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オル・トア ―精霊の往く先―  作者: 流留架
蒼の季 初夏 ―平原に吹く風―
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蒼の季-12.声

 甘い粒を舌の上で転がすと、口の中は幸せの甘さが広がる。

 これは甘珠アンジュと呼ばれる砂糖菓子で、贈り物によく選ばれるものだとミオルに教えてもらった。

 以前聞いた、アルデニアの専門の職人が作るものだろう。

 洗練された色や香りは、王都の雰囲気そのままだ。



 昨日と同じ時間に西の裏門から出た。

 待っていたのはロイと、おそらく寝ていないと思われるミオルだった。


 赤みが出ている目を隠したかったのか、今日は眼鏡姿だ。

 服装も、緩い長めの上衣に紺のズボン、右肩からリュサール紋が入った紺の布を掛けている。


「おはようございます……ミオル様、大丈夫ですか?」


 開口一番、ルティナの口からはその言葉しか出なかった。

 神経を使い果たした後のような、滲み出る疲労が痛々しい。


「朝陽が目に染みますね。いつものことですからお気になさらず……こちらを持ってみてください。通常の護魔の陣に手を加えたものと、新たに組み直した陣のものです」


 ミオルの手には、2つの指輪があった。

 昨日の淡い水色の魔石と、ミオルの魔素のような……ほんのり緑がかった水色の石が、それぞれ指輪に収まっている。


 昨日の指輪を手に持ってみると、驚くほど周りが感じ取れるようになっている。

 でも、やはり少しぼやける。離れた気配の判別は無理だろう。


「これでもやはりだめですか。ルティナ殿の感覚はそれほど深く透明なのですね」


 ルティナの表情を見て、察したようだ。

 これを寝ずにやっていたと思うと、申し訳なくて仕方がない。


 ミオルはそれを受け取り、もうひとつを手に乗せた。


 それは、とても軽かった。

 護られているのが分かる。

 それは幾重にも重ねられ、身体を包み込む。

 極限まで淡い水のヴェールのようだ。

 ルティナが薬草を包むときに使う、霊素の膜のようだと思った。


「……素晴らしいです。まったく気になりません。むしろ心地よく感じます」


 ミオルは赤い目を今までで一番細く、線になるほどキュッと閉じて微笑んだ。


「それは良かった。ルティナ殿のお陰で、新しい陣まで構築できてしまいましたね。感謝申し上げます」


 息が詰まる。

 慈愛のような安らぎと癒しは、あの庭に満ちていた彼の魔素そのものだ。

 それを持ち続け、すべての人にそう接している。

 

「護魔は、右の親指に嵌めるとよいと思います」


 ルティナは言われた通りに嵌めてみるが、少し違和感がある。


「……左、でも構いませんか?」

「左……ですか」

「わたしの巡りの問題で、右から入れ左から出すという流れがあるのです。左の方が……馴染むように感じるのですが……」


 ミオルは眼鏡を抑えながら、ロイと目を合わせた。

 促されたように、ロイは説明をくれた。


「あの……アルデニアでは、身に着ける装飾品に特別な意味を持たせます。右側はその人の外側の象徴として、勲章や身分、立場を表すものを身に着けます。左は内側のもの、心や精神、絆や愛情の象徴を身に着けるのです。そういった考え方は……ルティナ様にはありませんか?」


 なるほど、それも面白い文化だ。

 アマヒトはどこに身に着けるかよりも、それがどのような物であるかを考える。


「そうなのですね……わたしたちは身に着ける場所よりも、それにどのような思いを込めるか、相手が何を願っているかを考えます。長年その人が大切にした物、思いを込めて作られたものに、愛情や心を見出すというか……」

「それならば、ルティナ殿が馴染む指で問題ないでしょう。感覚の妨げになっては意味がありませんから」

「ミオル様は……それが気になりませんか? ご迷惑になるのであれば、多少の違和感ですので右に置きますが」


 ミオルは首を振り、いつもの表情にもどっていた。

 左の親指に、指輪はぴったりだった。


「では、ぼくはこれで失礼します。ロイ、頼みますよ」

「はい。戻りましたらお声をかけますので、それまでお休みください」

「先にウィランへの報告をまとめなければいけません。先に渡したことを、新しい陣の情報で手打ちにしてもらわなければ……」


 笑いながら戻って行くミオルは、少し頼りない足取りだった。


「ありがとうございました。今度夕食に、何か美味しいものを作りに伺います」


 振り返ったミオルは、嬉しそうにお辞儀を返してくれた。




 朝陽の降る西の森は、昨日と少し違った様子だ。

 木漏れ陽は地面を大きく揺れ動き、絶え間なく葉擦れの音が聞こえる。

 小鳥の声がしない。

 昨日は感じた、小さな魔獣の気配もない。


 少し探ってみると、水場の近くに3体の魔獣の気配がする。

 フェンも耳を立て、その方向をじっと見つめている。

 警戒……ではなさそうだ。

 この気配から感じるのは、恐怖の色だ。


「ロイ様、昨日水を汲んだあたりに、おそらくスヴェルフがいます。3頭固まっているようですが……少し様子が読めません」

「では、私が様子を見て参ります」

「一緒に行ってはいけませんか? 少し気になるのです……」


 待っていて欲しいと思っているのは分かる。

 でも、この恐怖は少しおかしい。

 恐怖を感じるのに動かないなら、それは動けないのだ。


「……では、私より前には出ないと約束して下さい」



 気配を追いながら、ロイの半歩後ろを歩く。

 ロイもミオルと同じように静かだ。

 これは水の特性なのだろう。


 藍色のマントから見えているのは、銀色の細身の剣が1本。

 そして、鎖で繋がれたケースに、水色の魔石が収められている。

 1歩進むごとに揺れる魔石は、宝石よりもずっと美しい。


「あそこに2頭、茂みの中に1頭ですね」


 ロイは剣に手を添えているが、抜く気配はない。


 地面に身体を付け背を向ける1頭、その隣で立ったままの1頭が、こちらをじっと見つめている。

 スヴェルフは大型の狼のように見える。

 淡い灰色の毛並み、尾の先と耳の先は僅かに茶色。

 胸元と尾はふさふさの毛が蓄えられ、見た目に鋭さはない。

 横たわっている1頭は、染み出す水の上に寝ているようだ。


「怪我をしていますね」

 

 声を小さくしているが、ロイの気配は鋭い。

 スヴェルフに動く様子はない。だが、おそらくとても緊張している。


 フェンが1歩前に出て、小さく鼻を鳴らした。

 立っている1頭は、耳をフェンに向けたまま、動かない。


 フェンが更に1歩、前に出る。

 立っている1頭が、1歩下がり、そよ風のように鳴いた。


「ロイ様、少し警戒を緩めて、姿勢を低くしたままゆっくりと近付きましょう」

「しかし……」

「大丈夫です、フェンが警戒していません。彼らは緊張していますが、敵意はありません。魔獣が水の上に横たわっているということは、傷が深いのだと思います」


 ロイはもう一度スヴェルフを見つめる。

 短く息を吐くと、ロイの空気が和らいだ。


「約束は覚えていますか?」

「はい、わたしは後ろから出ません」

「では、ゆっくり進みます」


 ロイの乗ってきた馬は、フェンの後ろにぴたりと付いている。


 フェンはスヴェルフの様子を確かめながら、ロイの少し前を進んでいく。

 フェンが進むごとに、スヴェルフは少しずつ下がる。

 横たわる1頭の、最後の警戒範囲を感じ取り、フェンが止まる。

 立っていた1頭は、離れた位置で身体を地面に付けた。


 茂みが揺れた。

 中で隠れていた小さなスヴェルフが、横たわる1頭の前に出た。

 大人のスヴェルフの頭ほどの、まだ小さな子供だ。

 背中の毛を逆立てて、フェンに向かって精一杯威嚇している。


 フェンはその子をじっと見つめ、動かない。


 フェンは不思議な子だ。

 魔素に適性を持ちながら、霊素も身体に宿している。


 父が還ったとき、その霊素がフェンに宿った気がした。

 おそらくそれは本当で、それから霊素の反応が見られるようになった。

 ルティナと過ごすにつれ、少しずつ陰の霊素にも馴染んでいる。


 フェンは、感情だけしか捉えないのかもしれない。

 スヴェルフは肉食魔獣だろう。

 なのに、フェンはいつもと変わらない。



 どのくらい見つめ合っていただろう。

 小さなスヴェルフは、次第に威嚇を解き、足の先ほどの歩幅でフェンに近付く。


 フェンが頭を下げると、小さなスヴェルフはぴゅっと後ろに下がった。

 再びの見つめ合いのあと、スヴェルフは意を決してフェンに寄る。


 そこで鼻先を合わせた2頭は、どんな会話をしたのだろう。

 子供は横たわるスヴェルフの頭の横で、身体を地面に付けた。


「もう少し、進みましょう。フェンの位置までなら大丈夫です」


 ロイはその様子を、戸惑いながらじっと見ていた。

 説明するよりも深く伝わる。


 野生の魔獣にも感情や心はある、そして、伝え合うことができるのだ。


「わかりました」



 ゆっくりと近付くと、横たわったスヴェルフが姿勢を変えた。

 背を向けていた身体を返し、こちらに顔を向ける。


 ――その目に、何も感じなかった。


 ルティナは喉の奥で息が止まった。

 こんな“無”を、今まで感じたことがない。

 このスヴェルフはもう、諦めているのだ。


「……ロイ様、触りにいきます」

「……私は、どうしたら良いですか?」


 ロイも感じたのだろうか。

 このスヴェルフには、もう何もする気がないのだ。


「わたしの近くにいていただいて構いません」


 ルティナに位置を譲るように、ロイは頭側にずれた。


「少し、診せて下さいね」



 スヴェルフの傷は深かった。


 後ろ足の関節の上、貫通する傷があった。

 傷の入口と出口が、両側とも焼け爛れている。


「ロイ様、この焼けているのは……火の魔法でしょうか?」


 ロイは傷を見て、分かりやすく目を歪めた。


「魔法というより、魔装具ですね。火を凝縮して放つ銃型のものがあります。しかし、ここまで焼けることはありません。出力をいじっていますね。改造した魔銃だと思います……この平原一帯は禁猟区で、銃の使用は禁止されています。……密猟、もしくは……」

「……もしくは?」


 ロイは沈黙し、重たい口を開いた。


「……遊び、でしょう」


 頭の後ろからこめかみに向かって、何かが走った。

 それはじわじわと頭を侵食して、その中をかき回す。


 ルティナは喉を抑え、呼吸をする。

 湧き上がる要らない感情を深く沈め、頭を冷やす。


「ロイ様、これを治癒することは可能ですか?」

「……私の治癒魔法では、完全に治すのは難しいと思います。傷を塞ぐことはできても、筋肉や骨を完全に戻すことは……」


 どうする。

 傷は足、血を止めて塞いだとしてもあまり意味はない。


 身体の霊素はまだ落ち着いている。

 傷が治れば、巡りは元に戻せる。


「この傷を治してしまうことは……問題ありませんか? 魔法の残滓も、今はまだ感じます。時間が経つと、スヴェルフに馴染んでしまいますが」

「そんなことも分かるのですか? ……でしたら……ウィラン様に連絡します。もしかしたら魔素を見て何か分かるかもしれません」



 ロイは腰に付けていた笛を吹いた。

 音としては聞こえなかったが、それが遠くまで響くということは分かった。


 しばらくすると、少し小さめのグライフェルが、ロイの腕に降りた。

 ロイは筒の中にメモを入れ、再度高く飛ばす。


 飛び去るグライフェルを目で追いながら、森の音が戻っているのを感じた。



 待つ間に、ロイは水を集め始めた。

 2人が動いても、スヴェルフたちはただじっとしている。


 ルティナは水で薄い布を濡らし、岩に群生するチドリ苔を間に挟む。

 布が緑に染まるまで石で叩き、更に水を含ませる。


 それをスヴェルフの鼻先に持っていき、匂いを確かめてもらう。

 傷に当てると、スヴェルフはルティナの手に鼻を向けた。


 受け入れてくれている。

 少しだけ、目が元気になった気がするのは……気のせいだろうか。


 離れて座っていた1頭も、いつの間にかそばにいる。

 傷付いているのはオス、離れていたのはメスのようだ。

 子供は、フェンの蹄に挑み続けては転がっている。


 ロイは水を集めながら、それを横目に笑っている。

 こんな状況なのに、この光景は救いだ。

 これだけ心を許してくれている。



「ロイ様、近付いて来ています。出来るだけ静かにとお伝えいただけませんか」

「行ってまいります」


 この気配は、ウィランとジュードだ。

 彼らならきっと理解してくれる。


 そして、もう1人の気配に、心底安堵する。

 一緒にミオルが来てくれている。



「……ルティナ様、お連れしました」


 馬から降りて近寄って来る3人は、驚きを隠せない様子で、距離を取ったところで立ち止まった。


 服を水に濡らして地面に座る自分と、その前に横たわるスヴェルフ。

 フェンの足元にじゃれている子どもと、その奥に座るメス。


 きっとわけがわからない状況だ。

 その状況を、ロイが3人に説明してくれた。


「ウィラン様、早朝から申し訳ありません。この傷に、魔法の残滓があります。何かお役に立ちますか……?」

「……見せてください」


 当てていた布には、まだ血が染み出している。

 傷口に残る魔素は、薄黒く濁っている。


 ルティナには、これが快楽を求めた遊びだというのが信じられない。

 信じたくないが、分かってしまうのだ。

 強い感情ほど、そこにこびりつくように留まる。

 

 人だ。

 こういう感情は、人にしかないものだ。


 ウィランは、魔法陣が描かれた紙を取り出し、その上に透明な板を置いた。

 そして、その魔法を発動する。


 身体の魔素を介さずに発動しているその魔法は、その板に何かを写し取っているようだった。

 

 そこにある魔素が動く、無属性のまま発動する魔法。

 そのための紙に描かれた魔法陣だ。

 身体を通すとウィランの魔素が入り込んでしまうということだろうか。


 しばらくすると、傷口の残滓はなくなっていた。


「ウィラン様、お手数おかけしました」

「いえ、大変ありがたい情報です。生物に使われた痕跡はあまり残らず、そのため追うのが難しいのです。きちんと解析して役立てます」


 ウィランは、スヴェルフの傷口を見て、固く目を閉じた。


「ウィラン、もういいですか?」

「ええ、終わりました」


 後ろから、ミオルの声がした。

 隣に膝をつくと、傷口を確認する。


 ルティナの持っている布に目をやり、ため息を吐いた。


「普通に治していいですか?」

「……はい」



 魔素が吸い寄せられた。

 ミオルの右の手のひらに、一瞬だけ陣が浮かんだような気がした。


 治癒魔法とは、時間を戻す魔法なのではないか。

 そう思える光景だった。


 水がそこに流れ込むように、スヴェルフの傷に光が流れる。

 薄黒く濁った傷口が、その光で洗い流されていく。

 傷口が塞がり、毛が戻り。

 そこは何ごともなかったように、淡い灰色の毛並みに戻った。



「終わりました」


 スヴェルフの足の巡りは、魔銃で貫かれた部分が欠けてしまっている。

 左手に霊素を集め、その巡りを繋げる。


 よほど強い衝撃だったのか、強い魔法だったのか。

 傷口付近に点々と壊素が見える。


 右手でそれを吸い取り、小さく浮かべた律月ルオルに入れる。




 「……まだ、生きてください。子供がいるんですから」


 スヴェルフの目は、もう“無”ではなかった。

 灰色の瞳は、澄んで生きている。


 横たわっていたスヴェルフは立ち上がると、メスも同時に起き上がる。

 子供は最後の突撃をフェンに躱され、転がりながらメスの元へ走る。



 スヴェルフは、ルティナの周りを、尾を巻きつけながらゆっくりと回った。

 

 正面に戻ると、フェンと、奥にいる全員に目を向けた。

 

 最後、ルティナに視線を合わせた。

 髪をかき分けるように鼻先を入れて、耳を優しく舐める。

 

 そして、そよ風のような声を残し――

 身体を寄せ合い、森の奥へと帰って行った。


 


 スヴェルフが見えなくなっても、その場から動けなかった。


 今まで感じた人の感情の中で、一番の嫌悪だった。


 

 緊張がほどけた途端に、あのときの感触が蘇ってくる。


 身体の中心から徐々に強張り、弾いたら砕けてしまいそうだ。

 呼吸が急に浅くなったのを感じる。息が苦しい。

 喉の奥に黒いドロドロした何かが湧き上がり、空気が入ってこない。

 手で喉を抑えて、呼吸の仕方を思い出す。


 身体は苦しいのに、心の芯は酷く冷えている。


 悲しいでも、苦しいでも、怒りでもない。

 最大の嫌悪とは、“無”であることを知った。



「ゆっくり、まずは浅く呼吸をして下さい。無理に吸いきらなくて大丈夫です。ちゃんと入っていますよ」

「……っ」


 ミオルの手が、背中の中心に添えられているのが分かる。

 その手は動かず、ただ置かれているだけだ。


「少し顎をあげて下さい、そのまま少し吸いましょう、ゆっくり吐いて……少し深く吸いましょうか……」


 少しずつ、喉が開いていくのが分かる。

 ミオルの声は、ひたすら同じ音で、流れるように響く。


 何度か繰り返すうちに、ようやく目が開けられるようになった。

 目を開くと、目の前の景色が滲んでいる。


 初めて、自分が泣いていたのだと気付いた。



「……落ち着きましたか?」


 付き添ってくれていたミオルが、変わらない顔でそこにいる。

 まだ目は赤いままだ。

 きっとあれから、まだ寝ていないのだ。


「……はい」


 心は落ち着いたのに、涙は止まっていない。

 ミオルに差し出された水を口に入れると、ようやく身体に感覚が戻った。


「ありがとうございます、大丈夫です」


 3人の心配する気配がする。

 王都に来てからこんなことばかりだ。


 心配され、泣き、また心配される。

 情けない。

 たかが、人の感情だ。

 自分に向けられたものでも、何かされたわけでもない。

 ただそこにあっただけの、何度も見てきたなんてことない感情だ。


 ミオルの顔はここに来てからずっと同じだ。

 なぜそんなに、優しい、傷ついた目をしているんだろう。


 彼は呼吸するように小さく笑った。



「……あなたはいつも、泣いていますね」




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