蒼の季-38.籠
――籠。
「どうした?」
「籠……なら……」
籠を見つめたまま立ち尽くす。
頭の中がすごい速度で巡っていく。
籠の形、大きさ、素材、水の中での様子が思い浮かんでは流れていく。
草や蔓で編んだ籠なら、時間が経てば朽ちて自然に還る。
重しとして石を入れても、それが湖底に残ることに問題はない。
籠に詰めれば石が転がることもなく、重さも数で調整できる。
何より。
この編み目の隙間だ。
細い根なら、この隙間から伸びていけるのではないか。
水も流れ、光も遮らない。
多少の水流や衝撃からも守ってくれる。
籠が徐々に朽ちて自然に還るころには、ヒユイベニシダは根付いているはずだ。
ユアンの足音が目の前で止まった。
籠の底の隙間から、彼のブーツのつま先が見えた。
「ユアン様、籠……籠を、使いましょう」
ルティナの意図を汲み取ろうとするユアンの瞳は、宙をさまよう。
ユアンの頭は徐々に斜めに傾いていき、瞳はまったく動かない。
瞬きすら忘れている。
彼の頭の中で見えているのは、きっとただの籠だ。
その様子がおかしくて、ユアンの頭の中を覗いてみたくなった。
あまりにも無防備なその姿が、頭の中に籠っているウィランと重なる。
人は突然頭の中に引っ張り込まれると、皆こうなってしまうらしい。
「ユアン様、籠の――」
ふっと、止まっていたユアンの瞳に焦点が戻る。
その目はまっすぐにルティナを捉えた。
「ヤドカリか」
――!
身体の表面をぞわっとした何かが撫でた。
心が躍る。
顔が緩んでしまう。
ユアンにも見えている、おそらく自分と近い景色が。
「そうです!」
この瞬間だ。
自分と同じものを説明なしに見てくれている高揚感。
胸を抑えている手が、服を握る。
その奥に溢れている感情は、温かい光を纏う。
嬉しい、とも違う、喜び、とも違う。
名前のない感情が、ただ溢れて満たす。
思わずユアンの手を掴んだ。
持っていた籠が床に落ち、彼の足元で跳ねる。
ルティナの視線は彼の瞳の奥、琥珀色に吸い込まれていく。
琥珀色は微かに揺れながら、その深さを増した。
一度だけ瞬きをし、ユアンの目はゆっくり細くなる。
優し気に下がった目尻は、ただルティナを見つめている。
彼から溢れる黄金色が、ルティナをふんわりと包み込んだ。
ユアンはルティナの手に、もう片方の手を添えた。
「ははっ 面白そうだ。やっぱりルティナの考えは斜め上だよ!」
声を大きくして笑う彼の周りには、眩い光の粒が舞い散った。
ヤドカリ。
その考え方をすると、もっとやることは明確だ。
不慣れな環境で過ごすための、一時的な水中の住処。
水の中で苗を守りながら、留めておける小さな籠。
「籠の中に苗を入れて、籠の底に根が伸ばせる隙間を作る。籠と苗が湖底で動かないように、苗の周りには重しになる石を詰めます。苗が根付いたあとは、籠が朽ちて自然に還ってくれれば回収する必要もありません」
「陽の光が必要なら、葉にはなるべく籠がかからないようにした方がいいよな。振動の妨げになってしまったら、そもそも植える意味がなくなってしまうし」
そう考えると、籠は浅めにしたい。
シダは成長するごとに高さは増すが、幅はそう変わらないはずだ。
沈めておける分の石が入って、倒れない支えになるほどの大きさでいい。
「石も、湖底や湖岸にある石を使ったほうがいいでしょうか。他から持ち込むより影響が少なくて済みそうです」
「それよりも籠はどうする? ちょうどいいものを探すのも結構大変そうだよ?」
「そういったものを扱うお店はないでしょうか……」
「あると思うけど……かなり小さい籠になるよね? あるかな……」
確かにそうだ。
籠はそもそも何かを運ぶために作られる。
「……編みましょうか。あの湖に生えている植物で編むことも可能だと思いますし」
「籠を作るってこと? まぁ、ルティナならできそう……か」
「きっちりとしたものでなくてもいいと思います。むしろ変に加工がしてあると、水に影響が出てしまうかもしれません」
籠の表面には、何かしらの薬を塗ることも多い。
傷みにくくするため、形を固定するため。
父も家具を作るときには使っていた。
「そうすると、必要なのは湖にあって、籠が作れる植物ってことだね」
「今から探しに行くのは……難しいでしょうか」
「雨……降ってるけどね……」
「そうですね……」
思いつくとやりたくなる。
雨だろうと、エンの森ならすぐに探しに出ているだろう。
ここではそうはいかない。
それをもどかしく感じるくらいには、この考えには確信があるのだ。
「グラナートに行ってみようか。湖付近の調査はずっとしているし、どんな植物があるかだけでも資料で確認できるかもしれないよ」
それが分かれば、素材を手に入れることは市場でもできるかもしれない。
「ふはっ」
目の前で突然顔を背け、吹き出したのはユアンだ。
その姿を見て、ずっとぐるぐると回っていた頭の中が落ち着き、現実に戻って来た。
手はずっと繋がれたままだ。
籠を拾いもせず、座りもせず、なぜかずっと立ったまま考えていた。
「ルティナの百面相を見られるのは、きっと俺だけだね」
そのからかうような言葉に反応できないほど、このおかしな状況に笑いが込み上げる。
「ふふっ そうかもしれませんが、それはお互い様ですね」
「俺はルティナほどじゃないと思う」
「どちらかと言えば、ユアン様は不満なときの方が表情が豊かです。あまりにも無表情なのに、滲んでしまいますから。……自覚がないのは残念なことです」
「きっとそれ、君以外にはバレていないと思う」
「だから、お互い様ですね」
ユアンの手に、ほんの少し力が入った。
彼の体温が少し高いのが、手を取っていると伝わる。
「……行ってみようか」
「……はい」
どちらからともなく手を離す。
真珠色の光の糸が、互いの指先を結ぶように残った。
グラナート家の門は閉じていた。
いつも立っている門衛の姿も、今日は見えない。
「門が閉じているのを初めてみました……」
四家それぞれの正門は、朝の鐘で開けられ、閉門の鐘と共に閉じる。
四家の敷地に入る門が管理されているのもあって、中は割と緩いのだ。
まだ夕方の鐘も鳴らない時分だ。
何かあったのだろうか。
「ああ、雨が降っているときは、グラナートは閉じるんだ。エデュード殿がね、雨の中門に立つ必要を感じないって言ってね。それを聞いて、アベリスもそうしたんだよ」
「……素敵な考え方ですね」
ユアンは少し気まずそうに目を泳がせる。
口元は少し引き上がり、何かを言いたそうにしている。
「雨に濡れながら立つ必要ないって意味なんだけど……きっと、エデュード殿自身が濡れるの嫌いなんだよね……多分……」
それを聞いて、妙に納得してしまった。
ヒユイベニシダを水中に植えるという話をしたときに、彼はなんとも微妙な反応だった。
あれは、自分が潜るのを想像した顔だったのかもしれない。
そう思うと、エデュードが急に親しみやすくなる。
隙のないどっしりとした安定感と、場を締める空気。
四家の集まりでは、常に全体を眺めるように構えている。
そんな彼の、弱点とも言えないようなことを聞くだけで、急に普通の人に思えてくる。
「貯水湖に潜るなんて、きっとエデュード様の選択肢にはないのでしょうね」
「あのときも、すっごい雰囲気出てたもんな。ファムが笑いを堪えてるのが分かって、こっちも抑えるのに必死だったよ」
「本当に……皆さんは良い関係ですね」
「……実際とてもいい関係だけれど……ルティナもその中にいるよ。むしろいつも中心にいるじゃないか」
まただ。
胸の奥に、何かが沸き立つ。
それは波紋の中心、水面に落ちる言葉だ。
ユアンは当たり前に言う。
当たり前に、彼の景色を言葉にするだけだ。
それがルティナの中に浸透して、いつか当たり前にそこに在る。
ユアンの言うことは、いつもそうなる。
それをルティナは何度も感じてきた。
自分が王都という場所に、自分として立っている。
それが自分の中に少しずつ根付いている。
「お待たせいたしました!」
入口で待機していた兵士が、小走りで門を開けにやって来る。
「エデュード殿かファムは忙しいだろうか。貯水湖の件で、少し尋ねたいことがある」
「確認いたします、まずは中へお入りください」
水滴が落ちるマントを取り、入口で待っていたメイドに預ける。
入口の配備も完璧だ。
よほど雨に対する対処が決められている。
綺麗に水が拭き取られたマントは、入口の隣の部屋に掛けられた。
そこには風を送る魔道具が置かれており、なんとマントを乾かしている。
徹底している。
あの話を聞いた後だと、逆にこれがエデュードらしいと思える。
「ユアン様、どうされましたか?」
階段を駆け下りて来たファムは、襟元を少し緩め肩布も外している。
何か作業の途中だったようだ。
「貯水湖付近の調査記録を見せて欲しいんだ。ルティナが面白いことを思いついたから、それが可能な植物を探したくてね」
「植物……ですか。構いませんが……ちなみに何に使うものですか? 植物は割と揃っておりますが……」
「え……?」
「王都の街に使える新しい建築素材を作れないかと、ナヴァン様から相談を受けまして。色々なものを集めて試し始めたところです。土や鉱石、木材、植物など」
王都を偏りが出にくい街に変えていきたい。
ナヴァンは既に動き始めていたのだ。
この国の人たちは……本当によく働く。
国のために、人のために、世界のために。
胸の奥が熱い。
人に話すことさえ迷っていた概念を、理解した上で寄り添おうとする人たち。
その思いが、その中にいられることが、とても嬉しい。
ユアンが籠のことを説明すると、ファムは頷きながらも顔が徐々に緩んでいく。
「……面白い。確かにそれなら上手くいきそうだ。さすがルティナ様だ……消える籠とは」
消える籠。
的を射た表現に感心してしまう。
ファムも案外こういうことが好きなのかもしれない。
「それなら、エデュード様に聞いてみましょう。作れるかもしれません」
「作る……?」
ユアンと顔を見合わせる。
エデュードが、籠を編む姿を想像すると何とも似合わない。
いや、むしろ手先が器用ならばあり得るかもしれない。
この雨仕様の家を整えた人だと思うと、エデュードは相当な完璧主義者に思える。
ファムに案内されたのは、グラナートの保管庫だった。
目にした光景は圧巻だった。
魔法研究や治癒魔法の研究とは、物自体の大きさと量が違う。
1階のほぼ半分を占める部屋には、見上げるほどに積み上げられた建材が並ぶ。
木材以外にも、植物や鉱石、土や石など。
加工途中と思われるものも多く、削られた石や束ねられた繊維、用途の分からない試作品まで並んでいる。
保管庫内にある階段を上ると、上が作業部屋になっていた。
広い部屋の中央には大きな机が置かれ、その脇に机に手をついて立つ人影が見える。
エデュードだ。
ファムが駆け寄って事情を説明すると、彼は小さく頷き歩いてくる。
「消える籠とは……面白いことを考えますね」
その表情は変わらず、褒めているのかすら分からない。
が、以前よりもだいぶ近く感じてしまうのは……雨嫌いの余韻だろうか。
「大きさや形はどのような……描いていただいた方が早そうだ」
エデュードは紙とペンを差し出した。
ルティナはイメージを辿りながら、籠の仕様を書き記す。
高さは手首から指先ほど、幅はその3/4ほどあれば充分だろうか。
底に根が伸ばせる隙間があればいい。
描いてみるととてもシンプルだ。
「……どのくらいの期間で消えていいのだろう?」
「そうですね……1季……60日ほどで充分かと思います」
エデュードは図を見つめ、何かを計算するように目を伏せる。
「分かった、作ってみよう」
右手の手のひら辺りに、焦茶色の陣が浮かび上がる。
ゆっくりと右に回りながら光が伸びる。
その陣に交差するように、もうひとつ陣が描かれる。
地面に垂直に立ち上がる陣と、並行に展開される2つの陣。
それがゆっくりと手から離れて宙に浮く。
同じ属性の2つの陣。
その中央で、焦茶色の光が編み込まれるように形を成していく。
今まで視たどの魔法よりも、それは造形という表現が似合う。
神秘的、幻想的、そういう魔法ではない。
緻密に物が象られていく様は、技術の粋を極めた職人のようだった。
ウィランが言っていたことを思い出す。
形がしっかりとしたものほど、作り出すのが難しい。
それを、魔導石を使わずに、魔素から直接作り出している。
今までちゃんと見たことがなかったが、エデュードの魔素量も相当なものだ。
陣が同時に消える。
そこには、ルティナが描いた籠そのものが出来上がっていた。
「これでどうだろう?」
何事もなかったように、出来上がった籠をルティナに差し出す。
完全に見惚れていた。
呆けていた頭をやっとのことで動かして、その籠を手に取る。
手に伝わる感触は、感じたことのないものだった。
土で作られた植物で編まれた籠。
手触りは植物だが、本質は土だ。
「す……凄いです」
それ以外、感想が出て来なかった。
手が震える。
作られたものが手の中にあるのだ。
無から何かが生まれたような錯覚が、他の魔法よりも特別に感じる。
「そんなに感動されるとは思わなかった。あまり役に立つことのない魔法なのでね」
「なぜですか? こんなに緻密で……美しいのに」
エデュードの瞳に愁いが浮かぶ。
その意味がまったく分からない。
「魔素で造形した物は、長くても100日程度で魔素に還ってしまう。今回のような物には丁度いいかもしれないが、これは稀なケースだ。いくら緻密に作ろうと、いつか消えてしまうもので建物や物は作れないからね」
「そんなことはありません! 消えてしまうからこその使い道が、たくさんあるではないですか」
声が大きくなった。
エデュードから流れてくる半ば諦めたような感情に、胸が締め付けられた。
叫びにも近いルティナの声に、エデュードは固まっている。
自分でも驚いた。
こんな声が、自分から出るのを初めて知った。
戸惑っているエデュードの後ろから、ファムの視線が届く。
「ルティナ様、例えばそれはどのようなことですか?」
彼の目は真剣だ。
エデュードとずっと一緒にいる彼は、きっと見続けている。
だからこそ、知りたいのだ。
価値をここに置きたいと願っている。
「すぐに思いつくもので、まずは仮設です。大きなものを建造する際の足場や支えなど。家の壁などを作る際の型として作り、その中に別素材を流し込んで固める。食器を焼く際の型なども、焼き上がった後外すのは大変です。今まで成型が難しかった柔らかい素材も、この方法なら使えます。あとは魔素だまりを処置する際の囲いを作れば、魔素が馴染んだあとわざわざ回収に行く必要もなくなります」
いくらでもある。
考えればいくらでも使い道の出てくる、とても応用の効く魔法だ。
興奮して言い放った後に思う。
それほど大きなものは……作れないのだろうか。
それこそ魔導石で魔素を補充できるなら可能だと思える。
エデュードだけでなく、ファムもユアンも目が点だ。
「む……難しいでしょうか……」
3人の視線はルティナに集まり、固まったままだ。
「い、いや……そんなこと……が」
「ははっ 確かにそうだ! 組んで外していた物を、組むだけでよくなる。しかも資材は魔素だ」
ユアンの目が、これでもかというほど輝く。
「……水場も、都下の壁や道も……枠を作って流し込む方法ならばあっという間に出来るかもしれません」
ファムが見ているのは、まだ動かないエデュードだ。
「水路も山道も……むしろ、作るのが大変だったものほど……」
喉の奥から絞り出す声は、ひたすらエデュードに訴える。
「いや、しかし……造形魔法が使えるのはごく一部だ……」
エデュードは我に返ってようやく口を開いた。
落ち着かない視線のまま、こちらに背を向ける。
ファムの声は大きく、食い下がるように言葉を重ねた。
「それは、作る物に合わせてその場で陣を構築するからです。作る物を決めて、先に陣を構築してしまえば皆が同じように作れるようになります」
「だが、あまりにも大きいものは魔素の消費も激しく――」
「そんなもの、魔導石でどうとでもなります。ひとつの陣を数人で動かすことだってできるのですから」
「……」
「ウィラン様に、簡略化した陣を作ってもらったっていい。できない理由より、できる方法を探しましょう。グラナートの者なら、皆喜んで訓練するはずです」
「いや……」
エデュードの背中を見ながら、いつかのジュードを思い出した。
もしかしたら、アルデニアの中で、地魔法というものに光が当たることがなかったのではないか。
エデュード本人は、さほど気にしていなかったことかもしれない。
それでも……長年積み重なった無意識は、いつの間にか深く心に入り込んでしまった。
ルティナの手にある籠は、ただ美しい。
「エデュード様、少なくともこの籠は……ヒユイベニシダを根付かせ、ラクサールを救うものになります」
背を向けたまま、エデュードは微動だにしない。
「……消えるからこそ、価値があるのか」
エデュードから聞こえたのは、掠れるほどに小さな、消え入るような声だった。




