序章-02.『薬草師ルティナ』
3、4時間ほど歩き回って、日が高くなる前に家に戻ってきた。
肩から採取鞄を下ろした途端、どっと疲労感が押し寄せてくる。
思っていた以上に、身体が限界に近かったらしい。
いつもの靴が鉛を付けたように重く感じる。
全身のだるさは、間違いなく力を使い過ぎたせいだろう。
このまま地面に沈んでしまいそうだ。
水分もろくに取らず、休みなく採取を続けたのだから、当たり前といえば当たり前だ。
ひと晩で変わる森の表情に、夢中になり過ぎてしまった。
父はこれを一日中やっていたと思うと恐れ入る。
薬草師は体力勝負だと言っていた意味が、ようやく理解できた。
父は、季節の変わり目になると、朝から晩まで森に入っていた。
明るいうちはひたすら歩き回り、夜には作業室に籠って調合や精製に勤しむ。
夜にしか採れない素材のために、深夜に作業場から出ていくのが心配でたまらなかった。
そして、ほとんど眠らないまま、次の朝には森に入っていくのだ。
長い時は、それがひと月ほど続く。
知識も、技術も、そして体力も、自分には全く足りていないのを思い知る。
ルティナの口から、小さなため息が漏れる。
せめてもう少しだけ、父の隣で過ごしたかった。
父のことを考えると、まだ少し、胸が詰まる。
胸を覆いそうになる寂しさを振り払うように、ぐっと身体を伸ばす。
身体中から、関節と筋肉がきしむ音が聞こえる。
目の前に広がる空は昨日より青く、春色になった陽射しが目の奥に染みた。
目を閉じて、感じるもの数える。
風の音。
土の匂い。
空気の温度。
大きく深く、息を吸う。
胸いっぱいに空気を取り込み、空っぽになるまで息を吐く。
何度か繰り返すうちに、さっきまでの重さは消え、心地よい疲労感だけが残った。
フェンから下ろした荷物を片付けながら、採取した素材の多さに改めて驚いた。
これでも厳選したのだ。
ホノシズクに、アオノネ、チラン草、水見苔、あまり見かけない竜の目まで。
朝にしか採れないメークルの樹液を見つけられたのは幸運だった。
薬草以外にも、キノコや山菜、丸芋や果実など、春の食材が山ほど籠に詰まっている。
保存のための処理が必要ない食材は、目につくとついつい手に取ってしまう。
どれも例年より大きく、色鮮やかに輝いている。
活き活きした美しい素材を見ていると、自然と頬がゆるんだ。
さっきまでの疲れはどこへいってしまったのか。
森の豊かさを眺めるこの時間が、ルティナにとって至福のひとときだ。
鞍と道具の手入れを終え、ようやくひと息つくことができた。
この後に待っている素材の処理に、午後いっぱいかかるだろう。
先に簡単な昼食を取ってしまった方が良さそうだ。
このまま作業を始めてしまったら、何も食べないまま一日が終わる気がする。
戸口の横に大量の素材をひとまとめにして、食材が詰まった籠からキノコと丸芋を手に取る。
フェンが籠に顔を近付け、クンクンと匂いを嗅ぎ始める。
「あ、お腹空いてるよね? すぐ用意するから」
厩の方へ行こうとすると、フェンはさほど興味なさそうに視線を逸らす。
そのままくるっと後ろを向き、尻尾を揺らしながら庭の方へ歩いて行く。
いつもならしつこいくらいに付いてくるのに、どうしたのだろう。
しばらく様子を見ていると、フェンは庭の端で陽なたぼっこを始めてしまった。
今日はいつになく上機嫌だ。
そういえば、採取に夢中になっている間、フェンは自由に動き回っていた。
最初は心配で呼びかけたりもしたが、遠くに行く気はないようなので好きにさせておいた。
森の中で見つけた美味しいものを食べていたのかもしれない。
近場の採取の時は留守番してもらっていたけど、これからは散歩がてら一緒にいくのも楽しそうだ。
フェンにとっても、森は楽しい場所なのだろう。
陽射しを浴びながらまどろむ姿に、ルティナの心もほっこりと温まる。
小鍋からうっすらと湯気が上がっている。
採れたてのキガサ茸は、軽く炒めると食感も良くなり香りが立つ。
常備してある丸ねぎは薄切りに、アスパラは根元の硬い皮を落として斜めに切っておく。
ホロ根は、ほくほく感を楽しめる大きめが美味しい。
それを、ハーブオイルで炒め、塩コショウと香り付けのスパイスで味を調える。
香りが上がり始めたところにミルクを加え、煮立つ直前に丸芋のすりおろしを乗せれば完成だ。
あとはパンを温めて、ピクルスでもあれば充分だろう。
パンを取ろうと吊り棚に手をかけると、窓の外に人影が見えた。
ルティナの両肩がクッと縮まる。
赤茶色の髪のその人は、門の外からフェンをじっと見つめている。
フェンは寝ころんだまま、首だけをその人に向けている。
今日は誰かが訪ねてくる予定はないし、見知った顔でもない。
その人は、呼びかけるでもなく、門の中に入る気配もなく、ただフェンと見つめ合っている。
その光景が妙に可笑しくて、なんだか力が抜けた。
ひとりになってからは、人に対して少し敏感になっている。
フェンが寝ころんだままでいるのなら、きっと大丈夫なのだろう。
ルティナは小鍋を火から下ろして、料理用にしている前掛けを外した。
ドアを開けて庭に出ると、2つの視線がほぼ同時にこちらに向く。
赤茶色の髪の男性は、ほんの少し驚いたように目を開いたが、すぐにこちらに向き直り、浅くお辞儀をした。
フェンはピクッと耳を動かし、寝ころんだ姿勢で首だけを伸ばそうとする。
なんという無精者だろう。
「あの、何か御用でしょうか」
ルティナは門の手前まで進み、つとめて冷静に、笑顔ではないが穏やかな表情で声をかける。
少し切れ長の目の奥、栗色の瞳はまっすぐにこちらを見る。
軽装だけれど、羽織ったマントの下、左腰に細身の剣が見える。
人の年齢を見る目に自信はないが、かなり若そうな雰囲気だ。
「突然お伺いした失礼をお許しください。こちらに、腕の良い薬草師の方がいらっしゃると聞いて参りました。レイランと申します」
レイランと名乗った男性は、流れるような美しい所作でお辞儀をした。
にじみ出る雰囲気は、庶民のものとは到底思えない。
おそらく、それなりの身分の人なのだろう。
ルティナは少し緊張しつつも、出来る限り丁寧に言葉を選ぶ。
「ご丁寧にありがとうございます。薬草師のルティナと申します」
ルティナは静かにお辞儀を返す。
“薬草師のルティナ”と名乗ることに、まだどうしても居心地の悪さを感じる。
自分にはまだ早い肩書きのように思えてしまうのだ。
「失礼ですが、レイラン様はどちらでここの事を?」
「王都の治癒師に教えられました」
王都。
ルティナは納得した。
父は年に数回、王都の治療院に行っていた。
王都では手に入りにくい薬草や素材、その薬効と扱いなども伝えていると聞いていた。
父の事だ、そこで頼まれて施術をすることもあったのだろう。
「そうでしたか。申し訳ありません、それは父のことだと思います」
レイランは、ルティナの言い回しに察したのだろう。
目線を少し下に落とし、言葉をどう繋げるか迷っているようだ。
「わざわざ王都からお越し頂きましたのに、申し訳ありません。父は半年ほど前に他界致しました」
「いえ、知らぬこととはいえ、大変失礼致しました。心からお悔やみ申し上げます」
レイランはこちらを気遣うように、微かに眉を寄せる。
「話してくれた治癒師からは、大変知識の深い優秀な方だと聞いておりました……。本当に残念なことです」
「少しやり過ぎるところもありましたが……薬草師として、とても尊敬しています。他の方からのお言葉を聞けて、とても嬉しく、誇らしく思います」
ルティナは自然と顔がほころんだ。
自分の思う『薬草師コーレン』は、間違いなく一流の薬草師だった。
でも、ルティナは他の薬草師を知らない。
ルティナにとっての薬草師とは、父でしかなかった。
それが自分の知らないところでも、同じくそうだったのだと思うと、心底誇らしく、満ち足りた気持ちになる。
「ルティナ様は、後をお継ぎになったのですね」
「まだ足元にも及びませんが。父の仕事を引き継いで、細々とやっております」
「そんなことはないと思いますよ?」
レイランは初めて笑顔を向ける。
「わたしは王都でお父様の話を聞き、こちらまで参りました。ですが、リシア近くの森で暮らしている事しか分からなかったのです」
「それは……ここを探すのは大変だったでしょう……」
「リシアの街で、治療院や街の人に尋ね、詳しい場所を教えて貰いました。皆が口を揃えて、エンの森に暮らす薬草師の事を話してくれました。とても丁寧に診てくれて助かっていると」
ルティナを見る瞳も、言葉も、曇りなくまっすぐに胸の奥へ届く。
「リシアの人たちにとっては、もう薬草師はルティナ様なのだと思います」
ルティナは思わず下を向いてしまう。
今、自分の顔はどうなっているだろう。きっとリンベリーよりも真っ赤なはずだ。
それと同時に、胸の奥がじんとする。
父への尊敬の裏に隠した、拭いきれない劣等感が、この人には見えているのかもしれない。
自分よりも若く見える、どこか大人びた話し方をする青年は、ただ思ったことを口にしているだけなのだろう。
今のルティナにとって、何よりも嬉しく、深く響く言葉だ。
ルティナは溢れ出しそうになるものを感じながら、ゆっくりと顔を上げる。
「ありがとうございます。今のわたしにとっては、これ以上ないお言葉です」
ルティナはもう表情を作ることなく、心のままに笑った。




