蒼の季-36.雨の日
夕陽に背中を押されて王都に戻る頃には、すっかり暗くなっていた。
帰り道、交わした会話の余韻に浸っていたのか、誰も口を開かなかった。
手の中にあるヒユイベニシダは、水の跳ねる音と共に揺れる。
呼び名が、この苗の新しい在り方であってくれるように。
ルティナは、心の中で何度も語りかけた。
アベリスの門の前には、セラが立っている。
こちらに向かって静かにお辞儀をし、持っていたヒユイベニシダを受け取る。
「お帰りなさいませ。離れまでお持ちいたします」
セラはフェンを連れて戻っていく。
門の前で馬から降りたエデュードは、懐に入れてあった包みを差し出した。
「ルティナ殿……この根は……あなたに預けておきたいのだが」
ヨダからもらった、千年樹の根。
これは、エデュードが持っていて欲しい。
ヨダからエデュードたちへ――ドリアードから人への感謝だ。
「いいえ、これはエデュード様に贈られたものです。そのままお持ちください」
「しかし……」
「ヨダ様も言っておられましたが、ドリアードは滅多に人前に現れない……知る者も少ない種族です。今日お連れしたのも、ヨダ様が望まれたことです。最初から、これを渡すつもりだったのだと思います」
エデュードの大きな手の上で、千年樹は静かに休んでいるようだ。
土の中にあった根だからか、感じる色や纏う空気がエデュードに近い。
この手にあることが、千年樹にとっては心地よいのだと感じる。
「長くを生きる木であっても、千年樹は稀だと思います。その根は、木というよりも地に近い存在に思えます。エデュード様の方がきっと合います」
「……では、お預かりさせて頂こう。保管はどうしたらいいのだろうか……」
「直射日光は避けて……そうですね、我が家では、そういった素材は木の箱や棚に入れてあることが多いです。木箱であれば、適度に呼吸ができます」
「分かった、大切に保管する。……何かお礼をするには、どうしたらよいだろうか。どんなものがよいのか、見当もつかないのだ」
ルティナもそれは考えていた。
タヤたちにも、ヨダにも、何か贈りたいと思っている。
「俺たちも、お返しをしたいドリアードがいるのです。リシアに戻るまでに何か用意したいと思っているので、一緒に考えましょう」
ユアンの言葉に、エデュードはほっとしたようだ。
とても律儀で、この国の人の中でも礼節を重んじる人だ。
受け取った厚意に、何か返したいという思いが強いのだろう。
グラナートの家は、きっとそういう家柄なのだ。
「明日、兄上に報告に行き日程を詰めましょう。なるべく早い方がいい気がします。風から雨の気配がしてきましたし」
「そうだな。では、明日早いうちに王城へ向かおう。使いは出しておく」
「お願いいたします」
本格的な雨の季節の前に、なんとか間に合いそうだ。
あとは、土にどれほどで馴染んでくれるか。
どうやって水中に植えるか。
ルティナが水中に潜るのを、皆が許してくれるだろうか。
「あの……ヒユイベニシダを水中に植えるためには、潜らなければいけません。泳ぎが得意な方はいらっしゃいますか……?」
エデュードの身体がびくっと動いた。
今までで一番狼狽えているのではないか。
「俺は普通に泳げるけど……レイランに止められそうだな」
「……」
「私がやりましょう。泳ぎも潜水も得意です」
ファムが今にも笑いだしそうに、眉を八の字にして後ろから進み出た。
「よろしいのですか? 5株用意してありますが……ファム様だけで大丈夫でしょうか……植えてからの様子も見たいので、わたしもご一緒しましょうか」
全員の顔が、一斉にルティナを見る。
それはもう、見たことがないほど顔が歪み切っている。
やはり、許して貰えそうにない。
「……うん、それはやめて欲しいかな。確認したいのは分かるけど、ファムに任せよう」
「……そうですか、分かりました」
「お任せください。5株程度でしたらすぐに終わりますから」
うつむいたエデュードの横で、ファムはとびきり優しい笑顔を向けてくれた。
話が終わり、エデュードが帰ろうとすると、数人の巡回兵士が歩いてきた。
もうすぐ閉門の時間だ。
「ルティナ殿でありませんか、こちらでお会いできるとは」
兵士の中の1人が、駆け寄って来る。
暗くて顔がよく分からないが、この重い視線は覚えがある。
リュサールで会った、近衛兵士だ。
エデュードとユアンに礼はするが、ファムにはしない。
この人たちがいる中で、構わずに話しかけてくるのは少し驚いてしまう。
近衛兵士というのは、こういう立ち位置の人なのだろうか。
「先ほどご挨拶した……」
「レグイスです、覚えて下さっていて嬉しいです」
無意識に足が一歩下がる。
距離が近い。圧が強い。
そして、この人からの視線も、一緒にいる兵士たちからの視線も、とても重い。
「……先ほどぶりですね。もう閉門でしょうか」
「はい、ちょうど終えたところです。よろしければお送りしましょう。どちらにご滞在ですか?」
また、足が一歩下がる。
嫌な感情が入ってくるわけではない。
おそらく、悪い人ではないのだと思う。
でも、なんだろう。
この居心地の悪さ、外側を見られ続けている感覚。
「レグイス、控えてくれ。まだ話の途中だ」
ユアンが前に入ってくれて、ようやく呼吸ができる気がした。
「失礼いたしました、では終わるまでお待ちいたします」
「必要ない。我々が話しながらお送りする。ご苦労だった」
奥から、エデュードが低い声でその場を制した。
こういう場での圧の出し方は見事だ。
人に対する威圧ではない、ただ、この場を収めるための圧だ。
ファムは無表情でレグイスを眺めている。
そこから流れてくる冷ややかな空気のほうが、よほど怖い。
この人は……どういう人なのだろうか。
ユアンも、エデュードも、ファムも。
どこか距離を置いているように見える。
リュサールでの反応も、そういう雰囲気だった。
悪意はない。
が、汲み取ることはしない。
そして、相手を選んで接し方を変える。
そういう部分が見て取れる。
むしろ、ルティナが知っている人はこういう方が多い。
最近接している人にいなかっただけで、少し前までは人とはこういうものだと思っていた。
「……失礼いたしました。お気をつけて」
近衛兵士たちは揃って礼をし、四家の区画から出て行く。
その後ろ姿を目で追うと、レグイスはちらっとこちらに振り返り、笑顔を向ける。
あまり気にしていない雰囲気に、心がざわつく。
気にしている方が理解が出来るからだ。
自分とは違う価値観の人なのだと、はっきりと認識した。
「では、私たちはこれで失礼する」
兵士たちが門から充分離れるのを待って、エデュードは帰って行った。
「俺たちも行こうか。送っていくよ」
いつもよりも、声が鋭い。
ユアンが無表情なときは、だいたい別のことを考えている。
そして、それはあまり楽しいことではない。
「ユアン様、夕食はどうされますか? 何が食べたいものはありませんか?」
空気が少し緩んだ。
上がっていた肩を下ろし、ユアンは息を吐いた。
「……そうだな、明日は午後から畑作りをしたいから……」
「少し、力が出る方が良さそうですね」
何でもない話をしながら、並んで歩くこの時間が心地よい。
この人の隣は、呼吸がしやすい。
レグイスのような人と接すると、それがより鮮明になる。
ユアンが隣にいてくれることを、ありがたく思った。
雨音が聞こえる。
久しぶりに聞いた、屋根に雨粒が落ちる音で目が覚めた。
規則的なようで抑揚があるこのリズムは、世界を静かにする。
肌に感じる湿り気は、エンの森を思い出させる。
森の朝はいつも、少しの湿り気と土の匂いで始まるのだ。
今日の畑づくりは延期になりそうだ。
この雲の厚みならば、一日は降り続けるだろう。
雨が降ると、無性に本が読みたくなる。
森では、雨が降るとよくそうやって過ごしていた。
そういえば、前に約束したミオルの一日分の食事もまだだった。
あれから、都下の状況は落ち着いているだろうか。
シルヴァンが作っている薬も、一度見に行ってみたい。
身支度を整えて火床に行くと、窓の外は色褪せて見える。
木々がけぶいているのを見るのは、王都に来て初めてだ。
火床にはすでにセラの姿があった。
手に持った布で、丁寧に火床の卓を拭き上げている。
「おはようございます」
相変わらず完璧に整った姿のセラは、いつもとは違う服装だ。
メイド服を着ていたはずだが、今日は執事服を女性用にしたような装いだ。
「おはようございます。凛々しい装いですね、とてもお似合いです」
アルデニアの女性は、たっぷりとした布のスカートを着ていることが多い。
森で生活するルティナは、あまり着ることがないものだ。
「こちらの方が動きやすいので、変えさせていただきました。考えてみれば、メイド服である必要などないのだと……ルティナ様を見ていて思いました」
「メイド服も似合っていましたが、その服はそれ以上にお似合いですね。執事服に似ているようですが……形が少し違いますね」
黒のズボンに黒のブーツ。
パリッとした白いシャツの襟もとには、アベリスの臙脂のタイ。
腰まで丈の黒い羽織は、前を留めていても身体の動きに添うように作られている。
その佇まいは、どこに出入りしてもおかしくない上品さだ。
「自分の普段着る用として仕立てました。制服としてある形ではなかったので」
「女性はあまりそういう服は着ないのかもしれませんね。とても機能的で美しいと思います」
「……そう言っていただけると、思いました」
微かに笑ったセラは、もう目を逸らさない。
表情が自然に動くようになると、彼女はきりっとした静けさの中に、一筋の柔らかさがある。
これが、セラの自然体だと思う。
「今日は何か予定が入っていますか?」
「レスティア様からは、昼前に実務区画でナヴァン様との時間を作って欲しいとだけ言われております」
「では、ミオル様に会ってからそちらへ行きましょう。お渡ししたいものがあるのです」
「かしこまりました」
ルティナは簡単な朝食を済ませて、ミオルに渡す軽食を詰める。
旬の野菜を漬けたピクルス、そのまま食べるひと口パン、果実の蜜和え。
夕食は調理場の方が用意してくれるだろうから、それは任せてしまおう。
ロイの分も含めて、少し多めに包もう。
「ミオル様はいらっしゃるでしょうか……お約束はしていないのですが」
「昼までは執務室で書類仕事をされていることが多いので、お声を掛ければ出て来てくださるのではないかと」
「そうですか、では行ってみましょう」
外はしとしとと、穏やかな雨が降り続いている。
ユアンに贈られたマントを羽織り、フードも被って外に出る。
雨は好きだ。
濡れるのは得意じゃないが、この色が淡くなる景色と消えていく音。
雨は世界にヴェールをかける。
見え過ぎて近かった世界を、ほんの少し遠くに置いてくれる優しい存在だった。
幼い頃の感覚が残っているのか、今でも雨は落ち着くものだ。
後ろから慌てて追いかけて来たセラが、長柄の傘を差してくれた。
大きめの傘はルティナをすっぽりと覆い、雨の気配だけがそこに残った。
リュサールの屋敷の入口で、セラが言伝を頼んでくれた。
急いで下りてきたのはロイだった。
その後ろから、ゆったりと歩いてくるミオルは、とても疲れているようだ。
「ミオル様……寝不足ですか?」
「ええ、しっかりウィランに掴まりまして……」
ああ、そうだった。
複合魔法を試した後、ルティナは離れたのだった。
「それは……お疲れさまでした。以前少しお話した、少しずつ食べられるお食事をお持ちしたのですが……どうしましょうか。眠られますか?」
目が少し赤いだけで、色白の彼だととても目立つ。
完全に徹夜だろう。
それにしっかり付き合うのが、ミオルの面白いところだ。
「ありがたく頂戴します。今日はまだやることがあるので」
「ルティナ様が持って来てくださって助かりました。この状態の兄様はだいたい何も食べられませんから……」
ロイも苦笑いだ。
おそらくロイもあまり寝ていないのだと思うが、いつもと変わらず元気だ。
「多めに入っておりますので、ロイ様のよろしければ。気に入ったものがあればレシピをお渡ししますので」
「ありがとうございます。……セラも良い装いになりましたね。ルティナ様の隣にぴったりだ」
にっこりと笑うロイに、完璧なお辞儀を返すセラは、ここでは表情を崩さない。
彼女にも、明確な区切りがあるのだろうか。
「では、わたしはこれで失礼いたします。ミオル様、できれば早めにお休みくださいませ」
ミオルから向けられた笑顔にまったく力がないのは……見なかったことにしよう。
リュサールの家から出て屋根伝いに内務区画へ入れば、王城の中から実務区画へ抜けられるようだ。
正面入り口を横切って進むと、静かな内務区画とは打って変わって、忙しなく人が動く実務区画が見えてくる。
中に入ると、相変わらず整ったナヴァンの意識が流れているが、以前ほど息苦しさは感じない。
ナヴァン自身に、多少は余裕が出来たのだろうか。
「ルティナ殿、よく会いますね」
この声に、嫌な感覚が身体をよぎる。
これだけよく会うということは、今までもすれ違っていたことがあったのかもしれない。
その時は、彼の視界にルティナは入っていなかったのだろう。
苦手意識というのは、より感じ方を強くする。
考えるよりも先に、身体が反応してしまっている。
セラの空気が鋭くなったのを感じて、ルティナは身体を緩めた。
緊張が伝わってしまったのだ。
後ろに控えていたセラが、半歩前に出た。
それに構わず、レグイスはこちらに歩いてくる。
彼には、セラの空気は伝わっていないのだ。
「そろそろ昼休憩の時分ですが、こちらには何か御用ですか? よろしければご案内いたしましょう」
笑顔でつかつかと歩を進めて来るその音が、やたら大きく感じる。
この人は、いったいなぜこんなに気にかけてくるのか。
「いえ、お気遣いなく。こちらには来たことがありますので、分かります」
「そうですか……? でも今の時間は出てしまった者も多いですよ。午後にならないと戻らないと思います」
ルティナのすぐ目の前まで来た彼は、表情が変わらない。
そして、これは彼の善意だというのも分かる。
ただ、こちらの必要がないという言葉は届かない。
「そうだ、ご一緒に昼食はいかがですか? 城下のおすすめの店にぜひお連れしたい。気に入って頂けると思います」
「せっかくですが、約束が……」
ルティナが断ろうとする言葉を聞かず、レグイスの手がルティナの腕に伸びた。
反射で身が固くなる。
彼の手がルティナに触れる寸前――セラがその手首を掴んだ。
「お控えください。ルティナ様はお断りしております」
とても静かな、何の感情もない平たい声だ。
レグイスは分かりやすく眉を寄せた。
セラは感情で動いていない。
ただ、やるべきことをやっている。
「今、ルティナ殿と私が話をしている。下がっていてくれ」
セラは腕を掴んだまま微動だにしない。
レグイスの苛立ちは駄々洩れだ。
これだけのやり取りで、この2人の人となりが見えた気がする。
なぜかとても嬉しかった。
セラがそういう人で、だから信頼できるのだと。
「受け容れかねます」
セラは短く言う。
「君、無礼じゃないか」
「職務です」
同時に、迷った。
この場でセラの立場が悪くならないようにするには、どうすればいいのかが分からない。
セラの立場や身分も、レグイスのそれも、ルティナはよく分からない。
周囲の視線も、徐々にこちらに向きはじめている。
この人の誘いを受ける気はない。
だが、その言葉を今言っていいものか。
これだけ視線のある中で断ることで、この人の感情が余計にセラに向くのも嫌だ。
穏便にこの場を収めるには――その判断が、ルティナにはできなかった。
「何をしている」
その声は、レグイスの後ろからだった。
階段から降りて来るナヴァンの姿に、ルティナはほっとした。
後ろに控えているディノの息が、微かに乱れている。
セラの手を振りほどき、レグイスはナヴァンに身体を向け頭を下げる。
「レグイス、その方は私の客人だ。何をしていると聞いた」
「いえ……ご案内しようと致しましたが、この者に止められ……」
セラは何も言わない。
おそらく、ディノが気付いて呼びに行ったのだ。
だとしたら、状況は伝わっている。
ナヴァンはセラと目を合わせ、口を開いた。
「その者は王命によりルティナ殿の側にいる。お前はその者に、止められるようなことをしたということだ」
レグイスの空気が大きく揺れた。
この人は、いい意味でも悪い意味でも、自分を信じすぎている。
「セラ、ご苦労だった。ルティナ殿を執務室へ案内してくれ」
ナヴァンもそれ以上は言葉を継がない。
セラは短く礼をして、ルティナを促した。
周囲の息遣いが静かになっている。
向けられる視線の多さに、自分がこの国でどれだけ目立つ存在かを理解した。
ずっと、大げさだと思っていた。
それほどまでに守られる存在ではないと、皆の言葉の意味を理解できていなかったことを申し訳なく思った。
階段を上がりながら、その一段一段を踏みしめる。
大切な人を守るためには、まずは自分が正しく認識しなければいけない。
皆からの心遣いを、きちんと理解できるようになりたいと思った。




