翠の季-18.霊素
ユアンがエンの森に通って来るようになって、10日ほどが経った。
その進歩は速く、ルティナは日々驚くばかりだ。
季節が進むにつれて、エンの森の陽は強くなってくる。
ユアンにはそろそろ重く感じてくるかもしれない。
ルティナは場所を変えてみることにした。
エンの森から少し東――エルゼド大森林に寄ったところにあるタヤの森だ。
森としての規模は少し小さいが、ここはエンの森にはない植物が多い。
フェンたちには留守番を頼み、ルティナは小さな籠だけを手に歩く。
「歩くのもいいな」
ユアンは、すっかり涼し気な初夏の装いだ。
薄手のショートマントの下は、まっさらな立ち襟の白いシャツ。
首元を緩め、長袖を捲り上げている。
きりっと折り目の付いた濃紺のズボンをブーツにしまい、マントから見え隠れする艶やかな剣は、以前より少し重みを感じる。
腕が治り、愛用の剣に戻したのかもしれない。
これが、いつものユアンなのだろう。
「あれだけのんびりしていると、連れ出すのがかわいそうになりますね」
「ああ、アウリスはあんなに穏やかなやつだったんだな」
ユアンはすっかり落ち着いていた。
統合の感覚を掴んだことで、彼の身体は静けさを増したように感じる。
身体から強く放たれていたものが中心を持って留まり、ユアンを包んでいる。
ゆったりと、そして以前よりも密度を増し、存在が安定した。
ユアンには天性の感じる力があるのだろう。
タヤの森に入ると、ひんやりとした空気が肌に触れる。
これが、本来の森の空気だ。
「涼しい……」
ユアンが森の奥を見ながら呟く。
「エンの森と違うでしょう? これが森の空気です。この森は、この辺りの森の中では一番中庸なんです」
「ああ、分かる」
「ここより更に東に進むと、森の陰が強くなります。ちょうどアルデ大陸の陰陽の境目にある森です」
「ルティナには、本当に世界が近いんだな」
この体感の捉え方が、彼の大きさだと思う。
ルティナが彼を“同じ”だと感じるのはこの部分だ。
ルティナの感じ方は、それが自分の内側にあるような近さだ。
ユアンは、隣にある近さとして捉えている。
「自分の外にある霊素を感じるには、この森が良いような気がしたのです」
「エンの森では、少しぼやけていたのが分かる。ここだとくっきりと掴める」
「そこが、霊素を扱うのに難しいところだと……わたしは思っています」
ここの霊素は陰陽が均等でとても安定しており、あまり動きがない。
太陽が高くなると少し陽に寄り、夜になると少し陰に寄る。
陰陽の波――ゆらぎが穏やかなのだ。
ルティナとユアンの感じ方に差が出にくい場所だろう。
「霊素を扱うとき扱いやすいのは、自分の体内の気素と同じ属性です。わたしの場合は圧倒的に陰の霊素の方が馴染みやすい。でも、体感で感じやすく心地よいのは……陽の霊素なのです」
ユアンは感覚を思い出すように、目を閉じた。
「わたしは外の霊素をそのまま扱うことは、あまり得意ではありません。霊核の性質で、ある意味無限に近い量の霊素を取り込めます。陰の霊核はとても深いです」
「霊素を取り込む……というのが、あまりよく理解できない」
「ユアン様は逆に、取り込むのが得意ではないと思います。陽の霊核は外へ向かうもの。体内に入れず、自分の気素を楔のようにして霊素を集められるはずです」
「楔……」
「わたしが取り込みやすいのは陰の霊素ですが、自分に近い霊素は感じにくい。陰が濃い場所の方が扱うのに適していますが、そういう場所の温度は低く、陰の霊素は取り込むほどに身体が冷えていきます。自分の霊核の力を使うことで更に……陰の力は深く、どこまでも静かです。この真逆のことが、ユアン様には言えるのです」
「……限度を超えると、自分を焼き焦がしてしまう……ということか」
ユアンは腕を見た。
「すべては限度とバランスです。それを把握するために、気素と霊素を感じ取ることが何より必要になります」
驚くほど満足そうに、ユアンは笑っている。
ルティナには、その笑顔の意味がよく分からない。
「理解すると、これほど分かりやすいことはないな。最近よく感じるんだ、自然の中の仕組みはとてもシンプルだと。複雑な難しさには自信がないが、これならただ掴めば良いだけだ。俺にもできそうで安心したよ」
なんなんだろう、この楽観は。
危ないという話をしているのに。
ルティナは少し不安になる。
本当に分かっているのだろうか。
つい最近まで、そのせいで自分が死にかけていたことも忘れていそうだ。
「ユアン様ならできると思っていますが、しっかりと胸に刻んでください。危ないのは事実です」
「だから、できるようになるまで側で見ていてくれるんだろう? だったら大丈夫じゃないか」
なぜかとても楽しそうだ。
新しいことを覚えられるのが嬉しいのだろうか。
「なるべくお手伝いをするつもりですが、常にそばにいられるわけではありません。腕のときのように、徐々に進むものばかりではないのです」
「でも、それを覚えれば、ルティナのことを助けられるのが分かるんだ。霊素を集めるって聞いてぴんと来た。君の父上がやっていたのはそれだ」
……確かに、そうかもしれない。
陽の霊核があるから直感で分かってしまうのか。
自分とは違う感覚を、少し体感してみたくなる。
同じ霊核、性質は対極。
自分とは違う視点で見るこの世界は、どんな風に映るのか。
表と裏から見るほどに差があるのか、案外まったく同じに見えるのか。
「でも、まずは一歩ずつだな。どうすればいい?」
ユアンの空気が弾んでいる。
純粋に楽しんでいるなら良いのかもしれない。
「そうですね……感じることから始めましょう。気素と霊素は元は同じですが、扱い方はまったく別物です。まずはここにある霊素を感じられるようにしましょう」
「エンの森とは違うんだよな。あっちは、“濃い”んだ。ここは濃さよりも……何と言うか、うっすらとした圧を感じる」
「圧、ですか」
「ああ、ものすごく薄い霧みたいな、薄まった水の中にいるみたいな」
ルティナにとってエンの森は、温かいものにくるまっているような感覚だ。
それはあそこにある濃い陽の霊素の感触だ。
ユアンが感じているのは、陰の霊素の感触なのだろう。
「その霧のようなものが、陰の霊素だと思います。それを明確に、最初は存在を感じ、最終的には1粒まで細かく感じられるようになるのが、感覚の最終地点ですね」
ユアンは感覚を広げ始める。
以前のようなありのままではなく、きちんと整えられ均一に広がっている。
「なんとなくは感じるが……なんか薄いな。ここは霊素自体が薄い?」
「ユアン様の体感は本当に鋭いですね……何も感じないところには、陽の霊素があると思ってください。それを自分で補完して、全体を捉える。感覚が深まれば、陽の霊素自体も分かるようになります」
「前にルティナが言ってた、“ないことを感じる”ってこういうことか」
ユアンの集中が一段上がった。
限りなく点に近い集中だ。
これだけ鋭いから、何も知らないままでも生きて来られたのだと思う。
ルティナも同じように、タヤの森を内側に入れる。
ゆらりと動く霊素。
跳ねる虫、舞い散る花びら、芽吹く双葉、土の中で育つ種。
そのものにある霊素を、静かに感じる。
ルティナはこの時間が好きだった。
ユアンは長い間そうしたまま動かなかった。
これは自分との対話みたいなものだ。
「ルティナはどこまで視える?」
ユアンはすでに相当深くまで視えているようだ。
ルティナは感じたものを言葉にする。
「ははっ すごいな。やっぱり全然遠いよ。霊素はまだ塊だし、動くものまでで精一杯だ」
本来これは、扱う段階の前にやることだ。
捉えられているだけでもあり得ないことなのに、もうルティナの感覚に近いところにいる。
「いえ、素晴らしいです。蒼の季の終わりまでにある程度できるようになればと思っていましたが、翠の季中に完了しそうです」
ユアンは少し目を伏せ、思い直したように笑った。
「もし、俺がこれをできるようになったら、一緒に王都へ行ける?」
「……少し気が早いですね。扱うのはここからまだ先ですよ」
「そうだな」
胸が温かい。
ユアンのその気持ちが、とても嬉しいのだ。
行きたい場所に行ける自由を、なんとか可能にしたいと思ってくれている。
ユアンは優しい人だ。
「まずは自分を守れるようになっていただかないと、わたしも安心できませんから」
「ああ、分かってる」
タヤの森の中を、森の気配を意識することなくただ歩く。
感じて捉えるだけでなく、実際に見ることは記憶に鮮明に残る。
五感で直に触れたものが多いほど、見えないものを捉えるときの存在感は大きい。
よりリアルに、それが本当にそこに在るように身体に入ってくる。
それは森で暮らしてきたルティナの、圧倒的な経験だ。
ユアンにとっては、同じだけの人に対する経験があるはずだ。
ユアンがより多く接していく可能性があるのは、きっと自然よりも人だ。
この小さな気配を感じ取れるようになれば、人の気配、感情は手に取るように分かるだろう。
――!
何かの気配が届いた。
それはこの先から、微かに漏れ出している。
小さな歪み、乱れ……だろうか。
心の中に、少し粘り気のあるどろっとしたものを感じる。
同じ場所にあるこの感触は、人の感情だ。
ルティナがもっとも苦手な類のものだ。
喉の奥から、何かが上がってきそうになる。
「ルティナ、平気か?」
ユアンも気付いている。ルティナが感じた方向に視線を送っている。
穏やかだった空気が、一段重く張り詰める。
「ここにいるか?」
「いえ、行きます。この感覚は、知っています」
「……じゃあ、行こう」
気配を追いながら、森の奥へ進む。
近付くほどに分かる、魔素と植物の乱れ。
そこにいたであろう人の、感情の残滓。
最近は、こういうものから離れ過ぎていた。
やけに重く、のしかかってくる。
しばらく進むと、森の中の小さな空間に出た。
そこは、タヤの森の中心。森の核がある場所だ。
ルティナは核のある方へと進む。
ちょうど太陽が降り注ぐ場所、その濃い陽の集まりは、変わらず澄んだ光が溢れている。
付近にも淀みは感じない。
以前来たときと、濃度も大きさもほぼ変わっていないように見える。
核は、大丈夫だ。
「これが……森の核か。力強く美しいものだな……」
霊素と共鳴するように、ルティナにはユアンが輝いて見える。
ユアンより少し白に近い黄金色だ。
気配の場所は、もう少し手前の木の陰にあった。
見た瞬間、ルティナは眉を寄せた。
湧き上がるのは、紛れもなく怒りだった。
そこには、投げ捨てられるように置かれた魔導石と、雑に掘り起こされた土。
僅かな燃え滓は、おそらく魔法陣だ。
付近には、不自然な生育をした植物たちの乱れた霊素を感じる。
怒りで涙が込みあげる。
なぜ。
なぜこんなことができるのか。
ルティナはその場に膝を付く。
不自然に大きく、霊素がすかすかになっているのは、黄養と呼ばれる薬草だ。
効能が広く、需要が高い。少し高い値段で取引されるものだ。
もっと価値を吊り上げたかったのだろう。
だが、これはもう薬としての効果など微塵もない。
これはもう奇形だ。霊素がまったく噛み合っていない。
それに気付く者もおそらくいない。
こうすることに、なんの罪悪感もないのだろう。
「……このあと、ここはどうなる?」
その低い声は、冷たく落ちた。
ユアンに、初めて冷たさを感じたかもしれない。
ルティナは震える声を抑える。
「ここの森には、特に影響はありません。核はしっかりしていますし、森はこれを抱擁します。ですが……」
声が震える。
悲しみか、怒りか、その両方か。
この黄養の痛みで、捩じ切られそうだ。
「……この場所の黄養……この薬草は、もう薬としては使えません。このまま種を落とし、また来年同じように育っても……中身は元に戻りません。少なくとも数年、もしかしたらこの先ずっと。これが、この森の他の黄養に巡らないことを願うしかありません」
ルティナは、目の前の魔導石と燃え滓、捨てられた黄養を拾い集める。
土の中の根も、できるだけ丁寧に掘り起こす。
壊れてしまった植物の痕跡は、他の植物にまで影響を与えるかもしれない。
周りの草や木を確認して、少しでもおかしなものは取り除く。
ユアンは黙って手伝ってくれた。
「この場所だけ、とても霊素が薄いのは大丈夫なのか?」
ここでたくさん魔素を使ったのだろう。
ぽっかりと穴が開くように、この場所は霊素が薄くなっている。
「……数日で元に戻ると思います。使われたのが水と土の魔導石なので、少し陰が強くなっていますが……核も近いですし、また後日、様子を見に来てみます」
ルティナはようやく立ち上がった。
この場所から離れるのを、何かが拒んでいる気がする。
ユアンが、何かに集中し始める。
今までとは違う気素の動きだ。
ユアンの左の手のひらに、ふわっと温かい光が集まった。
そのまま手を前に出す。
霊素がざわめく。
なんだろう、この感覚は。
まるで霊素がこちらを見ているようだ。
森のあちこちから、黄金色の光の粒がユアンの手に集まって来る。
綺麗だ。
この森の霊素が、ユアンの形を求めるように。
手のひらの光が強くなるにつれて、ユアンの背中に何かが形作られていく。
――翼。
透ける黄金色。
その翼が纏うのは、朱に近い粉のような光だ。
耳飾りのように流れるのは、美しい尾羽。
陽炎が揺らめき、でもそれは確かに形を成した。
霊核の姿が、ユアンに顕現する。
内からではなく、外の霊素がその姿を映した。
「……ユアン……様。翼が……」
その声に振り向いたユアンは、驚くように辺りを見回す。
そして、黄金に輝く瞳がルティナに向いた。
呼び起こされるように、ルティナの奥底から湧き上がる。
ルティナの元に、ユアンに向かって動かなかった白銀の霊素が流れ込む。
溢れる白銀は、ルティナの身体をいっぱいに満たす。
弾けるように、月狼が姿を現した。
その瞬間。
集まった2色の霊素が重なり合う。
足元から沸き立つ白銀の霧。
流れる黄金色と朱色の粉が混ざり合い、真珠のような輝きを放つ。
幾重にも重なる霊素がその場を巡り、消え入るように森に溶けた。
あまりの光景に動けずにいると、いつの間にか森は、静かになっていた。
ルティナは呆然と佇む。
こんなことは初めてだった。
霊素の意思を、初めて感じた。
「……ルティナ、今のは……何だろう?」
「わかりません。でも、霊素の意思を、初めて感じました」
「ルティナ、耳出てたよ」
「ユアン様にも、翼が……」
あれは、自分たちの意思に霊素が応えたのか……。
それとも霊素自身の意思なのか。
目の前の場所に、もう霊素の隙間はなくなっている。
もし、あれが何か意味があることなら……
「来年、またこの場所に来よう」
ユアンの瞳は、いつもの優しい琥珀色に戻っていた。
「はい」
ルティナは、霊素の舞った森の余韻を、感覚の上に刻んだ。




