蒼の季-22.夜のひととき
作業室を片付けながら、ルティナはふと思い出した。
「ウィラン様、そう言えばわたしにお話があったのではありませんか?」
背を向けたままでぴたりと止まり、ウィランは動かない。
何かを思い出そうと頭の中は回っているようで、首がわずかに右に回る。
「ウィラン様、あれです。ロカの印の――」
「ああっ!!」
ジュードの声をかき消すほどの大声に、ミオルと同時にびくっとする。
きっとこれだ。
ロカがウィランに近付かなくなったのも頷ける。
真横にいるジュードは、まったく動じていない。
これはもう訓練なのかもしれない。
「ウィラン、声が大きいです。脅かさないで下さい」
この国でウィランを窘められるのは、ミオルとアルヴィンくらいなのではないか。
そういう意味でも、ミオルはルティナにとって大きな存在だ。
ウィランはすまない、と言葉だけを置いたが、顔は全然思っていない。
「ルティナ殿、ロカの体内の印をずっと解析していたのですが、ようやくこれだと思うものにたどり着きまして。それを陣に展開し、新たな魔法が組めたのです」
あの大声も、今なら許せる。
ロカに発現した不思議な魔法なら、それはぜひ知りたい。
「それは素晴らしいですね! わたしもうかがいたいです」
「このあと、ほんの少しだけお時間があれば……」
ウィランはちらっとミオルを見た。
その顔は、好奇心が先走っているときよりも幼く見えた。
止められると思ったのだろう。
夕方から始めた実験を終えて、そろそろいい時間になっている。
でも、見たい。
同じようにミオルを見る。
その視線を受けて、ミオルは諦めたようにため息を吐いた。
視線を落としたまま、眉間は少し寄っているだろうか。
「1度だけにして下さい。それを見たら、ルティナ殿は送っていきます」
ウィランと目を合わせる。
きっと今だけは、お互いに心の中で手を取り合ったはずだ。
先ほどの研究室のさらに奥。
一層重たい扉の向こうは、まるで嵐の後のようだった。
壁はすべて、扉と同じ黒い素材で覆われている。
何かの破片や石の欠片がそこら中に散らばり、書きかけの魔法陣や使いかけの魔導石も至る所に散乱している。
魔法を試すためなのか、大きな石や木材なんかも置かれている。
魔法の研究とは、こんなにも激しいものなのかと、少し不安になるほどだ。
「ルティナ殿、ウィランは特別ですよ。こんなことは彼しかしませんから」
ミオルには、心の中を読まれているのではないか。
毎回的確な説明がされることに慣れてしまいそうだ。
物の隙間から現れたウィランは、1枚の紙を持って来た。
「これが、ロカの……クレイステードの印です」
上に角を置いた正方形に、とてもシンプルな線が書かれている。
各頂点から中央に向かって線が伸び、その中央には黒く塗りつぶされた小さい正方形がある。
形から魔素の動きが想像できるのが、魔獣の印のすごいところだ。
「中央に集めて凝縮させる……といった印でしょうか?」
「さすがです、おっしゃる通り。でも、これは土属性の魔素だけを凝縮させる印です」
土属性の魔素だけを……凝縮。
それは岩のような物質にならないのだろうか。
「魔法を発動させるとき、その魔法が物質を使う場合、魔素を物質に変化させる過程が必要です。その変換を、この印はしていません」
「えーと、例えば岩を飛ばすような魔法の場合は、土属性の魔素を岩に変換して、その後に操作をする……ということですか?」
「そうです。ただ、その場合はとてもたくさんの魔素と、作り出す時間が必要になります。大地がある場合は、大地の土でそれを補ったりもできますが、無い場合は同じ属性の魔導石を使う者もおります」
魔法が環境に左右されるというのは、そういうことなのか。
「風と土は、その点で言うと扱いやすい魔法です。逆に、水や火はその場にあることの方が珍しいので、術者の技量や、魔導石の使い方が重要になります」
「とても面白いです……形がしっかりとした物の方が作り出すのが難しく、逆に定まっていない物の方が操作が難しそうです……」
4つの属性を考えると、それぞれに違う訓練が必要そうだ。
だから複合魔法というのは難しいのかもしれない。
「よく……お分かりになっています。土は作り出すのが難しく、風は操作が難しい。水や火はどちらもある程度できなければならない」
「考えれば考えるほど、とても理にかなっています」
ウィランは心底嬉しそうに語る。
魔法が好きで、その理論の美しさを愛している。
よく分かる。
ルティナも同じだ。
「そして、ロカの印は物質に変換することをしていない。それは、その性質だけを現象として引き起こす」
ウィランはジュードに目で合図する。
ジュードは少し距離を取り、左手を前に構えた。
魔素が動くのを感じた――
空気が震えた次の瞬間、遠くの石が激しく弾けた。
ウィランとミオルが、ほぼ同時に何かの魔法を発動する。
ルティナは何かに包まれ、飛んできた石の破片は逸れるように両側の壁に当たって落ちた。
「申し訳ありません!! 強くなりすぎてしまいました」
慌てたジュードが走り寄って来るのを、ルティナは声で出迎える。
「素晴らしいです!! あのとき見たものはこれだったのですね!」
ジュードは首をかくかくと動かしながら、瞳をルティナとミオルの間で交互に動かす。
「あ、いえ、その……はい。恐れ入ります……」
ミオルからじわりと何かが漏れているが、一旦それは置いておいた。
溢れ出てくる感情が忙しい。
ロカがこれを発現させたあの光景が、今も目の裏に残っているのだ。
「凝縮した重く硬い魔素そのものをぶつける。空間であれば衝撃波のように。何かにぶつかれば爆発のように。地面に伝わせて地震のように。とても応用が利く魔法です。ロカはそれを使い分けているようにすら思えます」
本能だ。
理解ではなく、本能がそれを発現させている。
「魔獣も……本当に……理解したいです……」
身体が震える。
これは何に感動しているのか、自分でも分からない。
魔獣もまた、人よりも自然に近い生物だ。
この世界に深く根付き、自然と共に生きてきたのだ。
溢れてくるのは、もっと深く知りたいという願いだった。
隣のミオルから感じるものは、温かい受容に変わっていた。
ウィランの研究棟を出ると、外はすっかり夜の空気だ。
陰がそろそろ降り始めるだろうか。
頬に当たる感触がしっとりと冷たいのは、きっと高揚しているからだ。
「とても嬉しそうですね」
捲ったままになっていた袖を下ろしながら、ミオルは歩幅を狭めて歩く。
すっかりいつものミオルだ。
「夕方から付き合っていただき、ありがとうございました。色々と考えもまとまりました」
「それは良かった。ぼくも勉強になりました。回復薬の製法も見直せる気がしています。あなたと一緒にいると、何か必ず新しいことを知る。とても楽しいです」
ミオルと過ごす時間は、森で過ごすのと似ている。
流れ方がゆっくりなのだ。
彼の声なのか、持っている空気なのか。
常に守られている気がするのは、作ってもらった指輪の効果なのかもしれない。
「ヒベニシダと容器は、離れに届けるように伝えてあります。ゆっくり歩きながら帰りましょうか。まだ胸の高鳴りが続いているようですし」
頬の温度を確かめると、確かにまだ熱を感じる。
「そんなに顔が緩んでいますか?」
「ええ、とても」
ミオルには、以前ほど恥ずかしさを感じなくなっている。
取り乱している所をこれだけ見られると、取り繕う必要もなくなるものだ。
「夕食を食べそびれてしまったのではないですか?」
「クラカンをいただいておいて良かったです。さすがにちょっと空腹を感じます」
何か簡単に食べられるものがあっただろうか。
平パンは確かまだあるはずだ。
鳥肉と野菜があれば何かしらは作れる。
「お時間が許すなら、離れで何かお作りしましょうか」
ミオルが少しそわっとする。
この素直さを見られるのは、とても貴重なのではないか。
普段はほとんど表情が崩れない人だ。
作ったものを好んでもらえるのも、料理好きには嬉しい。
「お願いしても……良いでしょうか……」
「もちろんです。ロイ様はよろしいのですか? 今日はお見掛けしませんが……」
一瞬、ミオルの顔が固まった。
もしかしたら、何か予定があったのではないか。
「すっかり忘れていましたが……まあ、いいでしょう」
「あとで叱られませんか?」
「大丈夫です、ロイを煙に巻くのは簡単ですから」
あまりにもかわいそうな言われ方だが、それはロイに限ったことではないのではないか。
大概の人はミオルに敵わないだろう。
アルデニアの門の前に差し掛かると、わかりやすい気配がする。
どんどん感じ方が強くなっているのは、きっと彼も同じだ。
ユアンとレイランと、ほかにも何人かが一緒にいるようだ。
「……ユアン殿たちですね。会食だったのでしょうか」
ミオルの視線の先には、数人の人影が見える。
ユアンの黄金色は、暗闇に浮かぶ太陽のようだ。
こちらに気付くと、その太陽が数倍の輝きに変わった。
跳ねるように舞う光の糸を纏い、ユアンはこちらに視線を向けている。
「ルティナ! こんな時間まで何をしていたんだ?」
いつもなら駆け寄って来そうだが、少し遠くから声を掛けてくる。
どうやら女性と一緒のようだ。
「皆さまお揃いですね、良いお時間を過ごされましたか?」
ミオルが半歩進んで、ルティナの隣に付き挨拶をする。
全員の視線がミオルに集まり、空気が鎮まったのを感じる。
「ミオル殿もご一緒でしたか。心配することはなかったですね」
ユアンがきちんとした角度で礼をする。
レイランと、2人の女性。その後ろには従者だろうか。
全員がミオルに対して姿勢を整えた。
周りの人たちは、つまりそういう人たちなのだろう。
ルティナもミオルの半歩後ろから礼を取った。
「ルティナ様、ミオル様とどちらへいらっしゃったのですか?」
レイランがユアンの後ろから進み出る。
「ウィラン様の研究棟にお邪魔しておりました」
「そうでしたか……今度ぜひ詳しく聞かせて下さい」
レイランは、後ろの女性を関わらせたくないような立ち位置だ。
会わない方が良い人たちなのかもしれない。
「ルティナ殿はきちんとお送りしますので、ご心配なさらず」
ミオルからも、そういう空気を感じる。
自分の存在を知る人は、この国にはまだ少ない。
迷惑をかける前に、離れた方が良さそうだ。
「ミオル様が眼鏡を外しているのを初めて見ました」
レイランの後ろに控えていた声の主は、まだ若い女性だった。
着飾ったドレスは美しく、小柄な身体はより華奢に見える。
アルデニアの女性の正装を初めて見た。
とても華やかな印象だ。
「ロゼ、今日も元気が良いですね」
表情は柔らかいが、ミオルの声は一段階落ちた。
それに気付かないのか、彼女は笑顔で話しかけてくる。
「ご挨拶させていただいてもよろしいですか?」
ミオルとレイランから流れてくる空気に、なぜだかとても気まずくなる。
「失礼いたしました、ルティナと申します。こちらで学ばせていただくために、王都に滞在しております」
「ロゼ・ウィスターナと申します。ミオル様とお知り合いなのですか?」
どうしたものか。
悪気はない。
まったく嫌な感情を持っていない。
ただ見慣れない装いに対する興味、と言ったところか。
「ロゼ、ルティナ殿は、ぼくの大切なお客様です」
「……失礼致しました」
更に声を落として、ゆっくりと話す。
彼女には、これでようやく伝わったようだ。
「わたくしもご挨拶させていただきます。お目にかかれて光栄に存じます……オルヴィアと申します」
ユアンの後ろで、ずっと控えていた女性が静かに声を出した。
よく響く澄んだ声は、彼女の清廉さを表しているようだ。
「こちらこそ。光栄に存じます、オルヴィア様」
彼女は空気を察していたようだった。
でも、ずっとこちらに気配が向いていた。
ルティナは彼女の方が気になったくらいだ。
刺す……ほどではないが、強く気にされている。
そんな感じだ。
「ルティナ、明日少し話したいことがある。朝迎えに行ってもいいかな?」
「……承知いたしました。お待ちしております」
呼び捨て……で良いのだろうか。
ユアンにはユアンの、何か考えがあるのかもしれない。
でも、これで終わりにする方向に話を向けてくれたのはありがたい。
「ぼくたちは夕食がまだなのです。作っていただくにも時間がかかりますから、これで失礼します。ルティナ殿、参りましょう」
ミオルのこの言葉に、どう反応したらよいか戸惑ってしまった。
反応を見て、楽しんでいる……のだろうか。
誰の……?
ちらっとその場を撫でるように視線を滑らせる。
一番表情が崩れているのはレイランだ。
ユアンはあまり変化はないが、無表情なのも珍しい。
ロゼはレイランの奥に控え、聞きたいことを我慢している。
ユアンに身体を寄せるオルヴィアは、彼の言葉に強く反応していた。
ミオルは、ここにいる全員の反応を見て楽しんでいるのか、何かを測ろうとしているのか。
「では、失礼致します」
ルティナは丁寧に、自然にアマヒトの礼を取っていた。
なぜだか、そうするべきだと思った。
ミオルの半歩後ろを歩きながら、そこにいる全員の視線を受けているのは自分だと気付いてしまった。
心を落ち着けて、斜め後ろからミオルを見る。
彼はほんのりと笑っているようだ。
「兄様!!」
突然後ろから、大きな声と共に足音が追い付いてくる。
この空気は、ちゃんと怒っているロイだ。
「ロイ、どうしましたか?」
「それはこっちのセリフです! どこを探してもいらっしゃらないし、誰にも言伝をせずに出かけるというのはどういうことですか」
「あなたに伝えましたよ? 夕方ルティナ殿に会いに行くと」
「その後ずっと戻らないとは仰らなかったではないですか」
「すぐ戻るとも言いませんでしたが」
ロイの顔には、有り余る文句が貼り付けられているようだ。
「ロイ様、申し訳ありません。わたしがご無理をお願いしてしまったのです」
「いいえ、ルティナ様のせいではありません。兄様はいつもこうなのです」
今までで一番怒っているロイだ。
振り回されているのは見ていれば分かるが、さすがに今日はやり過ぎだったのだろう。
「ミオル様、わたしからもお願いいたします。あまり心配をかけるのはよくありません……」
「ふむ……ロイ、言葉が足りませんでした。心配をさせてしまいましたね」
「え……、あ、の、そんなことは……」
ロイの怒りが一気に止まった。
弾ける一歩手前のようだった感情が、どこかへ消えてしまった。
これを見て思った。
ミオルはおそらく、謝ったことがないのだろう……
「今からルティナ殿に夕食を作ってもらうのです。ロイも一緒に、今後の参考にさせていただきましょう」
「そうですか! 実は夕食を食べそびれたのです。ルティナ様、よろしいですか?」
あっという間に、ミオルのペースになっている。
この人は……本当に……
「もちろんです。ご用意いたします」
ロイは嬉しそうに笑う。
これはこれで、2人にとってはいい収まり方かもしれない。
ミオルの顔は、さっきよりも更に、良い笑顔になっていた。




