蒼の季-39.朝陽の中
まだ薄暗い夜明け。
星の残る藍色の空へ、地平線から漏れた白光が手を伸ばす。
朝靄が白く照らされ、漂う空気の輪郭が浮かぶ。
光が世界を満たすまでは、もうひとときだ。
卓の上には、水の中で過ごすヒユイベニシダが5株。
葉先には、以前より一回り大きな気泡が集まっている。
その横には、水中での仮宿となる籠が5つ並ぶ。
いよいよだ。
今日、この子たちが、本当の意味で“ヒユイベニシダ”になる。
身支度を整え、グレーのマントを羽織る。
飾り水晶の留め具には、ほんのりユアンの気素が残っている。
彼に贈られたこのマントは、すっかり必需品になった。
フェンの準備を始めると、今日は少しそわそわしている。
警戒……とは違う気がする。
耳が立ち、何かを探るようにピクピクと動かす。
気配を探ってみても、貯水湖に向かう人たちが動いているだけだ。
王都の空気に慣れてからは、フェンのこういう姿もあまり見なくなった。
「フェン?」
ルティナの声に、彼はしっかりと鼻先で応える。
首に手を当ててみても、怯えているわけではなさそうだ。
その余裕があるなら、危険というわけではないのだろう。
ヒユイベニシダをレイランと共に来た兵士に託し、明るくなり始めた王都を後にする。
山道に入った頃、朝陽が地平線から顔を出した。
太陽は、一瞬で世界の色を塗り替える。
柔らかな靄に包まれていた景色が、色鮮やかな夏色へと変わる。
それは、この山が命を吹き返すかのような光景だった。
木々は静かだ。
土もまだ眠っている。
それなのに、以前とは何かが違っている。
山に生き物がいた気配がする。
フェンも何かを感じているようで、しきりに耳を動かしている。
不思議な気配だ。
風のようで、生き物のようで、いまいちつかみきれない。
もしかしたら、この山もすでに動き始めているのか。
貯水湖に着くと、目がくらんだ。
朝陽を受け、波立つたびに煌めく湖面が眩しい。
ここ一帯の光が集っていると思えるほど、輝きが際立っている。
この湖は山の源だ。
森の核と同じような存在だ。
人の手に管理されている場所が、いつしかこの山の核になっている。
こういう成り立ちも……あるのだ。
「ルティナ様、ヒユイベニシダはこれでよろしいでしょうか?」
レイランの手には、籠に収められた苗があった。
籠の下から根が垂れ、中の隙間には石が詰められている。
持ってみると、重みもあって安定している。
昨日の夜、ユアンに陽を与えてもらったお陰か、葉は活き活きとして張りがある。
これなら、問題ないだろう。
「はい、よろしくお願いします」
レイランの後ろに立つファムは、水に潜るための軽装だ。
大変なことを頼んで申し訳ないというルティナの思いとは裏腹に、ファムはどこか楽しそうにしている。
準備運動のように肩を回しながら、目が合うと無邪気に笑って見せる。
「ご心配なく、泳ぎが得意なことをお見せしましょう」
冗談めかしておどけているのが、本心なのが面白い。
ファムとも随分打ち解けた。
「ふふっ 楽しみに拝見いたします」
周辺にはまだラクサールが姿を現していない。
地中で休んでいるうちに、植える作業は完了してしまいたい。
朝の湖は澄んで、湖底がうっすらと確認できる。
暑い日に潜ったなら、見るからに気持ち良さそうだ。
水に半身を沈めたファムは、籠を2つ受け取った。
ルティナは湖岸に屈み、湖を覗き込む。
「湧水点を囲うように、5つを配置したいのです。ゆくゆくは増えていくと思いますので、土がある所に、適度に離して置いて頂ければ」
「分かりました。多少掘った方がいいですよね?」
「そうですね、できれば」
頷いたファムは、大きく息を吐き、肺一杯に空気を吸い込んだ。
身体を逆さにして、裸足になった足が水に吸い込まれると、湖面にはわずかな波紋が広がるだけだった。
するすると水に潜っていく。
ファムは湖底の岩に足を引っかけて身体を固定し、土をかき分けて籠を置く。
あらかじめ配置場所を決めていたのか、迷いなく2つ目も配置した。
軽く籠の周りに土を盛り、一度浮き上がって来た。
「ふはっ 水が気持ちいいです」
これは単純に楽しんでいる。
ここに来てから、彼はずっと笑っている。
湖から離れたところで、もくもくと指示を出しながら整備を進めているエデュードは、こちらにはあまり近付いてこない。
水嫌いを聞いた後だと、これは役割分担だと思いつつも、内心は微笑ましく思う。
3つまとめて手に持って、ファムが再度潜っていく。
本当にあっという間だ。
ファムの作業を見ていても、なにも苦労している様子がないのだ。
籠は水中でも安定しているし、やっていることは植えるというより置く感じだ。
思った以上に、このヤドカリ作戦は良かったのではないか。
「5つ配置を終えましたが、いかがでしょうか?」
水に浸かったままのファムは、顔に張り付いた髪を振る。
ルティナが隣に立つユアンを見上げると、彼は目を閉じて探っている。
「うん、しっかり感じる。思ったよりも範囲が広いな」
水の中の方が振動は伝わりやすい。
思った以上に効果は高そうだ。
「じゃあ、ラクサールが起きたあと、彼らの反応を見ましょう」
エデュードが進めているのは水場作りだ。
貯水湖の少し北側、木々の隙間にある空間でエデュードは地面を掘っていた。
中に立っているエデュードは、肩ほどまで身体が隠れている。
広さは端から端までが約20メートルほどだろうか。
掘られた穴の側面は地魔法で固定され、中央付近は土そのままの部分が残されている。
そこから水を導く造りだ。
魔素の流れる方向は、更に北の山の上からここを通り、貯水湖に繋がっている。
ここに魔素を引き入れて水場を作り、溢れる分を貯水湖に戻せば巡りは変わらない。
「ファム、魔法で魔素の道を引き出せるか?」
「はい、お任せを」
髪はまだ濡れたまま、足も裸足のままだ。
穴に飛び降りた彼は、中央の地面に手を置き地中を探る。
湧き水を導くとは、一体どういう仕組みなのか。
ルティナはよく知らない。
ファムは地面に青い魔導石を置いた。
普通の魔導石より少し大きく、色も濃い気がする。
ファムが魔導石に魔法を発動すると、魔導石に陣が浮かび上がる。
ファムが手を放しても、陣はそこに描かれたまま動き続けている。
これは、もともと刻まれていた陣のようだった。
しばらくすると、そこからじわりと水が湧き出しているのが見えた。
よく見ると、地中から引き上げられた魔素がその陣に触れると、水へと変換されているように見える。
引き上げられた魔素を動力のようにして、この陣は発動し続けるということだ。
なるほど、面白い。
この水場自体が魔道具のようになるということだ。
しかも、魔導石が直接水を作り出している訳ではない。
魔素を引き上げ、自然の湧き水に近い状態で変換している。
ルティナはため息が出た。
自然の中にある湧き水とは違っても、出来るだけ環境に与える影響を少なくしようとしている。
「すごいです。こうやって、自然に近い水場が作られるのですね……」
ルティナの言葉に、ファムが振り向く。
「ちゃんと自然水として湧いていますか?」
「それに近い状態だと思います」
エデュードも安心したように息をついた。
「これはウィランが農業用に新しく構築された陣が元になっているのです。農業用に使う際には、魔素の供給を魔導石が兼ねるので使い切りになりますが、ここでは魔素の供給が半永久に続くので発動し続けるのではないかと。しばらく様子を見ながら、問題がなければ同じような運用が始まるのではないでしょうか」
さすがウィランだ。
ちゃんと自然と人が、無理なく寄り添えるように考えている。
これはルティナにはできない考え方だ。
意識が自然側に寄り過ぎてしまうことは自覚している。
その場所ごとに、自然との距離感があるのだ。
森には森なりの、王都には王都なりの、無理のない形がある。
「とても……良い寄り添い方だと思います」
「ここもしばらく時間がかかります。湖と水場に人を置いて、麓の水場づくりも進めようと思います」
「分かりました。少し気になる気配があったので、わたしもご一緒したいです」
麓に近付くにつれて、吹き下ろす風に混じる不思議な気配は強くなる。
フェンの耳はずっとその気配を捉えているようだ。
驚くことに、その気配は動いている。
山の風に混じる、静かな風。
動いているのに……魔獣らしさがあまりない。
エデュードについて山道から逸れ、落ち葉の上を歩く。
この季節なのに、まだ落ち葉がそのままだ。
下の土は固く、土の中が動いていないのが足に伝わる。
奥へと入っていくと、その気配は明らかにこちらに気付いている。
遠くから、様子を伺う視線を感じる。
「見られているね」
ユアンも気付いている。
フェンは興味津々だ。どこか嬉しそうですらある。
「不思議な気配です。スヴェルフにも似ていますが……もっと静かな風です」
「魔獣……だと思うけど、この辺りでは感じたことがない気配だ」
「環境が変わって、別の魔獣がやって来たのでしょうか」
エデュードが立ち止まった場所は、かつて水場だったのが分かる。
平坦で、木が生えてない場所。
水場だったであろうくぼみも、しっかりと地面に残っている。
溜まった落ち葉を払おうと、エデュードが一歩進むと――
くぼみの中心で風が吹き上がった。
舞い上がった落ち葉がはらはらと周囲に散る。
敵意は感じない。
くぼみを挟んだ向こう側。
離れた位置からこちらを見つめる、淡く光りを放つ2つの瞳があった。
大型の犬のような身体と2本の尾、周りに同化する薄茶色の毛並み。
胸と尾の先は白く、前足を揃えた立ち姿はスヴェルフのような気高さも感じる。
こちらを見つめる2つの瞳が、余韻を残して消えた。
ひと蹴りでエデュードの寸前に降り立ち、 ふさふさの尾が空を切った。
エデュードは反射的に身体を翻す。
飛びのいたエデュードの前に、遮るようにファムが身を入れる。
剣の柄に手を添えたまま、ファムはその瞳と相対した。
一瞬の後。
くぼみに残った僅かな落ち葉が、鋭い一筋の風に吹かれた。
水場だった場所は、何もない綺麗な土肌になった。
2つの瞳は、すでに光を消している。
エデュードとファムを見つめるその子は、ただ静かに佇む。
ファムが柄から手を放し、身体から力を抜いた。
「ヤクモ……ではないな。ヤクモは風を使わない」
エデュードはその子を眺めながら、様子を見る。
「ヤクモと似た種でしょうか……尾が2本なら、まだ若い」
ファムも過度ではないが警戒は続けている。
ルティナには、その子はとても好意的に見える。
身体から感じる不思議な気配ばかりが気になってしまう。
「あの子……おそらく混血です。体内に魔素を持っていますが、霊素を纏っているように見えます」
「そういうこともあるのか……」
ユアンはゆっくりとその子に近付いていく。
レイランも半歩後ろから続く。
フェンは尻尾をしきりに振り、ユアンの後ろから意気揚々と付いていく。
くぼみの手前でユアンが屈むと、その子は特に警戒する様子もなく歩いてくる。
軽く尻尾を振りながら寄って来る様子は犬そのものだ。
頭を少し低くしながら匂いを確認し、嬉しそうにユアンを見上げる。
ユアンが頭を撫でると、尻尾を数回振った。
エデュード、ファムに視線を向けてから、最後にルティナを見つめる。
足元までやってくると、周りをぐるっと一周回り、身体を寄せて隣に座った。
その視線は水場の方を向いている。
まるで、一緒にそれを見守ろうとしているようだ。
「……この子は大丈夫そうです」
「手伝ってくれたみたいだ」
作業を始めたエデュードとファムをただ見つめるこの子は、いつからこの山にいたのだろう。
前に来た時は感じなかった。
まだ若いのに、単独で行動しているのも気になる。
もしかしたら、アプラプトで家族と別れてしまったのかもしれない。
この山のどこかで暮らしながら、麓の様子が変わったのを感じたのだろうか。
エデュードを見つめる瞳は真剣だ。
今この山にいる人たちが、この子にはどう見えているのか。
全部わかっているような気もする。
水が湧き出すと、その子はそれを確認しに水場へ向かう。
匂いを嗅ぎ、水をひと舐めすると満足そうな声を山に響かせる。
水場を見届けると、その子は立ち上がった。
去り際に尻尾を振り、穏やかな風を水場へと送った。
数回振り返りながら、静かに山の奥へと帰っていく姿はどこか寂しげだった。
夜風のようだと思った。
鳴き声も静かで、人懐こいわりに雰囲気は落ち着いている。
フェンと鼻先を合わせて意思疎通をしていたようだったが、いつの間にかフェンの耳は垂れていた。
「あの子を見て、ここにまた魔獣が帰ってくるのが想像できた。きっとずっと見守ってたんだ」
全員が、あの子が去った方を見つめていた。
「スヴェルフのような気配でした」
「姿はヤクモの特徴が強いように思いましたが」
レイランは、地面に落ちたあの子の毛を手に取った。
「ヤクモ……というのは、どのような魔獣なのでしょう?」
「ほとんど姿を見せないのですが、アプラプトの前にはこの山にも暮らしていた犬型の魔獣です。群れで行動し、能力などもよく分かりません。成長と共に尾の数が増えていき、確か5本までは確認されていたと思います」
「群れ……ですか」
「もしかしたら、取り残されたか……」
皆、考えることはきっと同じだ。
なぜかとても気になるのだ。
あの子の鼻が手の甲に触れたとき、少しだけ意識が流れ込んできた。
そこに見えたのは、命の気配が何もない景色だった。
寂しさとは違う。
ルティナの、よく知っている感情だ。
もしかしたら、生まれたばかりの頃からずっと孤独なのではないか。
また会いたい。
この山に暮らしているなら、あの子と会えることを願ってまたこの水場に来よう。
フェンの視線は山の奥を向いている。
この視線の先に、きっとあの子がいるはずだ。




