蒼の季-02.出発
出発の朝だ。
家の中はしんとしている。
昨日は帰ってから、念入りに掃除をした。
この家をしばらく守ってくれるミラ宛て書いた手紙を、食の間の卓に置く。
庭に出ると、フェンはすでにそこにいた。
庭の端、フェンがいつも昼寝をしている場所で手を合わせる。
ここには父の遺した天日石が埋めてある。
これがこの家を、結界のように守ってくれている。
庭を包む凪のような静けさは、父の霊素そのものだ。
力の強い精霊族が霊素へ還るとき、霊核が具現化したような石を遺す。
これを持って行くか、ずっと悩んでいた。
でも、これはここに残していこうと思えた。
ルティナと同じく、父もこの森を愛していた。
帰って来る場所として、ここで待っていて欲しい。
きっと今なら大丈夫だ。
ユアンの音がした。
振り返ると、門の前でアウリスから降りたところだ。
心配で来てくれたのだろうか。
ユアンの過保護な優しさも、今日は嬉しい。
「おはよう」
「おはようございます」
「ここは……」
「……父が、ここに」
天日石のことを話すと、ユアンは手を合わせてくれた。
しばらく目を閉じている間、森が静まった。
目を開け立ち上がったユアンは、いつにも増して強い黄金色を纏っている。
その色は揺らぐことなく、とても頼もしく思えた。
フェンの上で、いつもと変わらない家を振り返る。
――いってきます。
ルティナはユアンの少し後ろから、彼の背中を追った。
リシアの街は少し慌ただしい。
街の門には、たくさんの人が集まっている。
その中で、少し気まずそうなレイランが、忙しそうに動いている。
街の人から渡されるものを受け取り、挨拶をしたがる兵士たちに声をかけられ、人だかりができている。
静かに発つつもりと言っていたが、そうはいかなかったようだ。
リシアで2人はとても好かれている。
兵士たちも、街の人も、彼らを見送りたいのだ。
「ルティナ様、もう出発してもよろしいですか?」
人をすり抜けて、レイランがリズにするりと跨った。
その姿に、兵士たちは静かに整列を始める。
街の人は、いっそう大きく手と声を上げた。
門から離れたところに待機している馬車の近くには、セラとバルドの姿がある。
彼らは遠目からその様子を眺めている。
そういうところは、とても要領が良い2人だ。
ルティナが小さく頷くと、レイランはユアンの後ろにリズを付けた。
リシアの兵士たちは、揃った敬礼を向ける。
その中には、ジグやローラン、リドの姿も見えた。
人混みの奥、遠目に見送るアンテとミラは、こちらにお辞儀をした。
ユアンは軽く手を上げ、リシアに応えた。
この人は当たり前に人から思われる。
それを今、この景色で実感した。
街の声が遠ざかるのを聞きながら、ルティナはいつもの景色を見る。
蒼と緑はいつもと変わらず、地平線を色で分ける。
ヴェリッダの林を目で追い、岩肌に挟まれた谷に入る。
谷の風音は抑揚をつけて、笛の音色のようだ。
岩肌を石が弾む乾いた音は、風向きとは逆、王都側へ響く。
「ルティナはこの先に行ったことはある?」
「いえ、北へ向かうのは初めてです」
「あまりのんびりはできないけど、少し景色を見ながら進もう。旅はきっと楽しいから」
ユアンの言葉は、ほんの少しの不安を消すのに充分だ。
フェンも首を縦に振って、その声に応えた。
谷を抜けると、しばらく静かな山道が続いた。
北へ進むごとに、景色は徐々に鮮やかになっている気がした。
太陽に近づくように、地面に積もる光が多い。
山の中では聞いたことのない鳴き声ばかりだった。
感覚が拾う気配が違い過ぎて、ずっと胸が騒いでいた。
初日と二日目は、山道の所々にある休憩所兼見張り台で休んだ。
山の温度は昼と夜でかなり差があり、霊素が山を下りていくのを感じた。
そこを過ぎると、緩く上る山道に入った。
王都がある台地は、少し高い土地にあるそうだ。
その上り途中で一泊し、さらに進んだ頂上が今日の休む場所だった。
頂上からの景色は絶景だった。
それほど標高が高くないはずなのに、空を見下ろしているように視界が広い。
リシアの方を振り返ると、緑一色の大森林だけは見ることができた。
皆で食事をとり、暗くなるころに辺りは静かになる。
山では朝早く動き出す人が多いのだと知った。
なかなか寝付けずにいると、外から月の気配がする。
無性に外に出たくなった。
足音に気を付けながら、静かに部屋を出る。
階段を上って見晴らし台に出ると、冷やっとした空気が顔にかかる。
何か掛ける物を持ってくればよかったと後悔しつつも、冷たい空気はとても澄んでいる。
真っ白な月はまんまるで、辺りは青白く光る。
山の満月から降る霊素は、感じたことのない密度だ。
久しぶりに感じる濃い陰が、しっとりと身体に入っていく。
王都までの道のりは、すでに半分を超えた。
随分遠くまで来てしまった。
思ったよりも違和感がないのは、山の木々たちのお陰だろう。
「眠れない?」
肩に毛布を掛けてくれたのはユアンだった。
マントを羽織っていない首元には、宵蔦の紐が揺れている。
夜に浮かぶほのかな淡黄は、想像の数倍美しい。
「起こしてしまいましたか?」
「いや、多分この満月のせいかな。あまり眠くならなかったんだ」
「ここまで華やかな月は珍しいですね」
ヴェリッダを追った夜も、確か満月だった。
あれから約30日。まだ30日しか経っていないのか。
もう随分前のことに感じる。
「旅はどう? 辛くない?」
「とても……新鮮です。音も、匂い、景色も、知らない気配ばかりで。最初はそわそわしましたが、知らないということに慣れてきました」
「俺もだよ、一度通った道のはずなのに、あのときとは全然感じ方が違うんだ。こんなに自分が変わったのかと、そっちに驚いてる」
ユアンの横顔は、とても満足そうだ。
霊核を受け入れてから、ユアンはとても落ち着いている。
「ユアン様は本当に強い方ですね。わたしならきっと、どこかで折れてしまったと思います」
「そうかな? ルティナは折れないよ。だって大切なものがたくさんあるだろ?」
「大切なもの……ですか」
「ああ、たくさんではないのか。世界は一つだもんな」
「……たくさんに、なりました。すべてとしてではなく、そこに在る一つずつを思えるようになった気がします。ユアン様に会ってから」
「俺は、ばらばらに散らばっていた大切なものが、ルティナに会って一つになったよ。この世界に守りたいものがすべて詰まってるんだ」
「欲張りになりましたね」
「お互いにね」
山の木々が月を受けて、少しずつ光を纏っていく。
「出発前に、タヤ様に会いに行ったんです。そのときに叱られました」
「タヤ様に?」
「人の世界に入ったら、森の声が聞こえなくなりそうで不安だと……そうしたら、人も森も巡るものだ、変わったとしても森は寄り添うと言ってくれました」
「……ん」
「それがよく分からなくて戸惑っていたら、寄り添っているのは自分だけだと思っているのかと。森はこんなに君を愛しているのに、伝わっていないのは悲しいと」
「怒られてないじゃないか」
「……自分はなんて傲慢なんだと、恥ずかしくなりました」
「思うことの方が忙しいだけだろ?」
「ユアン様に言われたことと同じことを、また言われてしまいました……あの言葉は、深く残っています」
ルティナはユアンに向き合い、手を取った。
「あのときに、わたしの世界は変わったのだと思います。わたしの存在を、わたしの願いを、この世界に置いて良いのだと。まだ、とても苦手ですが……それを、どうしても伝えておきたくて」
言葉にすると、それは自分の意識に溶け始めているのだと分かる。
自分はこの世界の外にいると思っていたのに、今はここに立っている。
「また迷いそうになったら、連れ戻してください」
「じゃあ、俺が突っ走ったら止めてくれ。俺を止められる人間はあまり多くないらしいから」
冗談を言うユアンは、とても照れているようだった。
よっぽど、褒められることに慣れていない人なのだと思う。
「そろそろ休もう。身体が冷える」
「はい」
手を離すと、指先が真珠色の光の糸を、かすかに引いたのが見えた。
頂上から少し進むと、4日続いた山道が終わった。
目に飛び込んできたのは視界いっぱいの空と、土肌と草木が混ざり合う大地だ。
太陽をそのまま受け止める拓けた大地は、初夏とは思えない陽の色だ。
地面に薄い膜を張り、きらきらと輝く。
大陸の北西は聞いていた通りの、暖かな陽の土地だった。
動き回る風はとても自由で、この場所の霊素を隅々まで運ぶ。
良い風だ。
軽やかで奔放。温もりのある肌触り。
これがアルデニアという国の雰囲気を表している。
旧い街道を進み、5日目は旅人が集う広場に泊まる。
綺麗に整えられた敷地には、澄んだ水場があった。
エンの森以来の湧き水は、ルティナには心底ありがたかった。
湧き水は木筒に汲む。陰包すれば、しばらくはこのまま持ち歩ける。
新しく整備された街道に入ると、もう王都までは1日足らずの距離になった。
旅の進みは順調で、6日目は王都へ繋がる街道脇、小さな砦に泊まる。
行き交う人々が増え、商人や旅人のほか、兵士の姿が多くなった。
リシア付近とは違い、人々があまり交流している様子はない。
冷えた空気というほどではないが、どこか人と距離を取る姿は、その先の大きな都市を思わせた。
7日目の朝。蒼の季1日。
出発する準備をしていると、空から聞き覚えのある声がした。
翼をはためかせて降りてきたのは、リュートだ。
ユアンは脚の筒を外し、リュートの頭を撫でた。
リュートはそのままアウリスの鞍の上で毛づくろいを始めた。
ユアンは手紙を読み終えると、リュートに木の実をあげて、高く飛ばした。
空を切るように、あっという間に北へと消える。
森ではあまり分からなかったが、あの速度は凄まじい。
翼の形状か、使う魔法の強さなのか……
いつかじっくり観察してみたいところだ。
「今日少し急げば、夕方には王都に着くと思う。もうひと晩外で過ごすより、その方が良いと思うけど……どうかな?」
さすがに身体が固まってきている。
今日中に着けるならそれに越したことはないだろう。
そこからの道のりは、ひたすら平坦な街道だった。
王都に近付くに連れて人の気配が濃くなる。
塊のような人の圧は、次第に大きく、強くなる。
リシアの賑やかさとは違う。
もっと重心の低い密度を感じる。
ルティナは下腹部に意識を込めて、守りを強くした。
ルティナにも変化があった。
湧き出る気素が、以前の青白い光から、青みを帯びた白銀になった。
自分の周りを白銀が包み、強い圧を和らげる。
隣からユアンの視線が向いた。
彼も同じように、黄金色を周りに留める。
彼の色は、日を追うごとに洗練されている。
とても綺麗だ。
王都の大きな門と城壁は、重厚な石造りだった。
さほど高さはないが、さすがこの国の中心、王都エルディラだ。
風を遮らない砦の構造に、風への向き合い方が見える。
この国を統べる風の王家は、この国の在り方そのものだ。
門へ続く街道は、人で溢れている。
その列は城壁の付近で扇形に広がり、4つの入口に分けられる。
少数で動く商人たち、異種族を含む旅人、大型の馬車が並ぶ商団、王都への滞在を求める団体。
それぞれ担当が分けられているのか、列の進みも早い。
整えられた仕組みのお陰か、殺伐とした空気はまったく感じない。
この光景は、王都への安心感をくれた。
その列から逸れて、少し奥にある別門へ向かう。
少数の兵士が、鋭い敬礼をする。
レイランが短く言葉を交わすと、石が擦れる音と共に門が開く。
ここからは人の世界だ。
ルティナは大きく息を吸い、身体の中心に芯を作る。
フェンの緊張も高まっている。
首に手を当てると、片方の耳がこちらへ向いた。
アウリスがちらっとフェンを見た。
それは王者の余裕と言ってもいい、とても優しい目だった。
フェンのぴんと立っていた耳は、先端だけ前に倒れた。
城壁の内側、区切られた道を沿うように進む。
途中で馬車は道を逸れて、そのまま街の中へと入っていった。
ここは特別な通路なのか、他には誰もいない。
街の喧騒から少しずつ遠ざかり、2つの扉を越えた。
幅の狭い通路が繋がっていたのは、静かな敷地だった。
「お疲れさま。ようこそ、アベリス家の屋敷へ。ここが俺とレイランが暮らしている場所だ」
街の中を通るとばかり思っていたルティナは、少し拍子抜けだ。
でもそれはありがたい配慮だった。
フェンもここの空気に慣れてからの方が、少しは楽だろう。
「ありがとうございます。ほっとしました」
太陽は少し傾き始めたくらいで、まだ夕方にはなっていない。
思ったよりも随分早い到着だ。
敷地内を横切り正面に回ると、そこには出迎えの人たちがずらっと並んでいた。
彼らは一斉に完璧なお辞儀をする。
一糸乱れぬ整った礼だ。
ルティナは思わず足が止まる。
これだけでも、すごい圧だ。
尻込みしていると、隣にセラが付いてくれた。
ルティナは足を動かし、ユアンからは少し距離を置いて後ろに控える。
「ルティナ、家を仕切ってくれているウォルグだ。そしてメイド長のアンナ。アンナはアンテの娘だよ」
2人は前に進み出て、丁寧にお辞儀をしてくれた。
「長旅お疲れ様でございました。ウォルグと申します。ユアン様が大変お世話になったそうで、屋敷を代表して御礼申し上げます」
「アンナと申します。お目にかかれて光栄でございます」
とても好意的な空気に、ルティナは秘かに驚いた。
もっと形式的な挨拶を想像していたが、この家の雰囲気だろうか。
自分のことがこの人たちにどう伝わっているのか……
そっちが不安だ。
「お世話になります。ルティナと申します」
自然に、アマヒトの礼を返していた。
この人たちから、とても強い感謝を感じたからだ。
場の空気が少し止まり、それをユアンが動かす。
「ルティナ、どうしようか迷ったんだけど……君には離れをそのまま使ってもらおうと思ってる。簡単な調理場もあるし、その方が落ち着けるかと思ったんだ。もし屋敷内の部屋が良ければ、それでももちろん構わない。その場合はアンナが身の回りの世話をするよ。どうだろう?」
離れ……本心から言えばとても嬉しい申し出だ。
身の回りの世話をされるのは気が引ける。
距離が近いところにたくさんの人がいるのも……正直落ち着かない。
でもそうすると、離れの周りに人が置かれることになる気がする。
それは迷惑になるのではないか。
ちらっとセラを見ると、彼女は静かに口を開いた。
「離れでゆるりと過ごされる方がよろしいかと存じます。ルティナ様は日々の過ごし方を大切にされますので、その方がお寛ぎになれるかと」
屋敷全員の視線が、セラに集中している。
それは驚きと、中には少し生温かさを感じる視線も混ざっている。
セラはここでどういう人だったのか。
相変わらず、視線は合わない。
「じゃあそうしようか、ルティナはそれでいいか?」
「……お心遣いに感謝いたします」
「それではルティナ様、私がご案内いたします」
「ルティナ、あとで顔を見に行くよ。それまでゆっくり休んでいて」
ルティナは小さく会釈を返し、その場にいる皆にお辞儀をする。
アンナは庭の奥の方へと案内してくれた。
離れは本邸のすぐ裏手、周りには適度に木が植えられている。
王都とは思えない静かな場所だ。
大きさは、ルティナの普段暮らしている家よりも少し狭い程度だろうか。
なんとも贅沢なことだ。
こんな場所をひとりで使わせてもらえるとは思ってもいなかった。
ルティナのために色々と整えてくれたのだろう。
調理器具も揃っており、小部屋には作業ができるような卓と椅子。
先に運び込まれたらしい革鞄は、部屋の隅にきちんと置かれている。
裏手にある厩は、新たに整えられたようだ。
フェンもそばで過ごせるようにと考えてくれたのだろう。
ここの人はとても……ユアンの家らしい人たちだ。
アンナは簡単に説明をして、本邸へと戻っていった。
王都での生活に感じていた不安は、一体何だったのだろう。
ここでなら、ちゃんと息ができる。
王都での時間が少しだけ、楽しめそうに思えた。




