蒼の季-32.対
午後の始まりを告げる鐘が、王都に響き渡る。
朝の鐘よりも低く、空気を揺らす音色だ。
この鐘の意味を知ったのは、つい最近のことだ。
朝に、高く澄んだ鐘が1度。
風に乗って響く鐘が、昼に3度、夕刻に1度。
そして、閉門を知らせる夜には、地を這うような重い鐘が3度鳴る。
太陽の傾きで判断するよりも、遥かに分かりやすい。
人の多い王都では、これを目安に街が動くそうだ。
王城に着くと、いつもとは違う入口へ案内された。
ユアンも知らされていなかったようで、少し戸惑っているようだった。
門を入って左、実務区画とは反対の入口から入る。
確かこちら側は、内務区画だったはずだ。
1階の奥まで進み、扉が開くと――
そこは、空が抜けて高く、芝の緑が美しい草原のようだった。
遥か向こうには、白い霧がかかった山脈が連なる。
雲が近い。
蒼が濃くなった空に浮かぶ雲は真綿のようだ。
「ここは、何にでも使う広場みたいなものなんだ。小さい頃は、ここで何度も馬に振り落とされたし、グライフェルに指示を出す練習なんかもしたよ」
ユアンは懐かしそうに広場を見渡し、奥へ向けて手を上げる。
その先には、少し広く作られた東屋があった。
アルヴィン、ナーシャ、ミオルがすでに待っている。
普段よりもリラックスした雰囲気の3人は、のんびりと談笑しているようだ。
空気が柔らかい。
きっと気遣ってくれたのだ。
外の空気の方が、話しやすいと思ったのだろう。
その優しさは、ルティナだけでなく、ユアンやレイランの空気も和らげていた。
「ルティナさん、待ってたわ。来てくれてありがとう」
立ち上がって迎え入れてくれるナーシャには、温かな笑みが浮かぶ。
楽しい話の余韻が残る空気は、緊張をどこかへ運んでいくようだ。
「気持ちの良い場所にお招きいただき、感謝申し上げます」
ルティナは小さくお辞儀をするに留めた。
せっかく作ってくれた和やかな空気だ。
このまま受け取って、この雰囲気の中に身を置いていたい。
「身体は落ち着いたようですね」
奥に座っているミオルは、ルティナの姿を見て安心したようだ。
「……都下の様子はいかがでしょうか。薬は上手く作れていますか? 皆さんの状態は――」
「大丈夫です。シルヴァン殿が頑張ってくれています。薬は何日かすれば安定して作れるようになるはずです。ゴヤは乾燥を進めてあり、種も集めてあります。レモリア水も、範囲を広げて配っています。何も心配はいりません」
すべて、先回りして答えられてしまった。
よく見ると、彼の方が疲れているのではないか。
眼鏡の奥にある瞳が、ややくすんで見える。
ルティナが倒れたあとも、調律した人たち、街の治療院、調薬まで見てくれているのだ。
疲れは当然だ。
最後の調律をしたことを後悔している訳ではない。
でも、そのせいで心配と迷惑をかけたのは事実だ。
「申し訳ありませんでした。すべてお任せすることになってしまって……」
その言葉は予想通りのものだったのだろう。
間髪入れずにミオルの口が開く。
「謝られることは何一つありませんよ。もともと我々がやるべきことです。心配はしましたが、それはこちらが勝手にしていること。あなたが気にすることではありません」
あなたでもそう返すでしょう? と言いたげな瞳は、ルティナの心を透かすようだ。
ミオルらしい。
淡々とした言葉で、ルティナの心を包んでいく。
「ありがとうございます。……ミオル様もお疲れのようですので、夕方に何か疲れが取れるものをお持ちいたしますね」
ミオルよりも先に、後ろに控えていたロイから声が上がった。
「兄様はクラカンしか召し上がっていません。ルティナ様、ぜひお願いいたします」
そこにいる全員から、軽やかな笑い声が上がる。
ロイの素直な言葉は、こういう場ではひときわ響く。
「ルティナ殿、以前ナーシャに届けてくれた茶葉があっただろう? あれを私も飲んでみたんだが、身体がとても軽くなったんだ。あれを作るのは難しいだろうか?」
アルヴィンはナーシャの手を常に握っている。
心配も、愛情も、とても深くて厚みがある。
愛妻家……を通り越して、溺愛している。
それがまったく重く感じないのは、彼の持っている明るさのせいだろうか。
ナーシャも当たり前に受け取っていて、変な湿度を感じない。
理想的な、仲の良い夫婦の姿だ。
「お渡しした茶葉は2種類だったと思うのですが、花茶の方は温かい土地であれば根付く木ですので、お庭に植えれば育てるのは可能です。もう1つは、少し低めの気温で、風通しの良い日陰を好む植物ですので……そういう場所があれば、どんどん増えていくのですが……」
今の王都では、そういう場所を探すのは難しそうだ。
貯水湖のある山は環境としては合っているが、まだ植物は育たないだろう。
「それなら、ウィランの研究が丁度よいかもしれない。あいつは今、農業に魔法を使えないかと陣の構築を頑張っているらしい。そういう栽培室を用意して、環境を作ってしまえばよいのではないか。どう思う、オルフェス?」
呼びかける先に、オルフェスは静かに立っていた。
存在感はあるのに、なぜか人目を引かない。
アルヴィンの影のような人だ。
「良いと思いますが、場所があまりありませんね。農作物として作る前、研究の一環なら王家の敷地内で進めたいところですが……使える場所はほぼウィラン様が何かに使っておいでです」
「あいつか……」
ウィランの熱心さは相当なもので、それがこの国に与える影響は大きそうだ。
アルヴィンとしてもやらせたいのだろうが、放っておくと敷地すべてが実験場になるのが想像できる。
「離れの付近のお庭は……だめでしょうか?」
おそるおそる、ユアンに視線を向ける。
ユアンは笑顔のままで首を傾けた。
まるで小さな子供を見るような目だ。
「離れのあたりは木陰が多く、風も通ります。ああいう場所で、ミンティは育ちやすいです」
さすがに、アベリスの庭に畑は無理だろうか。
離れのある場所は、ユアンができるだけ森の空気を感じられるようにと考えてくれたのだと思う。
王都ではあまりない、中庸に近い場所なのだ。
「別にいいんじゃないか? ルティナの家にも、裏に畑があったもんな。あの規模では足りないかもしれないが、離れの裏に大きめの畑を作ってしまうのも良いかもしれない。そうしたら、家でも飲めるようになるし」
「そうですね、セラが喜んで世話をしそうですし。家で飲む分くらいなら作れそうですね」
本当に大丈夫なのだろうか。
レイランまで乗り気なのが逆に心配になる。
「それなら、リュサールの裏庭にも作っていただきたいです! 色々と学ぶことが多そうですし」
ロイが身を乗り出す。
「いいですね、ルティナ殿に毎回お願いするのも気が引けますし、無くなってしまう前に考えなければいけないと思っていました」
ミオルまで……。
確かに、持って来た分の茶葉は、じきに無くなってしまう。
シルヴァンの治療院にも、茶葉はそこまで多くなかった。
お茶を飲むだけでも、陰陽のバランスはかなり調えやすくなる。
栽培して、扱いを覚えたら役立つことは間違いない。
だが、四家の庭が畑で埋まっていくのはどうなのだろうか。
「ミオル様たちがお飲みになるなら、少し違うお茶の方が良さそうです。日向で育つカモミーユやシトロネならば、ミオル様の身体にちょうど良いと思います」
「ふむ、そうですか。ロイ、じゃあそちらにしましょう」
「はい!」
嬉しそうに笑うロイが、思いついたようにルティナを見る。
「ちなみに……エデュード様やジュード殿なら、どんなものが良いのですか?」
エデュード。
土の魔素を持っていて、少し陰に傾いた身体だった。
そうだ、ロイは四家に、陰陽のバランスを考えた食事を浸透させたいのだ。
「そうですね……エデュード様は少し陰に寄っていますが、身体も大きいですし、どちらかと言えば中庸の方が動きやすいのではないでしょうか。それなら、アローズの花びらから作るお茶などは良いかもしれません。ほぼ中庸ですが、酸味が爽やかで飲みやすいです」
「それは王都でも育ちますか?」
「むしろ一番育てやすいかもしれません。太陽が好きな植物なので、水はけの良い場所ならぐんぐん育ちますよ」
ロイが口元をにっと上げる。
グラナートの人が誰もいない中で、畑ができることが決まったようだ。
「植えるなら今が一番良い時期かもしれません。ミンティとカモミーユは、早ければ夏の終わりか秋には茶葉が作れると思います。白澄とアローズは低木なので……今年は難しいと思いますが……」
「木をそのまま取り寄せて、植えてしまおう」
アルヴィンの目は本気だ。
そういうことも……できなくはないだろうが、考えたこともなかった。
エルゼド付近の森ならば、どこかで必ず見つけられる。
「オルフェス、種と木の手配をしてくれ。なるべく急ぎで」
「かしこまりました」
調律の話をしに来たはずが、四家に畑ができることが決まってしまった。
ルティナは心の中でくすっと笑う。
これが、アルデニアらしさだ。
何を進めるのも軽やかだ。
決める人と進める人がきちんと噛み合っていて、物事の進み方が早い。
「ルティナさん、あなたが王都に来てくれて……ここにいてくれて本当に嬉しいの。あなたの気持ちを、わたしはちゃんと理解できていなかったわ。この子たちのために、わたしたち、この国、そしてユアンのために。本当に、ありがとう」
ナーシャはお腹に手を当て、丁寧に紡ぐように言葉を放していく。
ルティナに届くように、思いが伝わるように、その言葉はまっすぐに響く。
「私も同じ思いだ。ユアンを救い、私たちにユアンを理解する術を与えてくれた。そしてそれは、この世界を理解することにも繋がるだろう。この国は、あなたにたくさんの道を見せてもらった。心から感謝している」
レイランは話したのだろう。
ルティナがここに来ることを決めたきっかけは、確かにそれだった。
でも、今はそれ以上にたくさんの、想像もできなかったものに囲まれている。
「わたしの方が、たくさんいただいています。わたしを連れ出してくれたユアン様に、受け入れてくださった皆様に……いくら感謝しても足りないほどです」
ここにいる人たちはみんな素敵だ。
心が澄んで、ひと欠片の濁りもない。
こんな人の世界があるのが不思議なくらいだ。
「だから、わたしたちもルティナさんを理解したいの。すべて分かるとは思わないわ。でも、できる限りあなたに寄り添いたい。あなたがそうするように、わたしたちにもそうさせてくれると嬉しいわ」
ナーシャは空気を静かに整えた。
言葉が重く沈んでいかないように、緩く巡る風を感じる。
これはきっと、ナーシャの風だ。
「ユアン様にも話したのですが……わたし自身も、まだ理解しきれていない部分が多いので、うまく言葉にできるか分かりません。わたしひとりの話ではないので、ユアン様にも……」
「ああ、分かることなら俺のことも話すよ」
柔らかな風に、ユアンの温もりが乗り、その場を包んだ。
何から話せばよいのか、昨日からずっと考えている。
どこからどこまでがこの話になるのか。
ルティナの知らないこと、理解しきれていないことの方が多い気さえする。
ルティナは小さく息を吸った。
心を落ち着けて、話し始める。
調律とは、響律とは、何か――
言葉が風に乗って、その場を巡っていく感覚だった。
その人それぞれに届く速度で、静かに胸の内に落ちていく。
「人の身体と世界の在り方は、結局同じなのだと……思います。偏り過ぎれば身体にも世界にも歪みが出る。それが極まってしまった時に、素が壊れる。それを、壊素と呼びます。ナーシャ様はまだそこまで進んでいませんでした。……ユアン様の身体は、壊素となって広がったせいで、思うように動かせなくなっていました」
「少し、尋ねても良いですか?」
ミオルは一点を見つめたまま、その瞳は何かを探しているように見えた。
「ルティナ殿の話を聞く限り、そのすべてが陽の偏りについてだった。もし逆に、陰の偏りだった場合も……同じように調律は可能なのですか……?」
ミオルの指摘は、いつも話の核心に向かう。
「……可能、ではあります。が、とても負担が大きかったです。調律を行える量もとても少ないと思います。わたしが以前それを行ったとき……20日ほど目を覚まさなかったそうです」
ユアンがはっとして、こちらを見るのが分かった。
以前話したことと、繋がったのだろう。
「そもそも、陰の霊核は、陽を調整することに長けているのだと思います」
「ってことは、俺がやれるってことだな」
ユアンの声は、何も変わらない。
そして、できると思っている。
「……わたしが人、世界、どちらの調律もできるのは、霊核の強さが影響しているそうです。父はアマヒトの中でも、かなり強い霊核を持っていたそうですが、それでもできることは限られていました。……わたしの中にある霊核は、アマヒトの里に暮らすすべての人の霊核を合わせたほどだと……」
場の空気が揺れた。
それほどまで大きな霊核は、人にも影響を与える可能性がある。
「……勝手な想像ですが、それはとても……難しいものなのではないですか? 霊核は言ってしまえば、最初から極まった存在……それが体内にあるというのは……」
ミオルの心配はもっともだ。
それがどれだけ危険な存在で、どれだけ危うく見えるか。
ルティナ自身、よく理解している。
「もちろん、ご心配は当然です。危険なものだと感じるのも当たり前だと思います。制御を失えば、周囲に影響を与えることもあるものです。わたしはこれを制御できるまで、12年かかりました。絶対とは言えませんが、今は安定しております……」
「違うわ、ルティナさん。ミオルが心配しているのはあなたよ」
ナーシャは柔らかく笑う。
その隣で、驚いたような顔をしているのはミオルだ。
「ああ、そう捉えるのですか? 失礼、言い方が悪かったですね」
そのことを理解できるまで、少し時間がかかった。
まさか自分の心配をされているとは……思わなかった。
「で、俺にもそれと同じくらいの霊核があるんだろ? だったらきっとできるよ」
ユアンのこういう自信は、どこから来るのだろう。
いつかは……できそうだと思う。
でも、そんなに簡単なことではないのだ。
「霊核の扱いは、一歩間違えば自分に返ってくるものです。それが絶対に必要なときでなければ……調律も響律も、しないに越したことはありません……」
「でも、実際必要なときは来るじゃないか。今回みたいなことが、これからあるかもしれないだろ?」
「それは……そうですが。まだユアン様は霊核を扱い始めたばかりです。誰かから学ぶこともできないのですから、充分注意していただかないと……」
少しずつ声が大きくなっているのが分かる。
ユアンのこの楽観を、素直に受け入れられないのだ。
「じゃあ聞くけど、ルティナは律月の扱いを誰かに習った? 自然にできたんじゃない?」
「それは……」
言われてみれば、その通りだ。
そうしたいと思ったら、すでにすべてを理解していた。
「分かるんだよ。その場になると、どうするのかが分かるんだ。霊核が知っているんだと思う。これは本能に近いものだよ。だから霊核の意思を感じ取れさえすれば、きっとできる」
ユアンはまっすぐ前を見据えていた。
その眼差しにあるのは、自信ではなく信頼だ。
ユアンはいつもそうだ。
世界の在り方を、霊素を、心から信じている。
それが羨ましくもあり、自分もそう在りたいと願わずにはいられない。
「ルティナ殿の調律を見たときの嫌な感覚は……理解できたと思います。あれは、偏った気素が還る感覚だったのだと。でも、あなたが倒れるまで続けるのを、認めるつもりはありません」
ミオルは珍しく、きっぱりと言い切った。
その強い言葉に、アルヴィンの視線が泳いだ。
「壊素にならなければ、調整で戻すことが可能だと感じました。それはどうですか?」
「薬があって、管理ができるなら……時間はかかりますが、可能です」
「霊素が見えないぼくたちが、それを判断するために……何か手がかりはありませんか?」
そうだ、そこがとても難しいところだ。
ルティナは視えるから判断できる。
見えない人が判断するとしたら、それは経験と……魔素を見るしかないだろう。
「霊素と魔素は、補完関係にあると申し上げました。それは体内でも同じなのです。霊素が部分的に集まると、そこには魔素が流れにくくなります。部分的ではなく、全体に霊素の量が増えると、魔素の巡りが薄く見えると思います。あとは、陽の障りの症状を覚えて、総合的に判断する……しかないと思います」
ミオルの周りの空気が沸いた。
「だから……なのかもしれませんね……」
何かを覚ったように、ミオルの目は少し遠くなった。
「だから、リュサールの血は……魔素が見えやすいのかもしれません」
ルティナは鳥肌が立った。
身体の奥から沸き上がり、肌の上を抜けていく。
ミオルが以前、そう言っていた。
魔素だと認識する前から、身体の中にうっすらと感じると。
それが今、理として繋がった。
「寄り添えば……応える」
ルティナの口から自然と零れた。
言葉が水面に落ち、波紋のように広がる。
隣にいるユアンは、静かに頷いた。
アルヴィンも、ナーシャも、その場にいる全員が、この世界の在り方に触れた。
世界は、人が現れるずっと前からここに在り、巡り続けている。
その巡りには意味があり、ひとつの無駄もなく繋がる。
その巡りのひと粒に、人が確かに存在するのだ。
―陽の街― 巡了




