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オル・トア ―精霊の往く先―  作者: 流留架
蒼の季 初夏 ―静かに眠る山―
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蒼の季-20.変化

「まずは、目の前のことからやっていきましょう」


 ミオルは書いてきてくれたメモを折りたたんで、机に置いた本に挟んだ。


「あの、その資料は……」

「……今見るのはあまり良くなさそうなので、お預かりしておこうと思いまして」


 詳しく書かれた気温や雨量は、ヒベニシダの改良に参考になりそうだ。

 出来ればもう少し見ておきたい。


「大丈夫です、どちらにしろ今考えても分からないことですし……これだけではまだ何とも判断がつかないことですし。考えても仕方のないことだとも分かっています」

「頭で分かっていることと、心がそう動くかは別の話です」

「で、では、ミオル様がいらっしゃる間だけ、もう少しだけ見せていただければ……」


 ミオルの目には、自分がどう映っているのだろう。

 危なっかしい子供のように見えているのかもしれない。


 彼にはいつも、なぜか不安定な姿ばかり見られている気がする。


 ミオルにじっと目を見られるのが、今はとても気まずく思える。

 耐えられずに目を伏せると、彼は小さくため息を吐く。


「ぼくと目を合わせられないうちは、これはお預けですね」


 言い返したい言葉は出てくるが、それが通るとは思えない。

 自分でも分かっているからだ。

 あれを見ると、また頭の中が半分に分かれてしまう。


 実際、目の前にあることすら、まだどうなるかが分からない。

 ミオルの言うとおりだ。

 まずはヒベニシダのことに集中するべきだ。



「わかりました。ミオル様のおっしゃる通りです。……そのメモは捨てずにとっておいてくださいますか?」

「無くさなければ、捨てるつもりはありませんよ」


 無くす……。

 そんなことがミオルに起こるとは全く思えない。

 それを聞いて安心した。

 貯水湖のことが終わったら、改めて詳しく調べてみるのもいい。


「ミオル様が物をなくす所など想像できませんから、大丈夫そうですね」


 彼はすっと目を逸らし、本からメモを抜き取った。

 それを丁寧に、本の端からはみ出すように挟み直した。


「……ぼくは、よく物を無くします」


 冗談……とは思えない目の動き方だ。

 ほんの少し、心の中で嬉しくなってしまったのは内緒だ。


「……きっと、他のことが積み上がってしまうのですね。……でも、無くしてしまうのはとても勿体ない資料です。……じゃあ、ひとりでは見ないと約束しますので、わたしが保管しておくのはいかがでしょう?」


 笑ってしまいそうになるのを必死に堪える。

 ミオルがとても気まずそうなのだ。

 きっと、本人は気にしていることなんだと思う……が、あまりにも似合わない。


「……守られると信じて、お任せします」


 ここで素直に渡すのも、あまりにもミオルらしくない。

 これは切実な悩みであるらしい。


「ふふっ」


 堪えていた笑いが、遂に決壊してしまった。

 こうなるともう止まらない。


 きっと今の自分は、とても悪い顔をしている自信がある。


「ルティナ殿……」

「申し訳ありません……でも、そんなに……気にすることではないかと……」


 目を合わせないまま、彼はメモをルティナに差し出した。


「こればっかりは、どんなに注意しても難しいのです」

「どんなものを無くすのですか? お困りにならないのですか?」


 ミオルは手に持っていた本を机に置き、揃えていた足を組む。

 彼が姿勢を崩すところを見るのも初めてだ。


「こういうメモなんかは、無くなるものとして考えていますね。まぁ、無くなったところで頭には入っているので、提出用などでない限りは探しません。そもそも無くしたら困るものは最初からロイに渡しておきます」

「だったらそれは無くしているのではなく、無かった物として考えれば良いだけではないですか?」

「それは……そうですが……でも、困るものもあるではないですか」

「例えばどんな?」

「……本とか。無くしたら一大事です」


 机の本を見る目は、とても苦い。


「ミオル様は本は無くさないと思いますが……あるとしたら、別のことを考えている間に片付けてしまって、そのことを覚えていない……はありそうです。それで見つからなくなって探し回る……とか」


 彼の眉がぴくっと動く。

 どうやら図星のようだ。


「あとは眼鏡ですかね。しょっちゅう無くなっては見つかるので、今ぼくの部屋や執務室に全部で6つほど眼鏡があります」

「それはもう、そこに置いておく用として必要だったのです。むしろ便利になっていますね」


 ミオルの表情が、少し明るくなってきた。


「あとは……鍵、でしょうか。棚、引出し、あらゆる場所に鍵があるのです。要らないと思うのですが、なぜか皆鍵を掛けたがる」

「それはミオル様しか開けられないのですか?」

「いえ、何人かが持っていますね。ぼくしか開けられないものや、逆に多くの者が出入りできる場所などは、この指輪が鍵になりますから」


 彼の右手の親指には、藍色の石が嵌められた指輪がある。

 確か、ユアンもレイランも同じような指輪をしている。


「それなら、ミオル様は困らないのですね」

「そうですね、ぼくよりも周りが慌てていることが多いです」

「それで叱られると……」

「まぁ、そうです」


 納得いかないと、顔に書いてある。


「良いのではないですか? 自分しか開けられないところの鍵がなくなったら困りますが、そうでないなら持っている人に開けてもらえば良いだけです。ロイ様はそういうのが得意そうですし」

「それは……そうなのですが……」

「管理ができないのが悔しい……といったところでしょうか。確かに無くしたあと、それが別の誰かに使われるのは問題ですね。……だったら最初から持たなければよいではありませんか。そういった場所は、もう誰かに開けてもらうと決めてしまえば、叱られることも、無くして周りを焦らせたり、迷惑をかける可能性もなくなります」


 ミオルは首を傾げたまま、しばらく黙った。

 瞳が目の中で行ったり来たりしている。


「……そうか、悔しかったのですね。そのくらいのことをできない自分を許せない……なんとも意味のない、要らない感情だ。じゃあ、そうしてしまいましょう。その方が色々と楽です」

「お忙しいのですから、手が回らないものは手放した方がうまくいくかもしれませんね」


 ミオルは自分の両掌をひとしきり眺め、その手を胸の前で組む。

 親指の指輪をすっと撫でて、さっきまでの苦い表情はどこかに行った。


「ルティナ殿、あなたはやはりとても不思議な人ですね。そういう考え方をする方ではないと思っていました。もっと……なんというか、きちんとした方だと……」


 きちんとしていない人、という印象を持たれてしまったということか。

 たしかにそれは正しいが、受け入れがたい。


「きちんとはしておりませんが、わたしは無くしませんよ?」

「あ、いや、そうではなくて……もっと感情を優先に考えるという意味で……」

「……わたしは何かを考え始めると、他のことがまったく入って来なくなるのです。なので、あまり色々なことを持ち過ぎないようにしています。ひとつひとつ、終えてから次にという風に。そうしないと、やりかけばかりが積み上がってしまって、大変なことになるのです……それで懲りました」

「それは、とても想像しやすい姿です。やはりメモは今ではないですね」


 預かったメモは折りたたんだまま、手の中にある。

 このメモは、先にある約束のようなものだ。


「はい。やることを終えたときに、考えようと思います……」




 用意しておいた香と、思い付きで作った香油を並べる。

 ミオルは香油の小瓶を手に取り、慣れた手つきで香りを確かめた。


「何の香りでしょうか……。よくある甘い香りとは全然違いますね」

「これは樹液を使った香油です。わたしがよく使うもので、湯に浸かるときに数滴垂らすと身体の巡りが良くなります。あとは、首の後ろに1滴塗るのも良いですよ。香りは好みがありますから、お嫌いでなければ……」


 小瓶を指先に当てて、髪の内側から手を回す。

 ちょうど首にかかる髪に香りが移れば、ほどよく香ってくれそうだ。


「強い香りは苦手ですが、これは淡くていい。落ち着きます」


 とことん、彼の好みは自分とそっくりだと思う。

 体質が近いと、身体が欲するものも似てくるのだろうか。


「肩凝りにも良いので、香油を垂らした湯で絞った布を首に当てておくだけでも違うと思います。飲用にはなりませんが、色々お試しください」

「知らないことがたくさんあるものですね……香油は女性が好む身嗜みだと思っていました」

「これから暑くなってくると、香りはある意味そうかもしれませんね……でも、それなら男性も同じ……だと、思います」


 ミオルは、香と香油を大切そうに上衣にしまった。

 そこに入れたことを忘れてしまわないか……と、秘かに思う。

 聞いてしまうと、急にそう見えてしまうのが不思議だ。


「大丈夫ですよ、覚えていたいことは忘れませんから」


 思わず目を逸らす。

 そこまで遠慮のない視線を送っていたとは思わなかった。

 ミオルに対しての接し方が、少し緩み過ぎていることに反省する。


 気まずさをひとまず置いておき、ふと、思いついたことを言葉にする。


「ミオル様、ひとつ伺いたいのですが……植物に治癒魔法を使ったことはありますか?」


 予想外過ぎる質問だったのか、顔の片側だけが斜めになってしまった。

 整った顔が崩れると、急に人らしく見える。


「ない、ですね。考えたこともありません」


 植物には効かないのだろうか……

 治癒魔法が生物の物質的な部分を修復する魔法なら、植物にも効果があっていい気がする。

 治癒魔法が霊素に干渉せず、傷んだ葉や根を修復できるなら……

 ヒベニシダの改良でも効果があるかもしれない。


「実は、貯水湖での問題を解決するために、植物の特性を変化させたいと思っておりまして――」



 ルティナは、今までの経緯を含めて説明をした。

 幼い苗木はとても繊細だ。

 弱ってしまったときに回復する手段があるなら心強い。


「……なるほど、面白い試みですね。それに、植物に治癒魔法……生物であれば効果があってもおかしくはないと思います。今までその必要がなかっただけで、試したことはありませんが……どういう効き方をするかも試してみないことには分かりませんね……」


 ミオルは指先をこめかみに当てたまま目を閉じた。

 指先でとんとんとこめかみを叩きながら、しばらく黙っている。


 その指を離すと同時に開いた目は、少し遠くを見ているようだ。


「試してみましょう。これからお時間はありますか?」


 置いてあった本を持ち、立ち上がる。


「今から、ですか?」

「都合が悪いですか? でしたらぼくが試しておきます」

「予定があるわけではありませんが、そろそろ夕食のお時間ではないですか?」

「先ほどクラカンをいただいたばかりですし、ぼくもどうなるのか興味があります」


 正直なところ、見てみたい。

 苗で試すのは心配だが、先に採取してきたヒベニシダなら効果を確認できる。


「ミオル様がよろしければ、ぜひお願いしたいです」


 ルティナは、陰包したまま保冷棚に寝かせてあるヒベニシダを取りに行く。

 状態はそんなに変化していないが、少しずつ弱ってきている。


 取り出したヒベニシダを薄い布でくるみ直し、籠に収めた。



「では、ぼくの作業室に行きましょう。あと、ヒベニシダを育てる容器や鉢なども必要でしょう。どうせならそれも探しに行きましょう。ウィランの所に色々あるはずです」

「なるほど……。ありがとうございます」


 ここには、いつも使っている道具は無いのだった。

 まだ頭がちゃんと回っていない気がする。


 ルティナは一度大きく深呼吸をして、バランスを調える。

 心を身体の中心に。


 自分の身体を改めて感じると、思った以上に乱れている。

 頭の巡りが強く、胸の中心が弱い。

 分かりやすい。


 巡りを均一に。

 静かに、いつものリズムで巡るように。


 身体の中で光が整うと、自然に呼吸も深くなる。

 これがいつもの自分、安定した基巡ノアだ。


 目を開けると、ミオルがいつもの柔らかい笑顔で待っている。

 その顔で、自分がちゃんと戻ったのだと、安心することができた。




 アルデニア王家の建物を横切り、少し奥へと進む。

 王家の別棟として構えられた真っ白な建物は、漂う空気が違う。

 普通の風ではない、清められた空気が巡っているようだった。


 入口には扉がなく、自由に出入りができるようになっている。

 中に入ると、その中の空気は一切動いていなかった。


 白い壁にきっちりとはめ込まれた黒い扉が、整然と並んでいる。

 それは異様な景色だった。

 黒い扉は、扉以上の重さを感じる。

 特別に作られたものだと、その雰囲気で伝わってくる。



 ミオルの後について、深緑の分厚い絨毯に沿って進む。

 階段を上がり、突き当たりの部屋の前でミオルは止まった。


 ミオルが扉に指輪をかざし、中に入ると――

 そこは研究者の戦いの光景が浮かぶようだった。


 床に散らばったたくさんの紙、積み上がった本。

 色分けされた美しい魔導石と、色を失った石の山。

 おそらく邪魔になって脱ぎ捨てられたであろう、アルデニア紋の上着。

 手が付けられないままの軽食が、物の隙間に置かれている。


 部屋の奥には、いっそう重そうな扉があった。

 扉は半分開いており、それを見たミオルは分かりやすいため息を吐いた。



「ウィラン、いますか?」


 扉に近付かないまま、その奥に呼びかける。


 返事はない。

 ミオルはさらに大きな声で呼びかける。


「ジュード、いますか?」


 扉の向こうから、何かを避けながら歩いているらしい足音がする。

 半開きの扉からにゅっと出てきた頭は、ジュードだ。


「ミオル様にルティナ様でしたか。少々お待ちください……」


 頭が引っ込み、中で何やら声がする。

 走って来る足音は、ジュードよりも軽い。

 紙を踏む乾いた音で、中の光景が浮かぶようだった。


 あの扉の向こうは……きっと見ない方がいい。



「ルティナ殿、ちょうどお話をしたいと思っていたのです!」


 白いシャツの両腕をまくり上げ、首元のボタンを2つ外している。

 シャツの裾は半分ほどズボンから飛び出し、手にはペンと紙を持ったままだ。


 今まさに戦いの最中だったと思われるウィランの目は、本当に自分が見えているだろうか。

 頭の中が分割されて同時に動き、焦点が定まっていないときの顔だ。


 その姿を見ると、目を覆いたくなる。

 こうなっている自分を容易に想像できてしまうのが、あまりにもいただけない。



 ――絶対に、人としての境界線を保とう。


 ルティナは心の底から思った。



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