蒼の季-35.水
王都に来て初めて、雨の匂いを感じた。
空は変わらず蒼い。
だが、流れる風に微かな湿り気を感じる。
リュサールの敷地からアベリスに入る頃、夕方の鐘が鳴った。
その音色は、いつもより深く、遠くまで響いた。
空気が含む水分を震わせる鐘は、雨の訪れを知らせる音だ。
アベリスの家の前では、貯水湖へ向かった兵士たちがいた。
戻ってから時間が経っているようで、すでに人数はまばらだ。
「お戻りになっているようですね。この後、時間があればサンカの森へ行きたいのです。エデュード様たちもいらっしゃるなら、ヨダ様に会いに行く良い機会です」
「ユアン様は中でしょうか。お呼びしますか?」
「言伝だけお願いできますか? わたしは急いで着替えて来ます」
まだ陽が落ちるまでには時間がある。
サンカの森まではそうかからないし、苗の状態も見てもらいたい。
さすがに、この格好のままではフェンに乗れない。
せっかくいただいた衣装だ。
美しい生地を傷めてしまうのも申し訳ない。
「え、いや、そんなにお急ぎにならなくても……」
セラは狼狽えているようだが、着替えるのを待たせるわけにはいかない。
「すぐに戻りますから、ユアン様にそうお伝えして下さい」
早歩きで離れに向かう。
雨の気配を感じると、気持ちが逸る。
森では、雨が降る前にやることが多く、忙しかった。
だが、今の王都には癒しの雨だ。
溜まった熱を和らげ、陽を中和してくれるだろう。
そう考えると、ここでもやはり気持ちが逸ってしまう。
離れが見え始めると、ユアンが走って来るのを感じた。
レイランの気配はない。
何かあったのだろうか。
立ち止まって振り返ると、黄金色の光が見えた。
近付いてくるユアンは、特に焦っている様子は感じない。
声が届き、表情が見え、徐々に走る速度が落ちていく。
近付く前に、ユアンは止まった。
「ユアン様、どうされたのですか?」
立ち止まったユアンに近付くと、彼の時間は止まっているようだった。
上下に動く肩が、少しずつ落ち着いていく。
呼吸が整い、身体は静かになった。
それでも、ユアンはまだ動かない。
「……ユアン様?」
ようやく、瞬きをした。
止まっていた時間が動き出すと、彼の瞳は大きくなった。
色づき始めた太陽を背負い、黄金色が一気に広がる。
それは太陽と重なって、彼自身が太陽になる。
「とても、綺麗だ」
顔全部を緩ませて、その光ごとルティナを包んだ。
身体の奥が揺れる。
流れてくる感情はとても熱くて、受け止めていいのか躊躇ってしまう。
そんなことはお構いなしに、彼の無意識はルティナの霊核を揺らす。
「あ、の、色々ありまして……着替えをお借りしました……」
自分の声が震えている。
震える声が聞こえると、なぜかとてもそわそわした。
「うん、聞いたよ。一番に見られなかったのが残念だ」
「……セラが、とても綺麗にしてくれまして……」
「うん、早く追いかけろってすごい勢いで追い出された」
「……皆さんが、とても褒めて下さって……」
「うん、アルデニアの装いも似合ってくれて、とても嬉しい」
「……ユアン様が、嬉しいのですか?」
「うん、……君と出会えて、君がここにいて、君とこれからも過ごせる。今の君の美しさを感じられることが……嬉しい」
心が揺れた。
その言葉は、霊核ではなく、ルティナの心に響いた。
それは感じたことのない感触で、理解よりも先に感情が溢れた。
「……ユアン様が嬉しいことが、わたしも嬉しいです」
ユアンの伸び始めた影が足元に届く。
この距離のままで、ただ静かに、言葉のない時間が流れた。
離れで着替えを済ませ、アベリスの厩へ向かう。
手に持った革袋には、水に沈めた苗を容器ごと入れた。
かなり水を減らしたが、それでもずっしりと重い。
歩くたびに容器の水が動き、その振動で身体が揺れる。
持って行くのは大変だが、どうしてもヨダに見てもらいたかった。
「お待たせして申し訳ありません」
レイランがフェンの準備を済ませておいてくれたようだ。
ルティナを見つけると、フェンはとことこ歩いてくる。
ひとしきり匂いを嗅ぎ、大きく鼻を鳴らした。
彼にとっては、香油の香りが少し強いのかもしれない。
「髪をまとめているのも素敵ですね」
待っていたレイランは、しっかりと褒めてくれる。
着替えはしたが、髪型は髪飾りを取ったものの結い上げたままだ。
まとめていると、邪魔にならずに過ごしやすい。
夏の間はこの方が良いとも思える。
「首が涼しくて作業の邪魔にならないので、これも良いかもしれません」
レイランは何も言わずに、苦い顔で笑った。
「エデュード殿とユアン様とは、西の裏門で落ち合うことになっております。我々も向かいましょう」
手に持っていた荷物を持とうと、レイランが手を差し出した。
リズだと振動が辛そうだ。
丁重にお断りをして、フェンに跨る。
そろそろ陽が傾いてきている。
あまり遅くなると、ヨダに会えなくなるかもしれない。
「ヨダ様に会えると良いのですが……」
「急ぎましょう。陽が落ちる前なら会いに来て下さると思います」
ルティナは頷き、太陽の見える西門へと向かった。
「遅くなりました」
レイランが門を開けると、緑一面の平原には淡い黄色が満ち始めている。
待っていたユアンとエデュード、ファムも、同時に馬に合図を送った。
「レイラン様、先に行ってください。わたしは後から追いかけますので」
「俺もルティナと一緒に行く。エデュード殿とファムはレイランと一緒に森に向かってくれ」
駆け出した3人は、太陽に吸い込まれていくようだ。
平原の風にも、雨の気配が混ざり始めている。
明日の朝くらいだろうか。
湿り気の具合を考えると、まだ本格的な雨の季節ではないと思う。
徐々にその季節が近づいている兆しであれば、半日ほどで止んでくれるはずだ。
まだ、もう少しだけ時間が欲しい。
この苗を植え、貯水湖の環境が整うまで。
あと一巡あれば間に合うはずだ。
森に入ると、レイランがこの前と同じく、2本の木の前に立っていた。
風が吹き抜ける森は、いつもよりも大きなざわめきが聞こえる。
視線とは違う、もっと曖昧で静かな線が、こちらに向いているようだ。
エデュードとファムを、木々は知っているはずだ。
「おや、珍しいお客様がいらしてますね」
森が鎮まった。
ヨダは、ずっとそこに立っていたかように木の前に現れた。
森が鳴るような音が、意味を持って身体に伝わってくる。
この感覚は、慣れるととても心地よい。
森に迎えられた、そんな気がするのだ。
エデュードとファムは、驚きを隠せないまま立ち尽くしている。
それをそのまま受け取り、ヨダは静かに前に進む。
「この向こうの山に暮らしております、ヨダと申します」
エデュードとファムの手前、影が渡るほどの位置でヨダは止まった。
2人はまだ理解が追い付いていないはずだ。
だが、エデュードは姿勢を正し、理解を置いたまま身体を動かした。
「……エデュードと申します。こちらはファム、私を助けてくれる者です」
エデュードらしい、紹介だった。
その声で時間を取り戻したファムは、半歩後ろのまま頭を下げた。
ヨダの感情に、森が応える。
「東の山に多大なお力添えをいただきました。山の感謝として、御礼申し上げます」
静かに聞いていた森が、葉を揺らして柔らかな風を送る。
山の木々も、森の木々も。
この2人を覚えている。
「……何をしたら良いのか分からぬまま……でしたが。そのお言葉で救われた思いです」
ヨダは更に1歩、前に進んだ。
「エデュード殿の判断は正しかった。あのときはあれが最善です。ファム殿の浄化で侵食も止まりました。あのままだったとしたら……あと100年は、回復が遅れたはずです」
「……100年」
「人にとっては膨大ですが、我々にとっては生まれた命が幼子になる程度の流れです。ですが、その幼子があそこまで育つには、更に多くの時が必要です。あそこの木々は生きられた。これは紛れもなく、あなたたちによって救われた命です」
ファムの拳は、固く握られたまま震えている。
ヨダからの言葉でなければ、彼らには届かなかっただろう。
山の人、山そのものから、2人は感謝を受け取れたのだ。
自然と笑みが零れた。
ルティナにはそれが、何よりも尊い繋がりに思えた。
「エデュード殿とファム殿は、あの山をどうしたいですか?」
思いもよらぬ問いかけに、エデュードはヨダを見つめる。
何か思いを巡らせているようだが、言葉が繋がらない。
「あの山がどう在りたいか、それを助けたいと思っております」
ファムがはっきりと言葉にした。
エデュードはきっと、この国全体のことまで考えが膨らんでいた。
はるか遠く、見えないところまで意識が広がるのが分かった。
ファムの意識はもっと近く、あの山に向いている。
エデュードはファムに視線を向け、納得したように頷く。
「なるほど。あの山は、今、まっさらなのです。止まったまま、まだ巡りの外にいると言ってもいい。あなたたちが思うあの山の姿を示せば、自然と巡り始めます。植物は環境に適応して生きるものです」
「しかし……それは……」
「傲慢ではありませんよ。人と同じく、植物にも意思があるとルティナ殿に教えられました。確かに、言われてみればそうかもしれません。声も小さい、意思も淡いものです。ですが、彼らはそれでも、彼らなりの生き方を持っている。長い時間をかけ、環境に合わせながら生き続ける。ですが、まっさらなあの場所には、動き出すきっかけが無いのだと思います」
確かにそうかもしれない。
巡りを進める何か。
それが、ルティナは土だと思ったのだ。
「ヨダ様、土……はいかがでしょうか。土台になる土が動き出せば、山に馴染む形で動くような気がするのですが……」
「……そうですね。土と、水でしょうか。水もまた、巡りが強く出るものです」
水……。
水場を作れば、動物は戻りやすくなる。
今は貯水湖だけにしか水がないから、あそこに集中してしまうのかもしれない。
「もともと、あの山には水場はありましたか?」
「魔素噴出の前には、小さな水場がありました。魔素に呑まれてしまったので、浄化して埋めたままになっています」
エデュードの瞳が、少しずつ力を取り戻している。
「今なら分かります。きっとあそこにも、地下から繋がる道があるのだと思います」
感覚が鋭いファムなら、それを辿ることも可能だろう。
「では……土ですが、これをお渡ししておきます。使うも使わないも自由です」
ヨダが取り出したのは小さな包みだ。
エデュードの手の上に乗るほどの包みからは、微かな呼吸を感じる。
「これは……?」
「ドリアードが、土を起こすときに用いる力の代わりになる物です。千年生きた樹の根で、地脈に触れ続けていたようです。土が動き出すきっかけになるかもしれません。あの山の範囲ならば……ひと欠片で充分でしょう。土に埋めておけば、あとは勝手に広がっていきます」
「では、欠片だけありがたく頂戴いたします」
「すべて差し上げます。それは我らからの感謝です。またいつか、こういうことが起こるかもしれない。そのとき、人に関わろうとする変わり者のドリアードがいるとも限りません。難しい管理が必要なものでもありませんから、お持ちください。必要がなければ、そのまま忘れてしまって構いません」
エデュードはヨダに何かを言いかけて、口をつぐんだ。
手の中のものを丁寧に包み直し、大切に懐に入れる。
「変な言い方になってしまったら申し訳ないが、我らからすると100年も300年もさほど変わりがない流れなのです。それも巡りの一部。待っていればまたいつか巡るだろうと、あの山のことも見守るつもりでした。あなたたちが尽くしてくれているときも、少し不思議な感覚で見ていました。……ですが、あなたたちの思いを木々が受け入れた。あなたたちが願う山の姿を、我らも見たくなった。これは我らからの敬意として受け取っていただけると嬉しい」
ヨダが微笑んだような気がした。
その柔らかな空気を、森が2人に届けようと枝を慣らしている。
エデュードとファムは、きっちりとした礼を示した。
その空気には、深い感謝と喜びがあった。
ルティナは胸がいっぱいだ。
こんな形で、人とドリアードが触れ合うことがあっただろうか。
ヨダはタヤたちよりも、示し方がはっきりとしている。
陰の森と、陽の山の違い。生きる環境の違いだろうか。
「ルティナ殿のその子も、上手く育っているようですね」
ヨダが音もなく歩いてくる。
ルティナは袋から苗を出し、ヨダに見てもらった。
「苗を水の中に沈めても、巡りが続いています。おそらく、もう水に馴染んだのだと思うのですが……ミズベニシダになっているでしょうか……」
葉に触れ、興味津々で苗を眺める。
ドリアードも研究好きかもしれない。
あり過ぎる時間を好奇心で埋めるのが、長命種の共通点かもしれない。
「これは、ミズベニシダとは違いますね。ミズはもっとずっと陰が濃いです。これはヒベニシダのまま、水に適応した感じでしょうか」
「ヒベニシダのまま……」
確かに、あまり陰が濃いという感じはしない。
根の側の陰、葉の側の陽。
全体で見るととても中庸に近い植物になっている。
「この方が貯水湖には馴染みそうですね。ミズは水が濁るとあっという間に弱っていきますが、この子の方が逞しそうです。葉から広がる振動も残っていますから、良い馴染み方をしたのではないでしょうか」
ヨダの言葉以上に安心できることはない。
「安心いたしました……」
「さすがルティナ殿ですね。植物の声をちゃんと聞けている」
横で聞いていたユアンも、ほっとしたように力強く頷いた。
「貯水湖に植えるのは、できれば朝が良いです。朝陽は元気になりますから。植える日の前日は、陰ではなく、葉に陽を与えると根付きがよくなると思います」
「分かりました。色々とありがとうございました。安心いたしました」
この苗がきっと、ラクサールを守ってくれるはずだ。
「名付けはルティナ殿がすると良いですね。あなたがこの子の親みたいなものですから」
名付け……
薬草師が、香や薬に付ける銘のようなものだ。
自分の作ったものなら分かればいいが、このシダはこれから呼ばれる名になる。
責任重大だ。
「ヨダ様は、あの山をなんと呼ぶのですか?」
陽が陰り始め、辺りが橙に染まり始める。
光を浴びて立つヨダは、山の長のように神秘的だった。
「我らの呼び方……ですか?」
「はい、うかがってみたいです」
「……我らは、ヒユイの山と呼んでいます」
「ヒユイ……」
ヨダは後ろに目を向けて、視線を流すように大地を見渡す。
「後ろにある山が、ヒウブの山、街のある平原がヒルウの地。そして、あの山がヒユイの山です」
陽生の山、陽留の地、陽結の山。
陽が生まれて、平原を満たし、水で結ばれる。
この地の成り立ち。
ドリアードが見る、この土地の在り方が呼び名になっている。
美しい呼び名だ。
「……では、ヒユイベニシダ……と呼びたいです」
ヨダから、感じたことのない不思議な感情が流れてきた。
喜んでいる……とは違う。
胸にほんのりとした温もりが灯る。
ヨダは振り返り、ゆっくりと木の方へと歩き出した。
「……良い、名付けです。我らもそう呼びましょう」
その声と共に、森のざわめきに送られ、ヨダは木の中へ消えた。




