蒼の季-27.雑草
実務区画の1階には、小さな調理場があった。
その狭さに似合わない設備が整えられ、食材も豊富に揃っている。
昼食には少し早いが、ナヴァンが起きたときに食べられるものを作ることにした。
どうやらミオルも食べたいようだ。
「ミルク粥がいいです」
ミオルは、ミルク粥が相当気に入ったらしい。
素材は揃っていたので、要望に応えることにする。
普段は少し離れたところで待っているが、珍しく近くで眺めている。
作り方を知りたいのだろうか。
「たまには具材を増やしてみましょうか……キノコはお好きですか?」
保冷棚にあった肉厚なキノコは、ちょうど今が旬の山茸だ。
食感も風味も強く、キノコとは思えない存在感がある。
「好き……と思ったことはありませんが、好きになるかもしれません」
あまり意識してこなかったということか。
「キノコはお腹に入っても重くなく、出汁も出るので……わたしはとても好きなのです」
「そうですか、だったらきっと美味しいでしょう」
今日のミオルは、とても距離が近い。
こんな言い方をすると失礼だが、お腹が空いているときのフェンのようだ。
ぴったりとくっついて、ほんのりと圧を感じる。
「ミオル様、朝食は召し上がらなかったのですか?」
「……今朝は起きるのが遅くなってしまって」
会議のあとのことを思い返すと、妙に納得した。
きっとウィランに掴まったのだ。
「じゃあ、しっかりめでも良さそうですね。ナヴァン様には少し栄養を取っていただきたいのです」
「お任せします。ルティナ殿の作るものは安心です」
キノコの他に鳥も加え、保冷棚の野菜で簡単な口直しを作った。
根菜類を薄く切って塩で軽く揉み、叩いた塩漬けの果実を加えて和えたものだ。
そのまま少し冷やしておく。
たまたま見つけたこの果実に、ルティナは感動してしまった。
とても良い塩気と酸味だったのだ。
おそらく、塩漬けにして水分を抜き、干したものだと思う。
塩分が欲しくなるこれからの時期にはぴったりだろう。
ちょうど粥が煮える頃、ロイとディノが調理場に入って来た。
「午後の鐘の頃に、こちらに来てくれるそうです」
まだ少し時間がある。
食事をしてひと休みすれば、程よい時間になりそうだ。
「ナヴァン様はまだ眠っていますか?」
「先ほど起きて、まだ少しぼーっとしているようでしたが……大丈夫だと思います」
「お食事をご用意したのですが、いつもはどちらで召し上がるのでしょう?」
「あまり座って食べているのは見ませんが……どこでもいいのではないでしょうか……」
いったいどういう生活を送っているのか。
「では、こちらを執務室にお持ちください。ゆっくり、召し上がるようにお伝えください」
「ボクの分も……ですか」
「2人でゆっくり、召し上がって下さい」
少し語気が強くなってしまった。
「ぼくたちは……ここで良いでしょう。誰もいませんし」
きっと早く食べたいだけだ。
ロイとミオルの分を取り分けて、ルティナは少しにしておく。
午後は施術が多くなりそうな気がする。
お腹に食べ物があると、気の巡りが感じにくくなるのだ。
「このさっぱりした後味……クセになります」
冷やした和え物は、やはり好みだったようだ。
自分で言うのもなんだが、本当に美味しい。
これが何なのか、ぜひ教えてもらいたい。
「わたしも初めて見た食材なのですが、これは何というものでしょうか……自分でも作ってみたいと思っているところです」
ロイが立ち上がり、保冷棚に確認しに行く。
「確か、“梅干し”というものだったかと。東方で食べられるものだと聞いた気がします。保存食だそうなので、市場で探してお届けしておきますね」
「できれば、素材になっている果実も、どんなものか聞いておいていただけると嬉しいです……夏場にとても良さそうなのです」
「夏場に……というのは?」
ひと口食べて、ロイも目が躍った。
「夏場は、塩分が美味しく感じませんか?」
「確かにそうかもしれません」
「汗をかくので、身体が塩を欲するようになるのです。あとはこの酸っぱさも良いと思います。夏は口がさっぱりした方が食べやすいですし」
「なるほど……身体が欲する……」
「頭を使うと甘い物が美味しく感じる、汗をかくと塩を欲する。身体は案外正直なのです。そのとき美味しいと感じるものが、身体に必要なものだと思います」
ロイは深く頷き、幸せそうに粥を口に運んだ。
「ルティナ様、すみません……粥はもうありませんか……?」
ディノが空の器を持って下りてきたようだ。
「まだ少し残っておりますが……」
「ナヴァン様が、珍しくよく召し上がっているので……」
「そうですか。それは良かったです」
ディノから器を受け取って、軽く洗ってから残りをよそう。
小鍋はきれいに空になった。
作り過ぎたかと思ったが、ちょうど良かったようだ。
「もうすぐシルヴァン殿がいらっしゃるので、食べ終わる頃に執務室に戻ると伝えて下さい」
ミオルの言葉に返事をしながら、ディノは走って行く。
彼は常に走っているようだ。
それだけナヴァンが忙しいということだ。
ディノもとても……大変なのだろう。
執務室へ向かう階段で、ディノとすれ違った。
きれいに空になった器を見て、ルティナはほっとする。
部屋に入って、ルティナは目を疑った。
あまりにも……変化が強すぎる。
ナヴァンは、こんなにも落ち着いた人だったのだ。
その空気はさすがの王族だ。
アルヴィンの力強く駆け巡る自由な風。
レスティアの静かで清廉な風。
ウィランの研ぎ澄まされた鋭い風。
それと並んで遜色のない、ゆったりと流れるふくよかな風だ。
一体どれだけ疲れていたのか。
それを思うと、少しだけ胸が痛む。
自分とそう年も変わらない彼は、それだけのことを抱えているのだ。
「顔色が……とても良くなりましたね」
どう表現していいのか迷ってしまう。
喜んでいいことなのは確かなのだが……回復してまた無理を重ねるのなら。
いや、それはこちらがどうすることもできないことだ。
「ルティナ殿、心から感謝している。そして、あなたの力は稀有なものだと、身をもって理解した。この力で、ユアンを治してくれたのだな……」
ユアンの調律をしたのが、遠い昔のことに感じた。
考えてみれば、あれからまだそれほど経っていない。
あまりにも色々なことがあり過ぎて、時間の感覚が分からなくなっている。
「わたしは、本来の状態に戻すことしかできません。回復したのは、ユアン様の身体の強さです」
「あなたの考えは一貫しているな。あなたの施術に、深い理解と敬意を感じた」
「……恐れ入ります」
理解と敬意。
とてもありがたい解釈だ。
「そうですね、寄り添い、理解し、尊重する。あなたの施術はそういうものです」
ミオルに改めて言葉にされると、とてもくすぐったい。
それくらい、ミオルとの距離が近くなっているのだろう。
「ありがたいお言葉です」
恥ずかしくなっているのを覚られないように、目を伏せてお辞儀をする。
横から感じる生温かい視線を受け流し、先ほどの椅子に腰を掛けると、階段を上ってくる人の気配を感じた。
少し、緊張する。
入って来たのは、40歳くらいだろうか。
優しい目元に笑い皺が刻まれた、小柄な男性だった。
鼻に届く香りに、妙な懐かしさを覚える。
彼からは薬草の匂いがする。
それだけで、ルティナは無条件でこの人を信じられる。
「突然呼び出してすまない。シルヴァン殿に協力をお願いしたいことがある」
切り出したのは、ナヴァンだった。
少し緊張している彼は、ただ頭を下げた。
「初めてお目にかかります。リシアから参りました、薬草師のルティナと申します」
その瞬間――
彼の周りの空気が止まった。
その瞳はしばらく小刻みに揺れ、幾度かの瞬きの後、静かに目を伏せた。
「……そうですか。やはり彼は……」
「……はい、昨年の夏の終わりに」
シルヴァンは、腹の底から絞り出したような、深い息を吐いた。
「おかしいと、思ったのです。昨年の春に来たとき、先の話ばかりするので……秋の終わりに来なかったので、嫌な予感だけがしていました。その時にはもう……」
「……悼んでいただけるだけで充分です」
目を伏せたままの彼は、酷く疲れているように見える。
「コーレンが来なくなって、自分がどれだけ彼に頼っていたかが分かりました。ひとりでは何も……夏前の障りすらどうにもできないのです」
やはり、父が王都で対処していたのだ。
「今年は特に……夏が早いですから、不調が出るのは仕方のないことです」
「ルティナさんも、お分かりになるのですね」
彼の表情が、瞳が、一気に強く前を向いた。
それだけで、この人は父の友人なのが分かる。
この人は、治癒師であり薬草師だ。
「シルヴァン殿。ルティナ殿は都下の治療を手伝って下さるそうだ。それで、王都で手に入る薬草などを知りたいとおっしゃっている。その知識をあなたは持っているだろうか?」
「私が分かるのは、コーレンが教えてくれた薬草についてだけです。彼の考えは独特で、私が理解できないことも多かった。ですが、彼が残した知識はすべて書き留めてあります」
シルヴァンの手には、小さな紙が山ほど綴られた束があった。
「見せていただけますか?」
「もちろんです」
その紙には、シルヴァンが書いたであろう文字に、小さく書き足された見慣れた文字があった。
捲るたびに、父の手が見える気がした。
抑えられなかった。
父の文字など、常に見続けていた当たり前のものだ。
それが、この王都で。
会ったことのない人の手から渡されたのだ。
ここに確かに父が居たのだと。
それを感じることで、これほどまでに込み上げてくるものか。
喉の奥が、ぐっと閉じる。
飛び出しそうな声は抑えても、溢れる涙はどうにもならない。
文字が滲まないように、綴りを閉じる。
目の前から伸びるシルヴァンの手が、そっとルティナを抱き寄せた。
彼の服から香る薬草の匂いは、父と同じ匂いがした。
綴った紙の束には、王都付近で採れる薬草についても書かれていた。
でも、その種類はとても少ない。
やはり森に比べると、手に入る種類も量も限られてしまう。
「父はいつも何を使っていましたか?」
「いつもは、乾燥させたミズシズリを粉末にしたもの、あとはユラギ草を焙じた茶を使っていました。でも、王都では手に入りません。コーレンがいつも多めに持って来てくれていました」
ミズシズリもユラギ草も、エルゼド付近なら珍しくないものだ。
この辺りでは手に入らないのか。
「あとは、湧き水にヨイナギを浸して、火照りが強い者に足を入れさせたりもしていました」
「ヨイナギは残っていませんか?」
「……もう随分前に使い切ってしまいました。今年は身体の火照りが強い者が多くて……」
シルヴァンも、父がやっていたことで対処しようとしていたのなら当然だ。
ヨイナギは今の季節は手に入らない。
「何か、先のことで……父が言っていたことは覚えていませんか?」
シルヴァンは、ルティナから紙の束を受け取り捲り続ける。
彼もとても焦っているのだ。
自分の焦りが伝わってしまっている。
「シルヴァン殿、大丈夫ですよ。ルティナ殿も、時間には余裕があると言っておられました。すぐに命に関わることはないそうですから」
ミオルはとてもゆっくり話す。
こういうときの彼は、どこまでも治癒師だ。
「あ、これです……シズランを大量に用意して、乾燥させておけと」
シズラン。
ルティナの知らない名前だ。
ミズシズリの仲間だろうか。
「それは……どんな植物ですか?」
「王都ではそこら中に生えている雑草のような草です。伸びると刈って、まとめて焼くような……でも、コーレンは陰だから必要なときが来るかもしれないと」
陰の草。
雑草なら、他に薬効がないのだ。
でも、陰性があるのなら障りには使えるものだ。
「それは……ありますか?」
「治療院のひと部屋を使って、乾燥させたものが置いてあります。でも、私では使い方が分からないのです」
「父の言葉を信じて下さって、ありがとうございます。それを見せて下さい。おそらく、それがあれば薬が作れます」
「そ、そうですか」
さすがだ。
ちゃんと見つけてくれている。
「ルティナ殿、そのシズランは……薬草……なのですか?」
ミオルは少し戸惑っている。
そのくらい、王都では当たり前に生えているものなのかもしれない。
「薬草ではないと思います。植物は、星の数ほど種類がありますが、薬草として扱われる物は薬効があるものだけです。薬効がある植物の中で、陰陽を使い分けるのが薬草術です。でも、薬効がなくとも陰陽は持っています。今回の不調は、陽の偏りだけ戻れば自然に回復するもの。陰の植物であれば充分です」
「なるほど」
中程度の症状までは、おそらくこれで何とかなる。
あとはより重症の人たちだ。
シズランの陰性ではきっと届かない。
全員を調律するなんて、おそらく無理だ。
6人でもぎりぎりなのだ。
「あと……治療院の外に植えろと言われて、種を貰いました」
「何の種ですか?」
「よく分かりません。コーレンは、日除けになるから涼しくなるぞと言っていました。これは関係ないでしょうか……」
日除け……蔦系の植物だろうか。
すぐに思い当たる薬草がない。
「それも見てみたいです。今からうかがうことはできますか?」
「私は構いませんが……」
ナヴァンに視線を送ると、瞳を合わせて頷いた。
初めて歩く王都の街は、とにかく人が多かった。
視界に入る人だけで、目が回りそうだ。
目に入る色には白が多く、整えられた清潔感がある。
だが、思った以上に……人の気配しかしなかった。
植物、風、水、土。
そういう自然物がとても少ない印象だ。
思わず視線を落とすと、目に入ったのは白いレンガの地面だ。
空から降る熱と、地面から上がってくる熱で、気温以上に暑さを感じる。
いざ歩いてみると、都下の人たちに不調が出る理由が分かる。
今年はきっと、例年との気温差以上に、熱が籠っているのだと思う。
治療院には、たくさんの人が集まっていた。
目に入る人の中には、そこまで重症の人はいないように見える。
数人の治癒師が忙しそうに動き回っているが、出来ることがないのだろう。
額に水に濡らした布を当てたり、話を聞いたりしている程度だ。
「ここには重症の方はいらっしゃらないのですか?」
「重症者は別の治療院に集まっております。ここには、自分で動ける程度の人までしかおりません」
シルヴァンが患者たちを見る目は、景色を眺めるようだった。
もうずっと、同じ状態が続いているのだ。
「これがシズランです」
部屋いっぱいに蓄えられたシズランは、それは大変な量だった。
集められたシズランは、すべてむらなく乾燥させてあった。
相当大変だったはずだ。
雑に置いておくだけでは、こんなにきれいに乾燥しないのだ。
重ならないように並べ、適度に裏返して状態を見なければならない。
父が信じ、父を信じたこの人が、植物とこうして向き合ってくれるのが何より嬉しかった。
ルティナはシズランを一束手に取る。
触れただけで分かる。
淡い陰が、真ん中から葉先の方に集まっている。
見る限り、霊素以外のものは何もない。
これだけ簡素なのは、逆にありがたい。
何も薬効がないものは、誰にでも使える。
「とても良い状態です。乾燥具合も申し分ありません。このまま調合に使えそうです」
「そうですか! 良かったです」
シルヴァンが初めて笑顔を見せてくれた。
笑うと顔がくしゃくしゃになって、目元の笑い皺が濃くなる。
きっと、とてもよく笑う人なのだ。
「ただ、シズランの陰は、葉の真ん中から葉先までに集まっています。これだけあっても、もしかしたら足りないかもしれません」
「大丈夫です! 山ほど生えていますから! この暑さなら3日もあれば充分乾きます」
「そうですか! それはありがたいです」
疲れた身体を振り絞って笑うシルヴァンを見ると、胸が詰まる。
早く休ませてあげたい。
シルヴァンだって、もう限界に近いはずだ。
「あと、さっきの種を植えたのはこちらです」
外に出て、壁際を大きく回り込む。
角を曲がると、見えたのは壁一面の緑だった。
壁を這うように緑色の蔦がびっしりと伸び、たくさんの実がなっている。
――!
薬草だとばかり思っていた。
ルティナは胸を抑えて、心から父に感謝した。
これは、ゴヤだ。
ぶつぶつした表面の緑の実は、独特の強い苦みと匂いがある。
かなり好みが分かれるが、これは食用の実だ。
暑い土地でよく食べられるこの実は、極陰と呼ばれるほどに陰が強い。
食べ過ぎると身体が冷えすぎて、逆に体調を崩すほどだ。
これがあれば、絶対に大丈夫だと思える。
ここまで考えていたのだ。
数年以内に王都がこうなることを、きっと予想していた。
「もう、大丈夫です。これがあれば、薬に困ることはありません……さすが、父です。心からそう思います」
「……そう、なのですか」
「これはゴヤという植物で、この実にとても強い効果があります。薬にも、食用にもなります。扱いも簡単なので、今後のために薬を作っておくこともできますよ」
シルヴァンの心に張り詰めていた糸が、切れる音が聞こえた。
「……コーレン」
膝から崩れ落ち、その肩が大きく震える。
ルティナはその隣にしゃがんで、ただ側にいた。
肩に感じるじりじりとした熱が、もうただの陽射しに思えた。




