敷は、既に着工している。しばらくは執務棟を兼ねてもらうことになるが、ゆくゆくは別棟にするつもりだ」
「……兄上、いつの間に」
「ああ……ルティナ殿の話を最初に聞いた頃かな」
アルヴィンが後ろに立つオルフェスを見ると、彼は手に持った書類を確認しながら頷いた。
「もともと南東の拠点はあった方がいいと思っていた。よい機会になったのではないか?」
「屋敷はもうしばらくかかりますが、兵舎の方はほぼ増築が完了したと報告がありました。ここから先は、まだ指示を待っている状態です」
「どこまで準備をするか、皆の意見を聞きたいと思っているんだ。他の拠点とは意味合いが違う部分が大きい。兵舎と通常の設備だけでは、南東に拠点を設ける意味がないからね」
アルヴィンはリシアの街の大まかな見取り図を机に置いた。
今の段階で、もう自分が知っているリシアではなくなっている。
兵舎もかなりの大きさだ。
屋敷の場所は元の街外れだが、かなり広く敷地を取ってある。
「城壁はまだ検討中だ。街の規模が決まらないと作るのが難しい。どこまでの規模にするかを決めかねている」
「治療院は、都下にある規模まで大きくしましょう。人も徐々に増えるでしょうし、リシアの治療院では薬草の活用法も研究したいです」
確かに、リシアの治療院はかなり規模が小さかった。
治癒師も2人しかいなかったはずだ。
「小規模の魔素だまりを処理する拠点としても使いたい。兵舎とは別に、観測所として使える棟も建てた方がいいだろうな」
エデュードは見取り図を眺めながら、指を滑らせる。
「大森林が近いですから、まだ知らない魔獣も多いでしょうし、あちらの気候でしか育たない食物もありそうです。農業用の土地と、印の研究を兼ねた魔法棟も欲しいですね」
ウィランは目を輝かせて言葉を繋げた。
「やはりそうなるか……要するに、小さな王都だな」
アルヴィンは肩を揺らしながら笑い、オルフェスは若干呆れている。
現実的ではない。
そうなるとしても、それは何年も先のことだ。
「何にでも使える棟を一つ準備するのではいかがでしょう。期間を決めて、代わる代わるリシアに滞在できるような。そもそも、そんなに一度に来られても、我々が対応しきれませんし、リシアでは賄いきれません」
レイランはオルフェス側の人間だ。
夢を語らないわけではないが、まずは足元から考える。
レイランらしい。
「治療院は優先的に大きくしたいです。リシアの研究が、王都にもアルデニア全体にも役立つ。むしろ、それが南東に拠点を置く一番の理由だと思います」
これが何より先にやりたいことだ。
王都での陽の強さは、自分が一番感じていることだ。
ルティナがリシアにいるのも大きい。
アルヴィンは見取り図に視線を落としたままだったが、表情が緩んだのが見えた。
「そうだな。まずは一つずつだ。治療院の拡張と、別棟の建築まではこちらで進めよう。それ以外の施設や設備は、各々の家がリシアに持つというのはどうだ? もちろん、ユアンとレイランと相談した上でだが」
「その方が良いでしょう。実際リシアに割ける人員もそう多くありません。このまま進めると、王都の人手が足りなくなります」
黙って聞いていたナヴァンは、少し安心したようだ。
「あとは人だな。政務を取り仕切る者と、文官も必要だろう。誰か連れて行きたい者はいるか?」
「レイランを従者から外したいと思っています」
いざ言葉にすると、それは重く返ってくる。
望んでいたことなのに、手放すような感覚になるのもおかしなものだ。
「その方がいいだろうな。リシアに戻るまでに、代わりに誰を付けるかは考えておく」
あっさりとした答えに拍子抜けだが、アルヴィンはそのつもりだったようだ。
以前から考えていたことなのかもしれない。
「……政務の方は、私が推薦したい者がおります」
オルフェスが珍しく、自ら声を上げた。
彼が笑っているのには嫌な予感しかしない。
「私の……人生の師匠のような人です。……おそらく私の数倍は頭が回ります。少々変わり者で厳しい人ですが、リシアを一から始めるにはこれ以上の適任はいないと思います。本人もリシアに興味を持っているようなので、ぜひお連れいただければ」
オルフェスの数倍と聞くだけで、その人の異様さが分かる。
「推薦というわけではありませんが、ぼくからも提案したい者がおります。治癒と浄化ができる器用な子なのですが、王都だと生かしきれないのです。候補がいなければ、イアムのことを心に留めておいてください」
「イアムなら願ってもないことですが、本人は了承しているのでしょうか」
「本人はとても嬉しそうでしたよ。彼には王都の仕組みは窮屈なのでしょう」
イアムはよく知っている。
一緒に学ぶことも多かったが、優秀な人だ。
口数は少ないが、いつの間にかやることを終わらせていなくなる。
木陰で寝ているイアムを皆で探すのが、いつもの光景だった。
思い出すと懐かしい。
「改めて時間を取るが、本人たちとも話してみるといい。リシアに戻る時期はどう考えている?」
「屋敷がある程度使えるようになるのは、いつ頃でしょうか」
「蒼の季の終わりまでには、住居部分は間に合うはずです」
蒼の季の終わり。
ちょうどいいのではないだろうか。
レイランも隣で頷いた。
「一応、ルティナにも確認しますが、蒼の季の終わり頃で考えます」
「そう言えば、ルティナ殿の意思は聞いていなかったな。もしかしたら王都に残りたいというかもしれない」
アルヴィンが冗談を言っているように見えない。
一理ある……と思ってしまう自分も情けない話だ。
「……確認しておきます」
「いやいや、帰るでしょう」
笑いを堪えながら、レイランが小さな声で返した。
「そうか? 案外王都にも馴染んでいるようだし、皆とも仲良く過ごしているじゃないか」
「僕としては、残って欲しいですね。ルティナ殿と過ごすと魔法が生まれます」
「私も、まだまだ相談したいことが山積みだが……」
「ぼくはずっといて欲しいと伝えていますよ。食も薬も、彼女から知りたいことは尽きませんから」
「協力してもらいたい旨を伝えたが……彼女なら、戻っても力になってくれるはずだ」
いつの間にか、ルティナを中心に王都が回っているのは確かだ。
ここにいる全員が、心底残って欲しいと思っている。
実際、ルティナも王都での生活を楽しんでいるように見える。
一緒に帰るつもりになっているが、ルティナの本心を聞いたこともない。
今度、きちんと聞いてみた方が良いかもしれない。
「……ユアン、すまない」
「え……?」
「……冗談だ」
気まずそうに目を逸らしたアルヴィンの後ろで、オルフェスが深い深いため息を吐いた。




