序章-02.色のない景色
「レイラン様は、何か薬草をお探しなのですか?」
ルティナは、レイランに尋ねた。
薬草師を探して、はるばる王都から訪ねて来たのだ。
王都には優秀な治癒師も医師もいる。
それなのに薬草師を探すということは、それなりの理由があるだろう。
「いえ、薬草を探しているという訳ではありません」
レイランの視線が、一瞬だけ宙に浮いた気がした。
さっきまでの整えられた表情が、わずかに曇る。
「ただ……、治す方法があるかをお伺いしたかったのです」
「それは、レイラン様ご自身のお身体でしょうか?」
「実は――」
レイランが話そうとした瞬間、突然、後ろからぐいっと引っ張られた。
驚いて振り向くと、いつの間にか真後ろにフェンが立っている。
「ど、どうしたの?」
フェンは小さく首を振ると、レイランの方にゆっくりと進む。
門の前で立ち止まると、少し首を下げてレイランの胸辺りに鼻先を向ける。
2、3度匂いを確かめると、今度はレイランの腕を鼻先でつつく。
フェンがこんなことをするのは、今まで見たことがない。
ルティナとコーレン以外には、触れさせることも、興味を示すこともなかった。
フェンは何かが気になるのか、しきりに匂いを嗅いでいる。
「本当に綺麗な子ですね。触っても構いませんか?」
「はい……多分。……すみません、普段はわたし以外の人に近付くことがないもので……」
「なるほど。それなら本人に許可をもらった方がいいですね」
レイランがフェンを見る目はとても優しい。
2人で見つめ合っていた時も、見惚れているような雰囲気だった。
「フェンと言います」
レイランはフェンに視線を合わせ、ゆっくりと落ち着いた声で話しかける。
「初めまして、フェン。わたしはレイランだ。とても綺麗な君に触ってもいいだろうか」
じっとレイランを見つめ返し、小さく鼻を鳴らすと、頭を少し低くして前に出す。
ずっと気になっているのに、自分からは甘えにいかないところがフェンらしい。
彼なりのプライドなのかもしれないが、スンとした態度も可愛さしかない。
「ありがとう」
嬉しそうに微笑むと、レイランは慣れた様子で首元や顔の下をさするように撫でる。
フェンは気持ちよさそうに目を細め、時折大きく尻尾を揺らす。
その様子はなんとも微笑ましい。
「馬が好きなのですね」
「一緒に過ごす時間が長いので、相棒のようなものです」
少し照れたように笑う緩んだ目元は、ほんの少しだけ子供っぽさが滲んだ。
ひとしきり撫でてもらうと、満足げに顔を上げる。
向きを変え、戻ろうとしたフェンが、ぴたりと足を止めた。
普段は垂れている耳をまっすぐに立て、しきりに何かを気にしている。
レイランの前を行ったり来たりしながら、匂いを嗅いでは周囲を見渡す。
「気にしてますね」
落ち着かせようと首に手を置く。
瞬間、目の奥が揺れた。
自分の目を通さずに、直接景色が流れ込んでくる。
不意に視界を塗り替えられるような感覚は、何度経験しても慣れない。
色もなく、曖昧にぼやけた景色は、それが何なのか分かるようなものではない。
でも、この森の入口だということを頭が理解した。
「レイラン様、森の入口あたりに、何か思い当たることはありますか?」
少し急いた口調に驚きながら、ルティナの真剣な目を見ると、みるみる表情が硬くなる。
「わたしの馬がおります」
言い終わると同時にマントが翻る。
走り出したレイランの横、門を飛び越えたフェンの前足が土を削った。
「乗ってください!」
自分でも聞いたことのない声が出た。
言ってすぐにハッとする。
フェンには手綱も鞍も付いていない。さっきまでは陽なたぼっこをしていたのだ。
取りに行こうと振り返った目の端。
人とは思えない身軽さで飛び上がり、そのまま背に滑り降りる。
「すぐに戻ります!」
レイランの声が静かな森に響く。
フェンは全身から淡い光を放ち、地面を滑るように走っていく。
一瞬で遠くなる2人を見つめながら、ルティナは祈るように目を閉じた。
待つ、という時間は、なぜこんなに長く感じるのだろう。
肩に触れる陽射しは温かいのに、指先だけが不自然に冷たい。
自分の緊張を自覚すると、不思議と冷静になれる。
身体に意識を向けると、肩は上がり、呼吸は浅く、全身が強張っている。
さっき視たあの景色からは、そこまで強い揺れを感じなかった。
色のないあの景色は、誰のものだろう。
感じたのは、強い不安と戸惑い。
流れ込んできた感情を思い出すと、やはり身体が固くなる。
門の内側に立ったままのルティナは、家の方に目をやる。
庭はがらんとして、置いたままの採取袋がやけに大きく見える。
フェンがいないと、こんなに心細いものなのか。
どこにいても、フェンは絶対にそばを離れなかった。
街に行くときも、採取に出るときも、人が訪ねて来たときでさえ、戸口の前から頑として動かなかった。
そんなフェンが、迷いなく飛び出したのだ。
きっとそこには何かがあって、フェンが行く必要があるのだろう。
ルティナは、2人の後ろ姿が消えた方へ目を向ける。
地面に残った蹄の跡は、思うよりもずっと深かった。
遠くから、レイランの声が聞こえた。
声のする方に目を向けると、2頭が息を合わせて駆けてくる。
レイランはフェンに跨ったまま、もう1頭の手綱を引いている。
フェンよりもひと回り大きいその子は、ガゼルのようだ。
黒い角はなだらかな曲線を描き、漆器のような湿った艶が陽射しを返している。
フェンが纏った光はもう落ち着いたようだ。
レイランが必死にフェンをなだめているようだが、言葉までは聞き取れない。
そんなことはお構いなしに、フェンは一直線に走ってくる。
抑えていた不安や心細さ、安堵と愛しさがない交ぜになって、全身から溢れだしそうだ。
レイランが少し手前でふわりと飛び降りた。
太陽に照らされた赤茶色の髪は美しく、森の景色によく映える。
フェンは羽を器用に使い、ルティナの前でぴたりと止まった。
堪らず首に顔をうずめると、ほんのり甘い干し草の匂いがした。
頬にかかるたてがみがサラリと落ち、細かい光を反射する。
フェンはルティナの肩に顎を乗せ、ただじっとしている。
ルティナの頭を撫でるように、ゆっくりと顔を寄せる。
まるで、泣いている子供をあやすような仕草に、少しばかり悔しくなる。
これでは、置いて行かれた子供が、寂しかったと駄々をこねているみたいだ。
完全に立場が逆転している。
急にこそばゆくなって顔を離すと、満足そうに微笑むレイランと視線が合う。
「わたしの胸も空いていたのですが、出番はありませんでしたね」
取り乱した恥ずかしさと、からかわれている恥ずかしさで、あまりにもいたたまれない。
穴があったら飛び込んで、内側から厳重に鍵をかけたい気分だ。
ゆっくりと視線を逸らし、平静を装いながら姿勢を正す。
「それは気付きませんでした。今からでもお借りできますか?」
レイランは予想していなかった返答に目を丸くして、声を上げて笑う。
「そう返されるとは思いませんでした。大変失礼いたしました」
「わたしも、こういう冗談を言う方だとは思いませんでした」
しばらくの沈黙のあと、2人で目を合わせて笑う。
フェンは小さくいなないて、柵の中に入っていく。
その声は少しだけ、呆れているように響いた。
「まだお話の途中でしたし、中に入られませんか? その子も中の方が落ち着くと思いますし」
レイランの隣に立つ美しいガゼルは、まだ落ち着きがない。
ぴんと立てた耳は忙しなく動き、ずっと周囲を警戒している。
怖いのを必死に堪えているようで、見ているだけでかわいそうになる。
「よろしいのですか?」
「もちろん、休ませてあげてください。敏感な子には、慣れるまでは辛いはずです。庭の中の方が多少は和らぎますし、レイラン様のそばに居たいと思いますので」
一瞬考えるように目が動いたが、ガゼルを気にしてか、丁寧にお辞儀をして中に入る。
レイランに引かれるガゼルの歩き方に、わずかな違和感を感じた。
前足……だろうか。
庭に入ったガゼルは、匂いを確かめながら歩き始めた。
「ルティナ様、まずはお礼を言わせて下さい」
足元ばかりを見ていたルティナの前に立つと、レイランは恭しくお辞儀をした。
整えた声色に、思わず背筋が伸びる。
「シルリーズをお救い頂き、心より感謝申し上げます」
真摯に感謝を伝える瞳には、さっきまでのおどけた様子は微塵もない。
シルリーズへの愛情と心からの感謝が、言葉のままに伝わってくる。
それほど大切な相棒なのだ。
彼の温かい感情が、胸を包む。
「いえ、わたしは何もしておりません。お礼ならフェンに伝えてあげて下さい。全てあの子がしたことですから」
「ルティナ様がフェンを後押しして下さらなければ、わたしはリズを見つけられませんでした。この感謝だけは受け取って下さい」
この人はどこまでも真っ直ぐな人だ。
心のままを言葉にする。
それを曇りなく伝えることが出来る人を、ルティナはあまり知らない。
「言葉のままに、心に入れさせて頂きます」
空気が緩み、お互いに力が抜けたようだ。
レイランはシルリーズに寄り添って、身体を確認し始める。
その様子を見ながら、どうしても右の前足が気になってしまう。
「シルリーズ……は、ガゼルでしょうか」
「リズと呼んでやって下さい。王都ではよく見かける、アッシュガゼルという魔獣です」
「とても美しいです。リズが特別美人なのでしょうか」
「わたしも惚れ込んでいます。王都ではとてもモテていますよ」
眩しそうにリズを見る目は、とろけそうなほど甘い。
ちょっと、いや、かなりの溺愛っぷりだ。
「鞍を外してあげるのは難しいでしょうか。なるべく自然に近い状態の方が身体も早く慣れますが……」
リズの動きはだいぶ静かになった。
リズの様子を気にしていたフェンも、少し離れたところで陽なたぼっこの続きを始めた。
「さきほども少し気になったのですが……、慣れる、というのはどういう意味でしょうか」
王都で暮らしているのであれば分からなくて当然だろう。
この辺りに暮らしている人でさえ、これを感じる人はほとんどいないのだ。
ルティナは少し迷った。
聞かれるとは思っていたが、どこまでを、どういう表現で伝えればいいだろうか。
レイランは聡い人だ。嘘がなく、まっすぐで温かいこの人に、変なごまかしはしたくない。
もしこの人を施術することになるのなら、差し障りのない範囲で知ってもらう方がいい。
王都からわざわざ出向くほどの要件があるなら、リズの様子がいくら心配でも、そのまま帰ることはないだろう。
何度かここに足を運んでもらうことになるなら、その度にリズがあんな状態になるのはかわいそうだ。
少し馬を休ませる程度の理由では、外出先で鞍を外すなどしないだろう。
何よりも、リズを早くいつもの状態に戻してあげたい。
理由を聞かずに鞍を下ろすなら、それで良い。
聞かれるなら、その時は答えればいい。
理由を知れば、レイランならそうしてくれると思う。
いつもなら、絶対にこんなことはしない。
どうやら、この1人と1頭に、できるだけ幸せでいて欲しいと願っているのだ。
ルティナは小さく息を吸い、静かに吐いた。
「レイラン様とリズは、この辺りに来るのは初めてですか?」
「初めてです。王都からこれほど離れたことはありません」
「王都の近くで、とても自然の濃い場所に、リズと行ったことなどはありませんか?」
「自然の濃い場所、ですか」
「はい。あまり人の手が入っていないような手つかずの場所……例えば、標高の高い山、火山、雪原や砂漠などのような」
少し考えるように目を伏せて、首を振った。
「記憶している限りでは、ないと思います。リズは王都の周辺しか知りません。初めての遠出に張り切っていたくらいです」
「リズはこの森に入るのを嫌がったのではありませんか?」
驚きと、少しの好奇心。それを抑えようとする自制心。
表情が読めなかった最初とは、まるで別人だ。
手に取るようにわかってしまうのは、ルティナだからではないだろう。
こちらの方が彼らしいと思うのは、レイランに失礼だろうか。
「そうです。リシアに着いた頃から少し落ち着きがなくなり、リシアを出てからは酷く緊張しているようでした。そして、森に入ろうとしたら一歩も動かなくなりました」
リズを見る目には、申し訳なさと情けなさが入り混じっている。
「こんなことは初めてでした。どんなことがあっても、わたしの指示に従わないことはありませんでしたので。それで、仕方なくそこで待たせて、わたしだけで」
レイランは、きつく手を握り締めている。
伝わってくる胸の苦しさを抑え、ルティナは声を整えた。
「この辺りの森は、生命の力が強いのです」
「いのちの力、ですか……」
「生命を芽吹かせ育む力……と言えば近いでしょうか。この辺りの森は、植物が強く大きく育ちます。栄養価も薬効も高くなるのです」
「……なんとなくは解ります。東の森の薬草は効果が高いとも聞いたことがあります」
ルティナは穏やかに微笑み、森の方に目を向ける。
「父がこの森に住み始めたのは、その為だと聞いています。たくさんある森の中でも、この森は特に豊かな森です。例えば……、レイラン様は、ホノシズクをご存じですか?」
「もちろんです。解毒薬として何度も使ったことがあります」
「あれは普通に出回っているものは8センチほどですが、この森では12センチにもなります」
「そんなに、違うのですか……」
レイランは大きく目を見開き、その瞳は驚きで揺れた。
自分の大切なものに興味を持ってもらえるのは、素直に嬉しい。
今までにない反応に、くすっと声が漏れた。
「すみません、あまりにも良い反応をなさったので驚いてしまいました。この話にこんなに興味を持つ方は珍しいので」
「いえ、大変興味深いです。1.5倍というのはすごい差だと思いまして」
その答えに、今度はルティナが目を丸くした。
普通はただの偶然と思うか、疑うかのどちらかだ。
1.5倍という違いを、すごい差だと感じる人もほとんどいないのだ。
でも、この話をそのまま信じている。
「大きさだけではなく、薬効も高くなります。少ない量で効いたり、強い毒素に効果が出る場合もあります。なんというか、そのものが本来持つ特性が、より濃く現れるのです」
「なるほど。それが、生命の力というものなのですね」
「……そう、です」
「どうかされましたか?」
不思議そうな顔でこちらを見るレイランの瞳は、どこまでも澄んでいる。
なんの疑いもなく、流すわけでもなく。
この話を受け入れてくれる人がいることに、ルティナは心底驚いていた。
薬草師の仕事は、その大半が目に見えないことだ。
治癒師の使う治癒魔法のように、目の前で傷が癒えるわけではない。
医師のように、明確な原因と治療法を提示できるわけでもない。
薬草師の施術や薬の効果は、緩やかなものなのだ。
薬が効かない、変化がない、そんな言葉を投げられるのは日常茶飯事だ。
父について施術に行くようになって、そういう場面を何度も目にしてきた。
質の悪い人には、詐欺師呼ばわりされることもあった。
人は、直接自分に関係がないことに興味を示さない。必要がないからだ。
そして、見えないことは理解できないし、理解できないことは受け入れられない。
誰が悪いわけでもない。ごく当たり前のことだ。
薬草師として、ルティナは絶対に嘘を言わない。
だが、全てを説明するわけでもなかった。
人が受け取れる範囲のことを、受け取れる言葉でだけ話す。
ルティナと父がたどり着いた結論は、少しだけ寂しいものだった。
「いえ、なんでもありません」
我に返り、ルティナは笑顔で返す。
「生命の力は、自然界のどこにでもあるものですが、この森は少し強いのです。人にとってはほんの僅かな違いでしかありませんが」
「わたしは違いに気付きませんでした」
「いえ、気付かなかったのではありません。気付く必要がないのです」
レイランは黙ったままだ。
「この森に入った時、少し暖かいと感じませんでしたか?」
「そういえば……、ここも心地よいと感じる温度です」
「森は陽射しが届きにくいので、本来なら少し温度が下がるはずです。ですがこの森は外よりも僅かに温度が高い。人がそれを気にせずにいられるのは、その少しの温度変化が、自分に害がないと解るからだと思います」
「……」
「野生の生き物は、人よりもそういう違いに敏感です。人にとっては、たかが4センチの違いですが、小さな植物にとっては膨大な変化です。この森にはその変化が起こるだけの力があり、植物、動物、魔獣など、敏感な生き物にとっては大きな違和感なのだと思います」
「その、生命の力というのは、感知できる生き物にとって不快なものなのでしょうか」
その問いに、少し考える。
フェンとリズの方を見ると、いつの間にか2頭の距離が近くなっている。
相変わらず寝ころんだままのフェンの近くで、リズは立ったまま首を下げてじっとしている。
フェンは首をぺったりと地面に付け、太陽を浴びながらぬくぬくと気持ちよさそうだ。
あの様子を見る限り、この森が不快だという感覚はないだろう。
レイランはその視線を追うと、目の端を少し下げた。
「お話の途中に申し訳ありません。先に鞍を外してやっても良いでしょうか?」
「……もちろんです!」
レイランはリズの方へ走っていく。
湧き出す気持ちの整理がつかないまま、その背中を見送る。
ルティナの瞳から、理由のわからない涙がこぼれた。




