蒼の季-31.響き
葉の隙間から落ちる光が、ルティナの額に零れる。
高かった太陽が傾き、徐々に陰の時間が近付いていた。
ルティナはまだ目覚めない。
目の前にいるはずの彼女が、遠くにいるように感じる。
人の感覚とは曖昧なものだ。
手に触れるものを遠く感じるかと思えば、遥か遠くの気配をすぐそばに感じたりする。
王都に戻ってから、ずっと肌に感じていたルティナの気配が、今とても頼りない。
自分の知覚とは違う、それは霊核同士が感じ取る気配だ。
今はそれが、とても小さくなっているのだ。
フェンの柔らかな毛に包まれる肩が、同じリズムで揺れる。
呼吸も安定して、顔色は普段と変わらない透き通る白さに戻っている。
握っている手は、ユアンと変わらない温度になった。
体内の気素も、巡りも、ほとんど戻っている。
だが、彼女は戻って来る気配がない。
ユアンは、目を閉じた。
胸の中心に、意識の欠片を集める。
広がった光を留めると、それは存在としての強い光となる。
それを眺めるように、徐々に視点を離していく。
その光は次第に熱を持ち、黄金色の霊核はより巡りを強くする。
それは淀みなく、細かい粒が舞うように身体の中を流れる。
霊核の光が強くなるごとに、周りは暗く、気配が遠くなっていく。
自分以外のすべてが消え、真っ暗な中のひとつになったとき――
遠くに微かな気配を感じた。
白銀の粒が揺れ、その流れる僅かな振動が音になる。
聞こえる音は、ユアンの中で光った。
――見つけた。
意識したわけではない、霊核がそう反応した。
暗闇の中で、霊核はまばゆい光を放った。
溢れんばかりの黄金色の光は粒となり、ほのかな白銀を手繰り寄せる。
それに反応するかのように、白銀はこちらへと緩やかに動き始めた。
ユアンは目を開けた。
周りの音がやけに近い。
目の前のルティナは、もうすぐそこにいる。
白銀の音が、近付いてくるのが分かる。
ルティナの目が、ゆっくりと開く。
その瞳に最初に映ったのは、紛れもなくユアンの琥珀色だった。
ルティナは微かに目を細め、ひと言分の息を吸う。
「ユアン……さま……」
途切れながら聞こえる声が、震えとなって霊核へ響く。
その確かな気配で、ようやく彼女の存在を感じた。
彼女の手から感じる感触は、もうそこに在った。
「……うん」
言葉が出ない。
まだ開ききっていない目が瞬きするたびに、瞳から光が舞う。
そうか、彼女は……見るのか。
ユアンが聞いた光を、ルティナは見ているのだ。
「黄金色が、見えました……」
「……うん?」
「ユアン様の、黄金色が……迎えに来てくれました」
「俺には、聞こえたよ。ルティナの音が、見えたんだ」
ルティナは笑い、体を起こした。
フェンの首に手を当てると、首を回してそれに応える。
いつもの垂れ耳に戻ったフェンは、そのまま首を地面に付けた。
「ありがとうございました。……また、見つけてくれたんですね」
こんなに細い腕で、こんなに小さな身体で、なぜこんなに強いのか。
繋いだままの手に力が入る。
今感じるこの衝動は、自分のものなのか、霊核のものなのか。
胸の奥に沸き上がった何かを、ユアンは収めた。
「いや、俺は待っていただけだ。……なんか飲む物を持ってこようか。お茶か……白湯の方がいいか?」
「ぬるめの白湯がいいです」
手を離すと、指先に残る余韻が以前よりも濃くなった。
その感覚を振り払って、ユアンは立ち上がる。
「すぐに戻るよ」
手に残る感触が、妙に気になってしまう。
ルティナにこの感覚があるのか、尋ねても良いものか。
「あの! 女の子は大丈夫だったでしょうか?」
ルティナの表情が、一気に緊張を露わにする。
調律とはどんな景色が見えているのか、ユアンには分からない。
もしかしたら、どこか違う世界にいるのかもしれない。
「心配ないよ。ミオル殿に任せてある」
ユアンは、自分の背中を追いかける視線を感じながら、家の中へと走った。
家の中に駆け込み、調理場へ向かう。
夕食の準備が進む中、皿を並べているセラの後ろ姿に声を掛ける。
「セラ、白湯を1杯、離れの方に持って来てくれ」
セラの眉が、その言葉に反応する。
静かに素早く動き出した彼女から目を離し、元来た廊下を急ぎ足で戻る。
セラも変わった。
あんなに表情を読ませなかった彼女が、分かりやすく不安を見せた。
彼女の役割を考えると、それを良しとしない人も多いだろう。
だが、ユアンにとってはどうでもいい。
それが変わったところで、セラの代わりは誰にも務まらない。
ルティナのそばにいてくれることが、どれだけ安心か。
外に出ると、リズと一緒に戻って来たレイランが見えた。
ユアンの姿を見つけ、リズから飛び降りて駆けて来る。
「目覚められましたか?」
「ああ、ちょうど今だ」
レイランは首の下に手を置き、胸を撫でおろした。
そのまま門に立つ兵士に声を掛け、使いを走らせたようだ。
「思ったより早くてほっとしました……数日は目覚めないかと……」
ルティナの元へ走りながら、レイランから安堵の声が漏れた。
ユアンもそう思う。
霊核の光が届かなかったら、それもあり得たかもしれない。
今日、ユアンは確信した。
自分の霊核に、心底ありがたみを覚える。
これ以上の使い道があるだろうか。
この霊核は、ルティナを呼び戻す灯になる。
「ルティナ様、ご気分はいかがですか?」
レイランの声は弾んでいる。
心配を越え、強い安堵のあとだ。
その明るさが心地いいことを、レイランはちゃんと知っている。
「ご心配をおかけしました。もう大丈夫です。驚くほど回復が早く……ユアン様、ご無理をなさったのではないですか?」
「フェンと一緒に待ってただけだ。フェンに本気で睨まれたよ」
「この子も相当心配したようで、動こうとしたら止められました。まだどこにも行かせてもらえないようです」
「フェンはルティナ様の騎士ですからね。我々よりもずっと頼りになりました」
レイランがフェンを軽く撫でると、フェンは前足で地面を叩く。
まだ、納得はしていないようだ。
薄い湯気が上がるカップを持ち、セラが早足で歩いてきた。
ルティナの姿を確認して、セラは身体の力を抜いた。
「お持ちいたしました」
「ありがとうございます」
カップを受け取り、セラに笑顔を向ける。
もう普段と変わらないように見えるが、実際はどうなのだろうか。
「起きたばかりで申し訳ありませんが……調律のことを、話す必要がありました。わたしが分かる範囲ですが……」
「構いません、隠しているわけではありませんので」
「……アルヴィン様が、体調が戻ったら一度話をしたいと。ユアン様とナーシャ様もご一緒にと」
「分かりました。わたしはいつでも構いません」
そこで、きちんと話をすることになりそうだ。
霊核のこと、調律のこと。
そして、壊素のことも。
ミオルも一緒にいてもらう方が良いだろう。
おそらく、ミオルよりもアルヴィンがそうするはずだ。
「明日の午後、時間を作ってもらう、でいいかな」
「ちょうど明日あたりに、平原のサガラが芽を出しそうなのです。そのお話もできると良いのですが……」
嬉しそうに話すルティナは、もう何事もなかったようだ。
無理をしてではなく、本当にもう気にしていないのだと思う。
これがルティナだと分かっていても、心から納得できているわけではない。
「じゃあ、何か食べてから、今日は早めに休んだ方がいい。今日はセラに何か作ってもらったらどうだ? たまにはそういう日があってもいいだろ?」
「お任せください」
後ろで控えていたセラが、自分から声を出した。
その瞳は、ただルティナを見ている。
「それは楽しみです」
セラに付き添われて歩く後ろ姿は、いつもより弾んでいる。
自分の中に浮かんでくる言葉を、もう何度も押し戻している。
もう少し自分を優先してくれ。
もっと頼ってくれ。
あまり無理をしないで欲しい。
出てくる言葉は、すべて彼女を責めてしまいそうなものばかりだ。
理解はしている。
だが、それに心がついていくまで……まだ少し時間がかかりそうだ。
目が覚めた。
朝の静けさの中、白銀の光が、意識の端で動いている。
平原に出掛けていくルティナの気配だ。
一緒にいるはずのセラとロイは、意識しないと感じることができない。
近く感じすぎる世界の気配は、煩わしいものだったはずだ。
いつの間にか、彼女を感じるのが当たり前になった。
この気配だけは、感じるだけで満たされる。
沸き上がる感情に、名前を付けないよう意識し始めたのは……いつだっただろう。
思い返しても覚えていない。
それはきっと、会う前からだ。
エンの森で、初めてルティナの気配を感じたあのとき。
初めて瞳を合わせたあのときから、もう心はそこに在った。
何度も霊核のせいにした。
これは自分じゃないと、霊核が惹かれ合っているものなのだと。
だが、もう抗いようがない。
抑えていると、お互いに不自由だ。
感情を抑えた分だけ、彼女を抑えようとしてしまう。
認めて、そのままで彼女と向き合おう。
何も変わらない。
ただ、幸せに笑って欲しいだけだ。
窓の外は、もうすっかり明るい。
まだ白い陽射しは、熱が上がる前の清々しい色だ。
午後に王城へ向かうまでに、ヒベニシダを見に行こう。
平原の核は芽が出ていたんだろう。
ルティナの嬉しそうな空気が聞こえる。
こういう彼女を感じられるのが、何よりも幸せだ。
身支度をして下に降りると、レイランとウォルグが食堂の前で話していた。
レイランは何やら手紙を読んでいる。
「おはようございます、ユアン様」
ウォルグが先に気付いて、美しいお辞儀を向けた。
白が半分ほど混じった髪は、一切の乱れなく整えられている。
「おはよう、何かあったか?」
「エンネル家ご当主から会食のお誘いです」
「この前行ったばかりじゃないか。断ってくれ」
「……前回は、オルヴィア様からのお誘いで……今回はご当主です」
「どっちだって同じだろ。しばらく忙しくなると伝えてくれ」
「……かしこまりました」
レイランから笑いが漏れた。
「では、わたしもそれに便乗いたします」
「レイランもか……ウィスターナか?」
「……はい」
「行って来てもいいぞ? 俺はひとりでも――」
「いいえ、断る理由ができてありがたいです」
ウォルグが、ため息を堪えた気がするが、それは気付かなくていいことにした。
貴族の付き合いは、色々と面倒だ。
今はあまりそういうことに気を回したくない。
レイランの周りは、最近騒がしくなってきた。
叔父上はあまり口を出さないが、この家を継ぐのはレイランだ。
アベリスの家を考えるなら、そろそろと思うのは当然だ。
エデュードやミオルと同じく、レイランは本来家を導く立場だ。
レイランが従者という立場でいることが不自然なのだ。
「レイラン、ルティナがそろそろ来る。一緒に離れに行って、ヒベニシダの様子を見ておきたい」
「かしこまりました。朝食は……期待しましょう」
ルティナの料理が食べたい。
身体から熱を感じ始めている。
そろそろルティナに頼らずに、調整できるようになった方がいいだろうか。
「おはようございます」
フェンを連れてきたルティナの光が、ほのかな脈を打ち揺れる。
視ることは苦手だったが、音の感覚が重なるようになって、視えるものが増えた。
ルティナは嬉しそうだ。
その光が美しくて、思わず笑みが零れた。
「おはよう、嬉しそうだね」
「サガラの芽が出ていました。今朝のことだと思うのですが、あっという間に育ってもうわたしの手と変わらない大きさでした……ハーロウも芽吹きそうでしたので、あと数日で手を離れそうです」
「そうか、俺も見に行きたいな。明日一緒に行こうかな」
「ぜひ見ていただきたいです。ハーロウの芽吹きが見られるかもしれません」
いつもより早口に話す彼女は、表情がくるくる変わる。
ルティナも、王都に来てから感情が出やすくなった。
「それは楽しみだ。これからヒベニシダを見に行ってもいい? 何かすることがあるなら時間をずらすけど」
「わたしは構いませんが……」
「じゃあ行こう」
セラに引かれて行くフェンは、何度か振り返りながら厩へと入る。
一緒にいられないのが心配なのは、分かり過ぎる感情だ。
フェンの視線を気にしているのはルティナも同じで、名残惜しそうに見送っている。
「フェンとなるべく一緒にいられるよう考えようか」
こちらを見上げる表情は想像と違っていた。
「……フェンが心配しなくても済むように、なります」
言い方は静かだが、そこには強い意思があった。
彼女の強さは、いつも誰かのためにある。
フェンを追ったままの視線は、凛としてまっすぐだ。
それならば、彼女のために強くなろう。
誰よりも自分がそばにありたいと、願うだけなら自由だ。
「俺も、安心して任せてもらえるように……なるよ」
ルティナは少し照れたようにはにかみ、すっと視線を外した。
もう、これをごまかす気もない。
感じてくれるなら、嬉しいことだ。
笑顔を交わして離れへと向かう一歩が、いつもよりもしっかりと地を掴んだ。
「このヒベニシダ……なんか……変わった気がする」
離れの机に置かれている苗は、ひと回り背が高くなっていた。
そして、明らかに変わったのは霊素の入り方だ。
「霊素が濃くなって……葉先に陽が集まったみたいだ……」
ユアンが意識を込めると、細かい振動が葉先から響いているのを感じる。
「水に陰の霊素を流して、根から吸わせるようにしているのですが……もしかしたらそれが良かったのかもしれません。陰は内側の方が流れやすいと思ったので……」
「陽が集まった分、広がる力が強くなったのかも。振動が強くなってる」
ユアンには音として聞こえる。
「そうですか……? 霊素の変化は感じますが、振動が変化しているようにはあまり感じないのですが……」
「確かに大きくなっているよ。俺には音として聞こえるから、視え方に違いが出にくいのかな?」
ルティナは集中するように静かになった。
感覚を研いでいるのが分かる。
ルティナの感覚はとても深い。
感じることを視ることに置き換える能力は、まったく追い付けない。
だが、感覚で捉えられるものの得手不得手はあるのかもしれない。
「確かに……広がっている感じがします」
「ああ」
「……水の量を増やしてみましょうか。陰が濃くなっている葉の半分あたりまでなら、馴染むかもしれません」
深さのある器へ、魔封器に保存していた水を入れ、ヒベニシダをゆっくりと沈める。
植物を育てる水槽のようだ。
水から出ている葉先は、変わらず振動している。
「大丈夫そうです。巡りも安定していますし、このまま様子を見られそうです」
ルティナには、植物の中を巡る霊素の道まで見えている。
それはまったく分からない。
ただうっすら、霊素がそこにあるのが視える程度だ。
「楽しみだな」
頷きながらヒベニシダを見守る目は、愛おしさが溢れている。
思わず小さなため息が漏れた。
ここまで来ると、少し呆れてしまう。
ルティナらしい。
「ユアン様、レイラン様も……何か召し上がりますか? 簡単にお作りしましょうか」
どうやら、空腹はバレているらしい。
離れたところでこちらを眺めていたレイランは、気まずそうにしながらも嬉しそうだ。
「少し身体に熱を感じるんだ。だからルティナの食事を期待してた……」
「そうですね、調整しましょう。王城に行くまで、まだ時間がありますから」
火床へ向かおうとするルティナの手を取る。
「これは俺の願いだから、心のどこかに留めてくれればいい。もし、これから先、調律をする必要があるとき……なるべく早めに呼んで欲しい。途中で少しでも身体を戻せば、倒れるところまでいかないかもって思うんだ」
ルティナの手は、ひんやりとしている。
これが通常の体温なのだ。
「ご心配ありがとうございます。確かにおっしゃる通りだと思います……」
「心配……もそうだけど、俺はもっと頼って欲しいんだと思う。ずっと助けられてばかりだと、頼みたいことも頼みにくくて……今日も、食事を作ってくれってなかなか言えなかったし」
レイランとユアンを交互に見る。
「助けられているのは、わたしの方だと思いますが……」
「でも、ルティナは自分から言葉にすることはないだろ? 言ってくれた方が動きやすいこともあるよ」
「……言わないと、余計に心配をかけてしまうということですね」
目を伏せて、声が小さくなった。
「ルティナ様ほど、我々は汲み取ることが上手くないのです。言葉にしていただけるなら、とてもありがたいです」
レイランの言い方は、いつも綺麗だ。
相手が受け取りやすいように、きちんと整えて話す。
「分かりました。でも、食事くらいいつでも作りますので、遠慮せずに仰ってください。作るのはとても楽しいです」
ルティナは顔を赤らめながら、照れたように笑った。
褒められたり、望まれたりすることに不慣れなのだ。
おずおずと手を離し、急ぎ足で火床へ向かう。
保冷棚を開け、食材を取り出す身体の周りを、白銀の光が舞う。
その楽しそうな姿を眺めながら、何を作ってくれるのか……
久しぶりのルティナの料理に、期待で胸が膨らんだ。




