蒼の季-40.景色
麓の水場は小さなものだ。
水が満たされるまで、さほど時間はかからなかった。
溢れ始めた水は、もとの水の通り道に沿って山を下り、平原との境にある川へと流れ込んでいく。
「これで、麓の水場はアプラプト前と同じ状態になったはずだ」
エデュードは、周りの景色を確かめるように見回す。
ルティナは、元の景色を知らない。
エデュードが思っているこの山の景色は、どんなものだろう。
まだ、巡るためのきっかけが足りないのだろうか。
「ルティナ殿、少し見ていてもらえるだろうか。自分でもまだ確信がないのだが、少しやってみたいことがあるのだ」
エデュードは水場のすぐ近く、落ち葉が降り積もった場所に立った。
ファムに目で合図を送ると、ファムは水場の水をその落ち葉に撒いた。
エデュードの左手の前に、小さな魔法陣が浮かんだ。
左にゆっくりとまわる陣は、徐々に光を強めていく。
その陣は手の先から離れ、落ち葉の上にぴたりと止まった。
陣はただ、落ち葉の上でゆっくりと回り続ける。
特に何かが起こっているようには見えない。
いや、違う。
陣ではなく、落ち葉の方に変化が起きている。
何層にも積み重なった落ち葉が、徐々に崩れていくのだ。
いや、分解されている……?
はっとした。
そう言えば、地魔法の左回りの魔法を見たことがなかった。
魔素自体の凝縮も、土を固めるのも、造形魔法も、すべて右回りだった。
左回りがその反対なのだとしたら、それは爆発するような魔法を想像する。
でも、目の前で起こっているのは、形あるものを還すもの。
風化、崩壊、分解、……左に回る地魔法は、そういう類の魔法だ。
落ち葉を分解し、この大地に還元する。
それに、この山の魔素を含む水を加えて、巡りを動かそうとしている。
「これなら……土が……動き出すかもしれません」
優しい魔法だ。
地魔法は、大地にあらゆる影響を与えられる魔法だったのだ。
落ち葉の形がすべてなくなると、エデュードは大きく息を吐いた。
その表情は、今まで見た中で一番満たされた表情だった。
「これほどまでに、地魔法とは何なのかと……本気で考えたことなどなかったよ。造る、壊す。そういうことに長けた魔法だとしか思っていなかった。地の家に立つ者として、まったく足りていなかった。理解しようという気持ちが、自分には無かったのだと気付かされたよ」
崩れた落ち葉は、すっかり柔らかな腐葉土のように変化している。
それを掴み、その手で直接土に混ぜ始めた。
「ヨダ殿に会い、ルティナ殿に言われて、あの千年樹の根を眺めていたら……ふと思ったんだ。ヨダ殿の言葉、“土を起こすときに使う力の代わりになるもの”だと。そういう力があるのなら、それはドリアードの方たちの魔法なのではないかと。魔法ならば、自分にも使える可能性はないのかと……」
ファムも膝を付き、一緒作業を始める。
それに続くようにユアンとレイランも動く。
「あなたに会うと、皆が変わっていくものだと……一歩引いた目で眺めていた。ジュードに変化を与えてくれたのもあなたなのだと、今ははっきりと分かる。そして、私もその中の一人になったようだ。この魔法を理解したとき、魔素を初めてみることが出来たよ。この世界には、こんなにも当たり前に我らを助けてくれる存在があったのだと」
ルティナも進み、柔らかに崩れた落ち葉に触れた。
ほんのりと熱を持った土になったものは、嗅ぎ慣れた森の匂いがした。
「我らに新しい価値を見せてくれたことに、心から感謝している」
立ち上がったエデュードは、その大きな身体できっちりと整えた礼をした。
「わたしは……思ったことを言葉にしただけです。お礼を言われるようなことは……何もしておりません」
「ああ、そうかもしれない。でも、私の心にある感謝は、間違いなくあなたへのものだ。受け取っていただけると嬉しい」
ルティナは、エデュードの全身から注がれる感謝を浴びているようだった。
大きくて揺らがない、心からの思いだった。
「少しくすぐったいですが……大切に、心にしまっておきます」
ルティナもまた、アマヒトの礼で感謝を返す。
その場の空気が温かい。
山から下りる風も、いつもより柔らかく吹いた気がした。
あれから数日で、麓の景色は一変した。
グラナートの魔法士が総出で作業にあたり、麓の落ち葉は綺麗に土に混ぜ込まれた。
貯水湖のラクサールたちは、初日と2日目には居場所を決められないのか、今まで現れなかった場所に姿を見せていた。
ヴェリッダのときと違い、今回はラクサールの意思に任せる部分が多かった。
彼らの行動が不安だったのは、自分だけではなかったはずだ。
3日目、新しい水場で日向ぼっこするラクサールが見られるようになった。
それをきっかけに、徐々に他のラクサールも居場所を変え始めた。
貯水湖の周りで見かける個体が減り、いつの間にか水場が彼らの憩いの場になったようだ。
それを見て、ほっと胸をなでおろした。
ユアンとレイランは、ラクサールの予想外の動きに対処する別の方法も考えていたらしかった。
どうやらそれをせずに、今回の作戦は無事に終えられそうだ。
「ヒユイベニシダも大丈夫そうだね」
湖底を覗き込んでいるルティナの隣にいるのはユアンだ。
間違っても水に落ちないようにと思っているのか、片手はずっとルティナの肩に置かれている。
ひょっとして泳げないと思われているのか。
ヒユイベニシダに集中し過ぎて、落ちそうに見えるのか。
相変わらずの心配性だ。
「水中でも安定しているようです。毎日様子を見に来る必要もなさそうですね」
「貯水湖には交代で人が配置されるし、何かあったら報告を入れてもらおう」
湖の周囲には、もうラクサールの姿はほとんど見られない。
たまに水浴びするのを見かけたが、湧水点とは反対側で泳ぐだけだ。
ヒユイベニシダは、ちゃんとここの水を守ってくれている。
「このまま何もないことを願います……」
「楽観視している訳ではないけど、俺はヴェリッダのときの方が心配だったな」
「そうなのですか?」
「うん。前回はアウリスで追ったから、無理矢理移動させたって感覚が強かったんだよな。今回はさ、ラクサールが自分で選んだって思うから」
ユアンのこういう直感は、だいたい正しい。
確かに言われてみればそうかもしれない。
ルティナは生態から考える。
ヴェリッダは群れで行動する種だ。
群れの多数が動けば、自然とそこに集まるというのは経験からの考えだ。
でも、ラクサールは見ている限り、群れで生活しているわけではないように見える。
個々の意思が重なった結果、この水場に集まっているだけだと思うのだ。
だからこそ、この言葉は大きな安心をくれる。
ラクサールが何処にいたいかを考えた結果、あの水場を選んでくれたのならこれ以上の結果はない。
それはきっと、今回だけでなく来年からも続いていくはずだ。
「そうであるのなら……嬉しいです」
湖の縁で立ち上がると、感じたことのある風が吹いた。
一筋の風は足元をぐるりと回り、山を下っていく。
あの子だ。
辺りに姿は見えない。
でも、その風は山の上の方から吹いてきた。
貯水湖よりも北、山頂に近い方から届いたはずだ。
一瞬だけ感じた気配は、もうどこにもない。
「ユアン様、どこかにあの子が……ヤクモに似たあの子がいるみたいなんです。気配を感じませんか?」
ユアンは目を閉じ、感覚を広げる。
その範囲は、ルティナよりも遥か遠くまで届いているようだった。
この人は、日に日に霊核を掴んでいる。
広い範囲の気配を探ることは、もう敵わないだろう。
それが嬉しくもあり、少し寂しくもあった。
もう、ルティナが側に居る理由なんてないのだ。
霊核と対話できるようになったのなら、あとは自分で覚えていくだけだ。
身体のこと、霊核の存在、その扱い方を知ってから、まだ1季だというのに。
何も知らないまま今まで暮らしてこれたことも、きっと奇跡などではないのだ。
彼が霊核を持っているのは、なるべくしてなったこと。
ユアンだからだ。
何かに導かれたのなら、それにはきっと意味がある。
きっと、ユアンならその意味に辿り着くだろう。
それを、そばで見届けたいと願うのはわがままだろうか。
「……いるのは分かるけど……かなり遠いか……もしくは、気配を薄めるような能力を持っているのかもしれない。すごく曖昧にしか感じ取れない」
目を開け、山の北の方を見やった。
あの風は確かにあの子の風だ。
魔法が届く範囲には来ていたはずだ。
「あの子は、ヤクモとスヴェルフの混血ではないでしょうか……」
「俺は、ヤクモを一度しか見たことがないんだ。スヴェルフには確かに似ているかもしれないけど……ルティナほど、そういうのは分からないからなぁ」
「ヤクモが陰の魔獣だとすると、納得できる部分が多いです。気配を薄めるというのが、陰の魔獣に多い特徴だと思うのです。リズもそうですし」
「……なるほど。書庫に資料があるかもしれないよ。今度探してみようか」
「……あの子のことが、とても気になるのです」
流れ込んできたあの感情に、どうしても引っ張られてしまう。
寂しさすらまだ知らないのではないか。
ただずっと、ひとりでこの山にいたのなら。
「ルティナが望むなら、きっと会えるよ。君は魔獣に好かれるからね」
当然のように言い切る言葉は、そのまま心に入ってくる。
ユアンが言うのなら、きっとそうなのだ。
この山に巡りが戻るのを見届けながら、あの子にまた出会える日を待とう。
麓の水場付近には、たくさんの人の姿があった。
焦げ茶色の肩布を掛けた兵士と魔法士が、黙々と作業を進めている。
その中には、エデュードとファム、レイランの姿もある。
遠目でも分かる、活き活きとして、皆が山を思っている。
もうほとんど作業は終えているのではないだろうか。
固く締まっていた土は、見違えるほど柔らかくなった。
生き物の気配はまだない。
でも、そこは時間が止まった聖域ではなくなった。
「ルティナ殿、湖はいかがでしたか?」
こちらに気付いたエデュードが、声を上げる。
周りの兵士たちが一斉にこちらに目を向け、一糸乱れぬ敬礼をする。
その姿は美しく、表情は明るく充実している。
皆から届く心は、とても温かいものだった。
ルティナはそれに、心を込めたお辞儀で応えた。
「落ち着いていました。しばらくはこのまま様子を見ましょう」
「それは良かった。麓の作業もあらかた終えられた。あとは、この山の意思に従うのみです」
額に浮かぶ汗が、太陽を反射する。
周りにいる兵士も魔法士も、皆汗だくだ。
エデュードが誰よりも率先して動くせいで、周りはより一層働く。
この背中を追うのは大変だろうと、ぎこちない笑顔になってしまう。
「千年樹の根は……お使いにならなかったのですね」
この場所に、この山以外の気配は感じない。
「あれはきっと、ここを難なく回復させてくれるだろう。ヨダ殿にも、心から感謝している」
エデュードは黙ったまま、愛おしそうに景色を眺めた。
「プライド……という言葉は違うかもしれないが、やれる事をすべてやって、それでも足りなかったときに使わせてもらおうと思う。まだ、もう少しだけ、我らの力を信じてみたいのだ」
「……木々は受け入れたと、ヨダ様は仰っていました。応えてくれることを信じましょう」
エデュードは、懐から小さな筒を取り出した。
紐に繋がれたその筒から、エデュードの大きな手に何かが滑り落ちた。
それは、千年樹の根――小さな欠片だった。
「大の大人が、お守り……と言うと気恥ずかしいですが。これを持っていると、なぜかやれる気がするのです」
エデュードは目を細くして照れながら、それを大事そうに懐へ戻した。
この人は、こんなに表情が崩れる人だったのか。
その笑顔はとても若々しく、耳だけが赤くなっている。
「素敵です! ヨダ様と、エデュード様の大切な繋がりですね」
「……助けられるばかりではなく、ヨダ殿に何かあったときに、迷いなく助けられるようになっていなくては。身が引き締まる思いです」
エデュードらしい。
それはルティナでさえ思ったことのないことだ。
どこかで、ドリアードは特別な存在で、自分が彼らに何かできるとは思いもよらなかった。
この世界に暮らす同じ人なのだ。
エデュードの言う通りだ。
いつかそんなことがあれば、何を置いても力になりたい。
「わたしも、そう在りたいです」
山の木々が、ほんの僅か――葉を鳴らした。
気のせいと言えば、そうかもしれない。
都合の良い解釈だとしてもこの感覚を信じたい。
木々は繋がっている。
ヒユイの木々も、ヒウブの木々も。
きっと、ヨダやタヤに繋がっているのだ。
彼らに伝えたい。
ここにいる人が出した答えは、その思いは、こうであると。
木々を通して、彼らに感謝を伝えたいのだ。
―山を巡る水― 巡了




