序章-08.食事の作法
レイランに支えられながら、長椅子に戻ってきた。
身体は重く、頭がふわふわする。
体力をすべて使い切って、完全にからっぽだ。
目の前は揺れるし、吐き気もする。
それでも、心はとても清々しかった。
「ルティナ様、本当に大丈夫ですか?」
どうしたらいいのか分からないのだろう。
心配しながら、焦って、困って、戸惑っている。
取り乱した様子のレイランを見ると申し訳なくなる。
「ご心配なさらず、体力を使い切っただけです。少し休めば戻ります。本当に大丈夫ですから」
「何か出来ることがあれば、遠慮せず言ってください」
さすがに少し気が引けるが、心配するレイランの様子に、素直に甘えさせて貰った。
「……お水を取ってきて頂けますか?入ってすぐの保冷棚にあるので。コップも2つ、近くにかかっていると思います」
戸口の方に目をやって、より一層困った顔になっている。
何かを言いかけて口をつぐみ、目を伏せて、また戸口を見る。
くるくる変わる表情を見て、その様子が小動物のように思えてしまう。
レイランの慌てる様子は、とても新鮮だ。
「家の中に入って頂くことになるので、大変申し訳ないのですが……」
「いえ……その、失礼でなければ、すぐに取ってきます」
レイランは扉が閉まらないように留め、ガラス瓶と陶器のコップを手に戻ってくる。
手渡されたコップの水を一気に飲み干すと、冷えた水が身体の中を通る道筋がくっきりと伝わる。
喉がからからだったことに、今更気付いた。
レイランも同じように、喉を鳴らしながら飲み干していた。
「はぁ、ありがとうございました。生き返りました」
冷えた水のお陰で、少し落ち着いてきた。
朝の採取から、息つく暇のない怒涛の流れで、食事も休憩も取らないまま施術をしたのだ。
むしろ良くもったと思う。
こんなに後先考えない行動を取る自分に、新鮮な驚きがある。
今日は不思議な日だ。
「ルティナ様、申し訳ありませんでした。水を取りに行くまで、お食事の前に長々と付き合わせてしまっていたことに、まったく気付いておりませんでした……」
「お気になさらないで下さい。自分が思うよりも体力がなかっただけです」
「リズを思って、ご無理をなさったことくらいは分かります……」
ルティナは、この先何があっても。
今日のことで、自分とこの人を責めることはないだろう。
「レイラン様、リズの脚ですが……」
ルティナは言いかけ、ふと思い立って少し考える。
「言いにくいことであれば、無理に話さなくても大丈夫です。何も見ていませんが、“勝手に”治ってしまうという不思議なこともあります」
幸せそうに微笑む視線の先には、フェンとじゃれ合うリズがいた。
リズはひたすらに静かな子だと思った。
実際ここに来てからも、必要以上に動こうとしないし、感情の揺れも少なかった。
フェンを見慣れているせいもあって、それに少しだけ違和感があった。
もとの特性も、性格もある。でも、感情だってきっとあるのだ。
少なくとも、今フェンと遊んでいるリズは楽しそうに見える。
あれだけ完全に途切れていれば、敏感な子には苦痛でしかなかっただろう。
自分の脚が、何か別のものに感じるほどの違和感だと思う。
少なくとも人であれば、心が病んでしまってもおかしくない重度の症状だ。
それを今まで耐えて来られたのは、レイランがいたからだと思う。
ふと、リズがこちらに目を向け、静かに歩いてくる。
まだ少しぎこちなさはあるが、今までよりも軽やかに足を運んでいる。
リズはルティナの前で足を止め、コップを持ったままの左手を見つめている。
深く考えず、コップを置いて、左手を差し出した。
リズはその手に鼻先を乗せる。
――――。
「え……?」
頭の中に直接、“理解”だけが流れ込んでくる。
言葉ではない。音でもない。
その感覚の意味が“感謝”なのだと、ただ分かってしまう。
湧き上がって溢れだす感情が、目の奥から込み上げて、粒になってこぼれ落ちる。
ルティナは右手で胸を抑えた。
名前の付けられない何かが、息苦しいくらいに溢れてくる。
嬉しいのか、幸せなのか、喜びなのか。
そのすべてを集めたものが、感動というものかもしれない。
レイランは戸惑うようにこちらを見ている。
おそらくこれは、ルティナの力ではない。それなら、レイランにも伝えられるはずだ。
リズは同じように、レイランの手の甲に鼻先で触れる。
その一瞬、リズの角が青白く光った。
「う、あ……」
レイランは、止まったまま動かない。
そして、目の端から一粒、涙がこぼれた。
声にする言葉が見つからないまま、しばらく音だけを聞いていた。
今日あったことを思い出すと、考えたいこと、試したいことが次々と並んでいく。
これだけのことがあったのに、まだ半日しか経っていない。
時間というのは、実は曖昧で希薄な存在なのではないか……
整理がつかない頭は、ときどき意味のないことを考え始める。
まだ、混乱している最中ということだ。
「レイラン様、お話を続けてもよろしいでしょうか?」
「……はい、大丈夫です。落ち着きました」
おそらく、2人共大丈夫ではない。
大丈夫ではないことを理解するところまで、やっとたどり着いたところだ。
「リズとレイラン様のこれからのことを考えると、リズの脚について、きちんとお伝えした方がいいと思っています。ですが、さきほどのわたしのお願いで、聞くことが負担になるようなら控えます。お願いを撤回出来ないことを、どうかご理解いただければ……」
「構いません。聞かせて下さい」
迷いの欠片もなく、レイランは即答した。
ルティナは少しうつむき、顔をあげる。
「ただ、少し説明に時間がかかりそうなので……失礼でなければ、食事をしながらでもよろしいでしょうか?簡単なものしかご用意できませんが」
言葉にしてから、もしやと思い口をつぐんだ。
レイランは庶民ではないだろう。
初対面の人間、しかも手作りの食べ物を簡単に口に出来るとは考えにくい。
「あ、あの、もしご予定があるようでしたら、無理にとは言いません。この辺りには食事を出す店がありませんので、また日を改めてでも……。あ、でも、王都にお戻りになる日数に余裕がなければ……」
「いえ、予定などは特にありませんし、こちらには休暇としてきておりますので、王都に戻るのもまだ先です。そうではなく、そこまでお手間を取らせるのは申し訳なく……」
「作るのは1人分も2人分も手間は変わりませんが、その……わたしが普段食べるものなので、お口に合うかは……わかりません」
「ご迷惑でなければ、是非ご馳走になりたいです。実は腹の虫がうるさくて困っておりました」
ルティナは小さく笑って、家の中へと案内した。
「準備しますので、こちらで少しお待ち下さい」
レイランを蔓編みの長椅子へ案内する。
火床で手を洗ってもらうのは気が引けて、製薬用の浄化水に浸した布を、軽く絞って手渡した。
食事の準備を続けようとしたところで、外のフェンが騒ぎ始める。
そろそろお腹が空く時間だ。
「申し訳ありません、うるさくしそうなので、先にご飯をあげてきます」
外に行こうとすると、レイランが立ち上がって戸口の前に立つ。
「では、それはわたしにやらせてください。できれば……」
「もちろん、リズにもあげて下さい。フェンが騒いでいるところに、全て揃っていますので。リズの好物があればよいのですが」
「お心遣い感謝いたします。お任せください」
うやうやしくお辞儀をする姿が、もうまったくかしこまって見えない。
火床にある保冷棚から、作り置いてあるピクルスを小皿に盛り、細串を刺す。
今の時期は、タケノメとナバ菜、丸ねぎが美味しい。
今朝採ってきたタランの芽と茎ネギも、後で漬けておこう。
窓の外に視線を向けると、フェンがレイランの後ろにぴたりと張り付き、無言の圧を出している。
そばで待っているリズも、だいぶお腹が空いているのだろう。フェンよりもリズの方が落ち着かない様子だ。リズも案外食いしん坊かもしれない。
2頭に急かされるレイランは大変そうだ。
父の酒棚からフィトラを取り、半透明のグラスに注ぐ。
ほのかに甘い果実酒をひとさじ加え、冷えた泡水でグラスを満たし、最後にミントの葉を1枚。
食事の前の1杯に、父が好んでいた飲み方だ。
作るのは久しぶりだが、手が覚えているのが嬉しい。
戻ってきたレイランの前に、ピクルスとグラスを並べると、微かに瞳が輝いた。
さっきの2頭と同じ瞳に、吹きだしそうになるのをなんとか堪える。
「とりあえず先にこれだけ。召し上がりながらお待ちください」
レイランがグラスを持ち上げるのを見届けて、ルティナは火床に戻る。
作りかけで火から下ろした小鍋を温めながら、丸芋をすりおろす。
作り置いてあった蒸し鳥のハーブ漬けは、ほどよい厚さに切って、ハーブ油で軽く焼き色を付けた。
少し大きめの平皿に盛りつけ、残った油でたれを作る。
たっぷりの茎ネギのみじん切り、塩コショウとほんの少しの蜂蜜を加え、余熱でゆっくり火を入れる。
スープは、最後に丸芋のすりおろしを乗せて、煮立つ直前に火から下ろす。
パンとスープ、新しいグラスを食卓に運び、レイランに声をかけた。
「お待たせしました。もう出来上がりますので、温かいうちにどうぞ」
焼いた鳥にほどよく火が入ったたれを乗せ、最後にレモリアをぎゅっと絞った。
陶器の皿から立ち上る香ばしいハーブの香りは、空腹に追い打ちをかける。
運ぼうと振り返ると、レイランは手を付けずに座っている。
「どうか……されましたか?」
やはり口に合わないのかと不安になったが、らんらんとした目を見ると、そうではなさそうだ。
ルティナはレイランの前に皿を並べ、向かい側の席に着く。
「わたしだけ先に頂くわけにはいきません。正直、手を出しそうになりましたが……」
「どうぞ召し上がって下さい。お口に合うとよいのですが……」
レイランはスープを口に運び、続けて、2口、3口と手が動く。
どうやら、大丈夫そうだ。
ルティナも食べ始める。
優しい味のミルクスープは、丸芋のとろみで口当たりも良く、空腹をほどよく温めてくれる。
簡単な昼食のつもりで用意したけれど、今の身体にはちょうど良い。
「初めての味と香りです。とても美味しい……」
ミルクスープを見つめながら、呟くように言う。
その顔は本当に幸せそうで、心底ほっとした。
「お口に合うか心配だったので、気に入って頂けたのなら良かったです。なかなか手を付けられないので、少し不安になってしまいました」
「先に手を付けるのは、さすがに失礼かと……」
「なるほど、そういうものなのですね……」
考えてみると、父以外の人と向き合って食事をするのは初めてだ。
今まで気にしたことがなかったが、この国の食事の作法はどういうものなのだろう。
礼儀作法や言葉遣い、生活習慣は、すべて父から教わったものだ。
父と一緒に街に行くようになって、自分の家との違いに驚いたこともある。
何か失礼があったのなら、レイランに申し訳ない。
「街で暮らしたことがないので、何か失礼があったら言ってください。既にご不快な思いをさせていたら申し訳ありません」
「え、と、特にわたしは何も感じておりませんが……」
「それならば良いのですが。わたしの父は……、東方の出なので、作法や習慣がそちらに近いのだと思います。街から離れて暮らしておりますし、アルデニアの感覚とは違うことも多いかと。父以外の人と食事をするのも初めてのことなので、少し不安に思いました」
「初めて……ですか」
ルティナは頷く。
慌てたような、照れたような、何とも言えない表情のレイランは、しばらく止まっている。
そして、思い直したように口を開く。
「ここはルティナ様の家なのですから、気になさる必要はありません。むしろわたしが教えて頂きたいです。ルティナ様のお話は、すべて新鮮で興味深いものばかりですから」
「そう、ですか……」
正直なところ、何が同じで何が違うのかもよく分からない。
先ほどのレイランの様子だと、どうやら食事の作法は違うらしい。
「食事の作法……は違うのかも知れません。作法というほど堅苦しいものではありませんが」
「是非聞かせてください」
「我が家では、“アラ・ノト”と呼ばれる食事の作法というか、考え方があります」
「アラ・ノト……不思議な響きの言葉ですね」
ルティナは、ハーブ鳥を勧めながら続ける。
「アラ・ノトは“巡りの卓”という意味で、食前酒から始まり、後茶で終わる流れを表す言葉です。食事を作る者が、最初に食前酒と季節の小鉢を用意します。待つ者は、それをつまみながら食事を待ちます。食前酒と小鉢は、その後の食事を楽しむために、味覚を調える意味合いもあります」
「先ほど出して頂いたものですね。確かに、口がすっきりしました」
「待つ者は、食事の声がかかるまでそれをゆっくり楽しみます。早く食べ終わり過ぎては相手を急かすことになり、遅すぎては口に合わないという意思表示になると。逆もまたしかりで、作る者も、急かさず、待たせ過ぎず、頃合いをみる。呼吸を合わせると言いますか、ちょうどよく食べ終わり、ちょうどよくお出しできるように、と教えられました」
「呼吸を合わせる……」
空になったグラスを、ルティナは新しいものに取り替える。
フィトラを清水で割って、レモリアの果汁をしぼったものだ。
「作る者は、出来上がったものから順に食卓に運びます。作りたてを味わって頂くのが一番美味しいですから。待つ者は温かいうちに手を付けます。作る者が一番美味しい状態で運んできたものを、その心遣いに感謝し、その時に味わう。すべての料理が運び終わったら、作る者も食卓に付き、共に食事を楽しみます。先に食べ始めた側は、食べ終わりが相手と合うように調整します」
「……」
「食事を終えたら、待つ者が作る者にお茶を淹れます。温かいお茶と一緒に、季節の果物やささやかな甘味を添えて、労いの思いを込めて後茶を返す。それを一緒に頂きながら、美味しい食事を用意してくれた者へ、美味しく食べてくれた者へ、互いに感謝し、食事の余韻を味わうのです」
喋り終えて前をみると、レイランは出した食事をきれいに食べてくれていた。
よほどお腹が空いていたのだろう。
作ったものを残さず食べてもらえるのは、嬉しいものだ。
「やはり、アルデニアとは違いますか?」
レイランは食卓を見つめている。
「違う、というよりも……。今のお話は、作法というよりも在り方というか。食事の、人としての在り方に近いお話のように感じて。少し、考えさせられます」
「アルデニアではどのように食事をなさるのですか?」
「わたしたちが作法と呼ぶものは、正しい所作や立ち振る舞いを求めるものです。言葉遣い、立ち方、礼の角度、食器の扱いやグラスの持ち方などを子供の頃から教えられます。心遣いや考え方というより、形や見え方を重視するといいますか……正直、そこまで深く考えておりませんでした。むしろ、堅苦しくて面倒だとすら思うこともありました」
レイランの言わんとすることは、なんとなく伝わった。
そして、それを恥ずかしいと思っていることも。
「……美しい所作や振る舞いは、身につけるのに多くの時間と努力が必要なものなので、それそのものが相手への敬意と心遣いの現れだと思います。作法というのは広い意味で使われる言葉ですが、アルデニアの作法もとても美しいと思います」
「美しい、ですか」
その言葉の意味を考えるように、小さく息をつく。
「わたしたちは、心を伝える為の行いと考えますが、アルデニアは、行動で心を示すのだと感じました。結局は同じことではないですか?」
レイランは黙ったまま、少し眩しそうな目でこちらを見ている。
「ルティナ様は、本当に美しい方です」




