蒼の季-30.彼女
小さな手を握ったまま、彼女は静かな呼吸だけを続けた。
横たわっている少女の身体には、足の方だけに魔素を感じる。
上半身にそれがないということは、そこに霊素があるのだ。
偏った魔素の不自然さを、今なら理解することができる。
ルティナの隣に寄り添っているユアンは、普段と変わらない。
それが逆に痛々しく映る。
膝の上で強く握りしめた手は、感情を抑えるための楔のように見えた。
治療室は静まり返っている。
物音ひとつしない部屋は、やけに広く感じられる。
ただ呼吸を続ける彼女の気配が、少しずつ薄れていく気がした。
そこにいるのは見えているはずなのに、存在が感じにくくなる。
この不安の正体は何なのか。
扉の外で見守るミオルに、彼が決して見せない動揺が見え隠れしている。
彼女がミオルにとって、ただの守るべき人だとは思えなかった。
ナヴァンの中にも、ルティナという存在が刻まれたのだろう。
昨日まで、ナヴァンの視界に彼女が入ることはなかった。
たった1日、いや、半日だ。
それだけの変化が起こってしまうことを、レイランは誰より理解している。
ルティナが王都に来てからの時間は、自分の知らない所でも流れている。
彼女はもう、ユアンと2人で守る人ではなくなっているのだ。
――ユアンの身体が動いた。
合図を待っていたように、後ろに傾くルティナの身体を受け止めた。
それと同時に、握っていた左手を彼女の身体の上にかざす。
ユアンがこちらに視線を向けた。
その目に引っ張られるように、足が勝手に動く。
レイランはルティナを抱き上げ、そのまま部屋を出る。
ルティナの身体は、異様に軽く感じる。
そこに命があるのか不安になるほど、伝わる感触が冷たい。
「ディノ、何か敷く物を。外に寝かせます」
外の芝に容赦なく降る陽射しが、今はありがたい。
どうかもっと強く、ここに降ってくれと願う。
ユアンの左手に、陽射しと同じものが集まっている。
ニオのときと同じ、命を包み込む温かさだ。
「お持ちしました」
「木陰にしよう。ここだと強くなり過ぎる」
ユアンは冷静だ。
不安も焦りも感じない。
ただ感覚を研いで、彼女に意識のすべてを向けている。
ディノが広げた布の上に彼女を寝かせ、丸めた布を頭の下に差し入れる。
ようやく見ることができたルティナの顔は、陶器のように白かった。
「フェンを連れてくればよかったな」
ユアンの声は静かだ。
それが、意識して出されている声だと、レイランには分かってしまう。
「連れてきますか?」
「いや、しばらく様子を見たら、このまま連れて帰る。フェンはそれからだ」
治療院の入口からは、こちらを気にする気配を感じる。
当然だ。
室内で人が倒れ、それを外に寝かせているのだ。
彼らにはその意味が分からないだろう。
「ユアン様、ミオル殿たちに……」
「ああ、心配ないと伝えてくれ。このまま連れて帰るから、あとは任せたいと」
心配ないという言葉が、宙に浮いて聞こえる。
状況が分かっている自分ですら、平静を保てていない。
「本当に大丈夫だ。ちゃんと気素は巡ってる。俺たちの身体は、気素が僅かでも残っていれば巡りは止まらない。徐々に元に戻っていくんだ」
「分かりました、そのまま伝えて構いませんか?」
「ああ、それも話さなくてはいけない頃合いだ」
ルティナの存在が、こんなに早く大きくなるのは想像していなかった。
それだけ、彼女は人を惹きつけてしまうということだ。
分かっていたつもりだった。
霊核というものの話はしたが、それがどういうものかには触れていなかった。
自分ですら、あまり理解が追い付いていない。
調律とは、響律とは何なのか。
壊素とは何なのか。
それをルティナが話さなかったのは、きっと理由があるはずだ。
レイランは建物に向かいながら、言葉を探す。
何を聞かれるのか。
何を話せばいいのか。
ミオルは、横たわったままの少女の状態を確認し、部屋から出てきたところだ。
表情は変わらないが、ざわつきは収まっていない。
「……あの子はいかがですか?」
「ええ、落ち着いています。ルティナ殿がやり終えたのなら、きっとこのまま回復するでしょう」
隣にいるロイも、どこか落ち着かない。
壁に寄りかかっているナヴァンは、目を閉じたままだ。
ディノはつま先を床に付け、何かしたい気持ちを持て余しているようだ。
「わたしも、すべて理解しているわけではありません。説明にはならないかもしれませんが……聞いていただけますか」
「ぼくたちが、勝手に聞いていいことなのでしょうか……」
ミオルの視線は、ここからは見えないルティナを追った。
おそらく、彼なら理解できるような気がしている。
「ルティナ様がこれをするのを見せたということは、信頼しているのだと思います。……あの少女の身体は、以前のユアン様の身体と同じ……それのごく軽い症状だと思います」
空気が膨れ上がった。
身体を後ろに引きそうになるのを、なんとか留めた。
「……ユアンだけが、特別……ではなくなってしまいましたね」
ミオルの言葉で、その重さに改めて気付いた。
そうだ。
これはそういうことなのだ。
「ぼくたちだけで聞くのは、やめた方が良さそうです。ルティナ殿が目覚めて、ユアンもいるときに……ルティナ殿が話せると思った相手に話すのが良いでしょう」
「……わたしが……そこまで考えが至っておりませんでした。頻繁に起こることではないのは確かです。先に行った4人の施術は、ユアン様の症状とは違うものです」
壊素だったのは、最後の1人だけのはずだ。
「……だから、とても動揺していたんだな。明らかに最後だけ雰囲気が違った」
「わたしが聞いたときは、霊核を持つ者にしか現れない症状だと言っていました。だからルティナ様も、驚かれたのだと思います」
たまたま、霊素溜まりに触れてしまったとしても、そう簡単に壊素まで進むだろうか。
ナーシャはそうならなかった。
何か別の原因がある可能性も、考えなければならなくなった。
「霊核を持つ者……ですか。それは多くない」
床を見つめるミオルの目は、酷く苦しそうだ。
「……そうです」
ミオルは気付いている。
ユアン以外の、霊核を持つ者が誰なのか。
鋭すぎるというのは、どこまでも人を苦しませる。
「……今は、待ちましょう。我々もまだやることがありますから。ルティナ殿のことはお任せします」
「はい」
「目覚めたら必ず連絡を入れてくれ」
外へ向かうナヴァンの後ろから、ディノが目だけで礼を伝えた。
それに続くように、ミオルも重たい足を動かした。
「ぼくたちにも連絡を入れて下さい。彼女にはきちんと理解してもらわねばならないことがあります」
ミオルの声は、分かりやすく強くなった。
感情の変化を見せるミオルにはまだ慣れないが、むしろそれがありがたかった。
「必ずご連絡いたします」
その背中に、レイランは深く礼をした。
ミオルは、調律というものが想像できているのかもしれない。
そして、自分が思い至らなかったことにまで、頭が回っていた。
さすがだ。
まだまだ遠い存在だと思った。
ミオルは、レイランが目標とする人だ。
思慮深く冷静、誰であっても同じように心を砕く。
それでいて、感情に流されず判断は的確だ。
アルヴィンと同じ目の高さで、違う方向から国を見ている。
ミオルがいるから、アルヴィンはあの自由さでいられるのだ。
隣に立ち、その深さで支えている。
それは、ユアンと共に在る自分が目指す姿だ。
木陰で休むルティナは、しばらく目覚めないだろう。
ユアンは手を握ったまま、左手をルティナの胸の前にかざしている。
霊素の調整というのは、どれほどの負担があるのか。
魔法と置き換えて考えると、相当な消耗があると思える。
「目覚めたら連絡を、とだけ言われました」
「そうか……感謝しかないな」
「どうやって連れ帰りましょうか……馬車を呼びますか?」
「いや、アウリスでいい。抱えていった方が早い……そろそろ行こう」
ユアンはそっとルティナを抱き上げた。
腕の中にすっぽりと納まると、まるで子供のように見える。
小柄だが、改めてその小ささを感じてしまう。
レイランは敷いてあった布を片付け、治療院の中へ走る。
ユアンの心は、今何を思っているのか。
それが分からない自分を、酷く恨めしく思った。
アベリスの厩へ近付くと、フェンのいななきが響いていた。
その声は悲痛で、こちらの息が苦しくなった。
「フェン、すまなかった。頼むぞ」
厩から出してやると、一目散に駆け出して行った。
なぜさっき一緒に連れていくことを考えなかったのか。
ルティナのことを、フェンは誰よりも分かっているのだ。
フェンは、ユアンの腕の中にいるルティナを、鼻先でしばらく確認していた。
そのあと、離れの少し手前の木の下に座り込み、鼻を鳴らした。
ここに寝かせろということだろう。
「頼りになり過ぎるな……」
ユアンのつぶやきに、激しく同意する。
彼はルティナの騎士なのだ。
ルティナをフェンに寄りかからせるように寝かせると、フェンは自分で位置を調整し、抱えるように首を回した。
それは温めているようでいて、誰にも触らせないという意思表示にも見えた。
「フェン、俺はどうしたらいい? もう必要ないか?」
ユアンは左手をフェンに差し出す。
そこをじっと見つめるフェンは、何かを感じているようだった。
少しの間のあと、フェンは少しだけ首を戻し、ユアンを受け入れた。
あの顔は、絶対に納得していない。
ルティナのためなら仕方がないということだろうか……
「フェン……すまなかった。お前の不満はもっともだ」
独り言のような呟きに、初めてユアンの心が滲んだ。
感情を抑えていた制御を、ようやく緩めることができたのだ。
ユアンが自分を責めたくなる気持ちが、痛いほど分かる。
レイランも同じだ。
止めることができなかった。
彼女ができると思ったのなら、それはきっとそうなのだ。
ルティナは、出来ないことを無理にやる人ではない。
感情が先にあるように見えて、とても理性的な人だ。
だがそれは、出来ると判断したことは、それがどんなに危ういことだとしてもやるということだ。
止められないのなら、見守る覚悟をしなければならない。
以前、ミオルが言った言葉を、今突き付けられた。
ルティナが世界と向き合うことに、どれだけ寄り添えるか。
それを見守る覚悟ができるかどうか。
彼女と共に在ろうとするなら、最低限それが出来なくてはいけないと。
あのときミオルは、こういうことがいつかあると思っていたのだろうか。
ユアンはもう、迷っていない。
でも、苦しいことに変わりはない。
目を閉じたままのルティナを見つめ、ユアンはただ彼女を待っている。
しばらくのあと、王城のアルヴィンから使いが来た。
ユアンとレイランを呼び出すものだったが、ユアンは動く気がなかった。
レイランもその判断が正しいと思う。
今、彼女を待てるのは、ユアンだけだ。
アルヴィンの執務室の前で、呼吸を整える。
頭を整理する時間はあった。
覚悟の在り処も、やっと見つけた。
ユアンとは違った位置で、彼女を支えていく。
「失礼します」
先に中にいたのは、ミオルとナヴァンだ。
そして、ナーシャの姿もあった。
「ユアンは?」
アルヴィンの声が刺さるように感じるのは、自分の気持ちの問題だ。
レイランは腹の奥に力を入れ、視線を上げる。
「今はまだ動けません」
「そんなに危険な状態なのか?」
「いえ、落ち着いています。目覚めるときに、迎えるためです」
「……そうか」
ナーシャの表情は、見たこともないほど崩れている。
ルティナの調律を受けた側だ。
きっとそのことを思っているのだろう。
「ルティナ殿について、説明することはあるか?」
どうとでも答えられる質問ほど、怖いものはないと思う。
だが、それ以外聞き方がないのだということも理解できる。
「彼女は出来ることしかしません。自分を犠牲にすることもありません。ですが、出来ると思えばどんなに無理をしてもやります。今回はぎりぎりだったのだと思いますが、ユアン様がいれば可能だと判断したのだと思います」
「ユアンは……ルティナ殿と同じ側ということか?」
「広く捉えれば、そうです」
「では、今後逆のことが起こる可能性もあるということか?」
逆の可能性……
ある、かもしれない。
「可能性はあると思いますが、ルティナ様がいれば危険は少ないと思います。あのお2人は、対のような存在です。互いが互いを守り、調えることができます」
アルヴィンの視線が、わずかに下を向く。
「ルティナ様がされていることは、危険なことではありません。ただ、稀に強い負荷がかかる場合があります。今回は……疲労があった状態でそれを行ったため、少し深く眠ってしまったのだと思います」
「それが、ユアンの身体のような場合……ということか」
「……まだはっきりとは分かりませんが、今回は本当に特殊なケースです。先に行った4人と、ナーシャ様も、これには当てはまりません」
ナーシャは表情を変えず、ずっとうつむいている。
アルヴィンはナーシャの手を握ったままだ。
「あのお2人は、気素や霊素に触れることができるのです。ルティナ様は、体内の気素の偏り、多すぎる気素を引き受けることができる。ユアン様は、霊素に触れ、減り過ぎた霊素を与えることができる。わたしたちにとっての、魔素のように」
ミオルが顔を上げる。
何かが繋がったようだ。
「……だから、あの2人は魔素が扱えない……先占とはそういうことですか」
アルヴィンとナーシャも、同時に顔が上がる。
瞳を揺らし、顔を大きく寄せている。
「そのようです。どちらかひとつにしか、人は適性を持てないそうです。……だから、ルティナ様は王都にいらっしゃった。ナーシャ様のお腹の子供が、魔素の適性を持てなくなる可能性を感じたからだと思います。ユアン様の苦しみも、理解されてのことだと思います」
そこにいる全員が、ルティナという人を深く理解した。
誰も、もう何も言えなくなっていた。
彼女がどれだけ孤独だったか。
それと同じだったユアンのことも。
「ルティナ様は、そういう人なのです。人にも、魔獣にも、この世界にも、同じように接する。この世界すべてを理解し、寄り添おうとする」
アルヴィンは肩を下ろし、小さくため息を吐いた。
「……それを聞いて、とても納得をした。ルティナ殿の言葉も、行動も、あの施術も。すべてが彼女にとっては当たり前のことなのだな」
ナヴァンの抜けるような声が、部屋に広がった。
「……まったく、とんでもない人ですね」
呆れるようなミオルの言葉は、どこまでも優しかった。
「レイラン、伝えてくれてありがとう。そんな彼女の気持ちに、後悔を返すなんて失礼ね。もう一度きちんと感謝を伝えたいわ」
「ああ、ナーシャのことも、ユアンのこともだ。……ユアンと出会ってくれたことに、感謝しかない」
レイランも同じ思いだ。
今、自分たちと共に在ること。
彼女に出会えたことに、深い感謝を抱いた。




