翠の季-15.ひとときの間
往診ではないときにリシアに来るのは、初めてかもしれない。
ここのところ毎日ヴェリッダの林には来ているが、街に寄ることはほぼなかった。
どうしても、人の多い場所は避けてしまう。
ここ数日で、谷の風は一気に落ち着いた。
風の循環にも、魔素の偏りは感じなくなっている。
驚いたのは、谷にヴェリッダの気配があったことだ。
はっきりとはしないが、数体の気配が確かに動いていた。
戻って来たのか、様子を見に来たのかは分からない。
だが、谷が彼らにとって、大切な場所だということは変わらないだろう。
リシアの門の前に来ると、ジグが出迎えてくれた。
やはり、ジグはここにいるのが1番馴染んでいる気がする。
「おお、最近よくリシアに来てるな。今日は往診じゃないよな?」
上半身が軽装になっているジグは、いつもより高く手を上げた。
リシアの兵士は蒼の季になると、全身が軽装に切り替わる。
今年は暖かい日が多く、鎧は辛いのだろう。
まだ翠の季が半分近く残っているというのに、もう気温はすっかり初夏だ。
「今日は少し用事がありまして、往診はまた別の日に参ります。干し果実もそのときにまたお持ちしますね」
「お、そうだ。この前のアプリナが絶品だったよ。あれだけでもいいくらいだ」
「それは良かったです。そろそろプルムなども良い時期になりますよ?」
「ああ、あれも……美味いな」
ジグは思い出すように顔を斜めにする。 確かプルムは気に入っていたはずだ。
普通ならまだ早い時期だが、今年はそろそろ森で採れそうだ。
「悩ましいな、往診の日が待ち遠しいよ。気を付けてな」
ルティナは軽く手を振り、街へ入った。
相変わらず、昼前のこの時間は人が多い。
朝のひと仕事を終えて、皆が休憩に入るからだろうか。
街の人たちの服装は、一気に軽やかになっている。
そろそろ春も終わりに差し掛かっているのだと、この景色で実感する。
街に入ってすぐ、広場の手前でユアンが待っていてくれた。
こちらに気付いたユアンに、黄金色がぱっと弾ける。
その光景はいつも美しくて、自然と目を細めてしまう。
「お待たせしてしまいましたか?」
人を避けながら、ユアンが嬉しそうに駆け寄ってくる。
「いや、そろそろだろうと出てきてしまっただけだ。わざわざ来てくれてありがとう。ウィランも心待ちにしている」
「それはちょっと怖いですね。心の準備をしておかないと」
「明日にはリシアを発つから、今日はなかなか手強いと思った方がいい」
「ふふっ。……ユアン様のお身体の調子はいかがですか?」
「ああ、もうまったく違和感はないよ。筋力もバランスも戻った」
ユアンは、フェンの手綱を持つ右手を眩しそうに見つめる。
忙しくしていたせいで、まだ霊素に関しての訓練は何も進んでいない。
それについても話をしたいと思っていた。
ユアンはその感覚の鋭さで、すでにできてしまっていることも多そうだ。
ルティナが思うよりずっと早く、普通の日常に戻れるかもしれない。
広場を抜けると一気に人通りが少なくなる。
静かな通りを進むと、街外れにあるユアンの家が見える。
庭には人の影があり、笑い声がここまで届いている。
この心地よい陽射しの中であれば、庭で過ごすことに大賛成だ。
庭に入ると、ユアンはフェンの荷物を下ろしてくれた。
目ざとくフェンを見つけたリズが、小さく厩から声を上げる。
最近のリズの行動は、とても分かりやすい。
リズはフェンに、恋心に近い感情を持っているのではないかと、秘かに思っている。
フェンはというと、それを知ってか知らずか、厩にいるみんなに挨拶に向かう。
一番奥にいるリズは、じっとフェンを見つめている。
実際に仲は良いのだろう。フェンもリズの近くで足を止めた。
「フェンが気になる?」
ルティナの視線を追って、ユアンはからかうように口角を上げる。
「リズが可愛らしいなと、思いまして」
「あんなリズは珍しいからな。近くにいるシルディードは気が気じゃないかもしれない」
ユアンにもやはり同じように映るようだ。
シルディードはウィランの相棒のアッシュガゼルで、リズのお兄さんらしい。
「ロカも女の子ですよね?」
「ああ、ロカはジュード一筋だな」
ロカがジュード一筋だとするなら、魔素に適性を持つ魔獣は、自分に近い魔素に心地よさを感じるのかもしれない。
魔獣のそういう感情も、観察すると新たな見え方がありそうだなと思う。
「アウリスはまったくそういう雰囲気はありませんね」
「あいつは……うん、ルティナ、アウリスにたまに構ってやってくれ」
ユアンの気まずそうな顔に、ルティナはなんとなく察した。
アウリスはあまり人を好まなそうな雰囲気だが、認められたのなら嬉しいことだ。
アウリスの容姿は惚れ惚れするほど立派で逞しい。
あれだけ強い陽を持つのなら、ルティナの陰に心地よさを感じるのも納得だ。
緑一面の広い庭には、降り注ぐ陽射しが溢れている。
いくつも用意された卓の上には、セラが次々と料理を運んでいる。
ルティナは持ってきた荷物のことを思い出した。
「セラ様、なにかお手伝いを――」
「ルティナ殿、やっとゆっくり話ができそうで、とても嬉しいです」
声に重なってきたのは、もちろんウィランだ。
そんなに期待されるようなことは何もないのだが、ウィランから伝わる好奇心はすさまじい圧がある。
ロカの気持ちが分かってしまう自分が、少し情けない。
断じて、ウィランのことは嫌いではないのだ。
むしろ、今日話ができるのを楽しみしていたくらいだ。
だが……、どうしてもこの空気にはたじろいでしまう。
「ウィラン様、ルティナ様にぜひお願いしたいことがあるのです。料理が準備できた後に、ゆっくりとお話くださいませ」
ルティナが渡したかった荷物を手に持ったセラが、いつの間にか隣にいる。
「そうか……それでは仕方ないな。ルティナ殿、またあとで時間をいただきたい」
「わたしも楽しみにしておりましたので、後ほどお話させて下さい」
ルティナはそのままセラの後に付いて、家の中へ向かう。
振り向かずに淡々と歩くセラの背中が、とても頼もしく感じた。
セラは運んでくれた荷物を調理場の台の上へ置いた。
棚の方を振り返ると、そこから小さな皿を取り出して差し出す。
その皿を受け取るとふわっと甘い香りが広がり、まだ体温ほどの温かさを感じる。
オルネだ。
角切りにされたオルネには、白い粉が振りかけられている。
生地には細かく刻んだ色とりどりの干し果実が、たっぷりと練り込まれているようだ。
ルティナは、先日フェンに届けてもらった干し果実を思い出す。
リンベリーとアプリナ、たしか風鈴果の薄切りもあったはずだ。
それをこのオルネに使ってくれている。
「お約束したオルネの感想をいただければと、思いまして……」
相変わらず目は合わない。
お腹の前で重ねた手を、気まずそうにもぞもぞ動かしているセラは、さっきの頼もしさからはほど遠い。
可愛いを通り越して健気だ。
「とても美味しそうです。角切りにするのは思いつきませんでしたが、食べやすくて良いですね。この白い粉もとても綺麗です」
見た目がそれはもう美しい。
これが目の前に出されれば、誰でも喜ぶはずだ。
ルティナは一切れを半分に切って口へ運ぶ。
――美味しい。
生地はしっとりと舌触りが良く、甘さは控えめ。
それを干し果実と白い粉でちょうどよく調整してくれる。
ところどころで感じる食感を噛むと、そこから果実の香りがふっと現れる。
完璧どころではない。
ルティナの作ったオルネよりも、数段良い出来だ。
「とても美味しいです。わたしが作り方を教えていただきたいくらいです」
自然に出た笑顔そのままにセラを見ると、セラは初めて、笑顔だと言える表情を見せてくれた。
笑うと目がキュッと垂れ、一気に印象が若返る。
「ありがとうございます。安心いたしました」
セラはきっとこういうことが好きな人だ。
これなら、きっと今日持ってきた物も喜んでもらえそうだ。
「実は、セラ様にお土産がたくさんあるのです」
ルティナは持ってきた荷物の中身を、調理台の上に並べる。
森柑の果実酒、チェリの香花酒、香り塩、ジルハの塩油、干し果実の蜜漬けの5つだ。
日々の料理や飲み物に使いやすく、保存の効く物を選んだ。
「これは……すごいです。すべてお作りなった物ですか?」
セラは興味津々に、ひとつひとつ丁寧に確認していく。
瓶を開けて匂いを嗅ぎ、塩を手のひらに出し、後ろを向いて舐める。
その表情は真剣で、新たな発見を前にしたわくわく顔だ。
「作り方も覚えてしまえばとても簡単です。その季節に手に入る果物や花、香草や薬草などを選んで仕込んでしまえば、ある程度の保存もできるのでおすすめですよ」
「これがとても美味しいです」
セラが気に入ったのは、ルティナが調合した香り塩だ。
好みの香草を乾燥させて細かくし、塩と合わせただけの簡単なものだ。
「これは庭で育てられる香草と塩と合わせただけです。肉や魚、蒸し野菜に振りかけるだけでも香りと風味が立って美味しいです。塩はそのままだとまろやかに、乾煎りしてから合わせるとより香りが強くなりますね」
「なるほど、使う香草でも変わりそうですね」
「お酒は水や泡水で割った方が飲みやすいと思います。この油は、油そのものに塩気と香りがついています。蜜漬けはそのままでも、わたしは寝る前にお湯で割って飲んだりもします。自由に試してみてください」
きっとセラの頭の中は、色んな想像で溢れ返っているはずだ。
ルティナにはその気持ちがとてもよく分かる。
これでセラが何を作るのか、楽しみで仕方がない。
ルティナが教えてもらう未来も、すぐにやってきそうだ。
「セラ、運ぶものがあれば持っていくが……」
レイランとユアンが揃って調理場に入ってきた。
真剣に塩や油を確認していたセラは、驚いて向き直り、なぜか瓶を後ろに隠している。
「いや、別に取り上げないよ?」
そのセラの姿に何かをそそられたのか、ユアンの顔はとてつもなく悪い顔だ。
そして、じりじりと前に進んでくる。
ルティナは思わず、ユアンを遮るように間に入った。
目に入った果実酒の瓶を掴み、ユアンの胸に押し付ける。
「ユアン様、これを持って行ってくださいますか? 以前美味しいと言っていた森柑の果実酒です。冷えた水で割ると今日はとても爽やかだと思いますよ?」
相変わらず悪い顔だが、さすがにルティナを押しのけることはしない。
ふーん、というあまりにも納得していない視線がルティナに向いた。
「レイラン様はこちらの取り分け皿をお願いできますか? あとは飲み物を運ぶだけですので、庭でお待ちください」
冷静さを取り戻したセラは、いつもの完璧な表情に戻っている。
ちらっと見たセラの後ろには、香り塩と塩油の瓶がなくなっていた。
さすがの早業だ。
大人しく戻っていく2人を見ながら、なぜかルティナがドキドキしている。
特に見られて困ることもないはずなのに、あのセラの様子を見たら身体が動いてしまった。
ふぅっと吐いたため息はセラとほぼ同時で、目を合わせてしまう。
「私たちも参りましょう。ここに入って来られるのは少々面倒です」
「そうですね、わたしも覚悟をしておかなければ……」
「ウィラン様はお酒を飲ませてしまえば、ある程度なんとかなります」
「……え?」
思わずセラを見上げると、無表情のまま、手には赤ワインを持っている。
「ウィラン様は……とても、お酒に弱いのです」
セラの抱える赤ワインが、ルティナには伝説の武器に見えた。
外に出ると、皆は思い思いの場所でくつろいでいた。
用意された料理が並ぶ卓の近くには5脚の椅子が置かれているが、それに座っているのはウィランだけだ。
ユアンは地面にそのまま、レイランとジュードは立ったまま、まだ話したことのない壮年の男性は厩で作業をしている。
ルティナを見つけると、ウィランは真っ先に立ち上がる。
自分の近くにある椅子の後ろに立ち、ルティナに目で訴えてくる。
ウィランの手にあったグラスの中身は、澄んだ薄紅色だ。
果実水だろうか。
「ルティナ殿、何を飲まれますか?」
ルティナが椅子に座ると、ウィランが飲み物を取りに向かう。
「ウィラン様と同じものをお願いできますか?」
まずは、ウィランの飲んでいる物を確認したいところだ。
ウィランはグラスを手渡すと、ルティナの前に腰を下ろす。
いざ向き合ってみると、ウィランはとても静かだった。
楽しみなことを思い巡らせているときは気持ちが昂るが、それが目の前に来るととても冷静になってしまう。
ルティナはそれが自分と同じだと思った。
考えたくなるのだ。
深く、その奥の奥の真実にたどり着きたくなってしまう。
「あれからしばらく、魔素とは一体何なのかと、考えています」
ウィランはゆるりと巡る思考に入っている。
「僕はずっと、魔素はこの世界に溢れる燃料のようなものだと思っていたんです。魔法を発動するために必要な、無限に存在する燃料。そんな限定的な事象のために、この世界がそれに満たされているなんて、そんなことがあるわけないのに」
それは自嘲のようにも聞こえるが、彼はただ冷静に考えを巡らせている。
自分よりも遥かに魔素というものに向き合ってきた彼が、魔素とは何なのかという答えのない問いを自分に向け続けた。
ルティナは彼のたどり着いた解釈を、素直に聞きたいと思った。
それが、霊素とは何なのか、というルティナの中の問いに、光を当ててくれるような気がした。
それぞれに過ごしているように見えた他の5人も、その声が聞こえるところに自然と集まっている。
「リシアに来てからの新しい知識や体験から、魔素が人だけではなく、この自然の中に存在する現象、魔獣、それを取り巻く環境にも深く関わっていると知りました。これは僕にとっては天地がひっくり返るほどの衝撃で、何度頭の中が破壊されたか分かりませんよ」
声が徐々に、力を持ってきている。
ウィランは持っていた薄紅色のグラスを一気に飲み干した。
ルティナも、口を潤す。
鼻にすっと入る甘い香りは、ベリーの果実水だ。
「こんなに清々しいのは久しぶりだった。すべてが更地になったようでした。最初から一つずつ積み上げていく、子供の頃のあの無垢な好奇心が戻って来た気がして、魔法はこれほど楽しかったのだと思い出せました。ここ数日は夢中でした。今までどうしても構築できなかった陣が、あっという間に幾つも形になった。この喜びを、あなたにはどうしても伝えたかったのです」
ウィランは喉の下で手を握りしめ、中性的で色白の顔はうっすらと高揚している。
ルティナにも分かる、すべてが綺麗に繋がったときの、あの溢れる高揚だ。
「わたしは魔素に適性もなければ、魔法も使えない。これはウィラン様の探求心が導いた結果です。わたしも少しだけ、魔素のことを知ることができました。魔法の発動をじっくりと見られたのは、とても感動的な経験でした」
「……魔素とは、この自然界で生まれ、それを満たし、動かす力そのもの。自然界における生命の根源である。と、僕の中で新たに定義しました」
《《自然界の》》生命の根源。
それには、環境も、それに関わる事象、生物、すべてが含まれる。
「地上で巡り続ける生命の素。素晴らしい解釈だと思います」
ルティナの中で、何かがうずく。
小さな光が生まれたような感覚だ。
それが何なのか、今はまだ分からなくてもいい。
この言葉がいつか何かに結び付く。その予感はある。
「ルティナ殿のご意見を伺いたい。魔素とは、何であると思われますか?」
ルティナは目を閉じて、魔素を説明できる言葉を探す。
自分の中で、今までしっかりと言葉にすることが無かった。
魔素とは、何なのか。
「わたしは……魔素とは、意思を映し出す鏡……意思を形にする源のようだ、と思います」
自分の言葉が音となって耳に届く。
それがすっと身体に入り、違和感を感じない。
「魔獣の願い、自然の叫び、人の心を映し、それを形にする力の源。内なる意思が外に映され、その意思によって自然が動き、世界が創られる。ウィラン様の言葉を聞いて、そうなのではないか……と思いました」
魔素は、霊素よりもっと近い距離で、同じ重みでこの世界を巡る素。
ルティナはその解釈が、心にしっくり収まった。
ウィランは黙ったまま、ルティナの言葉を自分の中に落としているようだ。
「あなたの世界に、僕も……僕自身の在り方も、存在するのですね」
ウィランのその言葉が、その感情と共に胸に届く。
「ウィラン様がいて、この解釈に落ち着いたのです。解釈もまた、人と共に巡ります。また巡ったのちに、是非お話させていただきたいです」
「もちろんです。その日を楽しみに」
風が抜けた。
ウィランを求めた風のような気がする。
清々しい、とても心地よい思考のやり取りだ。
その場にいる全員が、どこか満足げな空気でいる。
いつか、ウィランの霊素の解釈も聞いてみたい。
ルティナは、もうウィランにたじろぐことはないだろうと思った。




