蒼の季-29.灯
着いたのは、都下の中心にある大きな治療院だった。
東の治療院の3倍ほどはあるだろうか。
真っ白な壁は、燦燦とした太陽を浴びて熱を纏っている。
日陰のないその場所は、普通なら清廉な空気を連想する場所だ。
今はそれが、とても危うい色に映る。
ここにもやはり、人以外の気配がない。
ルティナの背中を、震えが駆け上がった。
自然の気配がないことに、言いえぬ怖さがある。
入口の前で、霊核の巡りを強くする。
自分が揺らがないことが、何よりも必要だ。
「ルティナ殿……」
「大丈夫です。急ぎましょう」
ナヴァンの表情に、大きな迷いが見える。
自分が不安にさせてしまっている。
落ち着いて、顔をほどく。
「初めての場所に、少し緊張しているだけです」
後ろから感じる視線は、じっとルティナを観察している。
いくら平静を装っても、きっとミオルには見抜かれる。
それならば、変に気を張ることに意味はないだろう。
ただ、自分に集中すればいい。
「この部屋だ」
入ってすぐの白い扉を開けると、まだ若い男性が横になっていた。
部屋に入っても気付かないほど、深く眠っているようだ。
体が大きく、がっしりとしている。
この国の兵士……だろうか。
かなり強く陽が巡っている。
ナーシャほどではないが、期間が長いのかもしれない。
身体もとても疲れているようだ。
「この状態になってから、どのくらい経っているか分かりますか?」
ルティナは側に膝をつき、手に触れる。
かなり体温が高い。
「起き上がるのが辛くなってから、10日になります」
相当辛かっただろう。
10日前なら、もう王都に来ていたのに。
「施術の前に、必ずお水を飲んでいただきたいです。終わったあとは、あまりすぐには動かない方が良いです。ひととき眠って目覚めたら、先ほどと同じレモリアを絞った水を飲むようにしてください」
「……この者は……」
「大丈夫です。巡りが戻れば、回復します」
「……よろしく、頼む」
ナヴァンが声を掛けると、その人は目を覚ました。
焦点が合わない目を必死に凝らし、驚いたように起き上がろうとした。
「無理をするな、これから治療してもらう。なるべく緊張せずに、楽にしている方が良いそうだ」
「ナヴァン様……」
その人から流れ込んでくる感情が、胸に刺さる。
苦しいはずなのに、心の中は申し訳なさでいっぱいだ。
ルティナは、呼吸に力を込める。
「初めまして、ルティナと申します」
「セインです」
「なるべく楽になるように致します。お水を1杯飲んでいただけますか?」
「……はい」
その人は、よく分からないという表情だが、受け入れてくれた。
「楽な体勢で構いません。横になるのと座っているのは、どちらが楽ですか?」
「今は座っている方が……」
「そうですか……では、できるだけ呼吸を深く、ゆっくりと。心を落ち着けて、呼吸することだけを気にかけて下さい。自分のみぞおちあたりに意識を置いて……」
ルティナはディノに目を向ける。
「少し、眠気が来るかもしれません。……揺らいだら身体を支えていただけますか?」
ディノは小さく頷いて、セインの後ろへ回り込んだ。
「セイン様、わたしの手を軽く握って下さい。そのままゆっくり呼吸をしましょう」
セインの呼吸は、徐々に静かに、安定してきた。
それに合わせて、ルティナも自分へと潜っていく。
セインの身体には、太陽と同じ色の気素が、忙しなく巡り続けている。
目を閉じて、暗い世界に自分を鎮める。
浮かび上がる霊核から、下腹部に光を集める。
暗闇に浮かぶ満月のように、白銀に光る律月を浮かべる。
セインの気素は、かなり多い。
受け止められるだけの深さが必要だ。
身体を鎮めるにつれて、自分の手が冷えていくのが分かる。
セインの呼吸に合わせて、右手から太陽の光を手繰り寄せる。
自分の中へ入った光は、ルオルの中へと吸い込まれる。
ルオルの引力に導かれるように、太陽の光は素直に入る。
セインの身体が、頭から前に傾く。
ディノがしっかりと支えてくれたようだ。
そのまま深い眠りに入っている。
よほど疲れていたのだ。
これだけの早さで巡っていれば当然だ。
右手から入る気素は、徐々に静かになっていく。
安定して巡る分の気素を残して、太陽の光はルオルへと収まった。
それを安定させて、小さく抑える。
浮かんだルオルが落ち着くのを感じる。
セインの巡りは落ち着いた。
少し弱いのは、徐々に戻るだろう。
彼の気素はとてもしなやかだった。
きめ細かな布が揺蕩うように、リズムをつけて巡っていく。
ルティナは巡りから手を離す。
そのまま変わらず、彼自身へと戻ったようだ。
目を開けると、目の奥に光が染み込んだ後、彼の顔が目に入った。
張り詰めていた空気が、緩んでいる。
身体の熱も、引いているようだ。
「このまま、横になってもらいましょう。目覚めたらお水を飲んでもらってください。あとは体力が戻るように過ごせば大丈夫です」
ルティナの気素は、3割ほど減っただろうか。
この調律で3割なら、かなり抑えられているだろう。
霊核が、少し深くなっているようだ。
「ありがとう……ございました。信じられない……身体が軽いです」
眠っていたはずのセインは、目を覚ましていた。
濁っていた瞳も、かなり戻ったように見える。
「良かったです。しばらくは無理をなさらず、ご自身の身体と相談しながらお過ごしください」
静かに力強く頷き、そのまま眠りに落ちていった。
「ルティナ殿、感謝申し上げる」
ナヴァンの目は、セインから離れない。
身近な存在なのかもしれない。
ナヴァンも苦しかったのだろう。
見ていることしかできない辛さは、ルティナにも分かる。
「巡りは戻っていますが、身体の回復はこれからです。しばらくは安静にしてくださいませ」
「……伝えよう」
ルティナは小さくため息を吐いた。
大丈夫だ、まだ霊核に余裕がある。
部屋から出ると、ミオルがルティナの手を取った。
その顔は治癒師の顔だった。
「……冷えていますね」
「多少、わたしにも負荷があります」
「……無理はしていませんか?」
後ろから、ナヴァンとディノがその様子を見ているのが分かる。
「まだ大丈夫です」
「……自分で限界は分かるのですか?」
「ある程度は把握しています」
「あとどのくらいですか?」
相手による……としか言いようがない。
その人の状態によるものなのだ。
「この程度であれば、そこまで心配はありません」
「答えになっていません」
「……相手の方の状態によるものです。診てみないと分かりません」
ミオルの瞳は、今まで見た中で一番深かった。
この瞳を逸らしたら、もう続けさせてもらえないのが分かる。
「……ぼくが無理だと判断したら止めます。反論は許しません」
背中に冷たい雫が落ちるように、その声はルティナに響いた。
ミオルには見えないはずだ。
でも、何か感じるものがあるのだろう。
彼の感覚は、それだけ鋭いのだ。
「ああ、それがいい。ミオル殿にお任せする」
ナヴァンの声も、少し揺れているようだ。
「……ミオル様には、わたしがどう見えていますか?」
瞬きをしないまま、その深いまなざしがルティナを離さない。
「……分かりません。でも……命を削っている、そんな怖さを感じました」
この場の空気が、大きく歪んだ。
3人の視線が、それぞれに重くなった。
「そうですか……それはありません。わたしがそれをしないことを、ミオル様は理解されているはずです」
「それは分かります。でも……嫌な感覚があるのです。何かが消えるような……」
ミオルの感じる力は、とんでもなく強い。
霊素は感じないはずなのに、消えるというのを捉えているのだ。
ミオルにとっては不快なはずだ。
霊素は命にとても近い存在。
それが消えるのが、彼は何よりも嫌なはずだ。
「ミオル様、消えているのはわたしではありません。きちんとご説明できるまでわたしの言葉が進んだら、そのときに話を聞いて下さい」
「……分かりました。でも、無理だと思ったら止めます。これは身体の反応の問題です」
ルティナの手を握ったまま、ミオルの手に力が入る。
その手の冷たさは、彼の不安の現れだろうか。
自分のことのように、心配してくれているのだ。
「ミオル様に見ていていただけるなら、わたしも安心して臨めます」
自然に笑顔になった。
ミオルの瞳は、すべてを見つめる人の瞳だ。
この人に止められるならば、それは仕方がないと思った。
自分が足りていないと、納得せざるを得ない。
だから、このまま進められる。
見ていてくれるなら、止められなければ大丈夫ということだ。
4人の施術を終え、身体の気素はあと1人分あるかどうかだ。
残る2人のうち1人は、調律が必要ない人だった。
気素の巡りが滞り、身体が動かしにくくなっているだけだった。
これなら、なんとかなるのではないか。
「ここが最後だ」
ナヴァンが扉を開ける。
目の前の景色が、大きく歪んだ。
身体の奥が、これを拒絶しているのが分かる。
おそるおそる中に入ると、そこにいたのはまだ小さな子供だ。
ちょうど首の下、鎖骨のあたりに濃い霊素の瘤がある。
それはすでに淀んでいる。
――壊素だ。
こんなに小さな、霊核も持たない子供に……。
「なんで……この子は、いつから?」
「ここに来たのは最近だが、辛くなってからは二巡ほどだと言っていた」
「ひとり……なのですか?」
「……兄弟がいる」
親はいない……ということだろう。
辛いのを我慢して耐えていたのだろうか。
まだ身体は小さい、気素の量もそんなに多くはない。
普通の障りなら問題なかった。
でも、壊素となると話は別だ。
濃度がまったく違う。
量だけ減らして別の日にするとしても……
場所が悪すぎる。
首に届いたら呼吸ができなくなる。
やるしかない。
もし足りなかったら……
父の調律が目の裏に浮かび上がった。
反転した壊素は、逆流して一気に広がる。
そうなったら助からない。
ルティナは心を落ち着けて、冷静に身体を視る。
瘤は小さく、一箇所だけ。
溜まりがあるわけではない。
瘤だけなら、ぎりぎりやり切れる。
「ナヴァン様、お手数ですが……ユアン様を呼んでいただけませんか」
きっと、この空気でもう察しがついている。
感情を抑える余裕はなかった。
そして、止められてもやめない。
今の状態ならやれると思ったからだ。
「……ディノ、探して連れて来い」
「待ってください」
ミオルが声を上げた。
「ユアンがいれば、絶対に大丈夫なのですか?」
温度のない声に、説明できない感情が滲んでいる。
彼のこの感情が、ルティナには分からなかった。
でもそれが、とても思ってくれているのは伝わる。
「……分かりません。でも、ユアン様はその対処をご存じです」
この言葉で、ミオルには伝わっただろうか。
「……分かりました。ディノ、行ってください」
今までで一番の速さで、ディノは駆け出して行った。
その足音はほとんど聞こえない。
彼の風はそうやって使うのだと、なぜか冷静に聞いている。
こういう感覚も、時折あるものだ。
限界が近付くと研ぎ澄まされて、感覚がどんどん尖っていくように。
心はどんどん静かになって、身体もそれに合わせて鎮まる。
今なら、はるか遠くまで、すべてを感じられそうだ。
感覚の中に、ユアンが現れた。
彼の太陽は、いつもルティナを照らしてくれるのだ。
走って来る足音で、張り詰めた空気がほどけていく。
足音が2つ、……3つだ。
レイランも一緒に来てくれたのだろう。
駆け込んできたユアンは、息が上がっている。
息を乱しているのは珍しい。
どれだけ走っても乱れないと思っていた。
「ルティナ、どうし……」
ユアンの眉が、眉間に寄る。
ゆっくりと歩を進め、ルティナの横に屈んだ。
「壊素……か」
「はい」
「なんで……」
「分かりません……二巡前からだそうです。もしかしたら、平原の溜まりに触れたのかもしれません」
「そうか」
後ろに立つレイランの表情は、変わらない。
「ルティナ、相当……減っているみたいだけど」
「4人ほど……調律しました」
レイランの空気が僅かに変わった。
彼にとって、調律は危ないもののままだ。
「やれる……? ぎりぎりか」
「足りるとは思っています。でも、わたしは……」
「でもやりたいんだろ?」
「……よろしいのですか?」
「だめって言ったらやめてくれるの?」
「……やり切りたいです」
ユアンは眉を斜めにしたまま笑う。
「じゃあ、ルティナの手が離れたら……でいいかな?」
「はい。少しの間で大丈夫です。ほんの少しでもあれば、あとは回復しますので」
「そんな薄情に見えてるの? 目が覚めるまでは付いているよ」
「……目が覚めるまで、少し時間がかかると思います」
「戻ってくるまで、ちゃんと待ってるから」
ユアンだって、心配している。
こんなに心配をかけても、やりたいのだ。
「ルティナ様、何か用意しておくものはありますか?」
レイランは変わらない。
それに安心する。
「大丈夫です。この子には、しっかり水分と食事を……お願いします」
ナヴァンとミオルが、扉の向こうから小さく頷いている。
ルティナは深いところまで、自分を感じた。
目が覚めるとき、どこにいるだろう。
ユアンの瞳は、ますます美しい黄金色だ。
その色を、しっかりと目に刻む。
この色を追いかければ、きっと戻って来られる。
目の前の小さな手を、しっかりと握る。
深く息を吸い、空っぽになるまで息を吐ききる。
自分の中心を確認して、目を閉じる。
暗い世界に潜っていく感覚だけが、意識の端に残っていた。




