翠の季-17.体感
いつからか、自分の中に在る霊核が分かるようになった。
ルティナの話を聞き、身体を巡る何かの正体を知り、それを少しずつ感じるようになった。
なぜだか分からない。
でも、自分の霊核に宿っている者の姿が分かる。
黄金色の光を放ち、炎のような余韻を残し翔ぶ、焔鷲だ。
ルティナの身体に映された月狼は、青みを帯びた白銀だった。
それが精霊だと認識できているわけではない。
精霊とは何なのかも実感がない。
だが、あの姿はあまりにも高潔だった。
静謐なその光に目を奪われたのは、言うまでもない。
今朝は早く目が覚めた。
ルティナの香のお陰で、以前よりも深く眠れている。
起きてしまうのではなく、自ら目覚める感覚は、とても気持ちがいいものだ。
五感が変換されるのであれば、その感じ方を自分が制御できるのではないか。
その気付きは、とても大きいものだった。
煩わしかった纏わりつく気配も、今は遠くに置けている。
今日から本格的に、霊素の扱いを覚えることになっている。
これからしばらくは、毎日ルティナの家に通う。
どのくらい時間がかかるのか……想像するのはやめた。
でも、とても楽しみなのだ。
これを制御することができたとき、自分自身はどう見えるのか。
そして、それを持った自分が、この世界をどう感じるのか。
ルティナに会ってから、この世界はずっとずっと明るい。
早朝のエンの森はとても静かだ。
空気はまだ湿り気があり、それはうっすらと白い靄として残る。
いつもより、土の匂いが濃いだろうか。
人から感じるのと同じように、そこには確かな気配がある。
感じ方はずっと柔らかく、自分を澄ませないとすぐに途切れてしまう。
小さな魔獣の息遣い、木を渡り飛ぶ小鳥の声、葉から落ちる水滴、草が揺れる音。
この消えそうに小さな音を、ルティナはずっと捉えていたのだろうか。
そして今、それは自分にも聞こえている。
「おはようございます、ユアン様。朝早い時間は澄んでいるでしょう?」
庭の門の前で待っていたルティナは、朝陽のように微笑む。
「おはよう。こんなに感じ方が違うのかと驚いているよ」
「早朝はまだ陰が強いですから、ユアン様には浮かび上がって感じるはずです」
「じゃあルティナは違うのか?」
「慣れてしまえばさほど変わりありませんが、どちらかと言えば昼間の方が強く感じますね。ちょうどこの時間あたりから、徐々に陽に切り替わってきます」
ここからは太陽の時間。
確かに、自分と近いものほど感じにくい。
だったら、夜に感覚を研いでみると、もっと分かりやすいということか。
庭の中に入り、アウリスが自由に過ごせるようにする。
フェンとアウリスは庭の端の方に寄り添い、こちらを眺めている。
こちらから距離を取り、気を遣ってくれている。
ユアンは庭の真ん中で、大きく身体を伸ばし、深呼吸をした。
身体の中を洗い流すように、ここの空気は澄んでいる。
「では、この森の気配を感じないように、閉ざす……ということはできそうですか?」
感覚を閉ざす。
外に広がる自分の感覚を、自分に引き寄せるということだろうか。
「ユアン様とは逆になりますから、わたしの感覚のみお伝えします。わたしの場合は、流れ込んでくるものを自分に入れないようにする。霊核の力を自分の周りに押し広げ、それで守るように留めます。その中に自分の意識を置き、外の世界を遠ざける」
ルティナの気配が小さく、遠くなったように感じる。
そうだ。街にいるとき、ルティナの気配はこういう感じだ。
「あ、ユアン様はもう霊核を感じられますか? 霊核の場所は人によって違うのです。父は首の後ろ、わたしは下腹部にあります」
ルティナは自分の腹の前に手を置いた。
それがユアンには手に取るように分かる。
むしろ、自分の霊核よりもはっきりと感じられる。
「ああ、分かる。ちょうど胸の中心。鳩尾よりも少し上あたりだ」
ルティナは頷く。
「もう随分と体内は安定しているように感じます。きっと巡りも感じていらっしゃるのでは?」
「そうだな、前に比べれば分かるようになったと思う」
「やはり、素晴らしい体感ですね。少し羨ましいです」
羨ましいと言いつつ、その顔はとても嬉しそうに見える。
自分のことのように喜ぶ彼女に、ユアンは少しむずむずした。
「感覚を閉じる、だね。やってみるよ」
ユアンは目を閉じる。
自分の霊核を中心に、広がっている感覚を集める。
それを意識すると、とても不思議な体感があった。
“自分”という存在が強固になったような。
地に足が着いて重みを感じるような。
「少し、緩めて下さい。集めすぎると負担になります。自分の周りに纏うような範囲が良いと思います。そこで安定させ留める」
ルティナの声が、耳ではなく全身から染み込んでくる。
心地よい。
その声はいつでも、意識の内側へすっと入る。
霊核に集まった感覚は、胸の中心で熱を持つ。
自分の中心で、それは黄金色の塊になった。
「その感覚を慣らし、自分の心地よい範囲で留め、常に同じ強度、同じ範囲で安定させて下さい。その状態で、自分の体内で気素が巡ることを感じて下さい」
その声を感じながら、意識を体内に向ける。
体内に向けると、安定させた霊核の力が不安定になるのがわかる。
「自分の視点を中に入れるのではなく、自分の視点を少し遠くに。遠くから自分を眺めるように。その視点を持ちながら、別の感覚で体内を感じて下さい。音、触れる感触、もう一つの目。すべての感覚を緩く集めて、身体を感じる……」
視点を遠くに。
斜め上から自分を見るように。
それを保ったまま、体内の巡りを感じる。
身体の中に、うっすらと黄金色の何かが浮かび上がる。
まだはっきりとしないその光は、ゆっくりと身体を進む。
感覚を研ぎ澄ますと、それは全身にあることがわかる。
身体の中心、霊核から送り出される光が、徐々に存在感を増していく。
――ふっと、それは起きた。
何も感じない。見えない。聞こえない。
確かに、体内で何かが動いているのが分かる。
黄金色の粒が、小さく弾けながら体内を動く。
その動きを追いかけていると、もとの視界がうっすら戻ってくる。
不思議だ。
外側からの景色と、内側から感じる体感が、自分の中心で混ざり合っている。
外のものを、自分の内側から感じる。
自分の体内が、外からでも分かる。
自分の周囲、前後左右上下が、すべて視えている。
すべてを捉えている。
そして、ただそこに感じる、青白く美しい白銀の光。
「素晴らしいです。初めてなのにここまで……すべてが一致しましたね」
その声に導かれて、また自分に戻ってきた。
「すごいな」
自分から出た感想は、その短いひと言だけだった。
「世界とひとつになった感覚……でしょうか」
ルティナは離れたところで見守ってくれていた。
あの青白い光は、ルティナの霊核だ。
今なら、彼女の穏やかな瞳の意味が分かる。
ゆっくりと歩いてくる彼女を、とても近く感じる。
思わずルティナの手を取った。
あの霊核の色と温度、感触を、生身の自分で確かめたくなった。
「ああ、同じだ。見えた白銀の光は、ルティナだった」
彼女の霊素の感触は、とても柔らかく、少しひんやりする。
ルティナは、こんなに近くにいたのか。
「感覚の統合、これが、霊核を扱う原点の位置です」
灰青の瞳は、小刻みに揺れる。
握られた手をそのままに、彼女はその瞳でユアンを見つめる。
「わたしを見つけてくれて、ありがとう」
彼女の深い深い孤独。
自分の中にあった大きな空虚さ。
それはきっと、同じものなのだ。
どれだけそうしていただろう。
初めて誰かに見つめられたルティナ。
初めて誰かを捉えた自分。
この2つの霊核が、自分たちに同化しているのを深く感じた。
霊核のものだとも思えるこの感情は、もう自分自身のものだった。
「ユアン様……?」
ルティナの声が、胸に響く。
今までとは違う音で、もっと近くに感じてしまう。
少し心配そうな表情を向けられ、ようやく何をしていたのかを思い出した。
「あ、ああ、ごめん。ちょっと意識が遠くなってた」
ルティナは自分から手を離さない。
離せないと言った方が良いかもしれない。
まるで引力のようだ。
これは自分だけのものだろうか。
今、初めて掴んだ感覚だからそう感じるのか。
ルティナは感じないものかもしれない。
ユアンはルティナの手を離す。
自分の指先が糸を引いている感覚すらある。
ルティナが一瞬、自分の手を見た気がした。
「あ、の、少し休憩しましょうか。お茶を淹れてきますね」
小走りで家の中へ向かう彼女は、少し困っているように見えた。
鼓動は一定のままなのに、なぜか身体の巡りが速く感じる。
初めて霊核と同調した感覚に、身体が高揚しているのだろうか。
感覚の統合……と、ルティナは言っていた。
それは、霊核とのことか、世界とのことか、それとも両方なのか。
まだ、ちゃんと落ちてこない。
焦っても仕方ない。
今日初めたばかりなのだ。
早く知りたい。理解したい。
何を理解したいと思っているのか、それもはっきりしない。
ただ、あの感触だけが、指先に深く染み込んで離れない。
ユアンは両手を握りしめる。
落ち着け。
ユアンは大きく深く、息を吸う。
「お待たせしました」
ユアンはその声に、全身に震えが走った。
振り返ると、変わらない柔らかな空気があった。
「ありがとう」
庭の長椅子に腰を下ろし、ルティナから受け取ろうとしたグラスの中が、小さく震えていた。
ユアンは、安堵した。
この感覚は、きっと同じものなのだ。
少しひんやりしたグラスを受け取り、笑顔を返す。
「……良い香りだ。前にも淹れてもらった気がする」
隣りに座ったルティナからは、少し違う香りがする。
「よく覚えていらっしゃいますね」
あのときと同じく、ルティナは湯呑みを手にしている。
「ユアン様のお茶と、わたしのお茶。茶葉の種類としては2種類なのですが、植物は同じものなのですよ」
ルティナは静かに湯呑を傾ける。
「双季草という植物で、春に芽ぶき夏に土に還るものを夏相レムナス、秋に再び伸び冬にしおれるものを冬相リムラスと呼びます。どちらも体内の気素に働きかける茶葉として用います」
口に含むと、覚えのある清涼感が喉を通る。
「ユアン様のリムラスは陰調のお茶で、気素を鎮めて穏やかに。わたしのレムナスは、巡りを助ける陽調のお茶です。わたしも霊素と向き合うときによく飲んでいました」
「ああ、この清々しさはとても落ち着くな」
「焦る必要はありません、原点に立つまでが大変なのです。わたしはそこに立つまでにとても苦労しました。ここからは、ただ研ぎ澄ませ、磨いていくだけです。ユアン様ならきっと、あっという間です」
ルティナは何も心配していないという顔で、こちらを向く。
その顔が、ユアンの気持ちを何よりも落ち着けた。
「そんなに早く終わってしまうのは寂しいな。王都に戻るのが早まってしまう」
「……わたしもいつか、行ってみたいです」
その声は、叶わない願いのように聞こえる。
何がそんなに難しいことなのだろう。
「ここを離れ難い……ということか?」
「離れ難いというか、あまり長期間離れるのが怖いと言いますか……」
怖い……。
「体質の話になりますが、陽の霊核は体内の巡りを活発にします。巡りも力強く、疲れを感じにくい。眠った時の回復も早いですが、きちんと休息を取らないと疲れをため込んでしまいます。ヴェリッダを追った翌日のユアン様のように」
あのときの身体は、もう少しも耐えられないほど疲れていた。
耳が痛い。
「陰の霊核は、身体の巡りを穏やかにします。巡り自体がとてもゆっくりで、あまり乱れることはありません。ですが……一度乱れると、治すのに時間がかかってしまうのです。身体が冷えやすく、冷えるとより一層巡りが遅くなります。ここの森がそれを緩和してくれるのです。だから父は、わたしのためにここを選んだ」
ユアンはその言葉に胸が痛む。
ルティナにとってそれが心地よいとするなら、ここで長く暮らすことが父親にとっては負担であるということが、今なら分かる。
今はユアンにとって、ここは心地よい。
でもこれから夏に向かうにつれて、ここの陽がきつく感じるのは理解ができる。
「わたしには、治癒魔法がほぼ効きません。ユアン様も、それは実感したことがあるのではないでしょうか」
「確かに、効果は薄いが……まったく効かないというほどでも無かったが……」
「ユアン様は陽の力で、ご自身である程度回復しているのだと思います」
首筋に、冷えた空気が抜けた。
ルティナはまったく傷を負えないということではないか。
体調は崩さないように注意できても、怪我はそういうわけにいかない。
「……今までは、どうしていたんだ? まったく傷を負わないなんてそんなの……」
「あ、あの、傷を負っても、それが酷くなる速度も遅いのです。人には自己回復の力がありますから、それだけで何かあるわけではないのですよ? 変な言い方になってしまって申し訳ありません……」
だとしてもだ。
致命傷になるような傷を負ったら、もう助からないのではないのか。
「深い傷を負うと……冬眠のような、深い眠りに入ることで癒すようです。自分ではあまり覚えていないのですが……」
「それは……必ず目覚めるのか……?」
胸の内側から、何かが激しく突き上げてくる。
自分のこの問いは、何の意味があるというのか。
聞きたい言葉を聞くための、ただの自分勝手な問いかけだ。
「以前一度だけ、そういう状態になったことがありました。そのときは……父が……外から治療をし続けてくれたそうです。深い眠りに入ると、とても身体が冷えるそうです。……身体が温かくなって、心地よく目覚めたのを覚えています」
懐かしむルティナの顔を、まともに見られない。
最後の命綱のような存在を、今は失ってしまっているのだ。
「……父は陽の霊核がありましたから、父と一緒であれば、この森を出ても大丈夫だったのですが。ひとりになった今では、遠出は少し怖いですね」
ルティナは諦めたように笑った。
「……俺では、代わりにならないか? その治療を、俺が覚えることは難しいか?」
少しきょとんとした顔をしながら、首をかしげて考えている。
「……できないことは、ないと思いますが……父よりもユアン様の方が陽が強いですし……でも、どうなのでしょうか。自分がそれをすることを考えたことがありませんでしたので、やり方がよく分かりません……」
心の芯から湧き上がるのは、これは喜び……?
なんだかよく分からない、でもこれは確かに光だ。
「じゃあ一緒に考えてくれ。俺は何よりもそれを覚えたい。今すぐに」
「え、と、あの、大丈夫ですよ?」
「何が?」
「いえ、その、そんなことは今まで一度だけですし、そうそう起こることではないかと……」
「起こってからではどうしようもないじゃないか! 何を悠長なことを言っているんだ!」
ルティナは目をまんまるにして、固まっている。
こういうところだ。
ルティナのこういうところが、とてももどかしいのだ。
周りが自分のことをどれだけ心配しているかが、なぜ分からないのか。
「ユアン様、落ち着いて下さい。本当に、そんなに危なくはありませんから……」
「命にかかわるかもしれないことだ。なんで心配だという思いを、そのまま受け取ってくれないんだ」
「いえ、とても嬉しいです」
「……え?」
「そんなに今すぐではなくても、焦らなくても大丈夫だと……一緒に、考えて下さるなら、これ以上頼もしいことはありません」
「あ、いや、そ……そうか。うん、じゃあ一緒に考えよう」
その、何でもないような顔で、いつもの笑顔を向けないで欲しい。
ユアンは今、ルティナの顔も、自分の顔も、まともに見られないと思った。




