翠の季-19.影
さっき見たあの光景が、まだ目の裏に鮮明に残っている。
あの場所の霊素が何か特別だったのか。
そういう違いは特に感じなかった。
霊核の起こす現象があるとしても、ルティナはそれをよく知らない。
あの霊素は反転もしていなかったし、森に悪い影響は出ないと思う。
それに、あの震えるほど神秘的な光景は、時が止まったように美しかった。
悪いものだとは思えない。
分からないなら、知っていくしかない。
しばらく、あの場所に通って経過を見ていこう。
「大丈夫か?」
ユアンが覗き込むように身体を傾けていた。
誰かと一緒にいる時でも、すぐに考え込んでしまう癖はなかなか抜けない。
「あ、はい、申し訳ありません。少し考えてしまいました」
ユアンは何か言いたげだ。
喉の奥で止めたのが見て分かるほどに、言葉を飲み込んだ。
「今、何を言おうとしたのですか?」
瞳を斜め上に寄せて、眉は困ったように歪む。
もごもごと動く口はからは言葉が出てこない。
そんなに言いにくいことは何だろう。
「ルティナってさ、俺のこと……名前で呼べない?」
「……? 呼んでおりますが」
「いや、様なしで」
ユアン……?
絶対に無理だと確信が持てる。
ルティナは敬称なしで人を呼んだことが一度もない。
「……ユアン……様……無理です」
分かっていたけど残念だ。というのが顔から滲み過ぎている。
「じゃあさ、もう少し砕けた感じで……話せない?」
「くだ、けた……?」
「うん、絶対に丁寧な言葉を崩さないだろ? 誰に対しても」
「丁寧でしょうか……これが普通なのですが。気になりますか?」
丁寧、なのだろうか。
言葉遣いは、父に1番口うるさく言われたことかもしれない。
父は、言葉の響きや意味を、とても大切にする人だった。
父と話しているときも、今と大して変わらなかったと思う。
「気になるっていうか、前に……“ありがとう”って言ったの覚えてる?」
「何度も言っていると思うのですが……」
「いや、ありがとうございます、じゃなくて、ありがとうって」
「……申し訳ありません。無意識だったのだと思います……」
本当に、まったく記憶にない。
いたたまれずユアンを見ると、なぜかとても嬉しそうだ。
黄金色が弾けて舞っている。
「あれがさ、なんか感動したんだよ。初めて少し近付けた気がして。でも、無意識だったんなら、本当に素だったってことだろ? それにも今、感動した」
「……そんなに距離を感じてしまいますか……いつ、言いましたか?」
「いやだ、言わない」
「その時のことを思い出せば、少し変わるかもしれませんよ?」
「いい、無理されるなら意味ない」
「……今日は、少し駄々っ子のようですね」
「少しずつ、言葉が崩れていくのを見守るっていうのも楽しそうだ」
一体どうしたのだろう。
ユアンは弾みながら半歩前を歩く。
自分の話し方がおかしいとは思ったことがなかった。
確かに、ユアンの話し方はとても心を許してもらっているように感じる。
逆に考えると、心に壁を作っているように感じるのかもしれない。
でも……無理だと思う。
家に戻ると、久しぶりのレイランが庭の中で待っていた。
知り合ってから、こんなに会っていないのは初めてだ。
訓練のためとはいえ、ユアンを毎日ひとりにしているのは心配だと思う。
レイランはこちらに気付くと、笑顔で軽く会釈をした。
相変わらず爽やかだ。
「ルティナ様、すごく久しぶりな気がしてしまいますね。ユアン様が困らせたりはしていませんか?」
レイランは門の方まで走ってきて出迎えてくれた。
「本当にお久しぶりです。ユアン様は……とても覚えが早くて、もう制御も問題ないと思います。レイラン様こそ、ユアン様が心配だったのではありませんか?」
「ユアン様ですか? 腕が治ってからは、まったく心配しておりません。こんなに早く終わるとは、教え方が上手いのだと思います。さすがです」
「実際そうだよ。とても分かりやすい」
この2人の空気は、やはりとても心地良い。
不思議な安心感がある。
庭の端では、リズがフェンの近くにぴたりと寄り添ってうとうとしている。
リズもフェンとずっと会えていなかった。
この庭での昼寝も久しぶりだろう。
3頭が並んでまどろむ姿は、この庭の平穏そのものだ。
「その魔導石は……どうしたのですか?」
レイランは何かを感じたのか、籠の中を見る。
それを見ると、落ち着けたはずの心が、また波立ち始める。
ユアンは静かに、ルティナに任せている。
「この先の森、核の近くで見つけました。魔導石と魔法陣を使って、植物を無理に大きくしたのだと思います。……この植物は、市場で少し高価な素材として扱われますから」
レイランは分かりやすく不快感を示した。
魔導石を手に取り、何かを確認している。
「魔導石はもう空ですね。水と土……だとすると、複合魔法陣……いや、そんな高度なことをするようなやり方ではないですね。同時に2つ展開したのか」
籠の中にあった燃え滓からは、魔法陣の一部が僅かに読み取れる。
ルティナにはまったく分からないが、レイランはじっと見つめている。
「これは土魔法の陣ですね……増幅か促進か……これだけだとわたしには分かりませんが……」
「土の中に、直接何かの力を与えるような魔法ってことか。土に……水と合わせて……水肥を一緒に合わせて、治癒魔法のようなものを展開したとしたら……どうだ?」
ルティナは2人の会話に感心する。
今までも、同じようなことを見かけることはあった。
その度に憤りを感じながらも、森への影響が最小限になるように処置をすることしか出来なかった。
薬草が薬効を無くし、食物としての植物が毒性を持ってしまう事もあった。
そして、それは未だに元に戻っていない。
考えただけで吐き気がする。
「ありそうですが……これは専門家がいないと難しいですね。この件をどう扱うかも、少し難しいかと思います」
「そうだな……」
誰かを傷付けたわけではない。
ただ魔法をそこで発動しただけだ。
罪に問えることでないことは、ルティナも分かっている。
「ルティナ、これ知っているって言ってたけど……こういうことはよくあるのか?」
「頻度で言うと、それほど多くあるわけではありませんが……そのすべてをわたしが把握しているわけではないと思います。一度それがあった森では、しばらく見かけることはありません。年に2、3度は、あると思います」
年に2、3度という頻度を、どう捉えるだろう。
自然の時間は、とても遅い。
元に戻れる程度の変化だとしても、それには途方もない時間がかかる。
その頻度で植物が壊れていく先を想像すると、全身が寒くなる。
「季節の移り変わる時期に、ばれない程度にやってるってことか」
ユアンからまた、冷えた空気が漏れている。
彼はとても冷静だが、怒っているのだ。
「ルティナ様、これの与える影響は……どのようなものでしょうか。森に対しても、植物に対してでも、なんでも構いません」
今まであったことを思い出す。
父の言葉も、ルティナには深く刻まれていた。
「今回は、今まで見たものよりもかなり小さい範囲です。魔導石が2種類あったのは今回が初めてです。……数年前、とても広範囲で同じようなことがありました。その森では、薬草の薬効が消え、食用の食べ物が毒性を持ちました。それは今でも戻っていません。霊素を見る限り、もう別の植物へ変わっているかのようです。使う魔法の違いなのか、そこまで深く植物の成り立ちに影響しない場合もあります。それでも……元に戻るには5年ほどかかりました」
レイランは何か思い当たったのか、再び籠の中を調べている。
「父は……霊素の記憶は種に宿るのだと言っていました。歪んでしまったまま落ちた種は、歪んだまま成長します。そして、元の記憶を取り戻すことは……ないのだそうです」
「ルティナ様、狙われる植物はどういったものが多いのでしょう?」
「その時によって違います。特に一貫性は感じませんが……数年前に広範囲で起こった時は、解熱作用のある薬草と、ラムラの果実、あとは胃腸薬として使われる薬草が多く掘り起こされていました」
レイランの目は鋭く、彼からは怒りよりも不快感が強く出る。
「今回のこれは……?」
「これは黄養と言って、薬効が万能と言いますか……広く色んな症状に効くのです。常備しておくと安心で、理由の分からない軽い不調に使用すると案外それで治ってしまったりしますね。専門的でない、薄い効果の万能薬のような薬になります」
籠の中身をきれいに整え、レイランはルティナに向き直る。
「数年前王都で、腹痛を伴う嘔吐、高い発熱の症状が広まったことがありました。その時に多く求められたのが、解熱薬、胃腸薬、ラムラの果実です。不足しがちだったのもあり、値が高くなっていました。偶然ではないでしょう。やり方も気になります」
「商家か」
「確証はありませんが……。魔導石を使い、薬、食べ物、その時に必要で利益を取れるものを集め、人からも感謝されながら高値で売る。やりそうなことだと思います」
ルティナは感じたことのない拒否感を覚えた。
人の深く考えないほんの出来心なのだとしたら、まだ良かった。
人はそのほとんどが灰色だ。
そして、自分が一番優先なのだ。
それでも、この2人のような人がいると、知ったのも事実だ。
この問題をなんとかできるなら、これほど嬉しいことはない。
でも、そこに足を踏み入れることに強い拒否感がある。
自分自身がどろりとした何かに飲み込まれて、消えてしまいそうな気がする。
人の領域。
ルティナにはそれが、どうしても受け入れられない。
「ルティナ様、これをお預かりしても構いませんか? そして、森の方の心配をして下さい。あとのことは、こちらに任せていただけると助かります。王都には最強の魔法研究者と、おそろしく目が高く、手の長い人がおりますので」
レイランは不敵な笑みを浮かべている。
胸の内を読まれてしまっただろうか。
ユアンは自信たっぷりといった表情で、にこやかに笑う。
「ああ、何も心配しなくていい。その手の長い人は、俺が知る中で最も敵に回したくない人だ。ウィランとレイラン、俺がまとめてかかっても敵わないくらいだ」
ルティナは想像できなかった。
その3人が束になっても敵わない人とは、一体どれだけ恐ろしい人なのか……。
さっきまでの鬱々とした空気が嘘のように晴れた。
2人からその人へ、揺るぎない信頼をひしひしと感じる。
ルティナはほっとした。
2人を集い間に招き入れ、久しぶりにゆっくりとお茶を飲むことにした。
レイランはとても嬉しそうに、顔いっぱいで笑ってくれた。
火床に行こうとすると、レイランが立ち上がった。
「ルティナ様、前にお願いした……お茶の淹れ方を教えていただきたく……」
言いにくそうに、少し照れながら言うのを見て、驚いてしまう。
「構いませんが……本気だったのですね……」
「……は?」
「いえ、わたしを気遣って言って下さったのだと思っておりました」
「それは心外ですね。思っていないことを口にすることはなかったと思いますが」
レイランの声が少し低く、ぱっきりした口調のときは、だいたい怒っている。
「確かにそうです。失礼しました。じゃあ今日は基本的な淹れ方からにしましょう」
「よろしくお願いいたします」
レイランは文化や考え方、その背景。
そういった成り立ちや在り方を感じるものに惹かれる性分のようだ。
ユアンは集い間に腰掛けたまま、静かにこちらを眺めている。
皆で飲むのなら、やはりあれだろう。
「レイラン様とわたしの分は温かく、ユアン様には少し冷やしてお出ししましょうか」
レイランは小さく頷いた。
ルティナは鉄瓶で湯を沸かしながら、ホノシズクの成葉茶を棚から取り出す。
新芽茶よりも一段深く、気は中庸で、味も香りもバランスがいい。
日々の中に馴染み、飲みやすい茶葉だ。
急須と湯呑みを2つ、そしてグラスを1つ保冷棚に入れる。
大きな泡がぽこぽこと音を立てたら蓋をずらし、そのまま少し水を煮る。
「鉄瓶……ですか。初めて見ました」
確かに、鉄瓶はとても珍しいものだ。
父がずっと大切に使っていたもので、ゆうに100年は経っているのではないか。
「鉄瓶で沸かす湯でお茶を淹れると、まろやかになるのです。鉄瓶でなくとも、湯が沸いてからしばらく煮る方が、湯が丸くなります」
茶葉を3人分急須に入れようとして、手を止める。
「レイラン様、やってみましょうか」
ルティナは場所を変わり、茶筒と匙を手渡す。
一瞬尻込みしたように見えたが、緊張しながらも手に取る。
「ひと匙で1杯だと思ってください。あまり盛らずに、自然に匙に乗る程度で」
ルティナは鉄瓶を火から下ろしておく。
緊張しているが、レイランは手が良く動く人だ。
薬草の処理を手伝ってもらったときも、初めてとは思えない手さばきだった。
「このくらいでよろしいでしょうか?」
ちょうどいい。これも感性だ。
「いいですね。次に、湯呑みに湯を注ぎ、湯の量を測りながら温度を下げます」
「温度を下げる……のですか?」
「紅茶は沸騰した直後の温度が良いです。薬草茶や花茶などは、沸騰したばかりの湯だと渋みを感じやすくなり、甘みや旨味も上手く出ません。湯呑みを温める役割もありますね。良い温度を保つのには湯呑みの温度も大切です」
レイランの胸が躍っているのが分かる。
鉄瓶の持ち手を布で抑え、湯呑みの8分目あたりまで注ぐ。
そのまま少し待ち、それを急須へ入れる。
茶葉が蒸れるのをしばし待つ。
程よく蒸れたたら、湯呑みへ注ぐ。
「お茶を淹れるこつは、焦らないこと。程よく待つことでしょうか。お茶の濃度が均等になるように、湯呑みに交互に注ぎましょう。最後の一滴まで残さず注いだらこちらはこれで大丈夫です」
レイランはふっと息を吐いた。
その湯呑みを見つめる目が、ルティナにはとても印象的だった。
新しいものを見つけたような、そんな目だ。
「次に、鉄瓶の湯をそのまま急須へ。濃く出したいので熱めのお湯で長めに蒸らします」
説明で促しながら、ルティナは冷やしたグラスと清水を保冷棚から取り出す。
レイランの手は、もうすんなり動く。
鉄瓶を置いたレイランは、そのグラスをさっきと同じ目で見つめる。
「冷やしたグラスにそのまま熱い湯を入れると、割れてしまうことがあります。先に少し清水を入れておきましょう。そこに濃く出したお茶を注ぎ、濃さの調整を水の方で行います」
頷きながら手を動かす。
もうあまり言葉はいらないかもしれない。
レイランは汲み取るのがとても上手だ。
急須を持ち、グラスへと注ぐ。
水の入ったグラスに深い緑が回っていくのは、眺めていても安らぐものだ。
「普通に淹れたお茶を冷やすのも良いのですが、どうしても香りが薄くなってしまうので……わたしはこの淹れ方で落ち着きました。色々試してみるのも楽しいと思います」
ユアンのお茶も、綺麗に注がれた。
ユアンが待っている集い間へ、レイランがお茶を運ぶ。
ルティナから見ると、それは最高に貴い光景だった。
3人で向かい合う場所で、美味しいお茶をいただく。
この贅沢な時間は、他に変わるものはないだろう。
レイランの淹れた初めてのお茶は、すっきりと喉に通った。
「ルティナが淹れるより、爽やかさが際立っているな。これも美味しい」
ユアンの言葉は的を射ている。
本当にそうなのだ。
同じ茶葉で、同じ淹れ方をしたはずなのに、とてもすっきりとした後味だ。
「本当ですね、自分でも違いがわかるほどです。何かあるのでしょうか」
2人の視線がルティナに向く。
「……確実な違いを言えるわけではありませんが、その人の空気……も関わっているように思います。父が淹れるお茶は、とても深みがありました。わたしはあの味をまだ再現できません。その人が映り込むようなもの、かもしれません……」
お茶の世界も深いものだと、改めて思う。
何か目に見える違いはないが、口にすると確実に違いは感じるのだ。
それが自分だけでなく、同じように感じる人がいることが嬉しかった。
「とても、楽しい時間でした。また是非、お願いします」
今度は疑うことなく、その言葉をそのまま受け取った。
ちょうど、発酵させた茶葉を作りたいと思っていたのだ。
「新しい茶葉の製法を試してみたいと思っているのです。もしよろしければ、ご一緒にいかがですか? 何度も失敗すると思いますが……茶葉を作る工程を知ると、味の意味や理解がしやすくなるかもしれません」
「とても面白そうです。是非ご一緒させてください」
レイランは背筋をぴんと伸ばし、切れ長の目が丸くなった。
ルティナは思わず吹き出しそうになる。
良きお茶仲間ができてしまったかもしれないな、と、笑顔で頷いた。




