蒼の季-10.森の呼吸
王都での目覚めにもすっかり慣れた。
人が動き出す前の王都は、森よりも断然静かなことを知った。
昨夜帰ると、火床の卓の上に小さな包みが置かれていた。
それは、王都で作られる甘味だそうだ。
見た目にも美しい色とりどりの小さな粒が、箱の中に詰められていた。
口に入れると、甘さと香りが広がり、ゆっくりと溶けていく。
採取をしながらでも食べられるだろうと、ユアンが届けたくれたようだ。
やはり、昨日も顔を見に来てくれたのだ。
その小さな箱を鞄に忍ばせ、出掛ける準備をする。
朝少し早めに起きて、簡単に食べられる昼食を包んだ。
西の森で採取し、そのまま種を植えて帰って来るつもりだ。
森の中に水場はあるだろうか。
なかったら少し離れるが、川まで汲みに行こう。
出来れば、魔導石の水ではなく清水で育って欲しい。
この種から芽吹く植物が、100年後の森を支える核を育てるかもしれないのだ。
フェンも心なしか、出掛けるのが嬉しそうだ。
王都に来てから、フェンはあまり自由に動けていない。
もともとずっと森で過ごしていたのだ。窮屈さを感じても仕方がない。
教えられた通路を通って、昨日の出口から出してもらった。
外は太陽が昇り始め、陽射しが線になって伸びてくる。
ここの朝陽は色が強い。
陽射しが届くと、肌にしっかりと感触がある。
平原が一気に染まり、霊素が沸く。
それは、大地が目覚める景色だった。
「美しい、ものですね……」
後ろには、ミオルとロイが立っていた。
本当に来た。
いや、嘘だと思っていたわけではないが、朝から来るのは期待していなかった。
今までの服装とは変わって、行動しやすい軽装になっている。
普段のユアンに近い装いだ。
マントは藍色。リュサールの色だ。
腰には剣ではなく、魔装具のようなものを携えている。
どう使うのか見当もつかないが、興味を持つのは控えておく。
「おはようございます。今日は動きやすそうな装いですね」
少し照れたようにはにかんで、ミオルは首を傾けた。
そうだ、雰囲気が違うと思ったら、眼鏡をしていない。
「あまり着慣れないので、肩が凝りそうです」
「眼鏡も……」
「ああ、あれは伊達です。人との距離が近く感じるので、普段は着けていますが……さすがに邪魔になりそうなので外してきました」
ルティナは、昨日の傷付いた目を思い出した。
人との境界が保ちにくいのだろう。
ミオルならその方が過ごしやすそうだ。
「眼鏡も知的で素敵ですが、外すと一層お綺麗でいらっしゃいますね」
「綺麗……と言われたのは初めてですが、男性への褒め言葉としてはどうなのでしょう……」
「男性でも女性でも、美しさは変わりません。ミオル様はとても美しい方です」
照れているのか、すっと目線を朝陽に戻した。
そう言えば、初めてミオルから目を逸らされた気がする。
この人も、褒められ慣れていない人のようだ。
「ルティナ様も、大変美しい方だと思います」
後ろからロイが、半分笑いながら言う。
付け加えるように言われると、まったく恥ずかしくない。
「ありがとうございます」
ルティナは背筋を伸ばしたまま、その言葉を受け取れた。
昨日確認した霊素溜まりは、特に変化が表れていないようだ。
ルティナは内心ほっとした。
種を植えるまで、あと僅か半日。
それまで、どうかこのままであって欲しい。
「ここに、陽の霊素が溜まっています。通常の霊素溜まりよりも清らかな状態です」
ミオルは目を閉じる。
人は、何かを感じようとすると目を閉じる。
無意識に視覚を閉ざし、別の感覚を研ごうとするのだと思う。
「不思議な……温かさを感じますね」
「鋭い感覚をお持ちですね。霊素を感じるのは難しいので、なんとなく感じられれば充分なものです。素晴らしいです」
「風から外れた、隙間のような場所でしょうか」
周りの風を見るように、遠くに視線を伸ばす。
もしかして、魔素が見えているのではないだろうか……
「ミオル様は、魔素が見えていますか?」
ミオルは少し躊躇って、ロイを見る。
ロイは特に変わった様子もなく、小さく頷いたようだ。
「見えている……と思います。それが魔素だということに気付いたのは、ウィランの話を聞いてからですが」
「なるほど……」
治癒魔法を使うということは、ひたすら人の身体を見続けているということだ。
身体の中に魔素があることも、見えていたということかもしれない。
「リュサールの血は、見えやすいのかもしれません。ロイも見えています。でも、治癒師たちからはそういう話は聞きませんね……」
ミオルは自分の両手を眺める。
「ただ、ルティナ殿ほどくっきりと判別できるわけではありません。ほんのりと、霧のように感じる。身体の中もそうです。うっすらとそういう流れを感じる程度です」
レイランも、最初は同じようなことを言っていた。
そこまで来ているなら、あとはきっかけと……感覚が合わさるだけだ。
「言葉にするのも難しい感覚を、ルティナ様は魔素だとはっきりと言った。そう認識するだけで、捉え方も変わるものです。以前より感じるようになった気がします」
ロイも、風の隙間を見ているようだ。
「言葉は音に、音は響き、響きは魂を宿す。名を響かせることでそれは耳から音として届き、身体がそれを感覚で捉える。五感の集約、知覚の循環。アマヒトはそう考えます」
「知覚の循環……」
「霊素と魔素は、緩い補完関係にあります。以前出会った少数種族の子に、霊素は見えないが、魔素は見える。“魔素がない”を見ることで、そこに“霊素がある”ことを認識するのだと。そう聞かされました」
「ない、を、見る」
ミオルとロイが、ほぼ同時に目を閉じた。
身体の魔素が、ざわめくように波打ち、光が強くなる。
ミオルの淡い水色が、ロイの空色が、身体を淀みなく巡る。
2人が目を開ける。
「は……」
「あははっ」
目の前に、ルティナと同じように魔素が見えているのだろうか。
風に乗って巡る魔素が、それがない隙間が、彼らに見えているだろうか。
魔素に適性がある人は、魔素を受け入れ、魔素に選ばれた人だ。
彼らが距離を縮めれば、魔素は応える。
ルティナはそれを、信じている。
山の麓の森へ入ると、そこはしっとりとした湿り気があった。
乾いた風が巡る王都の平原とは対照的で、ルティナには久しぶりの感触だ。
高い声で鳴く小鳥が多い。
少し大きな魔獣の気配もする。
数体で行動している中型の魔獣だと、肉食魔獣の可能性もある。
フェンは少し緊張しているようだ。
「この辺りに、中型の魔獣はいますか?」
ロイを振り返ると、彼も気配を感じているようだ。
「今の時期だと、スヴェルフという犬型魔獣、ラクサールという鱗魔獣でしょうか。どちらも襲って来ることは滅多にありませんが」
「数体……3体で行動しているようですが……」
「そこまで分かるのですか!? だとするなら、スヴェルフでしょう。家族で行動する風適性の魔獣です」
風が豊富な土地ならではだ。エルゼド付近では見たことがない。
今の時期であれば、そろそろ子供も育っているはずだ。
刺激しなければ大丈夫だろう。
フェンが少し可哀そうではあるが……
2人の乗っている子たちはとても落ち着いている。
襲って来ないと分かるからだろうか。
「気になるのであれば、遠ざけましょうか?」
「遠ざける……?」
「ぼくの魔法には、少し特殊なものがありまして……水面の波紋のように揺れを伝えることができます。魔獣にとっては違和感程度の弱いものですが、よほど好戦的な魔獣でなければだいたい近くには来なくなりますね」
魔獣と交戦せずに、必要な調査ができるのはとても便利な魔法だ。
でも、今のところはフェンも落ち着いている。
刺激しないであげたい。
「ありがとうございます、でも大丈夫です。彼らの棲み処にお邪魔しているのはわたしの方ですから、敵意を感じたらお願いするかもしれません」
「なるほど……たしかに」
森に自生している植物の違いは、とても面白いものだった。
陽の大地に根付いているのは、陰性の強い植物。
そして、苔やシダのような湿り気を求める植物も多い。
確かにこの森は湿気を強く感じる。
王都に来てから5日経ったが、その間に雨は降っていないはずだ。
なぜ、こんなに水気が多いのだろう。
「雨はしばらく降っていないですよね? なぜこんなに湿気が強いのでしょうか……」
「確かに、平原と比べてここの空気はとても湿っていますね」
「川や水源がある様子もないのに……なぜか湿地を好む植物がとても多いのです。そのお陰で、この森は陽の強い平原にあるのに、中庸に保たれています」
「水……」
ミオルが何かに集中し始める。
それは、ルティナが気配を探るのに近い空気だ。
魔素を通じて、何かを探す……
そんなことができるなら、感知の融通がとても広がる。
「あ、水の気配がしますね。でも……あまり水らしくない動き方ですが。行ってみましょう」
ミオルは静かに歩き始めた。
この人の気配は、とてもその場に馴染むようだ。
これは水の性質によるものだと思う。
ルティナの陰にも、似たような効果がある。
静かに、鎮めて、その場に溶けるように気配を消す。
森の採取ではとても便利なものだが、ミオルはそれを意識せずにやっている。
「これ……ですね……」
そこには、岩の隙間から染み出すように溢れる水があった。
溜まるほどの量ではなく、じわりと広がり、地面に吸われていくような水だ。
それは森の呼吸のように、染み出しては消え、また現れる。
辺りを見ると、地面がほどよく湿っている。
染み出しているのは1箇所ではなく、森の中でいくつもあるようだ。
それが温められた大地の熱か、太陽の傾きで入る陽射しか、そういう自然の力で蒸発して漂う。
それが、陽で乾燥しがちなこの土地に、湿り気を好む陰の植物を育て、中庸の森を作る。
美しい巡りだ。
この平原の強い陽を、この森が支えているのだ。
そして、もしかすると100年後――この森はもっと広がり、ここを中庸の土地にするかもしれない。
叶うなら、その姿を見たい。
巡りの奇跡、自然の自浄作用。
それに、寄り添う形で参加できる。
これは、ルティナにとってこの上ない喜びだった。
気が付くと、目の前の染み出す水のように、止めどなく涙が溢れた。
2人はただそれを見て、何も言わずに黙っている。
止められるはずがない。
関わってはいけないと思っていた世界に、自分の願いを置くことができるのだ。
ルティナは力が抜けた。
崩れ落ちるように地面に落ちた。
フェンが顔を寄せる気配がして、その顔に手を伸ばす。
ルティナは子供のように、肩を揺らして泣いた。
森が声を消した。
風に揺れる木々の葉も、森にあるしんという音さえも。
ただ見つめる森は、音もなく静かに、その声を吸い込んだ。
ひとしきり泣いて立ち上がろうとすると、うまく身体が動かなかった。
足がしびれ、泣きすぎて頭がふわふわする。
きっと顔は酷いことになっているはずだ。
ミオルの顔をまともに見ることができなかった。
冷静になると、相手は困るばかりだっただろう。
訳も分からず、目の前で泣きじゃくる姿を、ただ黙って待つしかない状況だ。
「……もう、おさまりましたか?」
その声はいつもより少し低く、身体に染みるような声だった。
「……はい、ただ……嬉しかっただけです」
ミオルはルティナの前に手を出し、歩くのを支えてくれた。
ルティナが泣いている間に、ロイは持って来た容器に水を集めてくれていた。
あの染み出す水をどうやって集めたのか……
それは種を潤すのに充分な量だった。
「水を浮かせて、染み出てくるのを待っていただけです」
簡単にそう言ったが、それは水を扱えるロイだからできることだろう。
今日一緒に来てくれたことに感謝した。
採取をまったくしないまま、太陽はもう高くなっていた。
霊素溜まりの周りはすでに作業が終わっていて、人が帰ろうとしている。
ルティナたちはその中に入った。
作業を終えた人たちは、ミオルを見ると敬礼をして帰っていく。
溜まりの中央、土をほぐしながら三日月型の種を丁寧に埋める。
それだけで、そこの陽がふっと弱まった。
ロイが上から水をかけると、陰が馴染み広がるのが分かる。
3つの霊素溜まりを落ち着かせたあと、最後に中央に向かう。
ハーロウの実を半分ほど取り除き、種が少し出るようにした。
ドリアードが実のまま渡すなら、きっとそれには意味がある。
昔、父がそうやって植えているのを見たことがあった。
少し深く植え、広い範囲の土をほぐしておく。
ロイが水を与えると、ハーロウの中の霊素が反応したように見えた。
この木がどう育つのか、ルティナはまったく知らない。
出来ればここが核になるのを見届けたい気持ちもあるが、それがどのくらいかかるのか見当もつかない。
ドリアードの時間は悠久に近い。
人の身では到底……見ることはできないだろう。
「良さそうですね」
「はい、これで。あとは見守りながら一巡ほど水を与えれば良いそうです」
「ルティナ殿の知識ではないのですか?」
「……はい、森の木々に、教えていただきました」
ミオルは静かに頷き、森の方へ目を向けていた。
王都に向かって帰りながら、ふと思い出し小箱を取り出す。
ユアンが届けてくれた甘い粒を口に入れると、それは不思議なほど心を落ち着かせた。
甘い物は人を幸せにする。
彼はそれを知っているのかもしれない。
「ルティナ殿、この後はどうされるのですか?」
城壁の中に入ったのは、昼下がりの心地よい時間だった。
昼の休憩から立ち上がった街は、遠くからでも活気を感じる。
「アルヴィン様に報告に伺うことになっています」
「そうですか、ではご一緒します。ちょうどぼくも話があるのです」
「ありがとうございます。まだあそこに行くのは少し緊張するのです……」
「ははっ。建物の雰囲気が立派ですしね……ロイ、今から行くとアルヴィンに伝えて下さい」
「……はい、では先に行きますが、敷地内からお越し下さい」
「分かっています、ルティナ殿も一緒ですよ」
ロイは馬を走らせ、颯爽と駆けて行った。
王城の門の前で、ロイが立っていた。
この前と変わらず、ルティナの後ろに控える。
前を歩くミオルを見る。
肩にかかる空色の髪は、緩く波打って揺れる。
女性の髪のように柔らかい艶だ。
歩幅を狭く、少しゆっくりと歩いてくれている。
後ろに気配を向けているのが、手に取るように分かる。
どこまでも、気遣いを怠らない人だ。
あの泣きじゃくる姿を見て、何を思っただろう。
何も聞かず、何も言わず。
でも、思うことはあったはずだ。
聞かれても答えようがないのは事実で、それをきっと分かるのだろう。
そう思うと、申し訳なさが押し寄せてくる。
もう少し、強くありたい。
執務室に入ると、アルヴィンとオルフェスが一瞬止まったような気がした。
「……ミオル、眼鏡を外しているのは珍しいな……一瞬誰だか分からなかったよ」
「ああ、今日は外に行ったからね」
「そ、そうか。ルティナ殿に付き添ってくれたんだってな……」
アルヴィンが狼狽えている。
あまり見られない姿なのではないか。
「いや、違うよ。ぼくが連れて行って欲しいと頼んだんだ」
「そうなのか……ユアンがいないから……助かったよ」
「そっちは大丈夫なのか?」
「まだ戻ってないようだ。まあ、ユアンなら問題ないだろう」
ユアンは1日外に出るとだけ言っていたが、何かあったのだろうか。
詳しい話を聞いていいかが分からず、そのままになってしまった。
「ルティナ殿、どうだったかな?」
「はい、ミオル様とロイ様に手伝っていただけて、とても助かりました。あと10日ほどは、毎日様子を見に行こうと思っております」
「そうか、私ではどうすればよいか分からないことだった。ルティナ殿のお陰でこの先のことが考えられるようになった。心から感謝している」
アルヴィンは相変わらず、楽しそうな目をしている。
未来を考えるのは楽しい。
そのわくわくが、全身から伝わって来る。
「いえ、わたしも助けられてのことです。このときに関われたことを嬉しく思います」
「ルティナ殿は、これから毎日あそこへ行かれるのですか?」
隣のミオルが覗き込むようにこちらを見る。
「はい、様子を見ていたいのです。わたしがお願いしました」
「そうですか、だったらロイがいた方がよいのでは?」
そうだ、あの付近には水場がなかった。
水を与えるには、あの染み出した水以外に自然の水はないのだった。
「……王都に湧き水や清水はありませんか?」
「あるにはありますが、あの森の水の方が馴染む気がします」
「そう……ですが、毎日お付き合いいただくのはさすがに……」
「ロイ、どうですか?」
「ルティナ様がよろしければ、ぜひお供させてください」
後ろに立っているロイは、なぜか嬉しそうに返す。
「では、そうしましょう。出来る限り、ルティナ殿が望む形で進めた方が良いと思います」
「お心遣い感謝いたします……」
「アルヴィン、ということでいいかな?」
アルヴィンは固まっている。
あまり表情を崩さないオルフェスも、目を伏せたままだ。
「あ、ああ……お前たちがそれでいいなら……構わないが」
もしかしたら、これを決めるためについてきてくれたのではないだろうか。
だとするなら……あの姿を見てのことだろう。
何も説明できない自分に苦しくなる。
「ルティナ殿、報告ありがとう。明日からもよろしく頼む」
「はい、ではわたしはこれで戻らせていただきます」
立ち上がると、ロイが案内するように動いた。
「そうだ、今日は書庫へ行かれますか?」
ミオルが唐突に声を投げる。
それは考えていなかった。あの鍵は持って来ていない。
一度取りに戻っても、夜まではそこそこ読める時間がありそうだ。
「そうですね、一度鍵を取りに行ってから伺いたいと思います」
「鍵はロイが持っていますので、不都合がなければそのままどうぞ。ぼくも後ほどいきますので」
ロイを見ると、そのつもりです、と言うように微笑んだ。
「重ね重ね、ありがとうとざいます……」
「少しだけ、ロイの話し相手をしていただけると助かります」
なるほど、そうだ。
だからロイは嬉しそうなのだ。
「わたしでよろしければ、ご一緒致します」
ロイの空気が弾む。
この素直さはとても嬉しいものだ。
「ではルティナ様、ご案内いたします」
アルヴィンとミオルに礼をして、その部屋を後にした。
最後に見えたアルヴィンは、呆気に取られたように止まっていた。




