序章-03.時間の流れ
リズの鞍は、フェンの鞍の隣に置いてもらった。
この棚に鞍が2つ並んでいるのは不思議な光景だ。
身軽になったリズは、何度か伸びをした。
身体の動きはゆったりとして、立ち姿はしなやかで美しい。
手入れされた明るい灰色の毛は、照らす光を柔らかく反射する。
穏やかな目元はとろんとして、とても眠そうに見える。
ルティナとレイランは、戸口の前の長椅子に腰掛けた。
フェンに倣って陽なたぼっこをしてみると、なかなか気持ちが良い。
リズはしばらく立ったままうろうろしていたが、陽射しの気持ちよさに負けたのか、フェンの様子が羨ましくなったのか、ついに寝ころんで昼寝を始めた。
2頭が並んで眠る姿は、可愛いを通り越して幸せだ。
「リズが外出先で、地面に身体を着けるのを初めて見ました」
「気に入って頂けて良かったです」
小さな笑い声に、フェンの耳がピクッと動く。
「さっきの話の続きになりますが……」
「聞きたいです」
レイランの返事は早かった。
ルティナは小さな微笑みで返す。
「レイラン様は、エルゼド大森林をどう思いますか?」
「どう……」
思いもよらない質問に、考えを巡らせるように沈黙する。
その様子に少し楽しくなったのは、心に閉まっておく。
「ルティナ様、楽しんでいらっしゃいますね?」
「いえ、そんなことは。質問は本当に話の続きです。ただ、考えている姿を見るのが楽しくなっているのは認めます」
からかわれたお返しという、ほんの少しのいたずら心はしっかり見抜かれた。
「わたしもとても楽しいです。知らないことを知るのも、ルティナ様とお話をすることも」
「それは光栄です。森の話を、こんなに興味を持って聞いて頂けるとは思いませんでしたから」
ぽんぽんと続く会話は楽しい。
思考のテンポや意図の汲み合い、興味を持つ内容も、うまく噛み合うことは少ない。
父と話さなくなってからは、こういうやりとりをしていなかった。
会話に飢えていたのかもしれない。
「この話は、森だけの話ではないと思います。もの捉え方や世界の在り方の話だと思います」
鼓動が跳ねた。
反応しそうになるのを、なんとかごまかす。
レイランに気付かれない事だけを願いながら会話を続ける。
「それは少し大げさではないでしょうか」
「例えば、作物が育ちやすい場所で農業を広めたり、今まで厄介だった魔獣と上手く付き合えるようになるかもしれない」
「それは確かに……、あるかもしれません」
必死に鼓動を落ち着けながらも、レイランの言葉には納得してしまう。
「わたしだけがこの話を聞くのが、勿体ないとさえ思ってしまいます。研究者や騎士、わたしがお仕えしている方もご興味を持ちそうです。その方のご兄弟ならば、ひと晩でも話し続けそうですが……」
「……それは、ないと思います」
無意識に出た言葉に、自分でさえ驚く。
自分の不用意すぎる言葉選びに、呆れるほど後悔した。
隣から向けられる視線に、ルティナは応えられなかった。
話している相手がレイランなのは分かっていた。
今まで理解されなかった相手ではない。
完全な八つ当たりだ。
そして、聞き返されたら逃げる言葉を、ルティナは持っていない。
理解されないことに不満はないのだ。
理解されなかったことを言葉にすることで、諦めが恨み言のように響くのが、どうしようもなく嫌なのだ。
ほんの数秒の沈黙だったと思う。
ルティナは自分の靴の輪郭を目でなぞりながら、必死に続けられる言葉を探す。
「でも――」
「さきほどの質問の答えですが……」
ほぼ同時に口を開いた。
レイランは微かに微笑んで、言葉を続ける。
「わたしはこの辺りに来たことがなかったので、先日初めて目にしました。もちろん名前は知っていましたし、巨大な森林だということも理解していました」
ルティナは静かに頷く。
「実際に見た大森林は、なんというか、凄みを感じました。そこに存在感だけがあるというか、ただそこに在るだけなのに、近付こうと思えない……。なるほどそういうことですね」
思考を巡らせて、ぴたりと繋がった時の充足感は堪らない。
人が考えるのはこのためだと思う。
レイランの瞳はただ、ルティナに向いている。
「あれが、生命の力だと、わたしは思っています。あのくらいの規模にならないと、人は感じられないのです。魔獣は人よりもずっと敏感なので、レイラン様がエルゼド大森林に感じた畏怖を、この森に感じたのだと思います。人が感じるよりもずっと深いところで」
宙を見つめるレイランは、しばらく口を閉じたままだ。
長椅子に座り、ただ何もせずにぼーっとするひとときは、この上なく贅沢な時間だ。
リズは器用に足を折りたたみ、首を背中に回して目を閉じている。
きちんとした寝姿は、眠っていても凛々しさを感じる。
隣にいるフェンは、相変わらず地面にぺたりと張り付いている。
『伏せ』と『大の字』ほどの差だ。
これだけ落ち着いて眠れているのなら、もう大丈夫かもしれない。
「レイラン様、リズの様子を見てあげて下さいませんか?もしかしたらもう慣れたかもしれません」
「ああ……、わかりました」
「どうかされましたか?」
「いえ、いや……、今日あったことや、聞かせて頂いたお話について、色々と考えておりました」
「まだいらしてから、1刻も経っていませんよ?」
「わたしとしては、半日は経っているような気がしています」
立ち上がり、リズの方へ進む。
2、3歩進むと、リズは目を開けた。
ルティナも立ち上がり、静かについて行く。
「リズ、そのままでいいよ」
リズの隣に膝を付き、軽く首を撫でる。
穏やかな表情に、怯えの色は見えない。
もともと賢く、強い子なんだろう。
「もう、大丈夫そうですね」
「とても落ち着いています。普段よりも安定しているくらいです」
レイランは少し複雑な表情で振り向く。
言いたいことはなんとなく分かる。
「わたしは魔獣ではありませんので、想像することしか出来ませんが。この森の力は、植物を強く逞しく育てるものなので、生き物にとって悪いものではないと思うんです。得体の知れない空気に怯えただけで、怖いものではないと理解してしまえば、ここはとても心地よい場所なのかもしれません」
「ここの居心地の良さは、人の身でもわかりますから。リズやフェンにとっては極上の揺りかごなのでしょうね」
「そうであるなら嬉しい限りです」
2人の明るい笑い声に、2頭の耳が同時に動いた。
ひとしきり笑うと、レイランは立ち上がりこちらを向く。
「ルティナ様、やはりわたしは、今日のお話をわたしだけが知っているのは勿体ないと思ってしまいます。さきほどのお話を聞いて、理解しないことの方が難しいように思います。わたしでも色々な可能性を考えてしまうのです。専門的な知識のある者なら、もっとたくさんのことを考えるはずです」
レイランの目は真剣だ。本心そのままの言葉だというのも解る。
それでも、難しいと思ってしまう。
「レイラン様が、真剣にそう思って下さっていることは伝わります。理解して下さる方もいるんだと、とても嬉しく思います。でも、理解する、しない、の前の段階なのです」
「前の段階というのは……」
「レイラン様がこの話を理解して下さったのは、リズを連れてこの森に来て、リズの異変を肌で感じ、リズの為に知りたいと思った。だから、わたしの話を時間をかけて聞いて、理解をしたんです」
「……」
「理解しようと思うきっかけがなければ、人は興味のないことに耳を傾けません。聞こうとしない人に話を聞いてもらうほど、難しいことはないのです。そして、わたしはそれを望みません」
「……悔しい、いえ、とても悲しいです」
ルティナは小さく頷く。
「……レイラン様は、東の薬草は効果が高いと知っていらっしゃいましたよね?」
「はい」
「でも、東まで薬草を取りに来る人はいません」
ルティナは、下を向くことしか出来なかった。
レイランの感情が流れ込んでくる。
その中に憐みが含まれていないことに、ルティナは感謝した。
喉の奥で止まりそうな声を絞り出す。
「……わたしが子供の頃、この森のホノシズクは大きいものでも9センチほどでした。自然の時間はとてもゆっくりで、人の感覚とはかけ離れ過ぎています。12センチになるまでには20年近い時間が必要でした。その時間の中で、少し効果の高い薬草が、人にとって普通の薬草になりました。自然界の変化は、人が感じられるほど劇的なものは少ないのです」
自分の声を聴きながら、ふと、父の言葉を思い出した。
「人はすぐに、忘れてしまう」
声になるかならないかの、小さな声だったと思う。
レイランに聞こえたのかは分からなかった。
不意に腕をつつかれて、我に返る。
フェンはさっきと同じように、ルティナの肩に顎を乗せ、じっとしている。
「フェンはルティナ様の騎士ですね」
確かにそうかもしれない。
少し甘えん坊で、食いしん坊で、過保護な保護者兼騎士だろうか。
「ルティナ様、ありがとうございました。お言葉を受け取りました。それでもわたしは、聞いてくれると思う人に、今日の話をしたいと思っております」
「構いません、わたしから話したことですから」
「そして、わたし自身ももっと聞きたいと思っています。リズのことがなかった時のことはもう仮定できませんが、今の気持ちとしてお伝えしたく思います」
「……ありがとうございます」
レイランの笑顔が眩しすぎて、ルティナは目を細めた。
「アッシュガゼルには、どんな能力があるのですか?」
リズとじゃれ合うレイランは、無邪気に笑っている。
じゃれ合うというよりも、ちょっかいを出していると言った方がいいかもしれない。
遊びたいのはレイランの方で、リズは静かにそれを受け止めている。
リズの大人の対応だ。
「そうですね……しいて言うなら、癒しでしょうか」
「治癒能力があるのですか?」
「いえ、わたしにとっての癒しです」
いたずらをする子どもの顔は、だいたいこんな顔だ。
楽しそうなのは嬉しいが、あまりにもからかい過ぎではないだろうか。
真面目に聞き返したのを、少し後悔する。
「……そうですか」
不満が滲む声に、レイランは更に楽しそうに笑う。
「楽しそうで、何よりです」
「申し訳ありません、少し度が過ぎました。でも、楽しいです、本当に。普段は少し、かしこまった場所におりますので」
「人の目もありませんしね。リラックス出来ているなら良いことです」
隣にいるリズに目を向けると、視線を返してくれた。
際立って静かな子、だと思う。
フェンを見ているからというのもあるが、無駄な動きが一切ない。
耳や目は動くこともあるが、一度座ってからはずっと同じ姿勢でじっとしている。
なんというか、美しい彫刻のような静けさだ。
「エルドポニーのような特殊な能力を持っている訳ではないのですが、人の意思を読み取る能力が高く、思うように動いてくれるんです。あと、危険察知が抜群に早く、身軽です。戦闘力よりも機動力に優れている感じでしょうか」
確かに、身体もスマートで、レイランの様子にとても敏感だ。
レイランの溺愛もすごいが、リズの方からも同じような雰囲気を感じる。
1対1の関係を好む気質なのかもしれない。
「あの、こんなことをレイラン様に言うのは失礼だと分かっているのですが……」
「なんでしょう? わたしは全く気にしませんよ」
「リズの右前脚が気になるのですが、先ほど痛めたりはしていませんか?」
レイランは瞬きを2度して、ため息のような息を吐く。
半ば呆れているといった顔だ。
「ルティナ様は本当に……、よく気付きますね。これに気付いた人は、今までほとんどいませんが」
「そうなのですか? 本人も気にしているようだったので」
「そもそも、その本人の様子に気付きません。普通は」
「レイラン様が特に気にしていないようなので、大丈夫だとは、わかっています……」
少し強くなった口調に気圧されて、徐々に声が小さくなる。
出過ぎたことを言ってしまった、と後悔する。
「伝わっていないようなので一応言いますが、これは褒め言葉です」
「なるほど……」
「リズのこれは今日のけがではないので、お気になさらないで下さい」
リズの脚に目をやり、レイランは伸ばしていた足を引き寄せて座り直す。
「2年ほど前に少し無理をさせまして、治療はしたのですが少し違和感が残ってしまったようで」
「古傷、ですか」
けがに気付かず治療が遅れたり、患部に別の症状が重なってしまうと、治癒魔法でも完全に元に戻すのが難しいことがある。
もしかしたら、直ぐに治療できる状況ではなかったのかもしれない。
「治療まで少し時間がたってしまったのですが、脚は完全に治っているそうです。何人もの治癒師に診てもらいましたが、皆同じ答えでした」
「そうですか……」
「治癒師が言うには、けがをした経験があると、痛みへの恐怖や不安で、無い痛みを感じてしまったり、無意識にかばってしまうということがあるそうで。それが原因ではないかと言われました」
確かに、そういうことはある。
身体ではなく、心の方が原因になることも多い。
でも、レイランとリズの関係を見ていると、心の問題というのはあまり想像できない。
おそらく、脚に何かあるんだろう。
「レイラン様から見て、リズは痛がっているように見えますか?」
「いえ、あまりそうは思えません」
「では、けがを怖がって、かばっているようには?」
「それも、あまり感じません」
「よくわからないけど違和感がある。みたいな感じでしょうか?」
「そうですね。あまりにも曖昧ですが、そんな感じです」
視てみないことには判断がつかないが、思い当たることがある。
以前、父の施術を手伝ったこともある。
でも、違った場合、必要のない期待だけをさせてしまうことになるかもしれない。
そういう落胆の表情を、ルティナは何度も見てきた。
それでも、治せるものなら治したいと思うのは、自分のエゴではないのか。
「レイラン様、リズの脚を見せて頂いてもよろしいでしょうか……」
「……もちろん、ルティナ様なら、リズも大丈夫だと思います」
レイランが立ち上がると、ほぼ同時にリズも立ち上がった。
本当にすごい理解力だ。
意思の疎通というより、意思をそのまま感じているように見える。
「リズ、ちょっと脚を視せて貰ってもいいでしょうか?」
ルティナを見るリズの目は、なにかを探っているような目だ。
魔獣にとって、自分の傷んでいる部分を見せるのは怖いものだろう。
「リズ」
レイランがリズの首に手を乗せる。
リズはそのままじっとしている。
ルティナは、額の中央に意識を集めて、目を凝らす。
右脚側面、蹄から少し上の辺りの流れが途切れている。
流れが弱くなったり、滞ったりするのはよくあるが、完全に途切れているのは珍しい。
でも、ケガ自体はしっかり治っている。
治癒魔法で治るのは、身体の物質的な部分だ。
そこに損傷があったらルティナには治せない。
これなら、問題なく戻せる。
この施術は、父にきつく止められていた。
父の施術は、身体の中を、外から少しずつ調整するものだった。
ルティナはその調整を、中から直接出来てしまう。
要は、効きすぎてしまうのだ。
父の言葉は強かった。
むやみにやるな。
もしどうしても治したいと思う人が現れたら考えろ。
その後何があっても、自分とその人を責めないと確信が持てる相手なら、判断は任せる。
そう言われた。
今なら、父の言っていることが分かる。
優秀な治癒師にも治せないもの。
治してしまったら、それには理由がいる。
その理由は、人には理解できないものだろう。
何があっても、自分とその人を責めない確信が持てるかと言われると、正直わからない。
それでも、ルティナはリズに、レイランと一緒に走って欲しいと思う。
「レイラン様、このリズの脚に、気付く人はいなかったのですよね」
「はい、ルティナ様とわたしと、あと1人だけです」
「あと1人の方は、レイラン様にとってどんな人ですか?」
「わたしが仕えている方です。誰よりも信頼する、わたしにとっては唯一の人です」
レイランがその人に、この話をしないのは難しいだろう。
それも仕方がない。
決めたのは自分だ。
「では、可能であれば、レイラン様は、何も見なかったことにして下さい」
レイランは黙っている。
ルティナは立ち上がり、左手の指先をリズの前にゆっくり差し出し、意識を込める。
リズは一瞬身体を後ろに引いたが、確認するように鼻先を近付ける。
しばらくそれを見つめた後、リズは姿勢を戻した。
「少しだけ違和感がでるかもしれません。安心させてあげて下さい」
「…………わかりました」
指先をそっと右脚に沿わせる。
上から下へ、弱まっている光の道を広げるように、ゆっくりと通していく。
完全に途切れている箇所は、無理矢理に通す必要がある。
少し強めに圧をかけながら、下へ押し流していく。
リズが少し脚を引いた。それでも、我慢してくれている。
繋ぎ合わせて、調える。
この流れは、身体の中にある川のようなものだ。
行き場がなくなって溢れ出たものが元の道に沿うまで、少し時間がかかるかもしれない。
手を離して、目を開ける。
途切れはなく、しっかり流れている。
ルティナはほっと胸を撫でおろした。
立ち上がろうと身体を持ち上げた瞬間、目の前がぐらりと回った。
なんとか踏みとどまろうとしたが、足の踏ん張りがまったく効かず、膝から崩れ落ちてしまう。
完全に体力切れだ。
そういえば、朝からほとんど飲まず食わずだ。
「ルティナ様っ!大丈夫ですか!?」
心配しているであろうレイランの顔は、逆光で何も見えない。
情けなさも恥ずかしさも、とりあえずは置いておこう。
「大丈夫です。……ちょっと、お腹が空きました……」




