翠の季-20.森のささやき
エンの森の出来事は、手に取るように分かる。
ルティナの感知できる範囲は、ここで生活する中で少しずつ広がっていった。
陰の霊核は、自分から感知しにいくのは苦手だ。
届くものを受け取ることは得意だが、探りに行くのは難しい。
ユアンの陽の霊核は、それがとても正確で影響も広範囲だった。
信じられない速度でその精度を上げていくユアンには、毎日驚くばかりだった。
彼の訓練を見守る中で、ルティナも刺激を受けた。
性質の違い、もともと持っている天性の感覚も大きいだろう。
でも、ルティナもまだ自分の深さの底にたどり着いていない。
自分と向き合うことは、この世界と向き合うことと同じ。
いつの間にか疎かになっていた、自分との対話を思い出した。
庭に立ち、森の声を聴く。
自分の中へ潜るほどに、森の気配は近くなる。
この森は、すべてが柔らかい。
音も、匂いも。
風が髪を揺らす肌触りも、目に映る色や、夏の陽射しまでも。
そう感じるのは、この森に深く心を置いているからなのか。
それだけではない。
なにか特別な、この森には深い愛情を感じるのだ。
感覚に浸っていると、森の入口から4つの気配が近付いてくる。
静けさ、揺らがない体温、放つ光、そして太陽のような温もりと熱。
約束の時間はもうすぐだった。
「おはようございます。少し遅れてしまいましたか?」
レイランはリズから飛び降り、そのまま庭へ駆け込んでくる。
ユアンは片手で身体を支え、半回転して土を踏みしめた。
この2人を見ていると、人の身体が軽そうに見える。
「おはようございます。いえ、久しぶりに潜っておりました。ユアン様を見ていたら、わたしも自分と対話がしたくなりました」
森と繋がると、全身が澄んでいるのが分かる。
自然に顔がほころぶのは、その清々しさからだと思う。
「おはよう。なんか今日は透明だね。いや、いつも濁っているという意味ではなく……より一層澄んでいると……」
自分の言葉に焦って訂正をしているのは、レイランが近くにいるからだろうか。
ユアンが怒られないように気を遣うというのは、なかなか面白い姿だ。
これをさせられるのは、この世界にレイランだけだろう。
当のレイランは、せっせと馬たちの鞍を外している。
この庭で、馬たちの憩いの時間を守っているのは、間違いなく彼だ。
「ルティナ様、先日受け取った魔導石は、すでに王都へ向かわせました。わたしとユアン様の意見と、ルティナ様のお話を書いた手紙も添えました。急ぎと伝えたので、5日ほどでウィラン様の元へ届くかと」
さすがに仕事が早い。
ウィランなら、この話を正しく理解してくれるはずだ。
「ありがとうございます。何か糸口が見つかれば良いのですが……」
「心配ないよ。ウィランと兄上が揃って解決できないなら、この国に解決する手段はないと言っていい。そのくらいすごい人たちだ」
兄上……。
ユアンには兄弟がいることを初めて知った。
確かに、上に兄弟がいると言われると、納得感はある。
「お兄様がいらっしゃるのですね。ユアン様のお兄様なら、信頼できる方だというのも納得しました」
レイランは無表情のまま、ユアンは目が点になっている。
2人は目を合わせたが、レイランは見なかったことにしている。
言ってはいけないことを、口を滑らせたといったところか。
「わたしは何も聞いていない、ということにした方がよろしいですか?」
「いや……別に隠していたわけじゃないが、あまり大げさに捉えないでくれると嬉しい。俺には血の繋がった兄が3人と姉が1人いる。7歳で他家に養子に入り、レイランはその家での弟にあたる」
レイランとの主従よりも近い距離感も、それを聞くと腑に落ちる。
「そして……さっきの話の兄上は一番上、ウィランは二番目の兄にあたる。……一番上の兄は、アルヴィン・アルデニア。この国の王太子だ」
王太子。
ということは、ウィランも王子。
ユアンは養子に出ていると言っても、おそらく王位継承権はあるはずだ。
王族が養子に入る家ならば、レイランも相当に身分が高い人なのだろう。
2人から感じる整った空気や美しい所作にも、なるほどと思う。
父から言葉遣いや所作を厳しく教えられたことに、感謝をするのは初めてかもしれない。
父もアマヒトの中では、かなり高位の立場だったそうだ。
2人のこの空気に気圧されないのは、父のお陰かもしれない。
「そうなのですね。皆さんから漂う品のある空気に納得致しました。ウィラン様のことはそうかもしれないと思っていたので、間違っていなかったのが嬉しいです」
ユアンだけでなく、レイランも目が点になっている。
「そ、そうか。……ウィランとはあまり似ていないから、気付かないかと思っていたんだが……」
「そっくりではありませんか」
「……俺とウィランが?」
「はい。感情が先に出て思いつきで行動してしまう、溢れた感情をそのまま受け入れる。あとは……考えるときの目の動き方、食べる仕草など、そっくりです」
レイランは笑っている。
ユアンは照れくさそうに目を泳がせる。
兄弟というのは、どういうものなんだろう。
血の繋がり、過ごした時間の長さ。
相手を思う気持ちはきっと変わらない。
ルティナはそれがどんなものかは分からないが、とても温かいというのは見ていてわかる。
そんな人が王都に何人もいて、ユアンのために動いてくれるのだ。
これほど安心できることはない。
「ルティナ、俺は……俺たちみんな、君のことが大好きだ」
突然の言葉に思わずユアンを見る。
その表情はとても優しく、伝わってくる感情が深いところまで届きそうだ。
レイランもその奥、栗色の瞳で頷いている。
「あ、ありがとう……ございます」
不思議と、恥ずかしさはない。
それが本心であることが分かるからかもしれない。
ルティナは溢れる気持ちを素直に、笑顔で返した。
しばらく歩き、感覚を澄ましながらタヤの森を進む。
もういないとは思うが、念のために馬たちには留守番をしてもらった。
昨日と変わらず、森の中は静かだ。
核が近付くにつれて、微かな霊素のざわつきを感じる。
なんだろう。
微かに、何かの視線を感じる。
人とは違う、でも魔獣とも違う。
この森に見られているような、感じたことのない視線だ。
不快感は感じない。でも、じっと見られている。
核に近付くにつれて、それはより強くなった。
周りを見回しても、深く拾おうとしても、その主は掴み切れない。
木に隠れた昨日の場所は、離れた時のまま、特に変わった様子はないようだ。
霊素も周りと変わらず、自然に漂っている。
ほっと胸を撫でおろすと、少し離れた木の陰からさっきの視線を感じた。
――ルティナは目を疑う。
そこにいたのは、まだほんの小さな樹木族の子供だった。
背丈はルティナの膝より少し高いくらいだろうか。
肌の色は淡い褐色、髪は若葉のような緑をしている。
身体に一枚布をうまく巻き付けたような装いで、足元は素足のままだ。
目は閉じているが、そこからは確かに視線を感じる。
「あの……子……は?」
2人が息を飲む気持ちが、痛いほどよく分かる。
ドリアードは森に住まうあまり知られていない種族だ。
妖精と人間の中間のような存在で、ほとんど人が出会うことはない。
こんなに人に近い場所に、姿を現すような種族ではないのだ。
ルティナも、1度だけ見かけたことがあるだけだ。
「……ドリアード、まだ、子供のようですね」
「ドリアード……」
レイランの声は、少し震えている。
「見られている……よね。話しかけたら怖がらせてしまうかな」
ユアンがこういうとき、まったく動じないのはなぜなのか。
ドリアードの子供はすっと姿を消し、ルティナたちの目の前の木から現れた。
木と一体化して森を移動するというのは……本当だったようだ。
ルティナは言葉が出ない。
ドリアードの子供は、ルティナの服をおそるおそる掴んだ。
その手はあまりにも小さい。
ルティナは膝を付いて、その子と向き合った。
「……わたしはルティナと言います。あなたを何と呼べばよいでしょう?」
その声を聴いて、ドリアードの子供はふわっと笑う。
「……ニオ」
ニオの声は森のささやきのようで、聞こえるというよりも感じるに近い感覚だ。
「ニオ、素敵な響きね」
ニオは照れたようにすっと消えて、今度は後ろの木から現れる。
そのまま、とととっと走り寄ってきて、ルティナに抱き付いた。
「る……りぃな?」
発音が難しいのか、うまく言えていないのが愛くるしい。
胸をぎゅーっと掴まれて、一瞬で心を奪われてしまった。
「る、てぃ、な、です」
「る、てぃな」
大きく頷くと、ニオはふわっと笑う。
そして、ユアンとレイランに視線を向け、じっと見ている。
2人は我に返り、同じように膝を付いた。
「はじめまして、俺はユアンだ」
「ゆあん」
少し恥ずかしそうな小さな声だ。
ニオには発音しやすいらしい。
「れいらん」
レイランに向き直ると、ニオは知らないはずの名前を言った。
「……え……と、はい。レイランです」
ニオはルティナから離れて、レイランの元に行く。
「まそが、いってる。れいらんの、まそ……きれい……」
「え……あ、あ、ありがとう」
レイランまで片言になっている。
ニオはレイランの膝に手をかけて、よじ登ろうとしている。
大切なものを扱うように、レイランはニオを抱き上げた。
「破壊的に可愛いな……」
その言葉に、何度も頷いてしまう。
満足そうに笑うニオは、どこからどう見ても可愛すぎた。
「ニオはいつもここにいるのかい?」
レイランは抱き上げたまま、静かに立ち上がった。
ふるふると首を振り、ニオは地面に顔を向けた。
「ここ、みにきた」
ルティナは苦しくなった。
ドリアードにとって、森は大事な家族のようなものだ。
人よりもずっと植物に近い存在。
きっと、ずっと前からここの異変を感じていただろう。
申し訳なさでいっぱいになる。
ニオにとって、それがどれだけ苦しいことか。
ここを壊したのは紛れもなく人だ。
「るてぃな、ちがう。るてぃな……ありがと」
それは、森からの言葉のように届く。
ニオは昨日もここにいたのかもしれない。
「ここ、もう、へいき。またそだつ……よ?」
短い単語が、意味だけを伝えるように身体に届く。
森に包まれているような、体感で伝わるようなやり取りだ。
それが、溢れている。
ニオには植物のことが分かるのだ。
昨日のあの霊素が、ここを元に戻したとするなら……ルティナは少し怖くなった。
それは、人がやっていい範囲のことなのか。
「れいそ、へいき」
ふわっと笑うニオには、きっと全部が見えている。
ドリアードは森そのもののように、森と共に生きる存在だ。
ルティナは、森に許された気がして、心の底から安堵する。
「ゆあん、も、ありがと」
ユアンは穏やかに微笑んでいる。
彼のこういう大きさは、ルティナにはないものだ。
「でも、あのまほう、だめ。みんな、こわれる」
初めてニオから、感情の揺れを感じた。
怒りではない。これは憂いだ。
「ニオ、つち、つかう。あれは、つちもこわす」
ルティナはニオを視た。
言われるまで分からなかったが、体内の魔素の濃度が信じられないほど高い。
ドリアードが土に深い繋がりを持ち、これだけ魔素が多い種族なら……
下手をしたらドリアードの身体にも影響がある。
「ニオ、その魔法がどんなものか、わかるかい?」
レイランの首に顔をうずめていたニオは、レイランを見る。
「わかる」
ニオは消え、元の木から現れた。
地面に座り込み、土の上に指で何かを描き始めた。
それは魔法陣だった。
ひし形が原型の魔法陣を、迷うことなく描き進める。
文字を理解しているのか、それとも魔素の流れを追っているだけなのか。
指が止まることはなく、ひたすらそこに形が描かれていく。
描き終えると立ち上がり、またレイランによじ登る。
この姿が、可愛い以外になんというのだろう。
「みず、わからない。ごめ……なさい」
「大丈夫だ。これだけでもとても助かるよ。ありがとう、ニオ」
嬉しそうにニオが笑うと、周りの木々が呼応する。
レイランとユアンがしゃがみ込んで、その魔法陣を見る。
ルティナにはその意味がまったくわからない。
「……増幅、高速で促進。これは広げているのか」
「でも範囲はすごく狭いよな。この範囲で……下か……」
「下に広げて吸い出そうとしたってことでしょうか……」
「した、いみない、よ?」
ニオは不思議そうにレイランを見ている。
「つちのえいよう、うえにおおい。したはちがう」
「そうなのか?」
「したは、ささえる。でも、そのまほう、ぜんぶすう」
ルティナははっとした。
「ニオ、下には栄養ではなく、水や栄養の少ない硬い土があるということですか?」
ニオは小さく頷いた。
だからだ。だからあんなに、中身のないすかすかな黄養になってしまった。
水と、無いものを無理矢理吸わされて、あんなにも膨張した。
胃から何かが上がっている。
身体の内側がじんじんと軋む。
「るてぃな、ゆっくり」
3人の目が、心配そうに見つめている。
ルティナは落ち着いてから、口を開く。
「あの黄養は、中身がすかすかでした。霊素も、それ以外の成分も、植物の組成としても。その魔法陣が、無いものも吸い上げて与えるのなら……その理由も納得です」
2人は何も言わない。
その言葉に意味がないからだ。
「みんな……ありがと。へーき。みんな、まもられた」
ニオの柔らかい空気が、森からも伝わってくる。
ぎゅっとレイランを抱きしめて、ニオは木の中に消えて行った。
「すごいな、ニオは」
ニオが消えた場所を見ながら、ユアンが呟く。
「ニオを抱いている間、ずっと身体の中が穏やかでした。初めて、自分の身体の魔素を感じました。あの子の魔素はとても優しい」
ニオの魔素は、森の鼓動に近いのかもしれない。
「ニオの身体を視ました。あの子の身体の魔素濃度は信じられないほど高かった。もし土が壊されてしまったら……ドリアードの身体にも影響が出るかもしれません」
地面の魔法陣は、まだくっきりと残っている。
レイランはそれを見つめ、覚えているようだった。
「あんなに小さいのに、ずっと遠い目でこの森を見ているみたいでした」
「ドリアードは、たくさんの種の中でもずば抜けて長命です。1000年以上生きるとも言われています。ニオも、おそらく100年ほどは生きているのではないでしょうか……」
ユアンはため息を漏らし、納得している。
「守りたいものがどんどん増えるな」
ユアンの言葉は、ルティナの胸に響いた。
傲慢だと分かっていても、守りたいと願うのは悪いことではない。
ユアンと出会って、ルティナはそう思えるようになった。
自分のこの力も、このまま世界に寄り添えるものだと、信じたいのだ。




