序章-01.春の朝
その二つ――
太陽から注ぐ陽、
月から降りる陰。
太陽の注ぐ恵みの光は、
生命を芽吹かせ世界を巡り
月から降りる癒しの雫は、
生命を育み、空へ還る
我らはこの陰陽をもって、
世界の理を言祝ぐものである。
――巡律典 第二節・陰陽篇
扉を開けると、強い陽射しに思わず目を細めた。
首元に触れる空気は、まだ少し冷たい。
本格的な春までは、もう一息といったところか。
木々を抜けてくる風からは、一足早い芽吹きの匂いがする。
春先の雨を受けて、森は静かに生まれ変わるのだ。
今日は少し遠くまで行ってみよう。
ケープ代わりの厚手のショールを首元に巻きなおす。
肩にかかる白銀の髪は、邪魔にならないようにショールの内にしまう。
採取用具一式が詰まった肩掛けの鞄は、ルティナが持つには少し大きかった。
家の影で、白練色のたてがみが揺れる。
ルティナが出てくるのを待っていたように、フェンが顔を出した。
「おはよう、フェン」
ふにゃりと垂れた耳がピクピクと動く。
何かを期待しているときの、フェンの仕草だ。
普段はあまり出番のない鞍の準備を始めると、尾を揺らしながら近付いてくる。
一緒に出掛けられるのが分かったのか、嬉しそうに小さくいなないた。
エルドポニーは、温厚で人懐っこい馬型の魔獣だ。
体躯は馬よりもひと回り小さく、垂れた耳にふわふわの毛、太めの足には少し広がった蹄を持つ。
毛に埋もれて見分けがつかないが、前足の付け根には小さな翼がある。
飛ぶには小さすぎるその翼は、遠い昔の名残のようだ。
フェンが家に来てからは、街までの距離がぐっと縮まった。
フェンは今年で5歳になる。人間だと20歳前後だろうか。
艶やかな毛並みは、触れると指が吸い込まれるほど柔らかい。
長めのたてがみは絹糸のようにしなやかで、風に吹かれて歩く姿は惚れ惚れするほど美しい。
エルドポニーの中でも、相当な美男子だろう。
小さな翼に宿る力は、風魔法の類なのだろうか。
その名残が今の能力だとするなら、エルドポニーの祖先は空を飛べたのかもしれない。
そう考えると、どこか残念に思えてしまう。
フェンが空を駆ける姿は、それはそれは美しかっただろうに。
ルティナの視線に気付いたのか、フェンは大きく身震いをした。
首を下げて膝を折り、急かすようにこちらを見上げる。
早く鞍を付けろと言わんばかりだ。
フェンの背中に鞍を乗せ、鞄と飲み水、少しの食料、フェン用の果物も用意する。
反対側には採取容器を詰めた鞄と革袋、大きめの採取籠も吊るす。
昨晩作った虫除けの香油を取り出すと、冷感のある爽やかな香りが鼻の奥に抜けた。
微かに残る眠気を飛ばし、頭の芯が澄んでいく。
香油を布に垂らし、フェンの鞍と自分の足首にも結び付ける。
ミントとレモリアの皮から作ったこの香油は、半日ほどであれば森歩きを守ってくれる。
フェンがふんっと大きく鼻を鳴らし、振り払うように首を振る。
この匂いがあまりお気に召さないらしい。
可哀そうだが、こればかりは仕方ない。
この森には、猛毒や麻痺毒を持った虫もそれなりに居るのだ。
ポンポンと軽く首元を叩き、顎の下を撫でてやると、ほんの少し目を細めて鼻先をこすり付けてくる。
フェンのご機嫌取りは案外簡単だ。
ルティナは思わず、心の中で笑ってしまった。
湿り気を含んだ土を踏みながら、森の奥へと進む。
葉から透ける朝日は柔らかで、大地に静かに染み込んでいく。
足元に微かな気配を感じて、目を向けると――
わずかに盛り上がった土から顔を出すのは、ホノシズクの新芽だ。
芽吹いたばかりの瑞々しい黄緑色に、思わずしゃがみ込む。
ホノシズクは球根植物で、新芽が出る今が採薬の旬だ。
芽には疲労を和らげる効果があり、乾燥させると茶葉になる。
新芽で作る茶葉は、花蜜のような甘い香りがして、風味も格段に豊かだ。
球根部分は解毒薬の素材として広く知られている。
自然の毒素には特に効果が高く、常備薬として求められることも多い。
ルティナはゆっくりと目を閉じ、額の中央に意識を集める。
再び目を開くと、淡い霧が晴れるように、色たちが鮮やかさを取り戻す。
ホノシズクの新芽は、ほのかな淡黄の光を放ち、表面に光の粒が舞っている。
纏う光に揺らぎや乱れは一切なく、均一で力強い。
ホノシズクが放つ生命の光を、ルティナは視ることができた。
スコップを手に取り、球根を傷つけないように土に差し込む。
土から出てきた球根を見て、ルティナは目を丸くした。
「ちょっと大き過ぎない?」
まんまるの球根はずっしりと重みがあり、手のひらからはみ出すほど大きい。
通常の1.5倍はあるだろうか。
ホノシズクは多少育ち過ぎても薬効は変わらない。……が、それにしてもだ。
球根が内包する光は青みを帯び、中心の密度は相当なものだ。
もしかしたら、解毒の難しい毒にも効くかもしれない。
好奇心に思考が奪われるのを振り払い、ホノシズクの処理を始める。
球根に付いた泥を払い、左手に乗せる。
心を落ち着けて、呼吸を整える。
身体中の感覚を一つに集め、深く自分の内に潜っていく。
体内を巡る光の粒が、感覚の中に浮かび上がる。
身体の中心から、手のひら、そして指先へ。
指先に意識を置き、ホノシズクの光を乱さぬように、表面を薄い膜で覆っていく。
感覚だけを頼りに、光の粒で隙間なく全体を包む。
指先が押し戻されたら、光が落ち着くまでゆっくりと馴染ませる。
ホノシズクから溢れる光は膜の中に納まり、眠るように静かになった。
ふっと息をつく。
これで、土から出してすぐの状態をしばらくは維持できる。
薄い布でふんわり包んで、革袋に入れる。
この大きさなら、3株もあれば十分だろう。
茶葉としてはもう少し欲しいところだが、時期をずらしてまた取りに来ることにした。
採薬は必要な分だけ。
これは、父に言われ続けた薬草師の鉄則だ。
ルティナの暮らすエンの森は、際立って豊かだ。
大小いくつもの森が点在するこの付近は、広大なエルゼド大森林の手前に位置する。
森の海は、東へいくほどに深く濃く、緑一色の風景がどこまでも続く。
点在する森に大きな違いはないものの、森それぞれの色がある。
自生する植物の育ち方、果実の風味、豊作になる木の実が違ったりもする。
近場の森を行き来しながら、その年の変化を見るのも楽しみのひとつだ。
それでも、これだけ見事なホノシズクは見たことがない。
物心つく頃からこの森で暮らしているが、覚えている限りでは一番かもしれない。
春に向かうこの時期に採取する薬草は、その年の森を占う。
今年は育ち過ぎに注意した方が良さそうだな、と、ルティナは心の中で肩をすくめた。
3、4時間ほど歩き回って、日が高くなる前に家に戻ってきた。
肩から採取鞄を下ろした途端、どっと疲労感が押し寄せてくる。
思っていた以上に、身体が限界に近かったらしい。
いつもの靴が鉛を付けたように重く感じる。
全身のだるさは、間違いなく力を使い過ぎたせいだろう。
このまま地面に沈んでしまいそうだ。
ひと晩で変わる森の表情に、夢中になり過ぎてしまった。
父はこれを一日中やっていたと思うと恐れ入る。
父は、季節の変わり目になると、朝から晩まで森に入っていた。
明るいうちはひたすら歩き回り、夜には作業室に籠って調合や精製に勤しむ。
夜にしか採れない素材のために、深夜に作業場から出ていくのが心配でたまらなかった。
そして、ほとんど眠らないまま、次の朝には森に入っていくのだ。
長い時は、それがひと月ほど続く。
ルティナの口から、小さなため息が漏れる。
知識も、技術も、そして体力も、自分には全く足りていないのを思い知る。
せめてもう少しだけ、父の隣で過ごしたかった。
父のことを考えると、まだ少し、胸が詰まる。
胸を覆いそうになる寂しさを振り払うように、ぐっと身体を伸ばす。
身体中から、関節と筋肉がきしむ音が聞こえる。
目の前に広がる空は昨日より青く、春色になった陽射しが目の奥に染みた。
目を閉じて、感じるものを数える。
風の音。
土の匂い。
空気の温度。
大きく深く、息を吸う。
胸いっぱいに空気を取り込み、空っぽになるまで吐ききる。
何度か繰り返すうちに、さっきまでの重さは消え、心地よい疲労感だけが残った。
フェンから下ろした荷物を片付けながら、採取した素材の多さに改めて驚いた。
これでも厳選したのだ。
ホノシズクに、アオノネ、チラン草、水見苔、あまり見かけない竜の目まで。
朝にしか採れないメークルの樹液を見つけられたのは幸運だった。
薬草以外にも、キノコや山菜、丸芋や果実など、春の食材が山ほど籠に詰まっている。
保存のための処理が必要ない食材は、目につくとついつい手に取ってしまう。
どれも例年より大きく、色も濃く鮮やかだ。
活き活きした美しい素材を見ていると、自然と頬が緩んだ。
さっきまでの疲れはどこへいってしまったのか。
森の豊かさを眺めるこの時間は、ルティナにとって至福のひとときだ。
鞍と道具の手入れを終え、ようやくひと息ついた。
この後に待っている素材の処理に、午後いっぱいはかかる。
先に簡単な昼食を取ってしまった方が良さそうだ。
このまま作業を始めてしまったら、何も食べないまま一日が終わる気がする。
戸口の横に大量の素材をひとまとめにして、食材が詰まった籠からキノコと丸芋を手に取る。
フェンが籠に顔を近付け、クンクンと匂いを嗅ぎ始める。
「あ、お腹空いてるよね? すぐ用意するから」
厩の方へ行こうとすると、フェンはさほど興味なさそうに視線を逸らす。
そのままくるっと後ろを向き、尻尾を揺らしながら庭の方へ歩いて行く。
いつもならしつこいくらいに付いてくるのに、どうしたのだろう。
しばらく様子を見ていると、フェンは庭の端で陽なたぼっこを始めてしまった。
今日はいつになく上機嫌だ。
そういえば、採取に夢中になっている間、フェンは自由に動き回っていた。
最初は心配で呼びかけたりもしたが、遠くに行く気はないようなので好きにさせておいた。
森の中で見つけた美味しいものを食べていたのかもしれない。
近場の採取の時は留守番してもらっていたけど、これからは散歩がてら一緒にいくのも楽しそうだ。
フェンにとっても、森歩きは楽しい時間なのだろう。
陽射しを浴びながらまどろむ姿に、ルティナの心もほっこりと温まる。
小鍋からうっすらと湯気が上がっている。
採れたてのキガサ茸と丸ねぎ、アスパラをハーブオイルで炒め、ミルクを加える。
香りが立ったところに丸芋のすりおろしを乗せれば、簡単な昼食には十分だった。
あとはパンを温めて、ピクルスでもあればいい。
パンを取ろうと吊り棚に手をかけると、窓の外に人影が見えた。
ルティナの両肩がぐっと縮まる。
赤茶色の髪のその人は、門の外からフェンをじっと見つめている。
フェンは寝ころんだまま、首だけをその人に向けている。
今日は誰かが訪ねて来る予定はないし、見知った顔でもない。
その人は、呼びかけるでもなく、門の中に入る気配もなく、ただフェンと見つめ合っている。
その光景が妙に可笑しくて、なんだか力が抜けた。
ひとりになってからは、人に対して少し敏感になっている。
フェンが寝ころんだままでいるのなら、きっと大丈夫なのだろう。
ルティナは小鍋を火から下ろして、料理用にしている前掛けを外した。
ドアを開けて庭に出ると、2つの視線がほぼ同時にこちらに向く。
深い赤茶色の髪の男性は、ほんの少し驚いたように目を開いたが、すぐにこちらに向き直り、浅くお辞儀をした。
フェンはピクッと耳を動かし、寝ころんだ姿勢で首だけをこちらに伸ばそうとする。
なんという無精者だろう。
「あの、何か御用でしょうか」
ルティナは門の手前まで進み、つとめて冷静に、笑顔ではないが穏やかな表情で声をかける。
少し切れ長の目の奥、栗色の瞳はまっすぐにこちらを見る。
軽装だが、羽織ったマントの下、左腰に細身の剣が見える。
人の年齢を見る目に自信はないが、かなり若そうな雰囲気だ。
「突然お伺いした失礼をお許しください。こちらに、腕の良い薬草師の方がいらっしゃると聞いて参りました。レイランと申します」
レイランと名乗った男性は、流れるような美しい所作でお辞儀をした。
滲み出る雰囲気は、庶民のものとは到底思えない。
おそらく、それなりの身分の人なのだろう。
ルティナは少し緊張しつつも、出来る限り丁寧に言葉を選ぶ。
「ご丁寧にありがとうございます。薬草師のルティナと申します」
ルティナは静かにお辞儀を返す。
“薬草師のルティナ”と名乗ることに、まだどうしても居心地の悪さを感じる。
自分にはまだ早い肩書きのように思えてしまうのだ。
「失礼ですが、レイラン様はどちらでここのことを?」
「王都の治癒師に教えられました」
王都。
ルティナは納得した。
父は年に数回、王都の治療院に行っていた。
王都では手に入りにくい薬草や素材、その薬効と扱いなども伝えていると聞いていた。
父のことだ、そこで頼まれて施術をすることもあったのだろう。
「そうでしたか。申し訳ありません、それは父のことだと思います」
レイランは、ルティナの言い回しに察したのだろう。
目線を少し下に落とし、言葉をどう繋げるか迷っているようだ。
「わざわざ王都からお越し頂きましたのに、申し訳ありません。父は半年ほど前に他界致しました」
「いえ、知らぬこととはいえ、大変失礼致しました。心からお悔やみ申し上げます」
レイランはこちらを気遣うように、静かに言葉を繋げた。
「話してくれた治癒師からは、知識の深い優秀な方だと聞いておりました……。本当に残念なことです」
「少しやり過ぎるところもありましたが……薬草師として、とても尊敬しています。他の方からのお言葉を聞けて、とても嬉しく、誇らしく思います」
ルティナは自然と顔がほころんだ。
薬草師コーレンは、間違いなく一流の薬草師だった。
でも、ルティナは他の薬草師を知らない。
それが自分の知らないところでも、同じくそうだったのだ。
「ルティナ様は、後をお継ぎになったのですね」
「まだ足元にも及びませんが。父の仕事を引き継いで、細々とやっております」
「そんなことはないと思います」
レイランは初めて笑顔を向ける。
「わたしは王都でお父様の話を聞き、こちらまで参りました。ですが、リシア近くの森で暮らしている事しか分からなかったのです」
「それは……ここを探すのは大変だったでしょう……」
「リシアの街で、治療院や街の人に尋ね、詳しい場所を教えて貰いました。皆が口を揃えて、エンの森に暮らす薬草師について話してくれました。とても丁寧に診てくれて助かっていると」
ルティナを見る瞳も、言葉も、曇りなくまっすぐに胸の奥へ届く。
「リシアの人たちにとっては、もう薬草師はルティナ様なのだと思います」
ルティナは思わず下を向いた。
今、自分の顔はどうなっているだろう。きっとリンベリーよりも真っ赤なはずだ。
それと同時に、胸の奥がじんとする。
父への尊敬の裏に隠れた劣等感が、この人には見えているのかもしれない。
自分よりも若く見える、どこか大人びた話し方をする青年は、ただ思ったことを口にしているだけなのだろう。
今のルティナにとって、何よりも嬉しく、深く響く言葉だ。
ルティナは溢れ出しそうになるものを感じながら、ゆっくりと顔を上げる。
「ありがとうございます。今のわたしにとっては、これ以上ないお言葉です」
ルティナはもう表情を作ることなく、心のままに笑った。
カクヨムでも同時投稿しています。
よろしくお願いいたします。




