序章-04.信頼
遠くから、レイランの声が聞こえた。
声のする方に目を向けると、2頭が息を合わせて駆けてくる。
レイランはフェンに跨ったまま、もう1頭の手綱を引いている。
フェンよりもひと回り大きいその子は、ガゼルのようだ。
黒い角はなだらかな曲線を描き、漆器のような湿った艶が陽射しを返している。
フェンが纏った光はもう落ち着いたようで、ルティナはほっとする。
レイランが必死にフェンをなだめているようだが、言葉までは聞き取れない。
そんなことはお構いなしに、フェンは一直線に走ってくる。
抑えていた不安や心細さ、安堵と愛しさがない交ぜになって、全身から溢れだしそうだ。
レイランが少し手前でふわりと飛び降りた。
太陽に照らされた赤茶色の髪は美しく、森の景色によく映える。
フェンは羽を器用に使い、ルティナの前でぴたりと止まった。
堪らず首に顔をうずめると、ほんのり甘い干し草の匂いがした。
頬にかかるたてがみがサラリと落ち、細かい光を反射する。
フェンはルティナの肩に顎を乗せ、ただじっとしている。
ルティナの頭を撫でるように、ゆっくりと顔を寄せる。
まるで、泣いている子供をあやすような仕草に、少しばかり悔しくなる。
これでは、置いて行かれた子供が、寂しかったと駄々をこねているみたいだ。
完全に立場が逆転している。
急にこそばゆくなって顔を離すと、満足そうに微笑むレイランと視線が合う。
「わたしの胸も空いていたのですが、出番はありませんでしたね」
取り乱した恥ずかしさと、からかわれている恥ずかしさで、あまりにもいたたまれない。
穴があったら飛び込んで、内側から厳重に鍵をかけたい気分だ。
ゆっくりと視線を逸らし、平静を装いながら姿勢を正す。
いたずらっぽく笑うこの人は、いったいどんな場所にいる人なのだろう。
あまりにも違い過ぎる印象に、真剣に考えてしまう。
からかわれているのも清々しいくらいだ。
「それは気付きませんでした。今からでもお借りできますか?」
レイランは予想していなかった返答に目を丸くして、声を上げて笑う。
「そう返されるとは思いませんでした。大変失礼いたしました」
「わたしも、こういう冗談を言う方だとは思いませんでした」
しばらくの沈黙のあと、2人で目を合わせて笑う。
フェンは小さくいなないて、柵の中に入っていく。
その声は少しだけ、呆れているように響いた。
「まだお話の途中でしたし、中に入られませんか?その子も中の方が落ち着くと思いますし」
レイランの隣に立つ美しいガゼルは、まだ落ち着きがない。
ぴんと立てた耳は忙しなく動き、ずっと周囲を警戒している。
怖いのを必死に堪えているようで、見ているだけでかわいそうになる。
「よろしいのですか?」
「もちろん、休ませてあげてください。敏感な子には、慣れるまでは辛いはずです。庭の中の方が多少は和らぎますし、レイラン様のそばに居たいと思いますので」
一瞬考えるように目が動いたが、ガゼルを気にしてか、丁寧にお辞儀をして中に入る。
レイランに引かれるガゼルの歩き方に、わずかな違和感を感じた。
前足……だろうか。
庭に入ったガゼルは、匂いを確かめながら歩き始めた。
「ルティナ様、まずはお礼を言わせて下さい」
足元ばかりを見ていたルティナの前に立つと、レイランは恭しくお辞儀をした。
整えた声色に、思わず背筋が伸びる。
「シルリーズをお救い頂き、心より感謝申し上げます」
真摯に感謝を伝える瞳には、さっきまでのおどけた様子は微塵もない。
シルリーズへの愛情と心からの感謝が、言葉のままの感情で伝わってくる。
それほど大切な相棒なのだ。
胸に広がる温かいものに、少しだけ息が詰まる。
「いえ、わたしは何もしておりません。お礼ならフェンに伝えてあげて下さい。全てあの子がしたことですから」
「ルティナ様がフェンを後押しして下さらなければ、わたしはリズを見つけられませんでした。この感謝だけは受け取って下さい」
この人はどこまでも真っ直ぐな人だ。
心のままを言葉にする。
それを曇りなく伝えることが出来る人を、ルティナはあまり知らない。
「言葉のままに、心に入れさせて頂きます」
空気が緩み、お互いに力が抜けたようだ。
レイランはシルリーズに寄り添って、身体を確認し始める。
その様子を見ながら、どうしても右の前足が気になってしまう。
「シルリーズ……は、ガゼルでしょうか」
「リズと呼んでやって下さい。王都ではよく見かける、アッシュガゼルという魔獣です」
「とても美しいです。リズが特別美人なのでしょうか」
「わたしも惚れ込んでいます。王都ではとてもモテていますよ」
眩しそうにリズを見る目は、とろけそうなほど甘い。
ちょっと、いや、かなりの溺愛っぷりだ。
「鞍を外してあげるのは難しいでしょうか。なるべく自然に近い状態の方が身体も早く慣れますが……」
リズの動きはだいぶ静かになった。
リズの様子を気にしていたフェンも、少し離れたところで陽なたぼっこの続きを始めた。
「さきほども少し気になったのですが……、慣れる、というのはどういう意味でしょうか」
王都で暮らしているのであれば分からなくて当然だろう。
この辺りに暮らしている人でさえ、これを感じる人はほとんどいないのだ。
ルティナは少し迷った。
聞かれるとは思っていたが、どこまでを、どういう表現で伝えればいいだろうか。
レイランは聡い人だ。嘘がなく、まっすぐで温かいこの人に、変なごまかしはしたくない。
もしこの人を施術することになるのなら、差し障りのない範囲で知ってもらう方がいい。
王都暮らしで戦いに心得のある、それなりに身分の高い人。
王都からわざわざ出向くほどの要件があるなら、リズの様子がいくら心配でも、そのまま帰る事はないだろう。
何度かここに足を運んでもらうことになるなら、その度にリズがあんな状態になるのはかわいそうだ。
こちらまで胸が痛む。
レイランのような人が、少し馬を休ませる程度の理由では、外出先で鞍を外すなど絶対にしないだろう。
いや、リズのためならするかもしれないと、今は思うけれど……。
それを勧められることに、警戒心と不快感を持たれても仕方がない。
何よりも、リズを早くいつもの状態に戻してあげたかった。
気にせず鞍を下ろすならそれで良いし、聞かれるならそれでも良い。
理由を知れば、レイランはそうしてくれると思ったからだ。
いつもなら、絶対にこんなことはしない。
どうやら、この1人と1頭に、できるだけ幸せでいて欲しいと願っているのだ。




